LOGINセンターを出る時、私はロッカーから紺色の衣装袋を持ち帰った。もう写真スタジオへ着ていくつもりはなかったのに、捨てることもできなかった。
帰宅後、衣装袋を寝室の床へ置いたまま、明かりを消した。
眠れるはずがなかった。
拓真が初めて会社の名刺を作った夜、100枚を食卓へ並べて喜んだ顔を思い出した。雨の中を歩いて帰った私へ、濡れた靴下を脱ぐようタオルを投げてくれたこともある。
優しかった場面は消えない。だからこそ、その隣に3,600万円の明細を置く場所が見つからなかった。
衣装袋からワンピースを出し、胸元へ当てて鏡を見た。店では深い紺色が似合うと言われた。今は、誰かの葬儀へ行く服のように見える。
私はワンピースを椅子の背へ掛け、鏡から目をそらした。
撮影を予約したのは私だった。店を決め、拓真の予定表を確認し、写真スタジオから届いた質問にもひとりで答えた。結婚記念日は、ふたりで守ってきた日ではない。私が毎年、消えないよう手入れしてきた日だった。
午前1時を回ってから、玄関の鍵が開いた。
足音が寝室の前で止まり、扉が開いた。廊下の光を背負った拓真から、酒と甘い香水の匂いがした。
「まだ起きてたのか」
私はベッドの端へ座った。
「絵里さんを送ってきたの?」
拓真は上着を椅子へ掛け、腕時計へ目を落とした。
「業界の人間と飲んでいた。絵里は海外帰りで日本の人脈が薄いから、紹介してやっただけだ」
「車も紹介の一部?」
黒い車と白い車。37-01と37-02。
拓真は一瞬だけ黙った。
「会社の広報用に2台まとめて買った。絵里には一時的に貸している。君には小型車の方が運転しやすいだろ」
私のために選んだように言い換える。
以前なら、そこで話を終わらせた。彼が疲れているのだからと、自分へ言い聞かせた。
「3,600万円も、会社の都合?」
拓真の視線が止まった。
「何の話だ」
「絵里さんが、海外の研究費をずっと支えてもらったと言っていたから」
印刷された明細を見たとは言わなかった。拓真が自分から何を話すか知りたかった。
「昔の話だ。絵里に海外で経験を積ませれば、いずれ会社の役に立つと思った。今、その人脈が新薬事業につながっている」
「そのために、3,600万円を黙って送ったの?」
「投資だよ。彼女がうちへ持ち込んでいる情報だけでも十分に返ってきている。君には分からない話だ」
答えになっていない。それでも拓真は、説明を終えた顔をした。
「お父さんの治療に90万円が必要だった日も?」
拓真の眉が動いた。
「またその話か。俺だって間に合わなかったことは悪いと思ってる。でも、病気は金を出せば必ず治るものじゃない」
「そうね」
私は膝の上で手を重ねた。
「だから聞いているの。あの日、あなたは本当に9万円しか持っていなかったの?」
拓真は答えなかった。
代わりに、私の仕事の話を始めた。
「君は最近おかしい。事務員の仕事で夜まで残り、母さんにも逆らう。絵里に頼めば、もっと体面のいい職場を紹介できる。結婚しているのに、いつまで学生みたいに意地を張るんだ」
「紹介はいらない。私は自分で生きていける」
拓真の顔から、表面だけの穏やかさが消えた。
「誰のおかげで、その暮らしができていると思ってる」
「家賃は半分出してる。食事も掃除も、私がしてきた」
「金額の話じゃない」
「あなたが言ったのよ。私の給料で維持できる車を贈るって」
拓真が近づいた。私は立ち上がり、ベッドを挟んで距離を取った。
「澪、夫婦なのに敵みたいな顔をするな」
「今は触らないで」
「話せば分かる」
拓真はベッドを回り込み、私の手首をつかんだ。痛いほどではない。けれど、放してと言ったのに、つかんだままでいることが怖かった。
「子どもを作ろう」
耳を疑った。
「何を言ってるの」
「母さんも望んでいる。君も仕事なんか辞めて、家で落ち着けば余計なことを考えなくなる」
「私を黙らせるために、子どもを作るの?」
「そんな言い方をするな。夫婦なら普通のことだ」
拓真の手が肩へ伸びた。私はもう一度、はっきり言った。
「嫌。放して」
それでも距離が縮まった。
私は空いている手で拓真の頬を打った。
乾いた音が寝室へ響いた。
拓真が手を上げた。私は反射的に顔をかばったが、その手は降りてこなかった。
代わりに強い吐き気がこみ上げた。口を押さえ、洗面所へ走った。
胃の中には、昼からほとんど何も入っていない。水だけが上がり、何度も空咳が出た。鏡の下へ両手をつき、息を整えようとした。
背後に拓真が立った。
