로그인美弥子の笑顔が止まった。
絵里はネックレスから指を離した。
私は首元の小さな飾りに触れたまま、拓真を見た。
「そのネックレス、拓真が選んだの?」
「そうだよ」
拓真は箸を置き、絵里の胸元を見た。
「仕事で世話になってるから、その礼に贈った。何か問題あるか?」
私の指は、首の小さな飾りに触れたままだった。
「何度も店へ行ったの?」
「納得できる物がなかっただけだ。店を回るくらい、誰だってするだろ」
誰だって、と拓真は言った。
けれど私は、拓真が私の贈り物を選ぶために店へ行った話を聞いたことがなかった。誕生日には欲しい物を自分で注文しておけと言われ、結婚1周年には現金の入った封筒を渡された。
その方が好きな物を選べる、と私は笑って受け取った。
「澪、仕事の礼だって言ってるだろ。妻がいちいち騒ぐようなことじゃない」
「騒いでない。聞いただけ」
「その顔でか?」
拓真は息をつくと、冷やしてあった白ワインを手に取った。
「絵里、これが好きだっただろ」
空いていたワイングラスを絵里の前へ置き、自分で淡い金色のワインを注いだ。
「覚えていてくれたんですね」
絵里はうれしそうに笑い、胸元の飾りをそっと持ち上げた。
「私が前から欲しいって言っていた形なんです。まさか拓真さんが覚えているとは思わなくて」
「何年も前から言ってたからな」
「大学の頃、店の前を通るたびに見てましたよね」
絵里は懐かしそうに笑った。拓真も口元をゆるめた。
ふたりだけが知っている店と、ふたりだけが覚えている時間だった。
「海外から帰ったお祝いもあるんです。澪さん、誤解しないでくださいね」
絵里は私にそう言うと、髪を肩の後ろへ払い、胸元の飾りを露わにした。
「絵里さんが気にすることじゃないわ」
美弥子が湯呑を置いた。
「澪さんは結婚記念日の贈り物をもらったんでしょう?ふたりとも拓真からいただいたんだから、それでいいじゃない」
私の前には、蓋を開けたままの小箱があった。
私は首の後ろへ手を回し、留め具を探した。すぐには外れず、指先が鎖を何度も滑った。
「何してるんだよ」
「とりあえず箱に戻そうと思って」
留め具が外れた。手のひらへ落ちたネックレスを小箱へ戻し、蓋を閉じた。
小箱を手提げ袋へ戻そうとしたとき、袋の底に白い台紙が残っているのが見えた。
何気なく取り出して、表を返した。
【対象ネックレスご購入特典 ミニネックレスプレゼント】
中央に印刷された文字を、私はもう一度読んだ。
対象商品。
「これ、どういうもの?」
カードをテーブルへ置いた。
拓真は見ようとしなかった。
「知らない。店が入れたんだろ」
「でも、あなたが私にくれた手提げ袋に入っていた」
「物は入ってたんだから、それでいいだろ」
私がそのカードを押し出すと、絵里が先に手を伸ばした。
「あ、それ」
絵里はカードを持ち上げ、裏まで見た。
「私が使わないと言って、拓真さんへ渡した特典です。それを澪さんに回したんですね」
声に迷いはなかった。
絵里は自分の胸元と、小箱を見比べた。
「でも、ちょうどよかったじゃないですか。澪さんにも似合っていますし」
ちょうどよかった。
コートも、隣の席も、白ワインも、「お客様だから」と言われれば飲み込めた。
けれど、白いカードの文字と絵里の言葉は、私の思い込みではなかった。
いつものように黙るのを、やめた。
美弥子はカードを絵里から受け取り、小箱の横へ置いた。
「何もないよりいいでしょう。ちゃんとしたお店の物なんだから」
「お義母さん、私は値段の話をしていません」
「なら、何が不満なの?」
「このネックレスを、結婚記念日の私のために選んだのか、聞きたいだけです」
私は拓真を見た。
拓真は私の視線を避け、刺身を箸でつまんで口へ入れた。噛み終えるまで答えなかった。
私は小箱と白いカードを前に置いたまま、返事を待った。
「澪さん、せっかくの食事が台なしよ」
