Masuk私は小箱を拓真の前へ押し出した。
「いらない」
小さな箱が、拓真の皿の脇で止まった。
拓真はそれを見下ろしただけだった。
「何なんだよ、その態度」
「あなたが私に選んだ物じゃないから、受け取れない」
「絵里は喜んでくれてるのに、お前はどうしてそうやって空気を悪くするんだ?」
彼が責めたのは、私の態度だった。
そのまま美弥子へ顔を向けると、美弥子はすぐに眉をつり上げ、拓真の皿の脇にある小箱を睨んだ。
絵里は何も言わず、胸元の石を指で撫でた。
「せっかくの食事だぞ。母さんが用意して、絵里だって来てくれたのに」
テーブルの中央に置かれた花を見た。駅前で選び、茎を切って生けた花だった。
「気に入らないなら、私が処分しましょうか?」
絵里が拓真の前へ手を伸ばした。
「もともと私の買い物についてきた物ですし。澪さんが見るたび嫌な気持ちになるなら、手元にない方がいいですよね」
「置いておいて」
私は絵里の指が触れる前に、小箱を手で押さえた。
「要らない物を、人に渡さないで」
「まあ、卑しい」
美弥子が箸を置いた。
「人から頂いた物の値打ちを、そんなに気にするなんて。妻なら夫の立場を考えて、笑って受け取るものよ」
「値段は気にしていません」
「また言い訳ね。絵里さんのものは何百万もして、自分のはおまけだったから腹を立てているんでしょう?」
美弥子は絵里に向かって、かばうように身を乗り出した。
「絵里さんは海外で苦労して、拓真の仕事も助けてくれるの。感謝の品をもらうのは当然じゃない。澪さんも、もう少し可愛げがあれば、拓真だって何か選んでくれたかもしれないわ」
絵里は止めず、伏せていた目を上げて拓真へそっと笑った。
「もういいです、美弥子さん。私は拓真さんの気持ちだけで十分ですから」
拓真はその言葉にうなずいた。
「絵里は昔から欲がないよな」
絵里の胸元では、拓真が何度も店へ通って選んだネックレスが、シャンデリアの光を返していた。
私は黙って箸を置いた。
それを見た美弥子が、当然のように言った。
「もうお腹いっぱいなら、次はデザートを出してちょうだい。食べ終わったお皿も片づけて、洗い物もお願いね」
私は何も言わずに席を立った。
台所へ向かった途端、背後では途切れていた会話が何事もなかったように戻った。
流し台には、料理に使った鍋とまな板が残っていた。
「向こうでよく行ってたレストラン、予約が取りにくかっただろ」
「拓真さんが連絡してくれたから入れたんです」
「次は母さんも連れていってよ」
「もちろんです、美弥子さん」
3人の声の間に、グラスの触れ合う音がした。
食事が終わると、3人はそれぞれのグラスを持って、リビングへ移った。
テーブルの器を重ねていると、背後から声が飛んだ。
「澪、ワインクーラーに氷を入れて持ってきて。絵里の白ワインがぬるくなるだろ」
氷を入れたワインクーラーを持ってリビングへ戻ると、絵里はソファの中央に座り、拓真が隣でボトルを傾けていた。
美弥子は微笑みながらふたりを眺めていた。
私の座る場所はなかった。
私はワインクーラーをローテーブルの脇へ置いた。
「ありがとう、澪さん」
絵里はグラスを手にしたまま、すぐ拓真へ顔を向けた。
私は台所へ戻り、蛇口をひねった。
4人分の箸と椀、料理に使った鍋をひとつずつ洗っていった。絵里の小皿はきれいに空になっていたのに、私の椀には冷えた汁が半分残っていた。
それを流しへ捨て、最後にテーブルを拭いた。
リビングからは、3人の笑い声が途切れることなく聞こえてきた。
私は濡れた布巾を握ったまま、しばらくそこに立っていた。戻ったところで、私の座る場所があるようには思えなかった。
「覚えてる?大学の時、拓真さんが――」
「あれは絵里が先にやったんだろ」
「ふたりとも、昔から仲がよかったのねえ」
笑い声がまた重なった。
洗った皿を棚へ戻し、花瓶の下に落ちた水を拭いた。淡いバラの向こうで、3人が顔を寄せて話していた。
拓真がグラスを置いて立った。
「絵里、昔のアルバムが上にある。見せるよ」
「見たいです」
絵里も立ち、拓真のあとを追った。
美弥子はふたりを呼び止めず、笑顔のままその背中を見送った。
