เข้าสู่ระบบ翌日の午後、私は6年落ちの小型車を運転し、皇居外苑沿いの道を走っていた。
助手席には、昨日選んだ紺色のワンピースがある。初めて融資を断られた拓真を迎えに行ったのも、この古い車だった。
昼前、義母から電話があった。
「今日の18時、高楼閣へ来なさい。3年の約束を、もう終わらせます」
高楼閣の個室は、窓の向こうに皇居外苑の緑が見える静かな部屋だった。
午後6時ちょうど、相良美弥子(さがら みやこ)が私の向かいに座った。61歳の義母は、まだ口をつけていない湯飲みを自分の側へ引いた。店員が襖を閉めるまで、上品な笑みを崩さなかった。
足音が遠ざかると、細い封筒を座卓へ置いた。
「拓真と離婚してください」
昼前の電話で予想していた。それでも、実際に言葉を向けられると、湯飲みへ伸ばしかけた手を膝へ戻した。
「拓真から聞いたんですか」
「あの子は優しいから、自分から言えないの。だから母親の私が言っているんです」
美弥子は封筒を開き、3年前の覚書の写しを出した。結婚の日、拓真が書いたものだ。
【3年後、一ノ瀬澪が離婚を望む場合、相良拓真は異議なく応じる。サガラファーマは創業貸付金1,200万円を返済する】
修一から預かった1,200万円は、5月2日より前に拓真の会社へ貸していた。婚姻届を出した日、拓真は「会社が失敗しても澪を借金へ巻き込みたくない」と言い、3年後の返済と離婚の選択を覚書にした。
署名したのは、婚姻届を出した帰りの喫茶店だった。
「3年で必ず形にする。成功しても失敗しても、澪の金は返す」
私は、3年後の自由ではなく、同じ3年を一緒に進む約束だと受け取った。
美弥子は下の返済条項を指で隠した。
「3年だけという約束だったのでしょう。会社はもう安定した。あなたの役目は終わりました」
「役目って、何ですか」
「苦しい時期に息子を支えたことは感謝しています。でも、いつまでも恩を盾にされたら拓真が自由になれないわ」
美弥子は、1,200万円が修一の金だったことも、会社が倒れた時に私を巻き込まないための覚書だったことも知らない。3年後なら離婚を選べる――拓真から聞いたのは、その部分だけなのだろう。
誕生日には花が届き、正月には煮物を褒められた。家族になれたと思った時間まで、嘘にしたくなかった。
「拓真本人と話します」
「話し合って、また縛るつもり?あなたは仕事もただの事務でしょう。拓真の隣に立てる女性は、もっと――」
襖の外で店員の声がした。
「柏木様、こちらのお部屋です」
美弥子の顔が明るくなった。
襖が開き、拓真が先に入ってきた。後ろには淡い水色のワンピースを着た絵里がいた。
拓真は私を見て足を止めた。
「澪?どうしてここに」
美弥子が覚書を伏せた。
「私が呼んだのよ。それより、その方は?」
拓真は一瞬だけ私を見た。ネクタイの結び目を直し、絵里の背中へ手を添えた。
「大学の後輩の柏木絵里さんだ。海外にある医薬コンサル会社から帰国したばかりだ。今度の新薬事業を手伝ってもらう」
拓真は絵里を私たちへ紹介したが、私が妻だとは絵里に告げなかった。
絵里はようやく私に気づくと、驚いたように目を見開き、すぐに笑顔を浮かべた。
「一ノ瀬先輩ですよね。こんなところで会えるなんて。先輩もお食事ですか?」
美弥子が私と絵里を見比べる。私は、拓真が何と言うのか待った。
拓真は黙っていた。
「仕事の打ち合わせで来ました」
私が答えると、拓真の肩から力が抜けた。
「この時間に、事務の打ち合わせ?」
「あなたもこの時間に、後輩と仕事でしょう」
美弥子の前で責めるつもりはなかった。ただ同じ言葉を返しただけだ。
拓真の口元が硬くなった。
「絵里には業界の責任者を紹介する。君の仕事とは規模が違う」
絵里が慌てたように手を振った。
