スマホを手に取る。
鳴動は、着信ではなく、アラームだった。
画面表示の時刻は「10:28」。
「──そっか。お客さん、来るんだっけ」
ふと、そこで思い立って、わたしは賭けをする気持ちで、目を閉じた。
これでつぎに目を開けた時、三茶のマンションの天井が見えたらこれは、いわゆる夢オチだなと。
また急いで身支度をして、駅で並んで、身体が持ち上がるような田園都市線に身を押し込むんだ。
それで渋谷駅まで行く。
そして道玄坂を登って……
忙しすぎて毎日走っていた元の世界と、
暇すぎて不安になる魔界という異世界。
元の世界と、あの魔界。
どっちに、わたしは居たいんだろう。 ──閉じていた目を、わたしは開けた。 けれど場所は変わらず、湖畔の裏庭。 と、言うことは、異世界転生は現実だったんだ。スマホの時計も、「10:31」のまま。
わたしは、仕方なしに鼻をこする。「ハラ、くくるしかないか……」
気乗りしないけれど、生き返るための婚活を──。
そうなると……まもなく魔王が手配した〝マッチング業者〟とやらが来る、十一時じゃないか。
「うわ、ヤッバ!」
急に、お仕事感がぶり返してきた。
「マジか! なんもしてない……」
わたしは洗面所に走った。
鏡の前で髪をとめ、水道の蛇口をひねると、そこに前、鏡に映る自分の姿に…… わたしは、驚愕した。 ──若返っていた。 魔王は「いろいろと支度はしておく」と言っていた。でも、それは化粧水だけじゃなかったようだ。
わたしの容姿というか、身体そのものが、女子高生のころに戻っている。たしかに昨夜は「腰が痛い」だの「老眼」だの「高血圧」だの言ったけれど、だからと言って、ティーンに戻すのは、ちょっと年齢差別がひどくないかと、ちょっと魔王にムカついた。
すると気になって、わたしは、前髪の生え際にある傷を確かめた。
傷跡は、まだ新しい縫い跡として、残っていた。
水を止めるのも忘れて、わたしは視線を落とした。もしかして、昨日、ふたりして事故に遭う直前、ハルトが言いかけたのは、この傷のことだったのかなと。
──午前十一時。玄関のチャイムが鳴った。
ひとり暮らしの心得で、チェーン錠をしたまま応対する。
……が、訪問者の姿を見て、わたしはあまりのファンタジーさ加減に力が抜けた。──ウサギ。
どう見てもウサギの人が、口をモゴモゴさせながら二本足で立ち、執事服の上だけを着て小脇にカバンを抱えている。 そのウサギ執事を、裏庭から縁側テラスに案内する。祖母セレクトの緑茶を出した。
「あらためまして。わたくしウィスカーと申します。王都で婚活の専門会社を経営しております」
白ウサギを大きくした体格に、ウサギの赤目が乗っている。
それが黒い執事服の上だけを着て、耳は白く長く、どう見ても白くて喋るウサギにしか見えない。ただヒゲだけは、それがおしゃれなのか、毛先が全部、ダリ風に上向きでカールしている。
魔王の勅命で、わたしにマッチング相手を紹介するため参上した、とのことだ。
名刺を受け取りながら、わたしには名刺がないことを思い出して手が落ち着かない。
しかしウィスカーと名乗ったウサギ執事は、機嫌がよさそうに庭を見回した。
「いやあ、しかし素晴らしいお屋敷ですな。お若いのに大したものだ」
見た目は完全に縁側に腰掛ける白ウサギ。やや可愛いが、一言一句が、どうしても軽くて胡散くさい。
わたしは、湯呑みを手に、湖に向かって言った。
「いえ、若くはないんですよ、三十二です」
そう言うと、ウィスカーは大袈裟にのけぞった。
「まさか! ご冗談を!」
「なかみは大人、見た目はJKってやつです」
魔王と交わした契約では、この魔界で、わたしはできるだけたくさんの子を残し、あるいは絵を描き、〝創造の喜び〟という〝正のエネルギー〟を限界まで貯めなければならない。「──でも、事情があって、絵は描けないんです。だから、三年以内に相手を見つけなければいけないんです」