その間、私は台所で、乾いた布巾を手に、最後の皿の水気を拭き取った。
布巾を干すと、美弥子が台所のところへ来た。
「終わったなら、これもお願い」
黒いごみ袋を差し出された。口はもう結ばれていた。
「外の集積箱に入れてきて。明日の朝まで置くと匂うから」
「今ですか?」
「今だから頼んでいるのよ。絵里さんに持たせるわけにはいかないでしょう」
美弥子は階段の方へ目をやったが、何も言わなかった。
袋を受け取った。
玄関で靴を履き、外へ出た。夜の空気が頬に冷たかった。門の脇にある集積箱まで運び、蓋を開けた。袋を入れると、底へ重い音を立てて落ちた。
蓋を閉じたあとも、足はすぐには玄関へ向かなかった。しばらくその場に立ち尽くした。
窓の向こうでは、リビングの明かりが暖かく見えた。
あの中へ戻れば、また何かを頼まれる。それでも自分の鞄は玄関に置いたままだった。
ようやく、家へ戻った。
家の中は、出た時より静かだった。
リビングには美弥子だけが残っていた。ソファに座り、空になったグラスを手にしていた。
「拓真さんは?」
「さあ。絵里さんと、思い出の物でも見ているんじゃない?」
美弥子は目を合わせず、酒の瓶へ手を伸ばした。
「まだ2階にいますか?」
「いちいち探さなくていいでしょう。あんたは台所が終わったなら、少し座っていれば?」
美弥子は、自分の隣の座面を軽く叩いた。
私は座らず、階段へ目を向けた。
その時、頭上で、2階の床板が軋んだ。
続いて、低い笑い声が聞こえた。拓真が実家にいた頃に使っていた部屋の方だった。
私は廊下へ出た。
「澪さん」
美弥子に呼ばれても、振り返らなかった。
階段を1段ずつ上がった。途中で、絵里の声がした。
「下に澪さんがいますよ」
「気にするな」
拓真の声は近かった。
2階の廊下には、部屋から細い明かりが漏れていた。扉が完全には閉まっていなかった。
私は足を止めた。
「でも、さっき怒ってたでしょう?」
「いつものことだ。放っておけば何も言わなくなる」
「拓真さんって、昔から私には甘いですよね」
「絵里に頼まれたら、断れないんだよ」
扉の隙間から、ベッドの端が見えた。
絵里が腰掛け、拓真がその前に立っていた。絵里の両腕は拓真の背に回り、拓真はその肩を抱いていた。
見間違える距離ではなかった。
拓真が顔を伏せた。
絵里が顎を上げ、ふたりの唇が重なった。
短く離れて、また重なった。
私が同じ家の1階で、ふたりの皿を洗っていた間に。
拓真の手が絵里の髪をすくい、頬へ触れた。その手つきは、私へ小箱を押し出した時とは違っていた。
背後で、階段の板が鳴った。
振り返ると、美弥子がすぐ後ろまで来ていた。
怒鳴りつけたい衝動が込み上げた。けれど、今ここで声を上げれば、ふたりはすぐに離れるだろう。
私はまず、美弥子がどこまで知っていたのか確かめたかった。
声を押し殺して尋ねた。
「お義母さん、知っていたんですか」
美弥子は扉の隙間を一度見た。
驚きはしなかった。
「声を出さないで。絵里さんを困らせるでしょう」
「困らせる?」
「あんたにも原因があるとは思わないの?夫がほかの女に慰めを求めたなら、妻はまず自分を振り返るものよ」
扉の向こうで、絵里が何かを囁いた。拓真が笑った。
「今ここで騒いだら、拓真の仕事にも差し支えるわ。絵里さんは大切な人なのよ」
美弥子は私の腕をつかみ、階段の方へ引いた。
「下へ行きましょう。何も見なかったことにしなさい」
私は美弥子の指を外した。
半開きの扉を、それ以上押し開けなかった。拓真の名前も呼ばず、部屋から一歩離れた。
美弥子の脇を通り、階段へ向かった。
この家へ来た時には、まだ拓真から聞きたい言葉があった。ダイニングテーブルでも、私は彼の答えを待っていた。
いまも、拓真が私を呼び止めるのを、どこかで待っていた。
けれど、扉の向こうから拓真の声はしなかった。
階段へ足をかけようとした時、背後の部屋から絵里の声が追ってきた。
「美弥子さん。今夜、拓真さんの部屋で泊まってもいいですか?」