「まさか、妊娠してるのか」
最初に私の体調ではなく、妊娠を疑った。
「分からない。最近生理が遅れているけど、忙しかったからかもしれない」
「病院へ行くぞ」
拓真がスマートフォンを取った時、着信音が鳴った。画面に【絵里】と表示されていた。
彼は私を見てから、応答した。
「どうした?」
受話口から、泣き声が漏れた。食事のあとに息苦しくなり、手が震えているらしい。
拓真の声が変わった。
「救急相談へ電話したか?今どこだ。動かず待ってろ」
通話を切ると、鍵をつかんだ。
「絵里がアレルギーを起こした。ひとりでいる」
「私も、今吐いてる」
「君は話せてるだろ。妊娠なら急にどうこうならない。絵里は呼吸がおかしいんだ」
私は洗面台の前に座り込んだまま、拓真を見上げた。
どちらが重いかを争いたいのではない。
拒絶した私を置いていく理由が、また絵里であることが苦しかった。
拓真は玄関へ向かい、振り返った。
「今日の君は行きすぎだ。お互い頭を冷やした方がいい」
頬を打った私だけが、反省すべき人にされた。
玄関の扉が閉まり、廊下を急ぐ足音が遠ざかった。
洗面所の鏡には、頬を打った右手を胸へ抱えた私が映っていた。拓真に殴られなかったことへ、ほっとしている自分がいた。その安堵が、何よりも怖かった。
寝室へ戻ると、ベッドの拓真側だけが乱れていなかった。私は掛け布団を直そうとして、手を止めた。
置いていかれた夜にも、夫が帰りやすいよう部屋を整える。それが妻の役目だと、いつから思うようになったのだろう。
拓真が戻れば、きっと「絵里は命に関わった」と説明する。そして、私が反論すれば、人の命より嫉妬を優先する妻にされる。
けれど今夜、私が傷ついた理由は絵里ではない。
嫌だと言った私の手をつかみ、吐いている私を見ても、拓真が自分の望みしか数えなかったことだ。
私は寝室の扉を閉めた。玄関の向こうで何が起きていようと、もう私にはどうでもよかった。
「中絶はしません」私は床から検査票を拾い、結果欄に重なっていた紙を外した。美弥子がエレベーターへ乗りかけた足を止めた。「やっぱり妊娠しているのね」「いいえ」私は結果欄が見えるよう、検査票を美弥子へ向けた。【妊娠反応 陰性】「妊娠していないからです」美弥子は検査結果と私の顔を見比べた。「それから、もし妊娠していたとしても、私の体をどうするかは私が決めます。会社や結婚を守る道具にはしません」「拓真はあなたを養ってきたのよ」「家賃も生活費も分けています。結婚前に貸した1,200万円も、まだ返してもらっていません」美弥子は初めて目をそらした。「昔の小さな金の話を持ち出さないで。来月、拓真の会社には60億円の共同開発が決まるのよ」「まだ決まっていません」「事務員のあなたに何が分かるの」美弥子はスマートフォンを取り出した。「拓真に――」言いかけたところで、指が止まった。昨日の離婚要求を息子の前で隠したばかりだ。今の中絶要求まで話す気はないらしい。美弥子は通話画面を閉じ、スマートフォンをバッグへ押し込んだ。「今に後悔するわ」美弥子は吐き捨てると、ひとりでエレベーターへ乗った。閉まる扉へ、私は検査票を下ろさなかった。……病院から戻ると、拓真はリビングの中央に立っていた。開いたカーテンから、昼の光が食卓の半分まで差していた。水の入ったグラスが2つ並んでいる。「どこに行ってた」拓真は私の顔を見るなり近づいた。「病院」「どうして連絡しない。母さんにも電話した。センターにも、大学の友人にも聞いたんだぞ」「私は、ひとりで病院へ行けない子どもじゃない」「絵里は本当に呼吸が苦しくなっていた。救急外来で薬をもらって、朝には落ち着いた。君を放っておくつもりはなかった」拓真は私の手から検査票を取り、勝手に開いた。【妊娠反応 陰性】拓真の眉が下がった。「違ったのか」拓真は検査票を見直した。落胆したように見えた。「そう書いてあるでしょう」「胃炎なら、今日は家で休め。夜、業界の選定関係者が集まる食事会がある。君も一緒に来るか?」結婚してから、拓真が仕事の席へ私を誘ったことは一度もない。私が社交を苦手だから無理をさせたくない。会社が業界2位になったら、妻として紹介する。そう言われ、待っていた。「なぜ今日だけ?」「君が最近不安