わたしが語ったあらましに、ウィスカーはうなずいた。
「なるほど。それで相川さまは婚活をお急ぎと」すると彼は、カバンの中からクリアファイルを取り出した。
「では、もしよければですが。午後にでもマッチングをご用意いたしましょう」
なにこのウサギ。仕事が早い。さすが魔王推薦の婚活業者だ。
あでも、できるだけ相手にはこだわりたい。
「さすがに結婚して…… 子供をとなると、誰でもいいってわけにはいかないんですけど……」「ごもっともです。お客様を急かすようなことはいたしません。ただ、相川さまのご登録で、当社には男女問わずマッチング希望者が殺到しておりまして……」
そうなんだ。やっぱり地球の人間って珍しいからかな。
いや、この機会に魔王へと取り入ろうとしてる、とかかな。
いろいろとキナくさい想像が頭の中をぐるぐるし、不安も巡るけれど、こっちからすればマッチング相手が多いに越したことがないか。選ぶ自由がふえる。
「──ちなみに、ウィスカーさん?」「はい?」
「何名さまくらい、わたしとマッチングをご希望なんですか?」
すると彼は頷き、肉球を舐めてファイルをめくりながら言った。
「……ざっと、三千名ほど、ですかね」
さ、さんぜん……?!?
わたしは目が眩んだ。
いや、ちょっと待って、三年で三千人とマッチングって……
わたしはざっと計算をする。 となると一日あたり、八人弱と会わなきゃなんないじゃない…… しかも一人あたり一時間で、年中無休の計算でそれって、残業したってこなしきれない! ……な、なんだこれ、よく考えたら、もしかして、とんでもないブラックな案件だったのか!? でも、そんなわたしに婚活業者のウィスカーは、ピンク色の肉球を見せながら言った。 「──大丈夫です、 相川さま、どうぞおちついて……」 厳選した相手だけを紹介すると、ウィスカーが胸を張る。 「そこで、相川さまのご希望を本日はうかがいに参ったしだいでございます」──外は夕暮れだった。 台所のシンクには、大小の皿が水に浸されている。 和室では、塗り絵の上でアオがすうすうと寝息を立てていて、お腹に、タオルをかけてやる。 わたしは縁側に出た。 ヒコさんがいた。夕焼けを見ている。 その横に腰をおろすと、少し心強い気がした。 わたしはマグカップを手にした彼に言う。「おかわりはどう」 ヒコは首を横に振った。「ありがとう、もう大丈夫」 しばしの沈黙。 風が、湖と頬をなでる。 ヒコがぽつりとつぶやいた。「そうか……。るんちゃんのこの家には、そんな悲しい思い出があったんだ」 わたしは頷いた。 だから魔界に来たとき、魔王の馬車で、この湖のほとりに着いた時、びっくりした。 ほんとうに息が止まった。 うれしいのか、嬉しくないのか、正直、混乱して分からなかった。 この家が建っているのを見て、心底びっくりしたのだ。 焼けて、焦げた柱だけになった家が。むかしの姿で、そこにあったから。 わたしはおもわず、いそいで家に駆け込んだ。 そして父を呼び、家中をさがして回った。 和室にも寝室にもいなくて、意を決して、手を触れた洋間のドアノブにも、父の姿は無かった。 アトリエの天窓から光がさしこんでいて、イーゼルの上でキャンバスが、背中を向けていた。 大雨が降り、深夜に火が出た、あの夜のまま。 父を驚かせたくて、わたしが水差しを描いたキャンバス。 つまり、魔王は、この家が出火するほんの少し前に時計を巻き戻して、そっくりそのまま、この湖のほとりに再現したのだ。 わたしは唇を噛んだ。 この家を復活させるのと、父を復