【一緒に開発を進めたとは言えない。私の名前は使わないで】翌朝、届いた返事を読んで、絵里はベッドの上で身を起こした。昨夜送った文章が、そのすぐ上に残っている。拓真に聞かれた時だけ、話を合わせてほしい。そう頼んだだけなのに。カーテンの隙間から、枕元へ細く光が差していた。絵里は携帯を膝へ下ろし、もう一度持ち上げた。【細かい説明は私がするから。少しだけ助けてくれない?】返事を待つ間、開発という言葉を使わなければよかったと思った。相談に乗っていた、と頼めば、ここまで強く断られなかったかもしれない。やがて画面に、新しい文章が現れた。【購入窓口を紹介しただけです。それ以上のことは知りません】絵里は唇をかんだ。その紹介を受けてデモを買ったことは、間違っていない。けれど、これだけを拓真に言われたら、自分が話してきた追加開発をどう説明すればいい。ここで連絡先を渡さなければ、拓真はまた催促するだろう。ようやく話せることになったと伝えた方が、きっと喜ぶ。紹介の先は自分で進めた、と横から説明すればいい。【私も一緒にいるから、拓真さんと話してもらえる?】少し待って、返事が来た。【私がしたことについてなら、説明します】絵里は相手の都合を聞き、日本の夜に通話する約束をした。最後に送った【ありがとう】には、返事がなかった。……夜、リビングへ入ると、拓真はソファで携帯を見ていた。絵里に気づくと、隣に置いていたクッションを脇へ寄せる。「ここに座れ。もう時間か?」「うん。話せるって」厚いカーテンは閉まり、卓の照明がふたりの間を照らしていた。絵里は拓真の隣へ座った。朝から何度も考えた説明を、頭の中でもう一度なぞる。「客には、俺から話してきた」拓真が携帯を伏せた。「今のデモでは、預かった資料は使えない。そう説明した」「……ごめんなさい。私のために、そんなことまで」「俺の会社の発表会だ。お前ひとりに説明させられるか」肩へ置かれた手が温かかった。客の前で失敗したあとも、こうして隣を空けてくれる。朝の冷たい返事を思い出すと、ここに座っていられることが、余計にありがたく感じられた。絵里はその手に、自分の手を重ねた。「私、ちゃんと話をつけるから。あの人との話も、任せてくれない?」「お前だけで抱えなくていい。俺も聞く」拓真は肩から手を下ろし、
拓真の顔を見たまま、鞄の持ち手を握った。さっきは、もう少し話していたいと思った。私をのぞき込んでくれた時、もっと話を聞いてもらえる気がした。けれど、薬指を隠すように手を引くことはしなかった。「つけ直すつもりはないの」机の向こうで、拓真の口が少し開いた。そのまま何も言わず、私を見ていた。指輪は、短期賃貸の机の引き出しにある。今日は持ってきてもいない。何か言ってくれるのを待って、私もすぐには立てなかった。あの優しい顔が戻れば、きっとまた、うれしくなる。膝に鞄を引き上げた。中には、13日に返すと書かれた控えが入っている。椅子を引く音が、相談室に響いた。美弥子はバッグへ手を重ねたまま座っていた。私は隣の弁護士へ頭を下げてから、拓真を見た。「失礼します」声が少しかすれた。言い直さず、鞄を持って扉へ向かった。廊下へ出て扉を閉めた。その前で少し足を止め、鞄を持ち直して歩き出した。4月13日、月曜日。仕事を終えた私は、駅前の建物の脇へ寄り、携帯を取り出した。人の流れを外れてから、自分の口座を開く。このあとは、不動産店へ行く。勤務後に内見できる時間を、数日前から予約していた。その前に、確かめたかった。入出金明細を開くと、今日の日付の行があった。振込人は拓真。入金額は、1,200万円。指先で画面を止め、桁を確かめた。全部、入っている。 
全額返す。私は病院の壁際で、その言葉を読み直した。父のために残すお金と、自分が暮らすためのお金。通帳の残高を見ながら、どちらも減っていくことを考えずに済む日が来るかもしれない。返信欄を開いた。会いたいと言われたことより、先に確かめたいことがあった。【いつ返してもらえますか】少し待つと、返信が届いた。【13日の月曜に、1,200万円全部振り込む】私は日付を確かめ、そのやり取りを弁護士へ転送した。週が明けてから相談し、調停の申立てを済ませた。拓真との面会は、私が頼んで弁護士の事務所にしてもらった。母も返済のことで話したいと言っている、と拓真から聞いた時には、携帯を置いたまま、しばらく返事ができなかった。それでも、家へ戻って話すわけではない。弁護士に同席してもらえることを確かめ、返済の話をするのなら、と了承した。……金曜日。相談室へ入ると、美弥子が先に座っていた。卓上に置いたバッグの持ち手へ両手を重ね、私を見ている。拓真は隣の椅子から顔を上げた。「澪。こっちに――」私は卓を挟んだ向かいの椅子を引いた。隣には弁護士が座る。拓真は口を閉じ、背広の前を直した。壁際の時計の秒針が動いていた。
