光の扉を抜けた瞬間、辺りを覆ったのはしんとした森の気配だった。
背の高い木々が並び、枝葉が重なり合って空を隠している。 風が吹き抜けても、鳥が飛び立っても——音がしない。 「……なんだ、これ」 声を出した瞬間、あまりの静けさに自分の声だけが異様に響いた。 『ナギ、ここ……音が全部消えてる』 確かに、足音も葉擦れもまったく聞こえない。 まるで世界そのものが“ミュート”されているようだった。 森を進むと、光を帯びた小さな影が現れた。 精霊だ。 だがその唇は閉ざされ、どんな音も発していなかった。 「……喋れないのか?」 精霊は悲しげに首を振り、胸を押さえた。 その瞳からは、何かを伝えたいのに言葉が出ない苦しみが溢れていた。 『ナギ……精霊たち、“歌”を失ってる』 「歌?」 『うん。本来この森は、精霊たちの歌で満ちてるはずなの。 木々を育て、水を巡らせ、命を調和させる……その力が“歌”なんだよ』 「……なるほど。そいつが消えたから、森ごと音を失ったってわけか」 さらに奥へ進むと、大樹の根元にたどり着いた。 そこには壊れた竪琴が横たわっていた。 弦は切れ、胴はひび割れている。 「これは……楽器か?」 精霊がうなずき、震える手で竪琴を指さす。 どうやら、これが“歌の源”だったらしい。 『ナギ、この竪琴が壊れたのが歪みの原因だよ!』 「直せばいいってことか?」 『でも……ただ修理するだけじゃ足りない。 “心を響かせる歌”を取り戻さないと、森は甦らない』 そのとき、森の奥から低い声が響いた。 「……歌など不要だ」 姿を現したのは、巨大な獣だった。 黒い毛並みに金の瞳。 その体からは強烈な圧が放たれている。 「弱き者が歌で慰め合うから、争いが生まれる。 音を捨て、沈黙のまま在れば、傷つかずに済む」 「……出たな、“歪みの守り手”」 『ナギ……あれが、この森の歌を奪った存在!』 獣は牙をむき、低く唸る。 「さあ、証明してみせよ。 歌が本当に必要なのか、沈黙こそ救いなのか」 俺は銃を握りしめ、リィナに言った。 「よし、やってやろうじゃねぇか。 “歌を失った森”に、音を取り戻す!」 ——静寂を裂いて、銃声が轟いた。光を抜けた先は、冷たい灰に覆われた大地だった。山の斜面は黒く焦げ、岩肌はひび割れ、ところどころに煙の名残が漂っている。「……ここ、火山か?」『うん。でも火が……完全に消えてる』たしかに、火山の噴火口には赤い光も熱もなく、ただ冷たい石が積み重なっているだけだった。かつて噴き上がっていた炎の気配すら消え失せている。「火山が冷えてるなんて……そんなのありえるか?」歩いていくと、山の麓に小さな村が見えた。人々は厚着をして薪を焚いているが、焚火の炎は弱々しく、すぐに消えてしまう。「よう、旅人さん」ひとりの老人が俺に声をかけてきた。「……火がつかねぇんだよ。どんな薪を使っても、すぐ消える。まるで火そのものが、この世界から消えちまったみたいに」『ナギ……やっぱり“歪み”だね』村の人々は肩を寄せ合いながらも、寒さで震えていた。料理もできず、夜を越えるのもやっとらしい。「火がなけりゃ、人は生きられねぇ」俺は歯を食いしばった。「早く原因を突き止めねぇと」山道を登ると、崩れた祠の跡にたどり着いた。そこにはかつて“火の神”を祀っていた形跡が残っている。『ナギ……この世界の火は、神さまの力で保たれてたんだ』「じゃあ、その神が消えたのか?」祠の奥に進むと、黒い焔が揺らめいていた。炎のはずなのに冷たく、触れると凍えそうなほどの闇の火。「……これが、火を奪った原因か」そのとき、焔の中から声が響いた。「火など不要……争いを生み、破壊をもたらすもの。人は炎を持たぬ方が幸せだ」姿を現したのは、黒い甲冑を纏った騎士だった。