美弥子が私の椀へ目をやった。
「もらった物に文句を言うなんて、お行儀が悪いわ。拓真が澪さんにも渡そうと思った、その気持ちを受け取ればいいでしょう」
私は美弥子ではなく、拓真へ顔を向けた。
「まあ。今日の澪さん、どうしたの?仕事で嫌なことでもあった?」
私は答えず、拓真を見続けた。
拓真はようやく箸を置いた。
「絵里が使わないって言ったから、お前に回したんだ」
「私に選んだ物じゃないのね」
「だから何だよ。捨てるよりましだろ」
小箱の蓋は閉じたままだった。白いカードは、その横で【対象ネックレスご購入特典】の文字をこちらへ向けていた。
拓真の皿には、まだ私が買った鯛が残っていた。絵里の皿は空で、拓真が取り分けた鯛もきれいになくなっていた。
「澪さん、私がいただきましょうか?」
絵里が小箱へ指を伸ばした。
「そんなに気に入らないなら、置いておくのももったいないですし」
私は箱に手を置いた。
「まだ拓真と話しているの」
絵里の指が止まった。
一瞬だけ、笑顔が消えた。
けれど美弥子がすぐに絵里をかばうように言った。
「絵里さんは気を遣ってくれただけよ。そんな言い方をしなくてもいいでしょう」
「そうだ。絵里に当たるな」
拓真の声が強くなった。
「当たってない」
「どう見ても嫉妬してるだろ。俺が絵里に贈り物をしたのが、そんなに気に入らないのか?」
「絵里さんへの贈り物を責めているんじゃない。絵里さんが要らない物を、結婚記念日の私へ回したことを話しているの」
「同じことだろ」
「違う」
私が言うと、拓真は椅子の背へもたれた。
「面倒くさいな。せっかく絵里が帰ってきて、母さんも喜んでるのに、お前ひとりが空気を悪くしてるんだぞ」
美弥子はうなずき、絵里は困ったように目を伏せた。胸元のネックレスだけが、まだ灯りを返していた。
「高い物が欲しいわけじゃない」
私は小箱から手を離さなかった。
拓真は答えなかった。
「澪さん、私のせいで言い争わないでください。そんなつもりで受け取ったわけじゃないんです」
「絵里さんに返してとは言っていないわ」
「でも、私が受け取ったせいで、拓真さんまで責められるのはつらいです」
そう言いながら、絵里はネックレスを外さなかった。
「仕事で必要な相手を大切にするのは当然だろ。妻なら、俺の仕事がうまくいくように支えるものじゃないのか?贈り物ひとつで絵里との関係を悪くされたら困るんだよ」
美弥子も身を乗り出した。
「絵里さんは仕事の場で拓真を助けてくれるのよ。妻なら、仕事の邪魔をせずに支えなさい」
私は、小箱の横に置いた白いカードへ目を落とした。
コートを預かったのも、白ワインを注いだのも、絵里さんが客だから。そう言われるたび、私は黙ってきた。
けれど、このカードだけは違った。私のために選ばれた物ではないことを、店の文字が示していた。
私は拓真を見た。
「私には、絵里さんがいらないと言った物でいいと思ったの?」
拓真は空になった絵里の小皿を見て、残っていた鯛をひと切れ取り、絵里の前へ置いた。それからようやく私を見た。
「お前には、それで十分だ」
【一緒に開発を進めたとは言えない。私の名前は使わないで】翌朝、届いた返事を読んで、絵里はベッドの上で身を起こした。昨夜送った文章が、そのすぐ上に残っている。拓真に聞かれた時だけ、話を合わせてほしい。そう頼んだだけなのに。カーテンの隙間から、枕元へ細く光が差していた。絵里は携帯を膝へ下ろし、もう一度持ち上げた。【細かい説明は私がするから。少しだけ助けてくれない?】返事を待つ間、開発という言葉を使わなければよかったと思った。相談に乗っていた、と頼めば、ここまで強く断られなかったかもしれない。やがて画面に、新しい文章が現れた。【購入窓口を紹介しただけです。それ以上のことは知りません】絵里は唇をかんだ。その紹介を受けてデモを買ったことは、間違っていない。