──翌朝。
家の玄関は、相変わらずハルトの像が外から突っ込んでいた。銅像なだけに、勝手に帰って行ったりはしないみたいだ。
とは言え、このハルトをどかして、腕を突っ込めば、外側から玄関のカギを開けることはできてしまう。
それで無いよりマシかと思い、元カレのハルトの銅像は、そのままにしておいたわけだ。
もっとも、わたしとアオで押しながら引いたところで、この百キロちかい重たい像を動かせる気はしない。
洗面所で歯を磨きながら、軽いため息をつく。与えられた住まいだけど、この修繕費は魔王とわたし、どっちが持つのだろうか。
この魔界での生活と婚活が言わば今のわたしの仕事で、ユーザーフレンドリーな給料体系ではあるけれど。
和室から、寝息が聞こえる。
ダンボール箱の中でアオは、きっとまだ夢の中。だから、修繕費のことはあの子に内緒だ。
バンスグリップで髪をざっくりとまとめて、キッチンへ。
今朝もヤカンで湯を沸かし、マグカップに注ぎながら、テラスへとつながる廊下のサッシを開けた。
朝の空気が心地よい。目の前に広がる湖は今日も美しい。最高だ。まるで絵画。
……でもこの、構図。最高なんだよな。
湖の平面と、山と空の奥行き。
借景として、まるで完璧に計算された立地だ。もしも、魔王が、これを計算して昔の生家を、この湖畔のなかでもベストポイントであろうココに狙って生やしたのだとしたら、その美的センスは褒めざるを得ない。
けれど。
……プレゼントのセンスは、完全にどうかしてる。なぜに、元カレの銅像をレプリカにして送ってきたか。
一晩、わたしは目が覚めるたびに考えたが、やっぱり明確な答えは出なかった。
口にする白湯が、ちょっとだ
──翌朝。 家の玄関は、相変わらずハルトの像が外から突っ込んでいた。 銅像なだけに、勝手に帰って行ったりはしないみたいだ。 とは言え、このハルトをどかして、腕を突っ込めば、外側から玄関のカギを開けることはできてしまう。 それで無いよりマシかと思い、元カレのハルトの銅像は、そのままにしておいたわけだ。 もっとも、わたしとアオで押しながら引いたところで、この百キロちかい重たい像を動かせる気はしない。 洗面所で歯を磨きながら、軽いため息をつく。 与えられた住まいだけど、この修繕費は魔王とわたし、どっちが持つのだろうか。 この魔界での生活と婚活が言わば今のわたしの仕事で、ユーザーフレンドリーな給料体系ではあるけれど。 和室から、寝息が聞こえる。 ダンボール箱の中でアオは、きっとまだ夢の中。 だから、修繕費のことはあの子に内緒だ。 バンスグリップで髪をざっくりとまとめて、キッチンへ。 今朝もヤカンで湯を沸かし、マグカップに注ぎながら、テラスへとつながる廊下のサッシを開けた。 朝の空気が心地よい。 目の前に広がる湖は今日も美しい。最高だ。まるで絵画。 ……でもこの、構図。最高なんだよな。 湖の平面と、山と空の奥行き。 借景として、まるで完璧に計算された立地だ。 もしも、魔王が、これを計算して昔の生家を、この湖畔のなかでもベストポイントであろうココに狙って生やしたのだとしたら、その美的センスは褒めざるを得ない。 けれど。 ……プレゼントのセンスは、完全にどうかしてる。 なぜに、元カレの銅像をレプリカにして送ってきたか。 一晩、わたしは目が覚めるたびに考えたが、やっぱり明確な答えは出なかった。 口にする白湯が、ちょっとだ
わたしの名前は、相川るん。 都内某所のギャラリーで、スタッフをしている。 いわゆる社畜の十年目だ。 高校時代の友人と三年ぶりに新宿で飲んでいたら、元彼で、幼馴染の岸部ハルトが顔を出し、不本意ながら送ってもらった。その帰り道、たぶん…… わたしは、トラックに轢かれたんだと思う。 気がついたら、そこは魔王の玉座の前だった。 体には、傷ひとつなかったけれど、横でハルトのほうは干からびてミイラになっていた。どうもそれは、わたしの拒絶心のせいらしい。 そこから、なんとなく。いろいろとあって。 わたしは今、この魔界で、湖畔に再生した生家に住みながら暮らしている。 いわゆる、異世界転生と言うやつだろう。 ハチミツをひとさじ、マグカップに落とし、台所で紅茶を注ぐ。 