ログインその先は、もう聞いていられなかった。
廊下の角を離れ、寝室へ戻った。窓辺の椅子には、買ってきたばかりのワンピースが紺色の衣装袋に入ったまま掛かっていた。
ワンピースには触れず、自分の鞄だけを手に取った。拓真に帰宅を知らせないまま、階段を下りた。
今はただ、拓真と同じ家にいたくなかった。
玄関を出て、低い植え込みに挟まれた石畳を歩いた。門を出たところで、一度だけ振り返った。
高い塀の奥に、横に長い2階建ての家がそびえていた。黒い門扉から玄関までは石畳が伸び、その両脇を手入れされた植え込みが囲んでいた。
通りから1階はほとんど見えず、塀の上には2階の窓だけが並んでいた。
右端が、拓真の書斎だった。
書斎の窓は植え込みに下半分を隠されていた。拓真はまだ、あの窓の向こうにいた。
「食事も洗濯も任せられて、なにかと便利なんだよ」
玄関へ引き返し、衣装室の引き出しから明細を取り出して、書斎の扉を叩くこともできた。
さっきの電話は何だったのか、本人へ問いただすことも。
けれど、足は家へ向かなかった。拓真に「盗み聞きしたのか」と責められれば、私は明細を見せる前に謝ってしまう。
私は家に背を向けた。
通りを歩き出したところで、鞄の中のスマートフォンが震えた。相良美弥子(さがら みやこ)からのメッセージだった。
【今夜はうちで夕食。先に来て、手伝ってちょうだい】
何時に来られるか、予定はあるか。そんな言葉はなかった。
すぐには断る言葉を打てなかった。
美弥子の家で夕食を囲む日は、いつも私が早く行った。足りない物を買い、料理を温め、ダイニングテーブルを整えた。
食事が済むと、拓真と美弥子は決まってリビングのソファへ移った。拓真は背もたれへ深く体を預け、美弥子は私がいれたお茶を飲みながら、会社や近所の話を続けた。
その間、私はいつも、隣の台所で皿を洗っていた。
拓真と結婚し、美弥子も私の家族になった。家族のために動くのは当たり前だと、私は思っていた。
【今日は午後から休みを取っています。何時に伺えばいいですか】
送ると、すぐに返事が来た。
【それなら4時半。駅前のいつもの魚屋さんで鯛のお刺身を買ってきて。4人分ね】
4人分。
今夜は美弥子と拓真と私だけではなかった。
誰が来るのか尋ねようとしたところで、もうひとつメッセージが届いた。
【お花もお願い。テーブルに飾るから、安っぽく見えるものはやめて】
美弥子は、私が何をしていたのか聞かなかった。半日休みを取った理由も、頼まれた買い物にこれからどれだけ時間を取られるかも、美弥子には関係のないことだった。
私は画面を閉じ、駅前へ向かった。
花屋では、美弥子が以前「ダイニングテーブルには淡い色の方が上品よ」と言っていたのを思い出し、白いトルコキキョウと淡いピンクのバラを選んだ。
店員がリボンを結び終え、花束を差し出した。受け取った時、壁の鏡に、花束を抱えた私が映った。
数時間前まで、同じ腕に抱えていたのは、結婚記念日のために選んだワンピースだった。
今は、美弥子のテーブルへ飾る花を抱えていた。
鮮魚店で4人分を頼むと、店員は鯛1尾を使った舟盛りを示した。頭と尾の間には、薄造りの身が舟を埋めるように何列も並び、大きな扇を広げていた。
そのあとも別のメッセージで頼まれていた、食材や食後の果物を買い、酒屋にも寄った。
舟盛りの入った大きな保冷袋を右手に提げ、食材と酒の入った袋を左手に持った。花束は左腕と体の間に挟み、ずり落ちるたびに抱え直した。
美弥子の家に着いたのは、指定された4時半より少し前だった。
インターホンを押すと、スピーカー越しに美弥子の声が返った。
「鍵を開けたから、入って。いま手が離せないの」
直後に、玄関の電子錠が外れる音がした。
玄関へ上がると、美弥子はリビングのソファに座っていた。膝の上には雑誌が開かれ、脇のテーブルには飲みかけの紅茶があった。
鯛の入った袋と花を持ったまま、靴をそろえた。
「お義母さん、こんにちは」
「あんた、遅かったわね」
壁の時計は、まだ4時半になっていなかった。
「4時半と聞いていたので」
「4時半っていうのは、それまでに支度を終えておくってことよ。結婚してもうすぐ3年になるのに、まだそのくらい気が利かないの?」
美弥子は雑誌を閉じ、花へ目を向けた。
「なにそのお花、ずいぶん白が多くない?」
「淡いピンクも入れてもらいました」
