「んふふっふ~、んふふ♪ んふふっふ~、んふふ♪」
『30分クッキング』放送前の地下調理場にはたいてい、エルドリスの鼻歌が響いている。彼女は僕と共に調理器具や魔物以外の食材の準備をしながら、僕など目に入っていないかのように一人の世界の中で歌い続ける。
そんな彼女の世界を脅かす来客があった。
廊下から調理場へと続く鉄製の扉がギィィと開く。
「やあ、エリィ。調子はどうかな」
現れたのは、黒衣を羽織った長身の男だった。透けるような金髪に赤褐色の目、勝気な眉。がっしりとした首から続く肩幅は広く、服の上からでも窺《うかが》える鍛え上げられた体躯が、少なくとも彼が事務職の文官ではないことを物語っている。
エルドリスの鼻歌が止み、彼女は振り返る。
「ネイヴァン・ルーガス。何しに来た」
「フフ……演者と少し交流しようと思ってね」
低くゆったりと響く声。
彼女の呼んだ名を聞いてピンときた。ネイヴァン・ルーガスは、この『30分クッキング』の脚本家兼演出家だ。刑務所の役人ではなく民間人で、普段は調理場に顔を出さないため、その姿は初めて見た。
「もうじき生放送が始まる。目障りだから出ていけ」
「ご挨拶だなあ……ああ、そうそう。目障りといえば俺も、昨日の放送でとんでもない蛇足を見つけちまってねえ」
ネイヴァンの目がギロリと一瞬僕を見て、またエルドリスに戻る。
「あんな馬のゲロの腐ったヤツみたいな実食シーン、俺が書いたとは思われたくないな。ボケた婆さんだってもう少しマシな台詞を吐くぜ」
「演出家だろう? 役者の伸びしろに期待しろよ」
「ふぅん、伸びしろねぇ……」
頭の先からつま先まで値踏みするような露骨な視線
エルドリスは昨日あのあと、ネイヴァンとどんな話をしたのだろう。 いつものように『30分クッキング』の準備を進めながら、僕はその疑問を頭の片隅で転がしていた。今日、顔を合わせたときに、それとなく聞いてみたのだが、彼女は『大した話じゃない』と言うだけだった。 特上の食材。それは一体何なのか。『30分クッキング』の趣旨からして、魔物であることは間違いなさそうだ。とすると、相当レアな魔物なのだろうか。 もうひとつ気になるのは、ネイヴァンが言った『お前の望みのモノかもな』という言葉の意味。エルドリスはネイヴァンに、どのような望みを伝えたのか。『かもな』という表現。以前にエルドリスが僕にフィンブリオの涙を求めたように、何か欲しいものを伝えたのだとしたら、それが用意できたか否かはAll or Nothing《オールオアナッシング》。『かもな』という不確実性を匂わす言い方はしないはず。 考えれば考えるほど、落ち着かない。 そうこうしているうちにいつの間にか、生放送の時間は迫っていた。◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 オープニングの挨拶をしながら、カメラのレンズを意識する。視聴者――嗜虐心を持て余した金持ちたちの目がこちらを見ている。 エルドリスは相変わらずの無表情。準備段階の方が、鼻歌まで歌って機嫌が良さそうなのが不思議だ。もしかすると、カメラの前では多少キャラを作っているのかもしれない。「本日より、特別企画――一体の魔物の全身を使った“フルコース”をお届けします」 台本通りの台詞。だがそれも、ここまでだった。昨日、夜になって上官から渡された僕の台本には、ここから先の展開はアドリブでと書かれていた。