拓真は、澪からの返信を読み直した。調停で進めるよう、正式に頼んだ。「まだ、話が終わってないだろ」相良邸の食卓で、すぐに電話をかけた。呼出音が続き、やがて切れた。昨夜は、ひとりで店へ行ったと言った。今朝は、自分の返事を待たずに離婚を進めている。携帯を卓へ置きかけ、また手に取った。配達の注文画面を開く。今日も、何を食べるか自分で決めなければならない。料理の写真を次々に見ても、食べたいものが見つからなかった。澪がいた頃は、席に着けば食べられた。「拓真さん」絵里が入口に立っていた。「少しは食べられそうか?」「まだ、気持ちが悪くて……」拓真は隣の椅子を引いた。「無理するな。飲めそうなものは?」「お水を」冷蔵庫から水を出し、グラスへ注ぐ。絵里へ渡した時、携帯が鳴った。担当社員だった。「購入先から返事が来ました。メールを転送しましたので、ご確認ください」「直せるのか?」「設定の問題ではありません。購入したデモには、客先の資料を取り込んで処理する機能がないそうです」拓真の手が止まった。「待て。調整すれば使えるんじゃないのか」「設
絵里がスマートフォンを差し出した。「購入した時の書類です」相良邸の居間で、拓真はそれを受け取った。画面には、英文の契約書が開かれていた。ようやく、客に説明できるものが出てきた。米国側の対応が遅れていたのなら、向こうにも責任を取らせればいい。拓真は携帯の画面に目を落とし、利用目的の欄で指を止めた。営業用デモ。顔を上げると、絵里は卓の向こうに立ったままだった。「これは、今日見せたものの契約か?」「はい。最初に導入した時のものです」「客の資料でも動かせるというのは、どこに書いてある」絵里の手が、携帯へ伸びた。「製品として使うための調整は、別なんです。その書類だけでは全部は――」拓真が画面を自分へ向け直すと、伸びてきた手が止まった。準備した実演が動いたことは、拓真も見ている。だが、客の資料を使っても同じようにできると約束したのは、自分だった。「別なら、その取り決めは?」「向こうに確認しています。今、先方との関係を悪くしたら、直せるものも直してもらえなくなります」「俺は、今日できるのかと聞いてるんじゃない。できると言った根拠を出せと言ってるんだ」少し声が大きくなった。絵里が口を閉じ、卓の縁を見た。会場で社員に確かめられた時、自分も同じように声を強めた。準備したもの
帰ってこい、ではなかった。発表会に来なかったことを責められると思っていた私は、返事に詰まった。掛けたばかりの紺色のワンピースへ目をやり、机の前の椅子へ座った。さっき財布から出した店のレシートが、手元にあった。「何かあったの?」「実演が、うまくいかなかった」取引先から渡された資料を使うと、用意した時と同じ結果しか出なかった。試験導入の話も、ひとつ白紙になった。途切れがちの説明を聞いて、私は背もたれから体を起こした。「絵里が、アメリカへ確認してる。向こうとの調整がついてなかったらしい」いつもなら、もっと大きな声で誰かのせいにしたと思う。今夜の拓真は、そこまで言うと黙った。何と言えばいいのか、分からなかった。今日の発表を、あんなに得意そうに話していた。大勢の前で、それがうまくいかなかったのだ。「そうだったんだ」ようやく答えると、電話の向こうで息を吐く音がした。「少しでいいんだ。顔を見て、話したい」机のレシートへ目が落ちた。その声に、動きかけた自分がいた。こんな時には、そばにいてほしいのだろう。今なら、私がどんな気持ちだったかも聞いてくれるかもしれない。膝に置いていた手を、机へ伸ばした。レシートの隣には、借用書の画像について書いた手帳がある。私はその表紙に触れた。「大変だったね。でも、帰らない」