「せっかく大切なお客様が来るのに、ずいぶん地味ね。あんたと同じで、華がないのよ。まあ、何もないよりはましだけど」
美弥子は花を一瞥しただけで、雑誌へ目を戻した。
「いつまで持っているの。花瓶に生けてきて」
私は舟盛りの入った保冷袋をテーブルの端へ置き、花束を台所へ運んだ。流しの下から花瓶を出し、水を張って茎を切りそろえた。
花を生けてリビングへ戻ると、美弥子は雑誌をローテーブルへ置き、ソファから立ち上がった。テーブルの保冷袋を開け、透明な蓋を持ち上げるなり眉をひそめた。
「まあ、これなの?頭と尾で見栄えだけは立派だけど、肝心のお刺身はずいぶん少ないのね」
「4人分ならこれだと、お店の方が」
「店員に言われた物を、そのまま買ってきたの?あんた、自分の目で選ぶこともできないのね。こんな物を出したら、相良家まで安く見られるじゃない」
私は鞄から数枚のレシートを取り出し、重ねてテーブルの端へ置いた。
「今日、頼まれた買い物の分です」
美弥子は金額も見ず、人差し指でレシートを私の側へ押し戻した。
「家族の食事に使ったお金を請求するの?普段は拓真に食べさせてもらってるくせに、これくらい自分で出しなさい。相良家の嫁になった以上、あんたが稼いだお金も家のために使うのが当たり前でしょう」
「立て替えたので、念のため置いただけです」
「立て替えたなんて、恩着せがましい言い方はやめて。そんなレシートをお客様に見られたら、相良家が嫁に買い物代すら渡せない家だと思われるじゃない。あんたのせいで私が恥をかくのよ。早くしまいなさい」
私はレシートを重ねて折り、財布へ戻した。
父の治療に足りない90万円を頼んだ時、拓真は「無駄金」と切り捨てた。
けれど、相良家の客を迎えるためなら、私が黙って払うのは当然らしい。
「どなたが来るんですか」
「会えばわかるわ。それより、煮物の味を見て。薄かったら直してちょうだい」
鍋の汁を小皿に取った。
「このままで大丈夫だと思います」
「思います、じゃ困るの。お客様に出せるかを聞いているのよ」
「出せます」
「最初からそう言いなさい」
美弥子は満足したように、ソファへ戻った。
しばらくして、美弥子のスマートフォンが鳴った。
「ええ、もう支度はできているわ。何も持ってこなくていいのよ。あなたが来てくれるだけでうれしいんだから。今日をずっと楽しみにしていたの。拓真と一緒に、気をつけていらしてね。早くお顔が見たいわ」
私に命じる時とは、別人のようにやわらかな声だった。
私は米をとぎ、汁物を作った。その間も、美弥子はソファから、植木に水をやれだの、お茶を淹れろだのと、ひっきりなしに私を呼びつけた。
お茶を渡すと、美弥子が私の顔を見た。
「顔色が悪いわね。そんなに疲れるなら、あんな冷蔵倉庫の会社、さっさと辞めたら?相良家の嫁が働くようなところじゃないでしょう。拓真の稼ぎで十分暮らせるんだから、外でみっともない仕事を続けるより、家のことをきちんとなさい」
「家のことは、しています。今日は結婚記念日の準備で休みを取ったんです」
「記念日なんて毎年来るでしょう。拓真はいま仕事が大事な時期なの。自分の楽しみばかり優先しないで」
私は返事をせず、4人分の器をダイニングテーブルに並べた。
美弥子の正面に拓真。その隣に自分の湯呑を置き、残った席へ客用の湯呑を置こうとした。
「そこじゃないわ」
美弥子は私の湯呑を持ち上げ、台所にいちばん近い端の席へ移した。
「お客様は拓真の隣。あんたはここでいいでしょう。足りない物があった時、すぐ立てるもの」
湯呑の底が、卓上で小さく鳴った。
私は箸も端の席へ移した。
「お客様の前で不機嫌な顔をしないでね。拓真の仕事に大切な方なんだから」
そのとき、玄関の鍵が回った。
「母さん、来たよ」
美弥子は、私には一度も向けなかった笑顔を浮かべて廊下へ出ていった。
玄関の扉が開き、拓真と女が並んで入ってきた。女の片手は、拓真の腕に添えられていた。
女が薄手のコートを脱ぐと、拓真がすぐに受け取った。その下には、淡いピンク色のワンピースを着ていた。
「まあ、絵里さん。いらっしゃい。なんて素敵なの。その淡いピンク、本当によく似合っているわ。華やかなのに上品で、やっぱり着る人が違うと服まで特別に見えるのね。ずっと待っていたのよ」
美弥子は絵里の手を取った。
そのままリビングへ向かいかけて、一度だけ私を見た。
視線が、私の灰色のエプロンを上から下へなぞった。