ヴァルドルは、昨日と変わらず檻の中にいた。 四肢を拘束され、膝を抱えるように座らされている。表情はない。昨日、血液を搾られた際には呻き声を上げたが、今はただじっと虚空を見つめていた。 僕は準備をしながら、魔物の様子を盗み見ていた。昨日、エルドリスが回復魔法をかけたおかげで、傷は完全に塞がっている。それでも、昨日からずっとこのままの姿勢で拘束されているのかと思うと、胃の奥がずしりと重くなる。 少なくとも、水と何かしらの食事は与えられた形跡がある。檻の隅には、空の水皿と、食べ残しらしき肉の端切れが転がっていた。だがそれが、人道的な配慮からなのか、それともただの“食材の管理”なのかは、僕には判断がつかなかった。「助手君」 不意にエルドリスの声が背後から響き、僕は我に返った。彼女はいつものように淡々とした表情で、調理台に用意された器具を点検していた。「生放送の時間だ。準備はできているか」「……はい」 今日もまた、凄惨な30分間が始まる。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 いつも通り、カメラに向かって挨拶をする。「本日は、フルコースの第二弾。アミューズ・ブーシュとオードブルを作ります」 エルドリスが檻の前に立つ。ヴァルドルは相変わらず無表情だ。しかし、彼の鱗状の皮膚の一部が、微かに震えているのが見えた。「まずは、皮を剥ぐ」 言いながら、エルドリスは鋭利な皮剥ぎ包丁を手に取る。その刃先は薄く研ぎ澄まされており、光を反射して輝いていた。「ヴァルドルの皮は、鱗の間に脂肪層を含んでおり、強い旨
ヴァルドルは昨日までと同じく、狭い檻の中で膝を抱えて座っている。 別に気にかける必要もないのだが、どうにも気になってしまって、僕は準備をしながら、さりげなく檻の近くを通り、魔物の様子を伺った。すると、かすかな声が聞こえた。「……ま、こ……ぐ……で……」 魔物の言葉はわからない。助けを求めているのか、神に祈りでも捧げているのか。 いや、意味のある言葉なはずがない。この魔物にそんな知能はないだろう。 ……本当に?「助手君、そろそろ時間だ」 考えを巡らせているうちに、エルドリスの声が響いた。 僕はヴァルドルを一瞥し、調理台へと戻る。 生放送の時間が迫っている。今日もまた、お届けしなければ。 "極上のエンターテインメント"を。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 カメラに向かって、いつもの挨拶をする。「本日は、フルコースの第三弾。ヴァルドルの肝臓を使ったポタージュを作ります」「ヴァルドルの肝臓は、鉄分と脂肪が豊富で、クリーミーな味わいが特徴だ。燻製にすることで、濃厚な旨味が際立つ」 エルドリスは説明しながら、檻の扉を開いた。僕は彼女に言われる前にヴァルドルの鎖を引き、昨日と同じように蹲《うずくま》った態勢にさせる。 彼女の靴底が魔物の横っ腹を蹴りやり、まるで猫でも転がすかのように、全長四メートルの魔物の体を仰向けにした。「では、開いていく」
刑務官事務所の片隅で、僕は魔導通信機の受話器を握っていた。「ネイヴァンさん、エルドリスから伝言を預かっています」 受話器の向こうから、退屈そうな声が返ってくる。「おいおい、エリィの声が聞きたかったのに、きみかあ。……で?」「『パーティ次第だ』と」 一瞬、沈黙があった。 次に聞こえたのは、ククッという笑い声。「へえ、そいつは面白い」「そうなんですか? 僕には何が何だか」「エリィに伝えてくれ。『衣装を用意する』ってな」 また伝言ですか、という文句は飲み込み、「わかりました」と返す。 僕にはもうひとつ、この男に確認したいことがあった。