LOGIN三度目の鐘が、胸骨の奥まで響いた。リーゼロッテの足が、勝手に床を蹴った。扉へ、廊下へ、外へ。手首に絡んだ赤い糸が、見えない手に引かれるように、ぴんと張りつめている。「待て」帯が引かれた。結ばれた手首の先で、エルフリーデが踏みとどまっている。額に汗が滲み、歯を食いしばっていた。「放してください。このままだと、あなたまで」「放しません」「エルフリーデ」「その名前は、さっき、あなたが手のひらに書いてくれたものです」エルフリーデの声は低く、揺れていなかった。「覚えている理由が、それしかない。だから、書いてくれた人と一緒に行きます。理由は、それで足ります」リーゼロッテは、唇を噛んだ。反論の言葉が、どこにも見つからなかった。「私も行くわ」廊下の端から、ミレイユが言った。外套を羽織り、帽子はもう被っていなかった。「首領が、あそこにいる。娘が行かなくて、誰が行くの」カスパーが何か言いかけて、飲み込んだ。それから、短く頷いた。「広間と六人は、私が守ります。お戻りを」北の塔は、夜の中で、前よりずっと大きく見えた。崩れた頂の縁から、黒い空が覗いている。入口の石は、誰かが磨いたように滑らかだった。螺旋階段に足を載せた途端、段の溝が、かすかに光った。「数えます」エルフリーデが、先に口を開いた。「前に、あなたが私にそうしてくれたと、ミレイユさんから聞きました。今度は、私が」「あなたが、数えるのですか」「ええ。一」足音が、石に落ちる。「二。三。四」声が、少し掠れている。「五。六。七。……八」そこで、止まった。「次は、何でしたか」階段の途中で、エルフリーデが立ち尽くしていた。眉間に、困惑の皺が寄っている。「数字が、落ちました」「九です」「九。そうでした」エルフリーデは、悔しそうに息を吐いた。「あなたの名前は覚えているのに、数が」「いいんです」リーゼロッテは笑った。涙が、一粒、笑いと一緒にこぼれた。「私が、そばで言います。九。十」「十一」「合っています」「あなたが言ったからです」「それでいいんです」手首の帯の先で、二人の脈が、互いの数に合わせて、ゆっくり落ち着いていく。後ろを歩くミレイユが、何も言わずに、背を向けた。頂の広間は、前に来た時と、様子が変わっていた。崩れた床の縁に、板が渡されている。中央の石台の上に、黒い石
ランプに火を入れる手が、震えていた。マッチを擦り損ねて、三度目でやっと芯が灯った。橙の光が、寝台の上の人影をぼんやり照らす。エルフリーデは上体を起こしたまま、リーゼロッテの手首を握っていた。握っている自分の手を、他人のものを見るような目で見下ろしている。「あの、失礼ですが」静かな声だった。怯えてはいなかった。ただ、ひどく丁寧だった。「あなたは、どなたでしょうか。それと、この手は、なぜ離れないのでしょう」喉の奥が、焼けるように痛んだ。それでもリーゼロッテは、泣かなかった。ヘレナさんは、毎朝、泣かなかった。毎朝、墨を磨った。「手を、貸してください」「手を」「左手を。掌を上にして」エルフリーデは言われた通りにした。リーゼロッテは寝台の脇の小卓から、墨壺と細い筆を取った。指先が震えて、筆先が一度、紙の上で跳ねた。深く息を吸って、掌の中央に、筆を落とす。エ。ル。フ。リ。ー。デ。払いが、右へ流れた。書き終えて、息を吹きかけて乾かす。エルフリーデは、掌に並んだ文字を、じっと見つめた。「エル、フリー、デ」つかえながら、一音ずつ読む。「これが、私の名前ですか」「はい」「あなたは」「リーゼロッテです。あなたの」言葉が、一瞬詰まった。「あなたの、妻です」エルフリーデの瞳が、わずかに見開かれた。「妻」繰り返してから、ゆっくり、リーゼロッテの手首を握ったままの自分の手に、視線を移した。「それは、困りました」「え」「覚えていないのに」エルフリーデは、少しだけ首を傾げた。「離したくない、という気持ちだけが、ここに、はっきりあります」リーゼロッテの目から、涙が一粒、こぼれた。