「そんな、私は先輩に助けていただいてばかりです。海外の研究費までずっと支えてくださって」
3,600万円の明細が、目の前へ戻ってきた。
「ずっと?」
私が聞くと、絵里は首元のペンダントへ触れた。
「学生の頃からです。私の可能性を誰より信じてくださったんです」
修一のために頭を下げた日にも、拓真は絵里の可能性を信じていた。
美弥子は、絵里の腕に掛かった有名ブランドのバッグと、文字盤に小粒のダイヤが並ぶ腕時計へ目をやった。口元が緩み、声まで柔らかくなった。
「絵里さんは海外でお仕事を?すばらしいわ。拓真も、こういう方とお付き合いがあるなら早く言えばいいのに」
「母さん、仕事の相手だよ」
そう言いながら、拓真は当然のように絵里の椅子を引いた。私には一度もしてくれなかったことだった。
絵里は座る前に私へ向き直った。
「一ノ瀬先輩は、葛城先生の研究室で一番優秀でしたよね。今はどちらに?」
「蒼嶺創薬センターです」
「本当ですか!」
声が弾んだ。
「難治性血液がん向け新薬、LUMEN-17は今いちばん注目されています。総責任者は非公表ですけど、5月には名前が出るって。私、研究チームにつないでいただきたくて」
絵里は悪意のない顔で続けた。
「でも先輩が研究を辞めていたなら、なんだか少し安心しました。結婚も研究も完璧にできる人がいたら、私なんて一生追いつけませんから」
「澪は競争が苦手なんだ。家庭の方が向いている」
結婚するとき、私は夫に「研究は諦める」と言った。彼はその言葉を信じ、私が研究を捨てたという話を、絵里を安心させる材料にまで使っていた。
拓真が笑った。
「澪に頼んでも無理だ。研究者じゃない。ただの事務員だよ」
全員が私の答えを待った。拓真は3年間、私の仕事内容を尋ねなかった。
「そうね。私から、誰かを特別に通すことはできない」
絵里は納得したらしい。
「ですよね。ごめんなさい、困らせてしまって」
「困ってはいません。資料と実績で決まることですから」
拓真が小さく息を吐いた。
「澪、知ったようなことを言うな」
美弥子が私の前の覚書を封筒へ戻した。
「話は以上よ。3周年までに返事をください」
絵里の前では離婚という言葉を出さない。息子に責められたくないからだ。
私は封筒を受け取らず、席を立った。
「返事は、本人へ伝えます」
廊下へ出ると、拓真が追ってきた。
「待て。母さんに何を言われた」
「あなたが話していないことよ」
「曖昧な言い方をするな。絵里は仕事で来ただけだ。君が変な誤解をすると、母さんまで困る」
襖の隙間から、美弥子の笑い声が聞こえた。絵里へ家族のことを質問していた。
私は拓真の手が届く前に、エレベーターへ乗った。
……
午後9時、蒼嶺創薬センターの地下2階では、白い作業灯だけが点いていた。
私は責任者室へ入り、紺色のワンピースが入った衣装袋をロッカーへ掛けた。机の中央には、葛城冴子(かつらぎ さえこ)が置いた青いファイルがあった。
【LUMEN-17 共同開発先選定】
候補はサガラファーマと東雲メディカルグループ。選定会は、結婚3周年と同じ5月18日だった。
壁の進行画面が切り替わった。
夫の会社だから押すことも、傷ついた妻として落とすこともできない。
ただ、私が何者かも知らずに「事務員」と笑った拓真のために、判断を曲げるつもりはなかった。
壁の進行画面には、公開までの残り日数だけが映っていた。
【機密解除まで29日】
青いファイルを閉じた。つい数時間前、絵里は私に、LUMEN-17の研究チームへ紹介してほしいと頼んだ。
拓真に「ただの事務員」と笑われた、この私に。
少し、笑いそうになった。
彼女が会いたがっている研究員は――最初から、目の前にいる。