その答えを得るためにも、相手の機嫌を損ねるのは得策ではない。「ネイヴァンさん、教えてください。あなたが用意したA級魔物ヴァルドル。あれは、魔物なんですよね?」「ふうーん?」 何故そんなことを聞く、とでも言いたげな声が上がる。それもそのはず。『30分クッキング』は魔物を調理する番組であり、食材として用意される肉はすべて魔物だ。 だがそのうえで、ネイヴァンは僕の真意を察したらしい。彼はきちんと、僕と同じ世界観の答えを返してきた。「まあ、エリィの答えを聞く限り、あの魔物は確かに魔物だったんだろうよ」◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 今日も生放送が始まる。「本日はヴィアンド(肉料理)として、ヴァルドルの腕肉――」「舌と腕肉の二種のステーキを作る」
出勤するやいなや、魔導通信機の受話器を持った上官に手招きされた。「お前にだ。ネイヴァン・ルーガス氏から」 昨日のメニュー変更の件かもしれない。 受話器を受け取って「もしもし」と応答すると、早速不機嫌そうな声が耳に飛び込んできた。「きみさあ、困るんだよねえ。エリィをちゃんとコントロールしてくれないとぉ」「すみません。昨日のメニューのことですよね?」「それ以外に、なぁにがあるんだよ」「すみません」「まあきみ程度のひよっこにエリィは乗りこなせんだろうなぁ。初めっから期待しちゃいないが」「あの」「なぁんだよ。弁明でもするかぁ?」 ついでだから言ってしまおう。「エルドリスからまた伝言があります。『三日は待たない』と」「わぁかった、わかった、『明日だ』って言っておけ」「明日って、何がです?」「ああ? 俺は忙しいんだ。エリィに聞けよ」 通信が切れた。正確には、一方的に切られた。 ため息を吐く僕を、上官が見ないふりしていることにも僕は気づいていた。 ◆「皆さま、こんにちは。『30分クッキング』です」 笑顔の能面にも慣れてきた。「本日は、フルコースの締めくくりとして、デセールとカフェ・エ・プティフールを作ります」 僕がそう告げる後ろの調理台で、魔物の深い呼吸音が響いていた。 そうだ。今日はいつもと違う。ヴァルドルは生放送の前から調理台の上に上半身をうつ伏せる形で、首と右腕を固定されている。 その光景をバックに僕とエルドリスは並んでオープニングを撮っていた。
「おいおいエリィ、もう少しそっちへ寄らせてくれよ」「うるさい。肘から先を失いたくなければ気をつけの姿勢で黙っていろ」「酷いぜまったく。なあ、新人監督官殿?」「ううっ、苦しい……」 ぎゅうぎゅう詰めの檻の中で、エルドリスはできる限りネイヴァンから距離を取ろうとしていた。しかし、狭い空間では限界がある。逆にネイヴァンはこれ幸いとばかりにエルドリスに密着しようとし、そのたびに肘打ちや足蹴りを食らっていた。その流れ弾が僕にも当たる。 通常、この転送用の檻は、死刑囚一人を島へ送るためのものだ。ゆえに狭い。極端に狭い。なのに今、この中には僕、エルドリス、ネイヴァンの三人が詰め込まれている。身動きはほとんど取れない。僕はエルドリスの肩に頭を押し付けられ、ネイヴァンの膝に挟まれたまま、完全に潰されそうになっていた。三人の中で一番背が低い僕にとって、この圧迫は地獄そのものだ。「うっ……死んじゃう……」「ネイヴァン・ルーガス。私に膝を当てるな、気色悪い。脚まで切り落とされたいか」「エェェリィィ……俺は今、最高に傷ついてるぜぇ?」 こんな状態で、本当に転移できるのだろうか。「準備はいいか」 檻の前に立った上官の声が響く。いいわけがない。「転送開始!」 合図とともに、檻の周囲に魔法陣が展開し、光が視界を満たした。 次の瞬間、僕たちは檻ごと別の場所へと投げ出された。 転移の衝撃で、体がぐちゃっと潰されそうになる。視界がぐるぐる回り、気づけば僕は檻から転がり出て、黒い砂の広がる砂浜に転がっていた。「うっ……」