ぼんやりと歩いて、廊下から沈む夕陽を眺める。 裏庭の湖の向こう、遠い山脈へと沈んでいく夕焼けを、見送る。 オレンジから夜色に変わっていく空と星の境目が、穏やかだ。 いろいろあったと言ったのは、魔王との契約だ。 魔王は、創造のエネルギーをこの魔界に呼び戻すため、わたしを召喚したらしい。 その方法に、消去法でわたしは、婚活を選んだ。 その最初の相手が──スライムの、アオ。 彼は今、床の間のダンボール箱の中で、タオルケットを半分までかぶって眠っている。 我が家の玄関に大穴を開けてしまって彼は、さんざん泣いて、ずいぶん凹んで、出ていこうとしたけれど、わたしが引き留めた。 行き場のない迷子を、たとえそれが魔物でも放ってはおけなかったし……それに、あのアオがいれば、魔界での新生活が、きっと楽しくなると思ったから。 小さくて青くて、透明な水風船というか、大きめのグミキャンディみたいな彼は、マジックで描き入れたような目と口が、ちょっとかわいい。 そして、彼を泣かせたのは、いまも玄関で頭を突っ込んだまま斜めに刺さっている──あいつ。 ハルトの銅像だ。 なんの意味があるのか、もうまるでわからないけれど、メッセージカードを添えて魔王が送りつけてきた。 繰り返しになるけど、大事なことなので二回言う。 まったく、その意図が分からない。 重くて動かせないし、とりあえず、はまったままのドアも開かないし、そのままにしてある。 文句の電話は直接
家路をいそぐカラスが、頭上を飛んでいく。 わたしは王宮の方へ足を向けた。 なんていうか、もしかして、魔王って……「ばかなの……?」 思わず、呟いてしまった。 ミイラを……レプリカにして贈る意味とは、一体…… 燃えるゴミを、燃えないゴミにして、ポエムを添える。その意味も行動も、さすがに異次元、いや、異世界……! わたしは、カードを握り潰して捨てた。 モノがモノなだけに、配達人のオーク姉さんの力でも借りて埋めるなり送り返すなり処分するまでは、こいつを封印しておく必要がある。 わたしは曲がり釘を木槌で直し始めた。 しかし、アオが興奮したのか、飛び跳ねながら踊りだしている。「るんって、すごいんだ! 魔王さまからプレゼントもらえるなんて、すごいすごい!」「……ねえ、アオ」「なあに?!」「……いや。この世界って、嫌がらせに銅像を送ったりする習慣とかあんの」 アオは首をかしげ、足を止め、「聞いたことないけど、え? 嫌がらせって……どういうこと?」 そのままハルトの銅像の顔を見上げた。「この人、るんの知り合い?」 わたしは黙々と釘を直していく。 もう一度、蓋を打ちつけるためだ。「そうね。知り合いと言えば、知り合いだけどね、でも、仲は良くないわ」 よし。釘は真っ直ぐになった。 わたしは木槌を手に立ち上がる。「──アオ、手伝って。木箱を組みなおすから、あんたは蓋を押さえてて」 アオは目を丸くする。「え? ってコトは、るん、もしかして、この銅像、魔王さまに
夕暮れの風が吹きはじめた。 家の東側、玄関と駐車スペースには、すでに影がかかっている。 バールを手にし、見上げるような木箱の前に、わたしは立った。 いまから、これを開けるのだ。 ピンクのパーカーとスキニーはそのまま、髪はひとつにまとめてある。 手には軍手をはめ、「よし」と気合いを入れる。 魔王から届いた木箱は、見上げるように大きい。 このサイズで銅像なら、ふつう四人は手が欲しい。 でもここには、わたしと、スライムしかいない。「開けるよ、アオ」 蓋は、真新しい釘で十箇所ほど打ち付けてある。 わたしはバールの先割れした先端を、釘の頭の下に当てがって、背面を木槌で叩いていく。 浮いた釘の頭は、バールを寝かせることでするりと抜ける。 一本、二本、三本、と、引き抜いた釘を、アオの頭に預けていく。「すごい……」アオが見上げながら、つぶやいた。 わたしは笑む。「まあね。慣れてるからね。」 ここまで大きいサイズは久々だけど、仕事で木箱はしょちゅう開けている。 わりとある仕事だ。 海外から届く絵画とか。 手を止めずに作業する。「なんのお仕事してたの?」「画廊のスタッフよ。」 アートの舞台裏で奮闘する、実務的な存在。「要するに、素敵なお絵かきを一番すてきに見えるように飾ったり、お聞かせしたり、欲しいひとにはどうぞ! って売るお仕事かな」 わたしは答えながら十本目の釘を抜いていく。 錆びていないところを見ると、梱包したのはごく最近ということだ。 ベニヤの蓋を抑え、慎重にずらして外していく。 中身がわからないのが面倒だ。「よし、ではいざ、