「中絶はしません」私は床から検査票を拾い、結果欄に重なっていた紙を外した。美弥子がエレベーターへ乗りかけた足を止めた。「やっぱり妊娠しているのね」「いいえ」私は結果欄が見えるよう、検査票を美弥子へ向けた。【妊娠反応 陰性】「妊娠していないからです」美弥子は検査結果と私の顔を見比べた。「それから、もし妊娠していたとしても、私の体をどうするかは私が決めます。会社や結婚を守る道具にはしません」「拓真はあなたを養ってきたのよ」「家賃も生活費も分けています。結婚前に貸した1,200万円も、まだ返してもらっていません」美弥子は初めて目をそらした。「昔の小さな金の話を持ち出さないで。来月、拓真の会社には60億円の共同開発が決まるのよ」「まだ決まっていません」「事務員のあなたに何が分かるの」美弥子はスマートフォンを取り出した。「拓真に――」言いかけたところで、指が止まった。昨日の離婚要求を息子の前で隠したばかりだ。今の中絶要求まで話す気はないらしい。美弥子は通話画面を閉じ、スマートフォンをバッグへ押し込んだ。「今に後悔するわ」美弥子は吐き捨てると、ひとりでエレベーターへ乗った。閉まる扉へ、私は検査票を下ろさなかった。……病院から戻ると、拓真はリビングの中央に立っていた。開いたカーテンから、昼の光が食卓の半分まで差していた。水の入ったグラスが2つ並んでいる。「どこに行ってた」拓真は私の顔を見るなり近づいた。「病院」「どうして連絡しない。母さんにも電話した。センターにも、大学の友人にも聞いたんだぞ」「私は、ひとりで病院へ行けない子どもじゃない」「絵里は本当に呼吸が苦しくなっていた。救急外来で薬をもらって、朝には落ち着いた。君を放っておくつもりはなかった」拓真は私の手から検査票を取り、勝手に開いた。【妊娠反応 陰性】拓真の眉が下がった。「違ったのか」拓真は検査票を見直した。落胆したように見えた。「そう書いてあるでしょう」「胃炎なら、今日は家で休め。夜、業界の選定関係者が集まる食事会がある。君も一緒に来るか?」結婚してから、拓真が仕事の席へ私を誘ったことは一度もない。私が社交を苦手だから無理をさせたくない。会社が業界2位になったら、妻として紹介する。そう言われ、待っていた。「なぜ今日だけ?」「君が最近不安
午前6時を過ぎても、拓真は帰らなかった。私はリビングのソファで、いつもの診察予約アプリを開いた。東雲総合病院の婦人科には結婚前から通っている。昨夜から続く吐き気を入力して空き状況を確認すると、午前9時の予約枠が1つ残っていた。住所と服用薬を入力し、緊急連絡先の欄で指が止まった。これまでは迷わず拓真の名前を書いていた。昨夜、私を置いて別の女性のもとへ行った人を、緊急時に呼ぶことはできない。緊急連絡先は空欄のままにし、勤務先欄へセンターの代表番号を入力した。鞄には、診察に必要なものだけを入れた。予約を確定した直後、拓真からメッセージが届いた。【朝になったら病院へ行け。妊娠していたら、仕事は辞めてもらう】拓真は、私の体も仕事も、まるで自分のもののように決めていた。東雲総合病院の正面ロビーは、吹き抜けの天井から朝の光が落ちていた。午前8時50分。自動受付機の前には白い案内線が引かれ、診療科ごとに色が分かれている。私は婦人科の青い線へ進み、受付票を取った。昨夜から水しか飲めていない。立ち上がった瞬間、床の模様が傾いた。右側から低い声がした。「大丈夫ですか?支えましょうか」私はうなずいた。男性の手が右腕の下へ入り、壁際の手すりまで支えた。濃いグレーのスーツを着た男性は、東雲慧(しののめ けい)だった。半歩離れて立ち、来院証の用件欄には【院内安全点検】とある。東雲メディカルグループの代表。今回のLUMEN-17共同開発候補のひとりだ。「ありがとうございます。立ちくらみです。昨夜から食べていないので、脱水もあると思います」「診断まで自分で済ませる癖があるんですね」責める声ではなかった。