「血統?」 とエルドリスが問うた。ネイヴァンが片頬を引き上げて笑う。「まあ、エリィは知らないか。知ってるのは帝国の中でも一部の貴族や軍のお偉方くらい。あとは、長生きな爺さん婆さんとかな」「もったいぶらずに端的に言え」「はいはい、わかったよ。ネイファ家っていったら、良い意味でも悪い意味でも一目置かれている一族だ。先祖が魔物と交わったっていう」 ネイヴァンは片手の指で輪を作り、そこにもう片方の手の指を差し入れる。「……くだらん」 エルドリスは呆れ顔でひと言発すると、ネイヴァンから顔を背け、黒い砂浜のあちこちにバラバラと転送されてきた調理器具や荷物の整理を始めた。「ネイヴァンさん。やめてください、その話」 僕は意を決して言う。「なんでだよ。俺はいい意味で一目置いてる側だぜ? なにせネイファ家には数十年に一度、隔世遺伝か何かで変わった能力を持つ子どもが生まれるんだろ?」「……僕は違います」「いいや、きみがそうだと聞いてるぜ?」「誰から」「そりゃあ企業秘密だ。バラしたら俺の信用に関わる。で、実際のところ、きみの"もうひとつの胃"ってのはどんなもんなんだ?」 そんなところまで知っているのか。 僕は首を左右に振った。「知りません。デマでしょう、そんな話」 それ以上この話を続けたくなくて、ネイヴァンから離れる。そしてエルドリス同様、黒い砂浜の上に散らばった調理器具やらなんやらを拾っていく。 だがネイヴァンはしつこく僕についてくる。「いいじゃあないか、教えろよ。きみの能力がわかれば、『30分クッキング』の演
「そうだ、忘れていた」 ネイヴァンが急に立ち上がり、木箱の中を探り始めた。エルドリスと僕が訝しげに見つめていると、彼は満面の笑みで振り返る。「衣装に着替えようじゃあないか」「はい?」 と思わず声が出る。「せっかく死刑囚島《タルタロメア》に来たんだ。いつもの黒い革エプロンじゃつまらん。きみたちそれぞれに合った衣装を用意しておいた」 ああ、またこの演出家が変なことを言い出した。 エルドリスが承知するはずがない、と思って彼女を振り向いてみたが、彼女は不機嫌そうに腕を組んでいるだけで、黙ったままだった。 僕はふと、何度か仲介させられた伝言のひとつを思い出した。『衣装を用意する』 ネイヴァンはそう僕に言《こと》づけ、僕はエルドリスに伝え、エルドリスは何も言わなかった。つまりはその時点で”無言は肯定”の承知をしていたのかもしれない。不承不承《ふしょうぶしょう》だろうが。 ネイヴァンは僕たちとの温度差を意に介さず、木箱の中から衣装を取り出した。「ほら、エリィの分だ。ちゃんと着るって約束したよな?」「馬鹿言え、約束はしていない」「だが、死刑囚島《タルタロメア》にきみを連れてくる条件のひとつと受け取ったはずだ。勘の良いきみならな」「……チッ、食えんやつめ」 結局僕もエルドリスも、ネイヴァンの執拗な押しに負けて、着替えることになった。 衣装はそれぞれ、島の探索に適したものが選ばれていた。 エルドリスは、黒い狩猟服にマントを羽織り、膝丈のブーツを履いている。動きやすさを重視しながらも、彼女の持つ威圧感を損なわないデザインだ。&