アオは目を閉じたまま、アトリエを壁沿いに進んでいく。 小さな心臓が駆け足で鼓動を打っている。 どれだけ工具箱に近づいたかと、アオが目を開けると、まだ半分も進んでいない。 ため息をつき、彼は天井を見上げた。 天窓から差しこむ光が、室内の中央に落ち、イーゼルと画板の背中を照らしている。 しずかに空気は乾燥している。漆喰の壁が光を反射し、部屋はとても明るい。 アトリエの角には、古びた机が見えた。 几帳面に片付けられた画家の作業場が、昨日のまま封じこめられたような、時の止まっている空間だ。 アオの鼻腔が、木材と、油絵具と、わずかに残る溶剤の匂いを嗅ぎ取る。 彼は気を取りなおし、るんから言われたとおり、右の壁に這う。めざすは棚の下の工具箱だ。 たどり着いた棚の下で、彼はガラクタとそうでないものの区別がつかないようだ。 壁に立てかけられたオーク材の棒の束。 なんだかくらくらする臭いの入ったビン。 大きな空き缶のなかを覗きこもうと、アオは金属箱の上によじ登る。 中には、つぶれた絵の具のチューブ。 アオは、その金属箱の上から、遠く目を走らせて、青い工具箱というものを探した。 しかし、一向に、見つからない。 なにしろ、探し物は足もとにあったのだから。 年季の入った工具箱だった。「これだったっぽいね……」 アオは、踏み台にしていた工具箱の上で、バランスを取りながら、冷たい蓋を開けてみる。 と、中には小ぶりなバール、そして使い込まれた木槌があった。「やった……」声が漏れる。 宝物を発掘したような高揚感はないが、これで帰れるという安堵感はある。 顔を上げると、工具箱のうえからは、ドアまでの帰り道がすぐ
アオは、洋間の前で、立ち止まり、息を吸いこんだ。 わたしもなんだか、緊張してくる。 ここを開ければ、父のアトリエがあるのだから──。 水風船ほどの小さなからだで、アオが、意を決したように真鍮のドアノブを見上げた。 「──いい? アオ、心の準備はできた?」 わたしが尋ねると、彼はドアの前で、「うん!」と、大きくうなずいて見せた。 と、言っても、中に何か特別なものがあるわけじゃない。 亡くなった父の画材と、落書きでしかないわたしの絵が、あの雨の夜の火事の直前のまま、残っているだけだ。「じゃ、あけるよ、アオ」 わたしはノブを押し下げる。 わたしが入るわけじゃないのに……やっぱり心臓が早鐘のように鳴りはじめた。 わずかに開いたドアの内を、アオが恐る恐るのぞきこんでいく。 引けた腰を廊下に残したまま、目だけがドアの向こうに伸びている。 そのさまは、背中から見ていても、さすがスライムといった感じだ。 アオは、目を、こっちに引っ込めた細長い体で振り向いて、「……ほんとに、このアトリエ、おばけでないんだよね?」 わたしに何度目かの確認をした。 アトリエの中央にあるイーゼルに掛かった〝それ〟の正体を、知りたい気持ちと、知りたくない気持ちがせめぎ合って、アオの体がドアの角で真っ二つになりそうだ。 わたしはうなずく。「うん。……でないよ。あそこにあるのは、わたしが昔描いた落書きの絵……」 そう。あの絵は、あくまでわたしにしか見えないオバケだ。「けしてアオには悪さをしないわ」 するとアオは、伸びきっていた体を、ぱちんと水風船に戻して、わたしを見上げ、力強くうなずいた。「──わかった。 …&hell