けれど、これだけを拓真に言われたら、自分が話してきた追加開発をどう説明すればいい。ここで連絡先を渡さなければ、拓真はまた催促するだろう。ようやく話せることになったと伝えた方が、きっと喜ぶ。紹介の先は自分で進めた、と横から説明すればいい。【私も一緒にいるから、拓真さんと話してもらえる?】少し待って、返事が来た。【私がしたことについてなら、説明します】絵里は相手の都合を聞き、日本の夜に通話する約束をした。最後に送った【ありがとう】には、返事がなかった。……夜、リビングへ入ると、拓真はソファで携帯を見ていた。絵里に気づくと、隣に置いていたクッションを脇へ寄せる。「ここに座れ。もう時間か?」「うん。話せるって」厚いカーテンは閉まり、卓の照明がふたりの間を照らしていた。絵里は拓真の隣へ座った。朝から何度も考えた説明を、頭の中でもう一度なぞる。「客には、俺から話してきた」拓真が携帯を伏せた。「今のデモでは、預かった資料は使えない。そう説明した」「……ごめんなさい。私のために、そんなことまで」「俺の会社の発表会だ。お前ひとりに説明させられるか」肩へ置かれた手が温かかった。客の前で失敗したあとも、こうして隣を空けてくれる。朝の冷たい返事を思い出すと、ここに座っていられることが、余計にありがたく感じられた。絵里はその手に、自分の手を重ねた。「私、ちゃんと話をつけるから。あの人との話も、任せてくれない?」「お前だけで抱えなくていい。俺も聞く」拓真は肩から手を下ろし、
拓真の顔を見たまま、鞄の持ち手を握った。さっきは、もう少し話していたいと思った。私をのぞき込んでくれた時、もっと話を聞いてもらえる気がした。けれど、薬指を隠すように手を引くことはしなかった。「つけ直すつもりはないの」机の向こうで、拓真の口が少し開いた。そのまま何も言わず、私を見ていた。指輪は、短期賃貸の机の引き出しにある。今日は持ってきてもいない。何か言ってくれるのを待って、私もすぐには立てなかった。あの優しい顔が戻れば、きっとまた、うれしくなる。膝に鞄を引き上げた。中には、13日に返すと書かれた控えが入っている。椅子を引く音が、相談室に響いた。美弥子はバッグへ手を重ねたまま座っていた。私は隣の弁護士へ頭を下げてから、拓真を見た。「失礼します」声が少しかすれた。言い直さず、鞄を持って扉へ向かった。廊下へ出て扉を閉めた。その前で少し足を止め、鞄を持ち直して歩き出した。4月13日、月曜日。仕事を終えた私は、駅前の建物の脇へ寄り、携帯を取り出した。人の流れを外れてから、自分の口座を開く。このあとは、不動産店へ行く。勤務後に内見できる時間を、数日前から予約していた。その前に、確かめたかった。入出金明細を開くと、今日の日付の行があった。振込人は拓真。入金額は、1,200万円。指先で画面を止め、桁を確かめた。全部、入っている。 
全額返す。私は病院の壁際で、その言葉を読み直した。父のために残すお金と、自分が暮らすためのお金。通帳の残高を見ながら、どちらも減っていくことを考えずに済む日が来るかもしれない。返信欄を開いた。会いたいと言われたことより、先に確かめたいことがあった。【いつ返してもらえますか】少し待つと、返信が届いた。【13日の月曜に、1,200万円全部振り込む】私は日付を確かめ、そのやり取りを弁護士へ転送した。週が明けてから相談し、調停の申立てを済ませた。拓真との面会は、私が頼んで弁護士の事務所にしてもらった。母も返済のことで話したいと言っている、と拓真から聞いた時には、携帯を置いたまま、しばらく返事ができなかった。それでも、家へ戻って話すわけではない。弁護士に同席してもらえることを確かめ、返済の話をするのなら、と了承した。……金曜日。相談室へ入ると、美弥子が先に座っていた。卓上に置いたバッグの持ち手へ両手を重ね、私を見ている。拓真は隣の椅子から顔を上げた。「澪。こっちに――」私は卓を挟んだ向かいの椅子を引いた。隣には弁護士が座る。拓真は口を閉じ、背広の前を直した。壁際の時計の秒針が動いていた。