識別番号861942――ラシュト・フェインバーグの記録は、生きたと思われる年月に反して、想像よりも分厚かった。 僕はページを捲りながら、部屋の角に置かれた資料閲覧用のデスクへと向かった。 識別番号:861942 氏名:ラシュト・フェインバーグ 年齢:第七監獄《グラットリエ》収監時 15歳 死刑囚島《タルタロメア》転送時 16歳 罪状:連続無差別殺人 刑罰:死刑(死刑囚島《タルタロメア》への流刑) 基本情報のあとには、彼の生い立ちが事細かく記載されていた。それらは読むだけで胃が痛むような内容だった。 極寒地帯の最貧民窟フロストロウで生まれたラシュト・フェインバーグは、父親を知らない。母親は日雇い労働と売春を繰り返し、幼いラシュトと双子の兄エンリオを連れて、港の廃倉庫で寝泊まりしていた。食事は盗みか、母親が客から貰ってくる施しで、飢えと寒さに凍える日々のなか、兄弟は互いに身を寄せ合って生き延びていた。 母親はラシュトが八歳の時に薬物の過剰摂取で死亡した。 その日から、彼らは完全なる『孤児』となった。 彼らは早熟だった。自分たちの生存に必要なもの――金、食糧、身を守る力――それを得るために、手段を選ばなかった。 十歳になるころには、ふたりはスリや空き巣をたくみに繰り返すようになっていた。他人の物を奪うことに罪悪感はなかった。一日でどちらが多くの財布をスレるかゲーム感覚で競いさえした。 しかし問題は起きた。 十三歳の冬、ある裕福な商人の屋敷に忍び込んだふたりは、運悪くメイドの女に見つかり、彼女を撲殺してしまった。凶器は暖炉のそばにあった火掻き棒だった。 それから、彼らの犯罪は加速度的に悪化していく。
その夜、僕たちは黙々と七体の魔物を調理し、七本分の映像を完成させた。 火ぶく鳥《カロリーバード》の丸焼き がらん牛《ホロウブル》の低温ロースト 風のやどり猫《ウィスプキャット》の薄造り 〜春風のカルパッチョ〜 とげ花かさ《スパイクフラワー》のスパイスチップス 〜香る凶花の小皿〜 ぬめりカメ《グラッジタートル》のとろとろ粘鍋仕立て けむりサル《スモーグモンキ》の壺燻製 〜猿煙の晩酌セット〜 まどろみ虫《ネンネムシ》の茶碗蒸し 〜夢路の一匙〜 最後の食レポを撮り終えたころには、東の水平線がうっすらと白み始めていた。夜明けだ。「さーて……クランクアップだな」 ネイヴァンが空を見上げて伸びをする。「帰りは俺の転移魔法でいいか? こんな朝早くから第七監獄《グラットリエ》に転送檻の起動を依頼するのも面倒だろ」 来るときにはネイヴァンの転移魔法を信用できないと言っていたエルドリスが、何の抵抗もなく頷いたのが印象的だった。 僕たちはネイヴァンによって、第七監獄《グラットリエ》へと送られた。 この島への感慨などない。僕は一刻も早く悪夢から覚めたい思いで、エルドリスを先に飛ばしたネイヴァンの手が肩に触れるのを待った。 眩暈のような感覚のあと、戻ってきたのは朝日の見える窓ひとつない地下調理場だった。ひやりと湿った空気と、廃棄処理係の手腕をもってしても除ききれなかった僅かな血の臭い。 悪夢から覚めても、また悪夢。 間もなく転移してきたネイヴァンへ、なぜこんな場所に飛ばすんだと非難交じりに尋ねてみると、至極まっとうな答えが返ってくる。「仕方ないだろう。エリィを囚人の活動区
