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4話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-26 17:34:37

午前6時を過ぎても、拓真は帰らなかった。

私はリビングのソファで、いつもの診察予約アプリを開いた。

東雲総合病院の婦人科には結婚前から通っている。昨夜から続く吐き気を入力して空き状況を確認すると、午前9時の予約枠が1つ残っていた。

住所と服用薬を入力し、緊急連絡先の欄で指が止まった。これまでは迷わず拓真の名前を書いていた。

昨夜、私を置いて別の女性のもとへ行った人を、緊急時に呼ぶことはできない。

緊急連絡先は空欄のままにし、勤務先欄へセンターの代表番号を入力した。鞄には、診察に必要なものだけを入れた。

予約を確定した直後、拓真からメッセージが届いた。

【朝になったら病院へ行け。妊娠していたら、仕事は辞めてもらう】

拓真は、私の体も仕事も、まるで自分のもののように決めていた。

東雲総合病院の正面ロビーは、吹き抜けの天井から朝の光が落ちていた。

午前8時50分。自動受付機の前には白い案内線が引かれ、診療科ごとに色が分かれている。私は婦人科の青い線へ進み、受付票を取った。

昨夜から水しか飲めていない。立ち上がった瞬間、床の模様が傾いた。

右側から低い声がした。

「大丈夫ですか?支えましょうか」

私はうなずいた。男性の手が右腕の下へ入り、壁際の手すりまで支えた。

濃いグレーのスーツを着た男性は、東雲慧(しののめ けい)だった。半歩離れて立ち、来院証の用件欄には【院内安全点検】とある。

東雲メディカルグループの代表。今回のLUMEN-17共同開発候補のひとりだ。

「ありがとうございます。立ちくらみです。昨夜から食べていないので、脱水もあると思います」

「診断まで自分で済ませる癖があるんですね」

責める声ではなかった。慧は近くの職員へ車椅子を頼み、私には触れず横へ置いた。

「歩けます」

「歩けることと、歩く必要があることは別です」

競合会社の代表へ弱った姿を見せたくなかった。対外的には研究管理の事務員にすぎないのに。

「東雲代表自ら、視察ですか」

慧の目がわずかに細くなった。

「私を知っているんですね」

「医薬業界では有名ですから」

「私も、あなたの論文を読んだことがあります」

心臓が強く打った。

慧は続けなかった。私の身分を確かめる質問も、LUMEN-17の話も出さず、受付票をこちらへ向けて台へ置いた。

「今日は患者として来たのでしょう。なら、その話はしません」

慧は自分の来院証を裏返した。周囲の職員が代表の顔色をうかがわないようにしたのだと、少し遅れて気づいた。

「付き添いは必要ですか。ご家族へ連絡するなら、受付からできます」

昨夜の拓真の背中が浮かんだ。

「必要ありません。診察が終わったら、自分で帰ります」

「分かりました」

理由を聞かれず、説得もされない。自分の判断をそのまま受け入れてもらえたのは、久しぶりだった。

私は車椅子へ座った。自分で座ると決められたことに、なぜか安堵した。

診察前の問診で、医師が家族歴の欄を指した。

「実のお母さまの病歴は分かりますか」

「分かりません」

医師は理由を聞かず、【実母側不明】と記した。私は血液検査と超音波検査を受け、結果を待った。

修一が私を引き取ったのは、私が7歳の時だった。

運動会の保護者席へひとりで来て、慣れない弁当を作り、焦げた卵焼きを「端はうまい」と自分で食べた。血がつながらなくても、修一は私が嫌がることを無理に家族の形へ押し込まなかった。

だから私は、拓真とも同じ家族を作れると思った。

夫婦になれば、子どもを望む時も、望まない時も、ふたりで話せる。そんな当たり前を疑わなかった。

結果を待つ40分、窓際に座った。向かいでは若い夫婦が同じ画面をのぞき込み、夫が妻の鞄を膝へ置いている。羨ましいと思った直後、自分を責めそうになった。

欲しかったのは、鞄を持たせることではない。嫌だと言った時に止まり、苦しい時に置いていかれない関係だった。

「妊娠反応は陰性です。胃が少し荒れています。睡眠不足と空腹が重なったのでしょう」

握っていた受付票が、膝の上でゆるんだ。

子どもを望んだことがないわけではない。拓真と暮らし始めた頃は、小さな靴下を干す日を想像した。

けれど昨夜の言葉のあとで妊娠していたら、私は喜べなかった。そう思う自分を責める必要も、今はなかった。

医師は胃薬を処方し、食事と睡眠を取るよう言った。診察室を出る時、「緊急連絡先は、あとからでも変更できます」とだけ付け加えた。

私は登録画面を開き、そこに拓真の名前がないことを確かめた。消したのではない。昨夜、自分で書かなかったのだ。

診察室を出ると、スマートフォンに拓真から4件のメッセージがあった。

【どこにいる】

【病院へ迎えに行く】

【妊娠していたら、センターは辞めて家で休め】

【母さんにも話す】

私の検査結果を知る前から、仕事を辞めることだけは決めていた。

私は診療明細と結果票を透明なファイルへ入れた。紙は軽いのに、拓真へ見せた瞬間、また私の人生を決める材料にされる気がした。

だから、知らせる順番も自分で選ぶことにした。

返信欄を開いたが、何も打たなかった。陰性という事実を、拓真を安心させるために先に渡したくなかった。

会計を済ませ、1階の薬局カウンターへ向かった。

エレベーターの扉が開き、美弥子が出てきた。婦人科外来の桃色のファイルを抱えている。月に一度、同じ病院で更年期の相談を受けていると以前聞いたことがあった。

美弥子の視線が、私の手にある検査票へ落ちた。紙の上部には【妊娠反応】と印字されている。

「あなた、まさか妊娠したの?」

「違います」

「隠さなくていいわ。昨日、離婚の話をしたばかりなのに、ずいぶん都合がいいこと」

美弥子は私の返事を聞かず、検査票へ手を伸ばした。私は紙を胸元へ引いた。

「私のものです。触らないでください」

「その子を盾にして拓真のそばへ残るつもりなら、諦めなさい」

廊下を通る人が振り返った。案内係の足音が近づいてくる。

美弥子が透明なファイルをつかんだ。引き戻した拍子に、数枚の紙が床へ滑り落ちた。

検査票は表を向いたが、結果欄には別の紙が重なっていた。

美弥子は結果を確かめようともせず、私を見た。

「聞こえなかったの?今すぐ中絶しなさい」

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