慧は近くの職員へ車椅子を頼み、私には触れず横へ置いた。「歩けます」「歩けることと、歩く必要があることは別です」競合会社の代表へ弱った姿を見せたくなかった。対外的には研究管理の事務員にすぎないのに。「東雲代表自ら、視察ですか」慧の目がわずかに細くなった。「私を知っているんですね」「医薬業界では有名ですから」「私も、あなたの論文を読んだことがあります」心臓が強く打った。慧は続けなかった。私の身分を確かめる質問も、LUMEN-17の話も出さず、受付票をこちらへ向けて台へ置いた。「今日は患者として来たのでしょう。なら、その話はしません」慧は自分の
センターを出る時、私はロッカーから紺色の衣装袋を持ち帰った。もう写真スタジオへ着ていくつもりはなかったのに、捨てることもできなかった。帰宅後、衣装袋を寝室の床へ置いたまま、明かりを消した。眠れるはずがなかった。拓真が初めて会社の名刺を作った夜、100枚を食卓へ並べて喜んだ顔を思い出した。雨の中を歩いて帰った私へ、濡れた靴下を脱ぐようタオルを投げてくれたこともある。優しかった場面は消えない。だからこそ、その隣に3,600万円の明細を置く場所が見つからなかった。衣装袋からワンピースを出し、胸元へ当てて鏡を見た。店では深い紺色が似合うと言われた。今は、誰かの葬儀へ行く服のように見える。私はワンピースを椅子の背へ掛け、鏡から目をそらした。撮影を予約したのは私だった。店を決め、拓真の予定表を確認し、写真スタジオから届いた質問にもひとりで答えた。結婚記念日は、ふたりで守ってきた日ではない。私が毎年、消えないよう手入れしてきた日だった。午前1時を回ってから、玄関の鍵が開いた。足音が寝室の前で止まり、扉が開いた。廊下の光を背負った拓真から、酒と甘い香水の匂いがした。「まだ起きてたのか」私はベッドの端へ座った。「絵里さんを送ってきたの?」拓真は上着を椅子へ掛け、腕時計へ目を落とした。「業界の人間と飲んでいた。絵里は海外帰りで日本の人脈が薄いから、紹介してやっただけだ」「車も紹介の一部?」黒い車と白い車。37-01と37-02。拓真は一瞬だけ黙った。「会社の広報用に2台まとめて買った。絵里には一時的に貸している。君には小型車の方が運転しやすいだろ」私のために選んだように言い換える。以前なら、そこで話を終わらせた。彼が疲れているのだからと、自分へ言い聞かせた。「3,600万円も、会社の都合?」拓真の視線が止まった。「何の話だ」「絵里さんが、海外の研究費をずっと支えてもらったと言っていたから」印刷された明細を見たとは言わなかった。拓真が自分から何を話すか知りたかった。「昔の話だ。絵里に海外で経験を積ませれば、いずれ会社の役に立つと思った。今、その人脈が新薬事業につながっている」「そのために、3,600万円を黙って送ったの?」「投資だよ。彼女がうちへ持ち込んでいる情報だけでも十分に返ってきている。君には分からない話だ」答えになってい
翌日の午後、私は6年落ちの小型車を運転し、皇居外苑沿いの道を走っていた。助手席には、昨日選んだ紺色のワンピースがある。初めて融資を断られた拓真を迎えに行ったのも、この古い車だった。昼前、義母から電話があった。「今日の18時、高楼閣へ来なさい。3年の約束を、もう終わらせます」高楼閣の個室は、窓の向こうに皇居外苑の緑が見える静かな部屋だった。午後6時ちょうど、相良美弥子(さがら みやこ)が私の向かいに座った。61歳の義母は、まだ口をつけていない湯飲みを自分の側へ引いた。店員が襖を閉めるまで、上品な笑みを崩さなかった。足音が遠ざかると、細い封筒を座卓へ置いた。「拓真と離婚してください」昼前の電話で予想していた。それでも、実際に言葉を向けられると、湯飲みへ伸ばしかけた手を膝へ戻した。「拓真から聞いたんですか」「あの子は優しいから、自分から言えないの。