「空間旅行《ホップステップ》」 僕の肩に手を触れたネイヴァンが呪文を口にした瞬間、視界がぐにゃりと歪み、気がつくと僕は黒い砂浜へと戻ってきていた。正午を過ぎた太陽が黒い砂浜に反射して眩しい。生暖かい潮風は、相も変わらず腐臭交じりのしょっぱい臭いがする。 僕より先に転移していたエルドリスは、調理人の性《さが》なのか、早くも調理台の前に立っていた。 間もなくネイヴァンが転移してくる。彼は、「こんな場所でもホームって感じだな」 と同意を求めて僕を見たが、僕は素直にそうですねとは返せなかった。 第七監獄《グラットリエ》に帰りたい。 頭の中でそう思って、実に皮肉な一文だなと笑えた。配属が決まったときには絶望すらした最悪の職場。凶悪犯が収監され、本土から隔絶された孤島の監獄。 そうだ、世間からまったく切り離されているという点で、第七監獄《グラットリエ》は死刑囚島《タルタロメア》と似ている。けれども今の僕にとっては、あれほど嫌っていた第七監獄《グラットリエ》が故郷のように懐かしい。 ネイヴァンは僕の微妙な反応を深刻には捉えなかったらしく、揚々とエルドリスのほうへ歩いていった。そして彼女の手元を覗き込み、大声で僕を呼ぶ。 一体何だというんだ。 この期に及んで面倒事はごめんだった。早く帰りたい。そればかりが思考を支配する。「どうしたんですか?」「おい、これ見てみろよ、新人君」 ネイヴァンとエルドリスの視線の先、潮風に吹き上げられた黒砂にまみれた調理台の上に、何かが置いてある。 皺が寄り、黄ばんだ紙。そして、その上に重石のように置かれた――木製のナイフ。
規格外の魔物が森へと消えてから、僕もエルドリスも、もちろん瀕死のネイヴァンも、口をきくことはなかった。二人が何を思っていたのかは知れないが、僕はただ目の前の命を救うことに集中した。 正確には、そうすることで規格外の魔物への恐怖を忘れようとした。 横たわったネイヴァンの上半身の服を手早く脱がす。そして両手を胸の穴にかざし、強化魔法で上げていた魔力を惜しみなく注ぐ。延命魔法が切れる前に、彼の心臓を再生させなければ。 淡い光が何層にもなって穴の開いた胸を包む。やがて、その層を通じて小さな振動が僕の手のひらへ伝わってくる。 僕は穴の場所を少し避けてネイヴァンの右胸付近に耳を当てた。 トクン……トクン……「心拍が、戻った……」 僕の呟きに、エルドリスが小さく頷く。「よくやった、助手君。これで虚の脈息《ルクス・エヴィータ》が切れても絶命しない」 その言葉にホッと肩の力が抜ける。 ネイヴァンも目を開けて、僅かに笑った。「サンキューな、新人君。きみが回復魔法を使える人間で助かったぜ」「いえ、僕は大したことは……」 彼の命を救った一番の功績はやはり、エルドリスの延命魔法だと僕は思う。僕の教科書魔法とは違い、彼女のあれは難易度でいえばS級のはず。あれがなければ――そして彼女があれを長々しい詠唱もなく即座に発動できる能力者でなければ、ネイヴァンは死んでいた。「エルドリスのおかげです」 僕が言うと、彼女は一瞬、意外そうに眉を上げ、それからどこか後ろめたそうに目を伏せた。
僕はというと、ネイヴァンが戦っている間、自分自身に強化魔法を掛けていた。このあとネイヴァンに掛けることになる回復魔法の威力をできる限り上げるためだ。「助手君」 戦闘に目を向けたままエルドリスが僕を呼ぶ。「十五分で……いけそうか?」「五分五分、といったところです。あの、回復魔法が間に合わなかったら、延命魔法の重ね掛けもできるんですよね? 妹さんにやっていたって……」 碧い瞳が一瞬睨むように僕を見て、また前方に戻る。「す、すみません。別に初めからそれ頼みにしたいわけじゃないんですが、人の命が僕の魔法にかかってるって思ったら……」 プレッシャーで死にそうで。「勘違いするな。責めたわけじゃない。ただ、延命魔法の重ね掛けが上手くいく保証はないと伝えておく」「ど、どうしてですか?」