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父を助けてと頼んだ日、夫は初恋の女に3,600万円を贈った
父を助けてと頼んだ日、夫は初恋の女に3,600万円を贈った
Author: Amy

1話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-26 17:08:38

夫が初恋の女へ3,600万円を送った明細は、結婚3周年の記念写真に着るワンピースを買って帰った日だった。

午後2時すぎ、私は玄関で靴を脱ぎ、正面のダイニングへ上がった。レースのカーテン越しの光が白い床へ広がっている。紺色の衣装袋を椅子へ掛けた。

結婚3周年まで、あと1か月。私は半日だけ休みを取り、写真撮影に着る服を選んできた。

34歳の夫、相良拓真(さがら たくま)には内緒だった。彼の驚く顔が見たかった。

店では、拓真の好みに合わせ、胸元に飾りのない服を選んだ。

結婚記念日の当日は、この服でふたりの写真を撮り、彼の会社が初めて融資を受けた日に祝った洋食店へ行くつもりだった。

スマートフォンの予定表には、1か月後の欄に【結婚3周年記念撮影】と入力してある。

夫に合わせることを、不自由だと思ったことはなかった。

ダイニングを抜け、廊下の奥の寝室へ入った。クローゼットから拓真の濃紺のスーツを取り出す。写真スタジオへ行く前に、クリーニングへ出しておこうと思ったのだ。

上着を持ち上げた拍子に、内ポケットから二つ折りの紙が落ちた。

拾い上げると、銀行の振込明細だった。

上に並ぶ数字が目に入った。

【振込金額 36,000,000円】

【お受取人 カシワギ エリ】

【ご依頼人 サガラ タクマ】

日付は3年前の5月2日だった。

指先が紙の端で止まった。柏木絵里(かしわぎ えり)は、私の1学年下で、大学の時から拓真が何かと世話を焼いていた後輩だ。卒業後は海外へ行ったと聞いていた。

5月2日を、私は忘れたことがない。

養父の一ノ瀬修一(いちのせ しゅういち)は、病院の個室で酸素の管をつけていた。

海外治験への渡航費と滞在保証金が90万円足りず、その日の正午までに振り込まなければ、参加枠は別の患者へ回されることになっていた。

私は拓真に、人生で初めて頭を下げた。

「90万円だけ貸して。必ず返すから」

拓真は起業したばかりの会社の通帳を見せ、私の手へ9万円を置いた。

「悪い。今、自由にできる金はこれで全部だ」

私は疑わなかった。結婚前に彼の会社へ1,200万円を貸し、拓真が眠らず働く姿も見ていた。足りない81万円を集められない自分を責めた。

その月の終わり、修一の容体が急変した。私は病室の小机で、病院から渡された書類に名前を書いていた。手にしていたのは、18歳で大学に合格した時、修一が買ってくれた青い万年筆だった。

書き終えて万年筆を置くと、修一の指がわずかに動いた。声は出なかった。彼は青い軸を指し、それから私を見た。その日の夜、修一は亡くなった。

葬儀の夜、拓真は私の肩を抱き、「間に合わせられなくて悪かった」と言った。私は、彼も9万円しか出せなかったことを悔やんでいるのだと信じた。

けれど、できなかったのではない。

修一を海外治験へ参加させるため90万円を頼んだ日、拓真には3,600万円があった。

そのお金を、私ではなく、絵里へ渡していたのだ。

父を助けられなかった痛みに、その事実が3年遅れて刺さった。拓真の言葉に救われた自分まで、騙されたように思えた。

書斎から、拓真の声がした。

スピーカーにしているらしく、扉の向こうから相手の笑い声まで聞こえた。

「絵里が帰国したからって、今さら何も変わらないよ」

電話の相手が笑った。

「本当か?大学の頃、あれだけ柏木さんを追いかけてただろ。奥さんとはどうするんだ」

私は明細を持ったまま、書斎の扉から見えない壁へ背を寄せた。

拓真が椅子を回す音がした。

「絵里は海外へ行っただろ。あの時、そばにいたのが澪だった。起業するときに1,200万円も借りたし、あれだけ世話になって別れるわけにもいかなかった。だから結婚しただけだ。最初から好きだったわけじゃない」