午前6時を過ぎても、拓真は帰らなかった。私はリビングのソファで、いつもの診察予約アプリを開いた。東雲総合病院の婦人科には結婚前から通っている。昨夜から続く吐き気を入力して空き状況を確認すると、午前9時の予約枠が1つ残っていた。住所と服用薬を入力し、緊急連絡先の欄で指が止まった。これまでは迷わず拓真の名前を書いていた。昨夜、私を置いて別の女性のもとへ行った人を、緊急時に呼ぶことはできない。緊急連絡先は空欄のままにし、勤務先欄へセンターの代表番号を入力した。鞄には、診察に必要なものだけを入れた。予約を確定した直後、拓真からメッセージが届いた。【朝になったら病院へ行け。妊娠していたら、仕事は辞めてもらう】拓真は、私の体も仕事も、まるで自分のもののように決めていた。東雲総合病院の正面ロビーは、吹き抜けの天井から朝の光が落ちていた。午前8時50分。自動受付機の前には白い案内線が引かれ、診療科ごとに色が分かれている。私は婦人科の青い線へ進み、受付票を取った。昨夜から水しか飲めていない。立ち上がった瞬間、床の模様が傾いた。右側から低い声がした。「大丈夫ですか?支えましょうか」私はうなずいた。男性の手が右腕の下へ入り、壁際の手すりまで支えた。濃いグレーのスーツを着た男性は、東雲慧(しののめ けい)だった。半歩離れて立ち、来院証の用件欄には【院内安全点検】とある。東雲メディカルグループの代表。今回のLUMEN-17共同開発候補のひとりだ。「ありがとうございます。立ちくらみです。昨夜から食べていないので、脱水もあると思います」「診断まで自分で済ませる癖があるんですね」責める声ではなかった。慧は近くの職員へ車椅子を頼み、私には触れず横へ置いた。「歩けます」「歩けることと、歩く必要があることは別です」競合会社の代表へ弱った姿を見せたくなかった。対外的には研究管理の事務員にすぎないのに。「東雲代表自ら、視察ですか」慧の目がわずかに細くなった。「私を知っているんですね」「医薬業界では有名ですから」「私も、あなたの論文を読んだことがあります」心臓が強く打った。慧は続けなかった。私の身分を確かめる質問も、LUMEN-17の話も出さず、受付票をこちらへ向けて台へ置いた。「今日は患者として来たのでしょう。なら、その話はしません」慧は自分の
センターを出る時、私はロッカーから紺色の衣装袋を持ち帰った。もう写真スタジオへ着ていくつもりはなかったのに、捨てることもできなかった。帰宅後、衣装袋を寝室の床へ置いたまま、明かりを消した。眠れるはずがなかった。拓真が初めて会社の名刺を作った夜、100枚を食卓へ並べて喜んだ顔を思い出した。雨の中を歩いて帰った私へ、濡れた靴下を脱ぐようタオルを投げてくれたこともある。優しかった場面は消えない。だからこそ、その隣に3,600万円の明細を置く場所が見つからなかった。衣装袋からワンピースを出し、胸元へ当てて鏡を見た。店では深い紺色が似合うと言われた。今は、誰かの葬儀へ行く服のように見える。私はワンピースを椅子の背へ掛け、鏡から目をそらした。撮影を予約したのは私だった。店を決め、拓真の予定表を確認し、写真スタジオから届いた質問にもひとりで答えた。結婚記念日は、ふたりで守ってきた日ではない。私が毎年、消えないよう手入れしてきた日だった。午前1時を回ってから、玄関の鍵が開いた。足音が寝室の前で止まり、扉が開いた。廊下の光を背負った拓真から、酒と甘い香水の匂いがした。「まだ起きてたのか」私はベッドの端へ座った。「絵里さんを送ってきたの?」拓真は上着を椅子へ掛け、腕時計へ目を落とした。「業界の人間と飲んでいた。絵里は海外帰りで日本の人脈が薄いから、紹介してやっただけだ」「車も紹介の一部?」黒い車と白い車。37-01と37-02。拓真は一瞬だけ黙った。「会社の広報用に2台まとめて買った。絵里には一時的に貸している。君には小型車の方が運転しやすいだろ」私のために選んだように言い換える。以前なら、そこで話を終わらせた。彼が疲れているのだからと、自分へ言い聞かせた。「3,600万円も、会社の都合?」拓真の視線が止まった。「何の話だ」「絵里さんが、海外の研究費をずっと支えてもらったと言っていたから」印刷された明細を見たとは言わなかった。拓真が自分から何を話すか知りたかった。「昔の話だ。絵里に海外で経験を積ませれば、いずれ会社の役に立つと思った。今、その人脈が新薬事業につながっている」「そのために、3,600万円を黙って送ったの?」「投資だよ。彼女がうちへ持ち込んでいる情報だけでも十分に返ってきている。君には分からない話だ」答えになってい