「リュネットの場合、最初に延命魔法を掛けた時点で、"欠けていた臓腑"の代替物が揃っていた。しかし、今のネイヴァンの場合はそうじゃない」「代替物、ですか……」 穴の開いた心臓の代わりとなれるもの。それは別の無傷な心臓。 小さな疑問が湧いた。確か、エルドリスの妹リュネットは、町の外で魔物に遭遇し、内臓のほとんどを食われた、と。ならばその時エルドリスは、どうやってそれら内臓の代わりを見つけたのだろうか。 ネイヴァンとラシュトの間で、空気が爆ぜた。 僕の意識はそちらへ奪われる。 戦いはネイヴァンが明確に押していた。延命魔法により死の恐怖を感じずに戦える男。躊躇なく相手の懐へ潜り込み、急所を狙い続ける。
「ネイヴァン・ルーガスッ!」 ネイヴァンが立っていた位置でエルドリスが叫ぶ。二人の場所が、入れ替わったのだ。 ネイヴァンは倒れ、左胸に刺さった槍は、スライムのように溶けて逃げていく。その槍の抜けた穴から尋常じゃない量の血が溢れ出す。 左腕の痛みを、一瞬で忘れた。 僕はほぼ反射的にネイヴァンへ駆け寄り、回復魔法を発動した。だが初歩の初歩たる教科書魔法だ。山火事にコップ一杯の水をかけ続けるようなもの。燃え尽きるスピードの方が圧倒的に早い。「虚の脈息《ルクス・エヴィータ》」 エルドリスの手がかざされて、真っ赤な胸の穴が、濃い白の光に包まれる。「回復魔法では間に合わない」 延命魔法だ。これでネイヴァンは、30分は生き長らえる。だが延命魔法は"致命傷を負っていても一定時間生きられるようにする"だけで、"致命傷を治す"わけではない。だからその30分の猶予期間に回復魔法で傷ついた臓器を――穴の開いた心臓を治療しなくては。 白い光が消え、血の止まったネイヴァンが、「やってくれるじゃねえか」と呟きながら上体を起こす。「ネイヴァンさん、まだ動いては――」「ああん? 殺されかけて泣き寝入りしろってぇ?」「治ったわけじゃないのは、その痛みでわかっているでしょう!?」「さあな。どういうわけか、大して痛くねぇんだ」 エルドリスの延命魔法は、命の期限を延ばすだけの魔法。かつて彼女が『30分クッキング』の視聴者に向かい『痛覚には何ら影響ない』と語ったとおり、痛みは消えていないはず。本来ならば起き上がるどころか話すことすら、呼吸すら辛いはずなのだ。 その痛みを超越しているのだとしたら、それは大量出血による血圧の急低下やアドレナリ
四、五メートルは上から落ちてきたのにケロリとしているラシュトを見て、僕は寒気を覚えた。やはり、コレと戦うのは無謀だ。「エルドリス」 逃げましょう、という意味で僕は彼女を呼んだが、反応はない。彼女の碧い眼差しはもはや、人間離れした少年へと釘付けになっている。「呼ばれてるよ、綺麗でかっこいいお姉さん」 ラシュトがくすくす笑うが、エルドリスの表情は能面のようにぴくりとも動かない。 戦《や》る気なのだ。 僕は覚悟した。そして気持ちを、いかに逃げるか、から、いかに捕らえるか、に切り替える。 ネイヴァンも僕と同じ考えに至ったようで、ラシュトに正対して重心低く立ち、利き手の拳を握っている。「アハ、そうこなくっちゃ。活きの良い獲物は好きだよ」 ラシュトの笑みが深くなる。「ぬかせ」 とネイヴァン。その拳が赤い光に覆われる。 それが開戦の狼煙《のろし》となった。 高らかな笑い声とともに、ラシュトの体がねじれて変形する。溶けるように輪郭が崩れ、次の瞬間――エルドリスと瓜二つの姿がそこに立っていた。「……悪趣味め」 エルドリスは即座に間合いを詰め、ナイフで自分と同じ姿の首を一文字に切り掛かる。後ろに飛び退いた白い喉を刃が掠め、赤い血が僅かに飛び散る。 ラシュトは軽やかに距離を取ると、今度はネイヴァンの姿に変わる。口元を歪めて、挑発するように舌なめずりした。「なあエリィ。魔物とヤったことあるか? 俺で試してみるのはどうだい」「ネイヴァン・ルーガス、こいつを黙らせ