真っ白な夢の空間が揺らぎ始めた。夢守りの姿も淡く歪み、まるで彼女自身が迷っているかのようだった。「……夢は、救いのはずだった。現実は人を傷つけ、奪い、絶望させる。だから私は……人々を夢に導いたのです」その声には、初めて弱さが滲んでいた。「……お前も苦しんだんだな」俺は銃を下ろし、静かに言った。「だから夢に逃げた。それ自体は否定しねぇ。誰だって逃げたいときはある」『うん……私だって、ナギがいなかったら逃げてたと思う』俺とリィナの声が重なる。「でもな、夢に“住み続ける”ことはできねぇんだ。夢は現実を生きるために見るもんだろ」夢守りは瞳を伏せ、両手を握りしめた。「……あなたの言葉は……刃のように私を切り裂く……でも同時に……温かい……」次の瞬間、空間全体が大きく揺れた。眠り続ける人々の身体が光を帯び、ゆっくりと目を開き始める。「……ここは……」「夢を見ていた……のか……?」現実に戻った人々の瞳には、確かな“生の光”が宿っていた。夢守りは崩れ落ちるように膝をつき、俺を見上げる。「あなたは……夢を壊したのではなく……夢の意味を……教えてくれた……」その身体が淡い光となってほどけていく。消えゆく直前、彼女は小さく笑った。「……どうか、人々が夢を抱きしめながら
塔を包む光が渦を巻き、俺とリィナの足元まで広がってきた。 気づけば広場は消え、見渡す限り真っ白な空間に変わっていた。「……ここは……夢の中か?」 『うん……夢守りが作った結界だよ!』その中央に、夢守りが静かに立っていた。 相変わらず美しい笑顔を浮かべているが、その目は冷たく光っている。「ここなら思うままに世界を変えられる。 あなたたちは現実の枷に縛られ、私は夢の力を使える。 ——勝負は見えています」言葉と同時に、空間が一瞬で変わる。 俺の目の前に、前世の日本の街並みが広がった。 人々が笑顔で歩き、誰もが幸せそうに暮らしている。「……ここは……!」夢守りが柔らかく囁く。 「戻りたいでしょう? あなたの故郷に」心臓が一瞬止まりかける。 見覚えのある風景、聞き慣れた声、懐かしい匂い。 俺がもう二度と触れられないと思っていたものが、今ここにある。『ナギ……! ダメ! それは全部偽物だよ!』「……わかってる!」俺は強く目を閉じ、息を吐いた。 再び目を開けたとき、銃を夢守りに向けていた。「確かに帰りたいさ。 けど、ここは夢だ。偽物だ。 現実じゃなきゃ意味がねぇ!」——バンッ!白光が夢の街並みを撃ち抜き、景色が粉々に砕け散る。夢守りは驚いたように目を見開いた。 「……夢を拒むのですか?」「当たり前だ! 夢は見るもんで、生きる場所じゃねぇ!」彼女の微笑みが消え、表情が険しくなる。 「……ならば力で示してもらいましょう」次の瞬間、空間から無数の幻影が生まれた。 それは俺の過去の記憶。 失敗した自分、泣き叫ぶ自分
影たちは、まるで舞台の俳優のように笑顔を浮かべていた。 夫に抱かれる妻。 子どもと遊ぶ父。 友と酒を酌み交わす青年。——夢が形をとった“理想の住人”たちだ。「……こいつら、みんな幸せそうに見えるな」 『でもナギ……よく見て!』リィナの声に促され、目を凝らす。 影の笑顔は確かに明るいが、瞳は空っぽだった。 感情がなく、ただ幸福を“演じている”だけのように見える。「……そうか。幸せに見えても、それは“作られた夢”だ」影のひとりが俺に手を伸ばす。 「ここへ来い……夢の中なら、何も失わない……」その囁きは甘く、危うく心を引き込まれそうになる。「っ……危ねぇ!」 『ナギ! 影は“心を夢に引きずり込む”つもりだよ!』銃を構え、引き金を引く。 ——バンッ! 白光が影を貫き、笑顔のまま霧散させた。「……やっぱりただの幻だな」だが次の瞬間、さらに数十の影が現れる。 