わたしも頭にタオルを巻いて、天袋の隙間に入っていく。 ヒコさんが手を引いてくれた。 屋根裏は、ランタンモードに切り替えた彼の懐中電灯が、ぽうっと全体的に照らしている。 埃っぽいかと思っていたが、それほどでもない。 むしろ空気が冷たい。 時間が止まっていた空間の匂いだ。 アトリエとも違う、人がそもそも入らない空間の、眠っていたようなにおいだ。 アオを肩に乗せ、懐中電灯を手に、わたしはヒコの指さす先に光を向けた。 梁の上を、電気の配線が走っている。「……危険な箇所って、あの配線のこと?」「うん。黒い配線の真ん中あたりを見てみて」 私は目を凝らした。「カバーが破れてるだろ」 ヒコの声が、いつになく低く、真剣だ。 言われてよく見ると、太めの配線の黒いビニール外装《カバー》が、ほつれたようにあちこちで剥がれている。 中から赤色っぽい金属の反射が覗いている。「あそこで銅線が剥き出しになっているんだ」「──どうして…… 勝手に、電気コードが破れることなんてある?」 なんか怖い。それこそ誰かが屋根裏に忍びこんで、配線のカバーを剥いていったなんて思ったら、寒気がしてきた。「……まさか、コウモリが?」 つぶやくと、ヒコさんが言った。「いや。ネズミが齧《かじ》ったんだと思う」 わたしは思わず反芻する。「ネズミ!?」「そう。ネズミが前歯でかじったんだよ。あいつら歯が伸びるだろ。だから伸びすぎると、柱だって壁だって、なんでも齧るんだ。ムズムズしてさ」「だからって……配線までかじるものなの?」 普通にビリッてしないのかな……「するかもねぇ。でもアイツらには木も枝も電線も関係ないからなぁ……。──あとほら、こんどは上を
点呼をとる声が、和室に響く。「番号、イチ!」「にっ!」 ヒコさんとアオだ。(ふたりしか居ないのに、点呼、いる?)「持ち物確認! 懐中電灯、ヨシッ!「お菓子、ヨシ!」 おやつ持ってくんかい…… ついつい平たい目で突っ込んでいるけれど、男の子って楽しそうよね……。 と言うのも、このふたり、これから天井裏に大冒険なのだが、いい大人と子供が目を輝かせながら押入れの天袋へとよじ登っていくその背中を、わたしはお尻のポケットに気になる手紙を入れたまま見送った。(……やっと読める) そう内心で思っているものの、彼らは別に遊びにだけ行くわけじゃない。 屋根に穴が開いているかもしれず、チェックに行ってくれるのだ。「いってらっしゃい、ご安全に〜!」 いちおう、それっぽく、笑顔で手を振る。 ずらした板の中へと、ふたりは屋根裏に消えていった。 ──さて。 ……わたしは息を吐き、いそいそと、さっきお尻のポケットにねじ込んだ封筒を取り出す。子供が寝た後に、って感じだ。(ああ、もう、ドキドキする!) 縁側テラスに小走りする。 湖の上では、空が晴れ渡り、わたしは封筒を鼻先をあてる。 ヒコさんじゃないけれど、森の匂いに、マヌルの背中が思い浮かぶ。 ほのかな心音のぬくもりに、浸っていたかった。 だが、そこに、あのヒコの顔が重なる。「──!」 うっかりまた心臓が跳ね上がった。 淡い封筒からの波長を、犬の濡れた鼻先が上書きしてしまったようだ。 廊下の壁に手をついて、うなだれる。 動悸が止まらない。 ──くそう、あの無自覚イケメン犬め……! 距離感バグってるヒコの、目を閉じたあの顔が
玄関側に回ると、オークの姉さんが笑顔で手を振っていた。 「こんちは、調子はどう?」 わたしも自然と笑顔になれた。 「おかげさまで、なんかスッキリです」 オーク姉さんは、おなじみの荷車から小包をひとつ取り出しながら、「まずはいつものね」と言った。 「伯爵も懲りない人よねえ」 まとめて送り返したのに、また吸血鬼からのプレゼントだ。 「すみません、今日から受け取り拒否で……」と、わたしはサインしながら、申し訳なくて口をへの字にした。 