拓真は、澪からの返信を読み直した。調停で進めるよう、正式に頼んだ。「まだ、話が終わってないだろ」相良邸の食卓で、すぐに電話をかけた。呼出音が続き、やがて切れた。昨夜は、ひとりで店へ行ったと言った。今朝は、自分の返事を待たずに離婚を進めている。携帯を卓へ置きかけ、また手に取った。配達の注文画面を開く。今日も、何を食べるか自分で決めなければならない。料理の写真を次々に見ても、食べたいものが見つからなかった。澪がいた頃は、席に着けば食べられた。「拓真さん」絵里が入口に立っていた。「少しは食べられそうか?」「まだ、気持ちが悪くて……」拓真は隣の椅子を引いた。「無理するな。飲めそうなものは?」「お水を」冷蔵庫から水を出し、グラスへ注ぐ。絵里へ渡した時、携帯が鳴った。担当社員だった。「購入先から返事が来ました。メールを転送しましたので、ご確認ください」「直せるのか?」「設定の問題ではありません。購入したデモには、客先の資料を取り込んで処理する機能がないそうです」拓真の手が止まった。「待て。調整すれば使えるんじゃないのか」「設
絵里がスマートフォンを差し出した。「購入した時の書類です」相良邸の居間で、拓真はそれを受け取った。画面には、英文の契約書が開かれていた。ようやく、客に説明できるものが出てきた。米国側の対応が遅れていたのなら、向こうにも責任を取らせればいい。拓真は携帯の画面に目を落とし、利用目的の欄で指を止めた。営業用デモ。顔を上げると、絵里は卓の向こうに立ったままだった。「これは、今日見せたものの契約か?」「はい。最初に導入した時のものです」「客の資料でも動かせるというのは、どこに書いてある」絵里の手が、携帯へ伸びた。「製品として使うための調整は、別なんです。その書類だけでは全部は――」拓真が画面を自分へ向け直すと、伸びてきた手が止まった。準備した実演が動いたことは、拓真も見ている。だが、客の資料を使っても同じようにできると約束したのは、自分だった。「別なら、その取り決めは?」「向こうに確認しています。今、先方との関係を悪くしたら、直せるものも直してもらえなくなります」「俺は、今日できるのかと聞いてるんじゃない。できると言った根拠を出せと言ってるんだ」少し声が大きくなった。絵里が口を閉じ、卓の縁を見た。会場で社員に確かめられた時、自分も同じように声を強めた。準備したもの
帰ってこい、ではなかった。発表会に来なかったことを責められると思っていた私は、返事に詰まった。掛けたばかりの紺色のワンピースへ目をやり、机の前の椅子へ座った。さっき財布から出した店のレシートが、手元にあった。「何かあったの?」「実演が、うまくいかなかった」取引先から渡された資料を使うと、用意した時と同じ結果しか出なかった。試験導入の話も、ひとつ白紙になった。途切れがちの説明を聞いて、私は背もたれから体を起こした。「絵里が、アメリカへ確認してる。向こうとの調整がついてなかったらしい」いつもなら、もっと大きな声で誰かのせいにしたと思う。今夜の拓真は、そこまで言うと黙った。何と言えばいいのか、分からなかった。今日の発表を、あんなに得意そうに話していた。大勢の前で、それがうまくいかなかったのだ。「そうだったんだ」ようやく答えると、電話の向こうで息を吐く音がした。「少しでいいんだ。顔を見て、話したい」机のレシートへ目が落ちた。その声に、動きかけた自分がいた。こんな時には、そばにいてほしいのだろう。今なら、私がどんな気持ちだったかも聞いてくれるかもしれない。膝に置いていた手を、机へ伸ばした。レシートの隣には、借用書の画像について書いた手帳がある。私はその表紙に触れた。「大変だったね。でも、帰らない」