何も言わず、美弥子は淡いピンクのワンピース姿の絵里を連れて、リビングへ入っていった。
拓真は手にしていた絵里のコートを、私へ差し出した。
「澪、これ掛けておいて」
「……少しは、使った。でも、人に会う時の服も必要だったの」絵里は拓真の袖をつかんだまま答えた。画面の中では、ドレスの裾を広げた自分が笑っている。あの時は、着た姿を誰かに見てもらうことしか考えていなかった。「向こうで仕事の話をするのに、みっともない格好では行けないでしょう。拓真さんのために持ち帰る技術の話なんだから」拓真は携帯を下ろした。けれど、画面は消さず、膝の上に置いた。「服を買う金まで含めたつもりはなかった」絵里は唇を結んだ。少しくらい構わないと、言ってほしかった。閉じたカーテンの前で、卓の照明だけが明るい。顔をそらせば、逃げたと思われそうだった。「先に、言えばよかったね」声を落とすと、拓真は袖をつかむ手へ目をやった。「そんなに身構えるな。責めたくて聞いてるんじゃない」指先に、彼の手が重なった。絵里はその温かさにすがるように、握っていた袖を離した。手を返すと、拓真は握り返してくれた。まだ、嫌われてはいない。「私、ちゃんと挽回したいの。追加の開発を進めるにも、お金がいるでしょう。足りない分、また助けてくれる?」つないだ手を膝へ寄せた。今度はうまくやると言えば、ここまでしてくれた拓真なら、もう一度力を貸してくれるはずだった。だが、返事はなかった。「拓真さん?」「何に使うか分からない金は、今は出せない」
【一緒に開発を進めたとは言えない。私の名前は使わないで】翌朝、届いた返事を読んで、絵里はベッドの上で身を起こした。昨夜送った文章が、そのすぐ上に残っている。拓真に聞かれた時だけ、話を合わせてほしい。そう頼んだだけなのに。カーテンの隙間から、枕元へ細く光が差していた。絵里は携帯を膝へ下ろし、もう一度持ち上げた。【細かい説明は私がするから。少しだけ助けてくれない?】返事を待つ間、開発という言葉を使わなければよかったと思った。相談に乗っていた、と頼めば、ここまで強く断られなかったかもしれない。やがて画面に、新しい文章が現れた。【購入窓口を紹介しただけです。それ以上のことは知りません】絵里は唇をかんだ。その紹介を受けてデモを買ったことは、間違っていない。けれど、これだけを拓真に言われたら、自分が話してきた追加開発をどう説明すればいい。ここで連絡先を渡さなければ、拓真はまた催促するだろう。ようやく話せることになったと伝えた方が、きっと喜ぶ。紹介の先は自分で進めた、と横から説明すればいい。【私も一緒にいるから、拓真さんと話してもらえる?】少し待って、返事が来た。【私がしたことについてなら、説明します】絵里は相手の都合を聞き、日本の夜に通話する約束をした。最後に送った【ありがとう】には、返事がなかった。……夜、リビングへ入ると、拓真はソファで携帯を見ていた。絵里に気づくと、隣に置いていたクッションを脇へ寄せる。「ここに座れ。もう時間か?」「うん。話せるって」厚いカーテンは閉まり、卓の照明がふたりの間を照らしていた。絵里は拓真の隣へ座った。朝から何度も考えた説明を、頭の中でもう一度なぞる。「客には、俺から話してきた」拓真が携帯を伏せた。「今のデモでは、預かった資料は使えない。そう説明した」「……ごめんなさい。私のために、そんなことまで」「俺の会社の発表会だ。お前ひとりに説明させられるか」肩へ置かれた手が温かかった。客の前で失敗したあとも、こうして隣を空けてくれる。朝の冷たい返事を思い出すと、ここに座っていられることが、余計にありがたく感じられた。絵里はその手に、自分の手を重ねた。「私、ちゃんと話をつけるから。あの人との話も、任せてくれない?」「お前だけで抱えなくていい。俺も聞く」拓真は肩から手を下ろし、