だから母親の私が言っているんです」美弥子は封筒を開き、3年前の覚書の写しを出した。結婚の日、拓真が書いたものだ。【3年後、一ノ瀬澪が離婚を望む場合、相良拓真は異議なく応じる。サガラファーマは創業貸付金1,200万円を返済する】修一から預かった1,200万円は、5月2日より前に拓真の会社へ貸していた。婚姻届を出した日、拓真は「会社が失敗しても澪を借金へ巻き込みたくない」と言い、3年後の返済と離婚の選択を覚書にした。署名したのは、婚姻届を出した帰りの喫茶店だった。「3年で必ず形にする。成功しても失敗しても、澪の金は返す」私は、3年後の自由ではなく、同じ3年を一緒に進む約束だと受け取った。美弥子は下の返済条項を指で隠した。「3年だけという約束だったのでしょう。会社はもう安定した。あなたの役目は終わりました」「役目って、何ですか」「苦しい時期に息子を支えたことは感謝しています。でも、いつまでも恩を盾にされたら拓真が自由になれないわ」美弥子は、1,200万円が修一の金だったことも、会社が倒れた時に私を巻き込まないための覚書だったことも知らない。3年後なら離婚を選べる――拓真から聞いたのは、その部分だけなのだろう。誕生日には花が届き、正月には煮物を褒められた。家族になれたと思った時間まで、嘘にしたくなかった。「拓真本人と話します」「話し合って、また縛るつもり?あなたは仕事もただの事務でしょう
夫が初恋の女へ3,600万円を送った明細は、結婚3周年の記念写真に着るワンピースを買って帰った日だった。午後2時すぎ、私は玄関で靴を脱ぎ、正面のダイニングへ上がった。レースのカーテン越しの光が白い床へ広がっている。紺色の衣装袋を椅子へ掛けた。結婚3周年まで、あと1か月。私は半日だけ休みを取り、写真撮影に着る服を選んできた。34歳の夫、相良拓真(さがら たくま)には内緒だった。彼の驚く顔が見たかった。店では、拓真の好みに合わせ、胸元に飾りのない服を選んだ。結婚記念日の当日は、この服でふたりの写真を撮り、彼の会社が初めて融資を受けた日に祝った洋食店へ行くつもりだった。スマートフォンの予定表には、1か月後の欄に【結婚3周年記念撮影】と入力してある。夫に合わせることを、不自由だと思ったことはなかった。ダイニングを抜け、廊下の奥の寝室へ入った。クローゼットから拓真の濃紺のスーツを取り出す。写真スタジオへ行く前に、クリーニングへ出しておこうと思ったのだ。上着を持ち上げた拍子に、内ポケットから二つ折りの紙が落ちた。拾い上げると、銀行の振込明細だった。上に並ぶ数字が目に入った。【振込金額 36,000,000円】【お受取人 カシワギ エリ】【ご依頼人 サガラ タクマ】日付は3年前の5月2日だった。指先が紙の端で止まった。柏木絵里(かしわぎ えり)は、私の1学年下で、大学の時から拓真が何かと世話を焼いていた後輩だ。卒業後は海外へ行ったと聞いていた。5月2日を、私は忘れたことがない。養父の一ノ瀬修一(いちのせ しゅういち)は、病院の個室で酸素の管をつけていた。海外治験への渡航費と滞在保証金が90万円足りず、その日の正午までに振り込まなければ、参加枠は別の患者へ回されることになっていた。私は拓真に、人生で初めて頭を下げた。「90万円だけ貸して。必ず返すから」拓真は起業したばかりの会社の通帳を見せ、私の手へ9万円を置いた。「悪い。今、自由にできる金はこれで全部だ」私は疑わなかった。結婚前に彼の会社へ1,200万円を貸し、拓真が眠らず働く姿も見ていた。足りない81万円を集められない自分を責めた。その月の終わり、修一の容体が急変した。私は病室の小机で、病院から渡された書類に名前を書いていた。手にしていたのは、18歳で大学に合格した時、修一が買