するとアオは、「どのくらいまで大きくなったら、結婚してくれるの?」 と真面目な顔で聞いてきた。「ぷっ……」 吹き出したわたしに、アオはまたむくれた。「るんちゃん! また笑ったなー!」 ひとしきり笑って、またちゃんと謝ってから、わたしは彼にひとつ、ちょっと真面目な質問をした。「──じゃ、念のために聞くけど、なんでアオは、わたしとは結婚したいって思うの?」 すると、アオは、いかにも子供と言った表情ではにかんだ。「だって結婚したら、ずっと一緒にいられるって、ウィスカーがいってたから」 そしたら、きっと寂しくなくなるかなって思ったの。 そう聞くと、胸がキュッと痛んだ。 ──すると、パーカーの前ポケットの中で、チャリンと小銭の音がした。「ん!?」 すかさずスマホでアプリを開き、正のエネルギーの残額をチェックすると、【 残高:‑500,029 ▶︎ ‑500,031 】 ……じゃっかん、増えてる。 わたしは、さっきの胸のちいさな締め付け感を思い起こそうとした。「そうか…… これが、胸きゅんというやつなのか」 無垢な目で、アオは見上げていた。 ということは、このアプリ、わたしが抱く恋愛感情についても計測しているのか。 しかし、スライムにわたし、そんな感情をもっちゃうのか。なんだかショックなんだけど、深呼吸して心を落ち着けた。ここでまた変なことぼやいたら、せっかくの+2ポイントを失いかねない…… でも、アオからそう聞いて、わたしも、ちょっと胸の別のところが痛んだ。
──とはいえ。 わたしは玄関脇で、届けられた大きな木箱に向き直り、腕を組む。 ここで開封するにしたって、バールと木槌がいる。 そして二つとも、父はアトリエの工具箱に保管していたはずだ。 だから、魔王からの贈り物の中身を確かめるには、アトリエに入るほかない。 わたしは、空を仰ぎ見る。 肩の上のアオが、心配そうに言った。「どうしたの、るん、気分よくないの……?」「うん。」 洋間と、その中のアトリエのことを考えるだけでもう、胸がざわついている。 でも、考えたってしかたがない。 とりあえず、木箱のことは忘れよう。お昼にしよう。 わたしは笑みを作る。「──でも、なんでもないのよ。ちょっとした考えごと」 アオとサンドイッチを作って、縁側で食べる。 クレソンのサラダを口に運ぶ。 でも、なんだか味がしないのは、やはり洋間のことで気が重いからだ。 あの魔王からのでっかい荷物、やっぱり気になるし、開封するには、どうしたって蓋から釘を抜くバールが必要だ。 アオが、ドレッシングまみれの口で言う。「るんの家には、そのバールっていうの、ないの?」「あるよ。残念ながらね……」 でもそれが、アトリエにある。 そうつぶやくと、アオが口を舌で拭いた。「あとりえって、ここから遠いの?」「ううん。そこの洋間の中よ」 わたしはテラスから振り返る。 アオも目を背中に動かして、「すぐそこじゃん」とつぶやいた。 そう。遠く離れているわけじゃなくて、単に、洋間の中に入るのが嫌なんだよね……。
わたしは腕組みしたまま考えた。 たしかに我が家には、コンクリートで床を強化した場所が、洋間のアトリエにある。 100キロある銅像の重さに耐える場所となると…… あそこしかない。 「でもなぁ……」 わたしは、冷や汗を感じ、思わず独りごちる。 受け取るとなると、やはり、あそこに置くしかないのか。 にしても、やっぱり洋間には、入りたくない…… わたしは苦笑して、配達員のオークさんを見上げた。「困ったな…… 置き場は、たしかにありはするんですけれど……」 配達員は微笑んだ。「よければ、私が屋内に運び入れますが?」 オークの配達員さんの腕を見ると、制服の袖がピタピタで隙間がないほど太いし、胸も厚い。木箱ごと抱えて持ち運ぶことはきっと不可能じゃない。 でも問題は、そっちじゃないんだよな……。 しかたなしに、わたしは嘘をついた。「──いえ、うちの中に、置ける場所がないんですよね」 オークの配達員さんも、そう聞くと、うなずいて言った。「たしかにこの重さじゃあ、お家の床が抜けちゃいますよね」 「ええ、そう、なんですよねぇ」 嘘をついているのは心苦しいけれど、目を合わせないまま、わたしは続けて言った。「……そんなわけで、やっぱり、この木箱は……ここに置いたままで良いです」 そうだな。いっそ、このまま外に置いておくのがいい。 このオークさんがいれば、こんなに重い荷物でもアトリエに運んでもらえるだろうけれども、引きこむ前に、ドアを開けた時点で、わたしがきっと倒れてしまう。そうなったら、また別の迷惑を配達員さんにはかけてしまうだろうと思った。「──なので、なんかごめんなさい」