私は、絵里がいない間の代わりだった。

「じゃあ、離婚して柏木さんとやり直すのか」

「今すぐはしない。澪は家のことを全部やるし、俺を疑わない。傷つける必要もないだろ」

優しくしてきたのではない。疑わないように扱ってきただけだった。

私はスマートフォンで明細を撮り、折り目に沿ってたたみ直した。寝室へ戻ってスーツの内ポケットへ戻し、ダイニングの椅子から衣装袋を取って玄関へ向かった。

玄関を閉める直前、拓真の笑い声がまた聞こえた。

3年間、私はあの声を、安心の音だと思っていた。

……

蒼嶺創薬センターは、川沿いに立つ地上8階の白い建物だ。表玄関には企業名も研究薬の名前も出ていない。

私は一般職員用の入口から入った。職員証には、一ノ瀬澪(いちのせ みお)という名と研究管理事務の肩書きしかない。

職員用エレベーターに乗り、操作盤の脇へ職員証をかざした。表示にない地下2階のボタンが点灯した。

地下2階で扉が開くと、空調の低い音と消毒薬の匂いがした。ガラス越しの実験室では、LUMEN-17の試験を担当する研究員、森川紗良(もりかわ さら)が、黄色い付箋を貼った記録ファイルを掲げていた。

「一ノ瀬さん、午後の判定記録がそろいました」

私は白衣へ着替え、バッグの青い万年筆を胸ポケットへ移した。試料を確かめる。紗良が差し出した記録の最後には、責任者だけが署名できる空欄がある。

数値と試料番号を照らし合わせ、青い万年筆で名前を書いた。

「本日の工程は予定どおり進めます。気になる数値は明朝もう一度確認して」

「分かりました」

機密のため、拓真は私が工程を決め、責任者欄へ署名していることを知らない。彼は「事務の仕事」以上を尋ねず、私はそれを信頼だと思っていた。

青い万年筆を胸ポケットへ戻すと、修一の病室がよみがえった。

午後9時、同じエレベーターで1階へ戻り、職員用玄関を出ると、車寄せに拓真が立っていた。濃紺のスーツ姿で、手には薄い書類封筒がある。

「やっと来た。昼から連絡がないから心配した」

「仕事だったの」

「事務の残業が9時まで?」

拓真は眉を上げたが、すぐ笑顔へ戻った。

「まあいい。記念日の前祝いだ。君に車を用意した」

拓真が指した先には、私が6年乗っている灰色の小型車があった。名義は会社のままだが、普段使う鍵は私のバッグに入っている。

「用意したって、これまで私が乗っていた車でしょう」

拓真は封筒から名義変更書類と会社保管のスペアキーを出し、私の掌へ置いた。

「会社から君へ譲る。維持費は自分で払ってくれ。君の給料でも困らないだろ」

贈り物ではなかった。会社が手放す物を、私に引き取らせるだけだ。

「俺も会社の都合で新しい車に替えた」

拓真はスマートフォンを開き、黒い輸入車の納車写真を見せた。白いナンバープレートが写っている。

【37-01】

私が返事をしないうちに、車寄せの出口側に停まっていた白い輸入車が動き出した。拓真の写真と同じ車種だった。

運転席の女性がこちらを見た。肩までの髪、白いペンダント。絵里だった。

車が目の前を曲がり、後ろの番号が見えた。

【37-02】

偶然だと思うには、数字が近すぎた。

拓真は絵里の車が見えなくなるまで、私ではなく道路を見ていた。

「会社の都合」

私は、拓真が新車を説明した言葉を小さく繰り返した。

私に渡されたのは、会社が6年使った車だった。絵里が乗っていたのは、拓真と同じ車種で、ナンバーも1番違いの新車だった。

拓真が「会社の都合」で守る相手は、いつも絵里だった。妻の私は、最初からそこに入っていなかった。

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