翌日の午後、私は6年落ちの小型車を運転し、皇居外苑沿いの道を走っていた。助手席には、昨日選んだ紺色のワンピースがある。初めて融資を断られた拓真を迎えに行ったのも、この古い車だった。昼前、義母から電話があった。「今日の18時、高楼閣へ来なさい。3年の約束を、もう終わらせます」高楼閣の個室は、窓の向こうに皇居外苑の緑が見える静かな部屋だった。午後6時ちょうど、相良美弥子(さがら みやこ)が私の向かいに座った。61歳の義母は、まだ口をつけていない湯飲みを自分の側へ引いた。店員が襖を閉めるまで、上品な笑みを崩さなかった。足音が遠ざかると、細い封筒を座卓へ置いた。「拓真と離婚してください」昼前の電話で予想していた。それでも、実際に言葉を向けられると、湯飲みへ伸ばしかけた手を膝へ戻した。「拓真から聞いたんですか」「あの子は優しいから、自分から言えないの。だから母親の私が言っているんです」美弥子は封筒を開き、3年前の覚書の写しを出した。結婚の日、拓真が書いたものだ。【3年後、一ノ瀬澪が離婚を望む場合、相良拓真は異議なく応じる。サガラファーマは創業貸付金1,200万円を返済する】修一から預かった1,200万円は、5月2日より前に拓真の会社へ貸していた。婚姻届を出した日、拓真は「会社が失敗しても澪を借金へ巻き込みたくない」と言い、3年後の返済と離婚の選択を覚書にした。署名したのは、婚姻届を出した帰りの喫茶店だった。「3年で必ず形にする。成功しても失敗しても、澪の金は返す」私は、3年後の自由ではなく、同じ3年を一緒に進む約束だと受け取った。美弥子は下の返済条項を指で隠した。「3年だけという約束だったのでしょう。会社はもう安定した。あなたの役目は終わりました」「役目って、何ですか」「苦しい時期に息子を支えたことは感謝しています。でも、いつまでも恩を盾にされたら拓真が自由になれないわ」美弥子は、1,200万円が修一の金だったことも、会社が倒れた時に私を巻き込まないための覚書だったことも知らない。3年後なら離婚を選べる――拓真から聞いたのは、その部分だけなのだろう。誕生日には花が届き、正月には煮物を褒められた。家族になれたと思った時間まで、嘘にしたくなかった。「拓真本人と話します」「話し合って、また縛るつもり?あなたは仕事もただの事務でしょう
夫が初恋の女へ3,600万円を送った明細は、結婚3周年の記念写真に着るワンピースを買って帰った日だった。午後2時すぎ、私は玄関で靴を脱ぎ、正面のダイニングへ上がった。レースのカーテン越しの光が白い床へ広がっている。紺色の衣装袋を椅子へ掛けた。結婚3周年まで、あと1か月。私は半日だけ休みを取り、写真撮影に着る服を選んできた。34歳の夫、相良拓真(さがら たくま)には内緒だった。彼の驚く顔が見たかった。店では、拓真の好みに合わせ、胸元に飾りのない服を選んだ。結婚記念日の当日は、この服でふたりの写真を撮り、彼の会社が初めて融資を受けた日に祝った洋食店へ行くつもりだった。スマートフォンの予定表には、1か月後の欄に【結婚3周年記念撮影】と入力してある。夫に合わせることを、不自由だと思ったことはなかった。ダイニングを抜け、廊下の奥の寝室へ入った。クローゼットから拓真の濃紺のスーツを取り出す。写真スタジオへ行く前に、クリーニングへ出しておこうと思ったのだ。上着を持ち上げた拍子に、内ポケットから二つ折りの紙が落ちた。拾い上げると、銀行の振込明細だった。上に並ぶ数字が目に入った。【振込金額 36,000,000円】【お受取人 カシワギ エリ】【ご依頼人 サガラ タクマ】日付は3年前の5月2日だった。指先が紙の端で止まった。柏木絵里(かしわぎ えり)は、私の1学年下で、大学の時から拓真が何かと世話を焼いていた後輩だ。卒業後は海外へ行ったと聞いていた。5月2日を、私は忘れたことがない。養父の一ノ瀬修一(いちのせ しゅういち)は、病院の個室で酸素の管をつけていた。海外治験への渡航費と滞在保証金が90万円足りず、その日の正午までに振り込まなければ、参加枠は別の患者へ回されることになっていた。私は拓真に、人生で初めて頭を下げた。「90万円だけ貸して。必ず返すから」拓真は起業したばかりの会社の通帳を見せ、私の手へ9万円を置いた。「悪い。今、自由にできる金はこれで全部だ」私は疑わなかった。結婚前に彼の会社へ1,200万円を貸し、拓真が眠らず働く姿も見ていた。足りない81万円を集められない自分を責めた。その月の終わり、修一の容体が急変した。私は病室の小机で、病院から渡された書類に名前を書いていた。手にしていたのは、18歳で大学に合格した時、修一が買