拓真の顔を見たまま、鞄の持ち手を握った。さっきは、もう少し話していたいと思った。私をのぞき込んでくれた時、もっと話を聞いてもらえる気がした。けれど、薬指を隠すように手を引くことはしなかった。「つけ直すつもりはないの」机の向こうで、拓真の口が少し開いた。そのまま何も言わず、私を見ていた。指輪は、短期賃貸の机の引き出しにある。今日は持ってきてもいない。何か言ってくれるのを待って、私もすぐには立てなかった。あの優しい顔が戻れば、きっとまた、うれしくなる。膝に鞄を引き上げた。中には、13日に返すと書かれた控えが入っている。椅子を引く音が、相談室に響いた。美弥子はバッグへ手を重ねたまま座っていた。私は隣の弁護士へ頭を下げてから、拓真を見た。「失礼します」声が少しかすれた。言い直さず、鞄を持って扉へ向かった。廊下へ出て扉を閉めた。その前で少し足を止め、鞄を持ち直して歩き出した。4月13日、月曜日。仕事を終えた私は、駅前の建物の脇へ寄り、携帯を取り出した。人の流れを外れてから、自分の口座を開く。このあとは、不動産店へ行く。勤務後に内見できる時間を、数日前から予約していた。その前に、確かめたかった。入出金明細を開くと、今日の日付の行があった。振込人は拓真。入金額は、1,200万円。指先で画面を止め、桁を確かめた。全部、入っている。 
全額返す。私は病院の壁際で、その言葉を読み直した。父のために残すお金と、自分が暮らすためのお金。通帳の残高を見ながら、どちらも減っていくことを考えずに済む日が来るかもしれない。返信欄を開いた。会いたいと言われたことより、先に確かめたいことがあった。【いつ返してもらえますか】少し待つと、返信が届いた。【13日の月曜に、1,200万円全部振り込む】私は日付を確かめ、そのやり取りを弁護士へ転送した。週が明けてから相談し、調停の申立てを済ませた。拓真との面会は、私が頼んで弁護士の事務所にしてもらった。母も返済のことで話したいと言っている、と拓真から聞いた時には、携帯を置いたまま、しばらく返事ができなかった。それでも、家へ戻って話すわけではない。弁護士に同席してもらえることを確かめ、返済の話をするのなら、と了承した。……金曜日。相談室へ入ると、美弥子が先に座っていた。卓上に置いたバッグの持ち手へ両手を重ね、私を見ている。拓真は隣の椅子から顔を上げた。「澪。こっちに――」私は卓を挟んだ向かいの椅子を引いた。隣には弁護士が座る。拓真は口を閉じ、背広の前を直した。壁際の時計の秒針が動いていた。
拓真は、澪からの返信を読み直した。調停で進めるよう、正式に頼んだ。「まだ、話が終わってないだろ」相良邸の食卓で、すぐに電話をかけた。呼出音が続き、やがて切れた。昨夜は、ひとりで店へ行ったと言った。今朝は、自分の返事を待たずに離婚を進めている。携帯を卓へ置きかけ、また手に取った。配達の注文画面を開く。今日も、何を食べるか自分で決めなければならない。料理の写真を次々に見ても、食べたいものが見つからなかった。澪がいた頃は、席に着けば食べられた。「拓真さん」絵里が入口に立っていた。「少しは食べられそうか?」「まだ、気持ちが悪くて……」拓真は隣の椅子を引いた。「無理するな。飲めそうなものは?」「お水を」冷蔵庫から水を出し、グラスへ注ぐ。絵里へ渡した時、携帯が鳴った。担当社員だった。「購入先から返事が来ました。メールを転送しましたので、ご確認ください」「直せるのか?」「設定の問題ではありません。購入したデモには、客先の資料を取り込んで処理する機能がないそうです」拓真の手が止まった。「待て。調整すれば使えるんじゃないのか」「設
絵里がスマートフォンを差し出した。「購入した時の書類です」相良邸の居間で、拓真はそれを受け取った。画面には、英文の契約書が開かれていた。ようやく、客に説明できるものが出てきた。米国側の対応が遅れていたのなら、向こうにも責任を取らせればいい。拓真は携帯の画面に目を落とし、利用目的の欄で指を止めた。営業用デモ。顔を上げると、絵里は卓の向こうに立ったままだった。「これは、今日見せたものの契約か?」「はい。最初に導入した時のものです」「客の資料でも動かせるというのは、どこに書いてある」絵里の手が、携帯へ伸びた。「製品として使うための調整は、別なんです。その書類だけでは全部は――」拓真が画面を自分へ向け直すと、伸びてきた手が止まった。準備した実演が動いたことは、拓真も見ている。だが、客の資料を使っても同じようにできると約束したのは、自分だった。「別なら、その取り決めは?」「向こうに確認しています。今、先方との関係を悪くしたら、直せるものも直してもらえなくなります」「俺は、今日できるのかと聞いてるんじゃない。できると言った根拠を出せと言ってるんだ」少し声が大きくなった。絵里が口を閉じ、卓の縁を見た。会場で社員に確かめられた時、自分も同じように声を強めた。準備したもの