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Author: 酔夫人
last update publish date: 2026-04-23 16:35:55

岡本蒼太の浮気相手の女性は、彼の会社の上司だった。役職も年齢も岡本蒼太より上で、仕事の延長線上にある関係だと説明されれば、表向きは納得できなくもない。

実際、美咲も最初はそう思おうとした。

岡本蒼太が「ただの業務連絡だよ」と軽く笑って言ったとき、その言葉を完全に信じたわけではないにせよ、否定する決定的な証拠もなかったからだ。

(ただの業務連絡だと言っていたけれど、あれをただの業務連絡だと信じるほど私は馬鹿じゃないわ)

胸の奥で燻る違和感は、時間が経つにつれて形を持ち始めていた。

確かに業務連絡もあったのだろう。納期や会議、資料の確認。そういったやり取りは実在していた。

だが、それだけでは説明のつかないやり取りが、確かに混じっていた。

【いま何をしているの?】から始まるメッセージ。業務とは無関係な、相手の時間や私生活に踏み込むような言葉。その一文が画面に表示されるたびに、美咲の中で何かが静かに軋んだ。

岡本蒼太は、そのやり取りを隠そうとはしなかった。

隠す必要がないと、本気で思っているかのように。美咲と並んでソファに座っているときでも、スマートフォンが鳴れば、その場で画面を開き、ためらいもなく返信する。画面を伏せることも、席を外すこともない。むしろ、見せつけているのではないかと思えるほど自然な動作だった。

(堂々と浮気してくれちゃって……思い出したらイライラしてきたわ)

胸の奥に沈んでいた苛立ちが、時間差で浮かび上がる。

美咲はそれを押し込めるように、ゆっくりと息を吸い込み、吐き出した。冷静でいようとするほど、かえって感情の輪郭がはっきりする。

岡本蒼太は、美咲を裏切った男だ。

その事実だけは、どれだけ時間が経っても揺らがない。

彼に彼女とホテルに入ったのかと問い詰めたときも、岡本蒼太は一切の躊躇なく「そうだ」と認めた。その潔さは誠実さとは程遠く、ただの無神経さだった。

言い訳も取り繕いもなく、事実だけを差し出されることが、こんなにも人を傷つけるのかと、そのとき初めて知った。

信じられない思いと、裏切られた怒りが一気に込み上げた。言葉では足りないと感じた感情は、衝動的に身体へと変換され、美咲は拳を握りしめ、岡本蒼太を殴った。

乾いた音が、室内に響いた。

定期的にトレーニングしていると言っていた彼の体は、予想通り、びくともしなかった。手応えは薄く、こちらの拳のほうが痛いくらいだった。

それでも、殴られた瞬間に浮かんだ岡本蒼太の驚きの表情を見たとき、美咲の中に溜まっていた何かが、わずかに下がった気がした。

完全な解消ではない。だが、少なくとも「何もできなかった」という後悔だけは残らなかった。

それが、二人の関係の終わりだった。

謝罪もなければ、引き留めもない。静かで、あっけない終幕。だからこそ、美咲にとって岡本蒼太は「終わった存在」だった。過去に分類され、日常から切り離された人物。

(死んだって、私には関係ない)

そう言い切ることで、自分の中の整理はついているはずだった。けれど、その言葉を心の中で反芻した瞬間、どこか空洞のような感覚が残る。完全に無関係だと言い切るには、彼の存在は一度、自分の生活に深く入り込みすぎていた。

あのソファの距離感、何気ない会話、スマートフォンの通知音、そのすべてが、いまはもう存在しないはずの時間として、美咲の中に沈殿している。

「関係ない」と切り捨てるには、記憶はあまりにも具体的で、感情はあまりにも未整理だった。苛立ちと軽蔑の奥に、名前をつけ損ねた感情がわずかに残っていることに、美咲自身が気づき始めていた。

それでも彼女は、その感情に触れないようにする。触れた瞬間に、何が崩れるのか分からないからだ。

だからこそ、美咲はあえて単純な言葉を選ぶ。「関係ない」と。そう言い続けることでしか、いまの自分の均衡を保てないことを、本能的に理解していた。

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