広場いっぱいに溢れ、取り囲むようにじりじりと迫ってきた。「……数が多いな」 『ナギ! 無理に撃ち抜くより、心を揺さぶる方が効くはず!』「心を……?」俺は影たちに向けて叫んだ。「お前らは夢の中じゃ笑ってるかもしれない! でも本当は……現実で泣いてる自分がいるんだろ!」その言葉に、影たちの笑顔が一瞬だけ揺らぐ。「……泣いて……?」 「……痛い……」 「……失ったはずなのに……」次々に影の身体がひび割れ、砕けて消えていった。「……効いてるな」だが、夢守りの声が空から響いた。「無駄です。彼らは現実に傷つき、夢に救いを求めた。
光を抜けた先に広がっていたのは、大きな都だった。 石畳の大通り、整然と並ぶ建物、噴水のある広場。 けれどそこには、人々の賑わいはなかった。「……静かだな」 『うん……でも森の静けさとは違う。ここは……』歩いてみると、建物の中に人々がいた。 ベッドや床に横たわり、まるで死んだように眠っている。 老いも若きも、子どもまで。「全員……眠ってるのか」広場に出ると、噴水の縁にも人が寄りかかって眠っていた。 笑顔の者もいれば、泣きそうな顔で眠る者もいる。『ナギ、これは夢に囚われてるんだよ』「夢に……?」『うん。この人たち、夢の中で幸せに暮らしてる。 だから現実に戻ろうとしない。 夢と現実の境界が壊れてるんだ』俺は歯を食いしばった。「つまり……これも“歪み”ってわけだ」広場の中央に、不思議な塔が立っていた。 先端は水晶のように輝き、淡い光を放っている。「……あれが原因か」近づこうとしたとき、空気が揺れた。 塔の上から、女性の声が降り注ぐ。「ようこそ、旅人たち」姿を現したのは、透き通る衣をまとった美しい女だった。 その微笑みは優しく、見る者を安心させる。「私は《夢守り》。 人々を夢の中に導き、苦しみから解放する者」「お前が……この都を眠らせたのか」「ええ。人は現実で傷つき、争い、涙を流す。 けれど夢の中では、愛も幸福も、永遠に手に入る。 ——それのどこが悪いのです?」『ナギ……この人が“歪みの守り手”だ!』俺は銃を握り、睨みつけた。「夢に逃げてたら、現実を生きられねぇ! 目を閉じたままじゃ
戦いが終わった森は、まるで別世界のようだった。 さっきまで沈黙に覆われていた場所が、今は音であふれている。木々の枝が風に揺れる音。 小鳥のさえずり。 せせらぎが石を撫でる音。 そして、精霊たちの歌声。「……すげぇな」 俺は思わず呟いた。『うん……これが本来の森なんだよ』精霊たちは大樹の周りに集まり、光を放ちながら歌っていた。 その声は言葉にならない旋律だが、不思議と心にすっと染み渡ってくる。 優しくて、温かくて、涙が出そうになるほど。「ナギ」 リィナが静かに語りかけてきた。『私ね……神になったとき、“声”をどう使えばいいかわからなかったの。 祈られるわけでもないし、命令するのも嫌だし……。 でも今、わかったよ。声って、伝えるためにあるんだね』「そうだな」俺は少し笑って、銃を握り直した。「叫ぶのも、泣くのも、笑うのも……ぜんぶ声だ。 それで誰かと繋がれるなら、それで十分だろ」リィナが小さく笑う。『……ナギの声、私すごく好きだよ』「お、おい急に何言うんだよ……!」『だって、本当の気持ちをちゃんと伝えてくれるから』「……ったく、調子狂うな」 そう言いつつも、頬が熱くなるのを隠せなかった。やがて、修復された竪琴がひとりでに鳴り始めた。 精霊の歌と重なり、森全体がひとつの大きな楽器のように響き出す。その音色に誘われるように、動物たちが集まり、木々が揺れ、川の流れさえも歌っているように思えた。「……いいな。こういう世界なら、ずっといたいくらいだ」『うん。でも私たちは旅を続けなきゃね。 だって、まだ“歪み”が残ってるんだから』