ラシュトを振り返った僕たちはすぐさま迎撃体勢をとった。そこにいるのは、どう見ても人間の少年。けれどネイヴァンが言ったとおり、人間ならば砂浜からの帰還に数時間は掛かるはず。 十分やそこらで戻ってこられたということはやはり、「きみは、人間ではないんですかっ……?」 ラシュトは口角を引き上げ、悪戯っぽく笑った。「怖いお兄さん、僕から見たらあなただって、純粋な人間には見えないよ?」「黙れクソガキ!」 ネイヴァンが吼えるが、少年は意にも解さず楽し気に続ける。「そうそう、まだ答えを聞いてなかったね。どんなふうに殺されたいか教えてくれる?」「それはこちらの台詞だ。希望どおりの殺し方をしてやろう。こちらには名のある脚本家兼演出家と、魔物を開きなれた調理人、そして万能な調理助手《アシスタント》がいる」「おおっと。あなたたちやっぱり、死刑囚じゃなかったんだね。じゃあそうだなぁ……こんなプロットにしてよ。まずは冒頭で、パーティ全員毒蛇に噛まれて死ぬ、って」 次の瞬間、ラシュトの姿がぐにゃりと歪み、肉が変質する嫌な音が響いた。皮膚が硬質化し、暗い色の鱗が連なっていく。彼の身体は分裂するように長く伸び、それが何本にも分かれていく。 無数の黒い蛇。くわあ、と開かれた口には巨大な牙。そして牙の先から滴る毒液。 硬い鱗を持った蛇たちが地面を這う。 ズズズ……ズズズ……。 この音……! 僕は気づいた。蛇の鱗が岩に擦れる音。これは昨夜聞いた音と同じ。 あれは何かを引き摺った音じゃなく、無数の蛇が、岩壁に開いた隙間を潜った音だったんだ。 ラシュ
僕たちは光の雨粒に打たれた白骨遺体を見つめていた。人間の形を保ってはいるものの、ところどころ損傷が目立つ。とりわけ頭蓋骨は縦に真っ二つに割れていて、致命傷の跡なのか白骨化後の傷なのかは知れないが、異様だった。 骨の表面には、雨水や泥の跡がうっすらと残っている。 そして絡みつく、僕が放った絶対拘束《トータル・フェター》の蛇。その意味するところはつまり、「これは囚人の――死刑囚の遺骨です」「誰なんだよ」 とネイヴァン。「わかりません。でもラシュトの部屋の奥にあったんですから、ラシュトの知り合いなのでは?」「うーむ……でもあいつ、他の死刑囚とつるむようなタイプか? 殺しちまいそうだろ」「知らないですよ」「あ、そうだ。これは聞いた話だが、人間の遺体が雨風に晒された状態で完全に白骨化するには、少なくとも一年かかるらしいぜ。となれば、この遺体は一年以上前にこの島へ送られた囚人のものだ」「そんなの、数えきれないほどいます」「だよなぁ。……新人君、識嚥《シエ》で食ってみろよ。それでわかるだろ」「嫌ですよ! 冗談じゃない!」 この男はなんてことを言うんだ。 エルドリスが小さくため息をついた。「断られるに決まってるだろ。頭を使え、ネイヴァン・ルーガス」「なんだよエリィ。じゃあ他に方法があるっていうのか?」「だから頭を使えと言っている。これまでの情報を総合的に考えてみるんだ。まず、この場所はラシュトのねぐらの奥にあって、ここに繋がる通路は岩壁によって遮断されていた。だが完全な遮断ではなかった。岩壁には隙間があったし、ここの天井にも隙間がある」「それが何なんだよ」 次に、とエルドリスはネイヴァンの問いかけを無視して続けた。