「でも持ってきてもらってこれだと、お姉さんもストレスになるでしょ……」 オーク姉さんは笑ってくれる 「そんなことないよ、ちゃんと料金は向こうから発生しているからね。そこはご心配なく」 そして彼女は、「で、今日はもう一つあるのね」と、一通の封筒を取り出した。 受け取った封筒の裏面に、わたしの目は思わず輝いた。 差出人に、〝フクロウの森のマヌル〟とある。 やっぱり、マヌルの返事だ!…… 姉さんは、「よかったわね!」と、満面の笑みを残して荷車を引き、去っていった。 * * * 裏庭の湖が、きらきらと揺れている。 縁側のテラスで、わたしは左右を見回し、背後まで確認し、念のため見上げて軒先をチェックする。コウモリもいない。 ──よし。 そして、封筒を手に、ハサミを握る。 マヌルさんが書いたのであろう文字で、〝睡蓮の湖の相川〟と宛先がしてある。字を見つめているだけで、なんだが胸が波立つ。
──翌日、昼過ぎ。 ぽかぽかとした春の光の中で、ヒコさんが訪ねてきた。 彼は、わたしがテラスでチラシの裏に落書きをしていることに驚いた。 「……絵、描けるようになったの?!」 わたしは、はにかんだ。絵というほどのものではないけれど…… 「えへへ、そうなんですよ」 描いていたのは、昨夜のアオがコウモリに食いつこうとした顛末の四コマ漫画だ。 線もヨレヨレだし、下書きも無しの一発描きで、楽しいから描いただけのものだ。 「──ははは! たしかにあいつ、コウモリとか食べそうだ」 でも、ヒコさんには、このとおり好評で良かった。 チャリン……、と、懐のポケットでアプリの通知音がした。 そう。わたしは発見したのだ。こんなラクガキでも正のエネルギーが貯まるのだと言うことを……! 「面白かったよ、また描いたら見せてね」 すると、チャリン……と、またスマホが鳴った。 「なんの音?」と、ヒコさんは興味深そうだった。 「ええと…… なんていうか、仕事、みたいなものかな?」 わたしは誤魔化した。 それにしても、四コマでも人に絵を見せたからポイントが加算になったのだろうか。わたしは少し考え込んだ。……いや、反応が返ってきたことに、わたしの心が嬉しかったからだろうか。 わたしの横で、ちょっと離れてヒコさんがあくびをしながら、「おれも座っていい?」と、縁側に腰掛けた。 「朝から王都に仕事行ってきた帰りなんだ」 「大工さんのお仕事?」 「んにゃ。きょうは魔王さまの王宮で、庭師さ」 ……とっさにピンと来なくて、私
今夜は、サラダと煮っ転がし。 ヒコさんにも食べていけばと誘ったが、なんだか明日は早いらしい。 ものすごく残念そうに、肩と尻尾を落として帰って行った。 だから今夜は簡単に、タコをサトイモと煮た。 魔界にも醤油があるのが微妙に嬉しい。 わたしはエプロンをかけ、トマトを切っている。 こうして、夕暮れどきに夕飯を作る生活にも、だいぶ慣れてきた。 時計を見るとまだ十八時。 社畜だった頃は、この時間だと、追加の残業が降ってくることにイライラしていたはずだ。 背後では、アオが塗り絵をしている。 クレパスがテーブルの上でカツカツと踊る音がしている。 「それで、絵葉書にはなんて書いたのさ?」 「んー、なんてことは書いてないよ。今度はうちに遊びにきてください。一緒に湖を見ましょう、って」 それでダメなら、何を言ってももうダメってことだろう。 レタスを洗いながら、わたしは答える。 アオが手を止めて、ちょっとためるように言った。 「……一緒に、って、ぼくもいっしょにってことだよね?」 かわいいけど、めんどくさいスライムだな…… わたしはレタスの葉をちぎりながら言った。 「まぁ、そういうことになるね。でもお利口さんにするんだよ」 アオは勝ち誇ったような顔をしてるんだろうな。 言わなくても分かる。クレパスの音が楽しそうに変化している。