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3話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-26 17:33:07

センターを出る時、私はロッカーから紺色の衣装袋を持ち帰った。もう写真スタジオへ着ていくつもりはなかったのに、捨てることもできなかった。

帰宅後、衣装袋を寝室の床へ置いたまま、明かりを消した。

眠れるはずがなかった。

拓真が初めて会社の名刺を作った夜、100枚を食卓へ並べて喜んだ顔を思い出した。雨の中を歩いて帰った私へ、濡れた靴下を脱ぐようタオルを投げてくれたこともある。

優しかった場面は消えない。だからこそ、その隣に3,600万円の明細を置く場所が見つからなかった。

衣装袋からワンピースを出し、胸元へ当てて鏡を見た。店では深い紺色が似合うと言われた。今は、誰かの葬儀へ行く服のように見える。

私はワンピースを椅子の背へ掛け、鏡から目をそらした。

撮影を予約したのは私だった。店を決め、拓真の予定表を確認し、写真スタジオから届いた質問にもひとりで答えた。結婚記念日は、ふたりで守ってきた日ではない。私が毎年、消えないよう手入れしてきた日だった。

午前1時を回ってから、玄関の鍵が開いた。

足音が寝室の前で止まり、扉が開いた。廊下の光を背負った拓真から、酒と甘い香水の匂いがした。

「まだ起きてたのか」

私はベッドの端へ座った。

「絵里さんを送ってきたの?」

拓真は上着を椅子へ掛け、腕時計へ目を落とした。

「業界の人間と飲んでいた。絵里は海外帰りで日本の人脈が薄いから、紹介してやっただけだ」

「車も紹介の一部?」

黒い車と白い車。37-01と37-02。

拓真は一瞬だけ黙った。

「会社の広報用に2台まとめて買った。絵里には一時的に貸している。君には小型車の方が運転しやすいだろ」

私のために選んだように言い換える。

以前なら、そこで話を終わらせた。彼が疲れているのだからと、自分へ言い聞かせた。

「3,600万円も、会社の都合?」

拓真の視線が止まった。

「何の話だ」

「絵里さんが、海外の研究費をずっと支えてもらったと言っていたから」

印刷された明細を見たとは言わなかった。拓真が自分から何を話すか知りたかった。

「昔の話だ。絵里に海外で経験を積ませれば、いずれ会社の役に立つと思った。今、その人脈が新薬事業につながっている」

「そのために、3,600万円を黙って送ったの?」

「投資だよ。彼女がうちへ持ち込んでいる情報だけでも十分に返ってきている。君には分からない話だ」

答えになっていない。それでも拓真は、説明を終えた顔をした。

「お父さんの治療に90万円が必要だった日も?」

拓真の眉が動いた。

「またその話か。俺だって間に合わなかったことは悪いと思ってる。でも、病気は金を出せば必ず治るものじゃない」

「そうね」

私は膝の上で手を重ねた。

「だから聞いているの。あの日、あなたは本当に9万円しか持っていなかったの?」

拓真は答えなかった。

代わりに、私の仕事の話を始めた。

「君は最近おかしい。事務員の仕事で夜まで残り、母さんにも逆らう。絵里に頼めば、もっと体面のいい職場を紹介できる。結婚しているのに、いつまで学生みたいに意地を張るんだ」

「紹介はいらない。私は自分で生きていける」

拓真の顔から、表面だけの穏やかさが消えた。

「誰のおかげで、その暮らしができていると思ってる」

「家賃は半分出してる。食事も掃除も、私がしてきた」

「金額の話じゃない」

「あなたが言ったのよ。私の給料で維持できる車を贈るって」

拓真が近づいた。私は立ち上がり、ベッドを挟んで距離を取った。

「澪、夫婦なのに敵みたいな顔をするな」

「今は触らないで」

「話せば分かる」

拓真はベッドを回り込み、私の手首をつかんだ。痛いほどではない。けれど、放してと言ったのに、つかんだままでいることが怖かった。

「子どもを作ろう」

耳を疑った。

「何を言ってるの」

「母さんも望んでいる。君も仕事なんか辞めて、家で落ち着けば余計なことを考えなくなる」

「私を黙らせるために、子どもを作るの?」

「そんな言い方をするな。夫婦なら普通のことだ」

拓真の手が肩へ伸びた。私はもう一度、はっきり言った。

「嫌。放して」

それでも距離が縮まった。

私は空いている手で拓真の頬を打った。

乾いた音が寝室へ響いた。

拓真が手を上げた。私は反射的に顔をかばったが、その手は降りてこなかった。

代わりに強い吐き気がこみ上げた。口を押さえ、洗面所へ走った。

胃の中には、昼からほとんど何も入っていない。水だけが上がり、何度も空咳が出た。鏡の下へ両手をつき、息を整えようとした。

背後に拓真が立った。

「まさか、妊娠してるのか」

最初に私の体調ではなく、妊娠を疑った。

「分からない。最近生理が遅れているけど、忙しかったからかもしれない」

「病院へ行くぞ」

拓真がスマートフォンを取った時、着信音が鳴った。画面に【絵里】と表示されていた。

彼は私を見てから、応答した。

「どうした?」

受話口から、泣き声が漏れた。食事のあとに息苦しくなり、手が震えているらしい。

拓真の声が変わった。

「救急相談へ電話したか?今どこだ。動かず待ってろ」

通話を切ると、鍵をつかんだ。

「絵里がアレルギーを起こした。ひとりでいる」

「私も、今吐いてる」

「君は話せてるだろ。妊娠なら急にどうこうならない。絵里は呼吸がおかしいんだ」

私は洗面台の前に座り込んだまま、拓真を見上げた。

どちらが重いかを争いたいのではない。

拒絶した私を置いていく理由が、また絵里であることが苦しかった。

拓真は玄関へ向かい、振り返った。

「今日の君は行きすぎだ。お互い頭を冷やした方がいい」

頬を打った私だけが、反省すべき人にされた。

玄関の扉が閉まり、廊下を急ぐ足音が遠ざかった。

洗面所の鏡には、頬を打った右手を胸へ抱えた私が映っていた。拓真に殴られなかったことへ、ほっとしている自分がいた。その安堵が、何よりも怖かった。

寝室へ戻ると、ベッドの拓真側だけが乱れていなかった。私は掛け布団を直そうとして、手を止めた。

置いていかれた夜にも、夫が帰りやすいよう部屋を整える。それが妻の役目だと、いつから思うようになったのだろう。

拓真が戻れば、きっと「絵里は命に関わった」と説明する。そして、私が反論すれば、人の命より嫉妬を優先する妻にされる。

けれど今夜、私が傷ついた理由は絵里ではない。

嫌だと言った私の手をつかみ、吐いている私を見ても、拓真が自分の望みしか数えなかったことだ。

私は寝室の扉を閉めた。玄関の向こうで何が起きていようと、もう私にはどうでもよかった。

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