エルフリーデが、はっとした顔をした。「泣かないでください」「泣いていません」「泣いています」エルフリーデは、空いた手で、頬の涙を探った。指先が、触れるか触れないかの強さで、涙の跡をなぞる。「あなたが泣くと、胸が痛みます。理由は、分かりません。ただ」「ただ」「あなたが泣く理由を、私が作ったのなら、止めたい。作っていないのなら」エルフリーデの灰色の瞳が、静かに細くなった。「作った人間を、斬りたい」その言い方が、あまりに記憶を失う前のままで、リーゼロッテは、泣きながら、笑ってしまった。「斬らないでください」「なぜ」「相手は、遠くにいます」「遠くても、行きます
首領の筆跡を、ミレイユは長いこと見つめていた。名の広間の隅で、リーゼロッテは息を殺してその横顔を見ていた。「娘を、頼む」と、紙の下端に細く添えられた一行。ミレイユの指が、その字の上でぴたりと止まっている。「娘、ね」声が乾いていた。「あの人が、私をそう呼んだのは、生まれて初めてよ」エルフリーデの視線が、ミレイユの顔に移った。「あなたが、首領の」「ええ。ヴェルナーは、異母の弟」ミレイユは紙を折りたたんだ。指先がわずかに震えている。「十五のとき、荊眸を捨てたの。三百年の復讐より、一人の手を選んだ。父は、それを許さなかった。以来、一度も、名前を呼ばれなかった」「それなのに」「それなのに、よ」ミレイユは笑った。唇だけが、歪んだ。「死ぬつもりなのね、あの人。塔の上で」リーゼロッテの喉が詰まった。三日後の夜明け。ヴェルナーは、父の首を礎の前で落とすと言った。首領は、それを知っていて、娘に宛てた一行を、封筒の隅に忍ばせたのだ。「行きます」ミレイユが言った。「アウローラという名前を、もらったばかりだけれど」「一人では」「分かってる。だから、あなたたちに頼むの」ミレイユは、リーゼロッテの手を取った。冷たい指が、ぎゅっと力を込める。「助けて。あの人を、死なせたくない」初めて聞く、頼む声だった。その夜、リーゼロッテは、エルフリーデの手首を、帯でもう一度、自分の手首に結んだ。「必要ありません」エルフリーデは言ったが、手は引かなかった。「あなたの手首は、私が握っています」「それでも、結びたいんです」「では、お好きに」低い声が笑いを含んでいた。結び目を整える指先が、少しだけ、丁寧すぎる。寝台の上で、二人は並んで横になった。天蓋の闇を見上げる。隣の呼吸が、近い。肩が触れて、肘が触れて、掛け布の下で、足先が、ほんの少し擦れた。「リーゼ」「はい」「夢を、見たんです。昨日の夜」「どんな」「あなたが、私の名前を呼んでいました。エルフリーデ、と。それだけなのに」エルフリーデは、ゆっくり息を吸った。「呼ばれるたびに、胸の奥から、何かがせり上がってきて。目が覚めたとき、頬が濡れていました」リーゼロッテは体を横に向けた。暗がりの中に、おぼろげな輪郭がある。「私は」言いかけて、喉が詰まった。何を言えばいいのか、分からなかった。エルフリーデの手が、
灰色の外套の男は、急がなかった。靴音を石の床に落としながら、広間の中央まで歩いてくる。両脇の兵が剣を抜こうとしたが、男が片手を上げただけで、動きが止まった。兵の足元に、細い赤い糸のようなものが、いつの間にか絡みついている。「動かないほうがいい。名の糸は、ここの礎と繋がっている。切れば、壁が欠ける」声は若かった。三十に届かないだろう。首領とよく似た赤い瞳をしていた。「ヴェルナー」ミレイユが低く呟いた。「あの人の息子よ」「そう。覚えていてくださって光栄です、前の巫女様」男は軽く頭を下げた。礼儀正しいのに、目だけが笑っていない。右手の指に、小さな黒い欠片を摘んでいた。爪ほどの大きさで、赤い筋が脈打っている。国王の胸から抜けた、名の三分の一だった。「返してください」自分の声が、思ったより強く出た。リーゼロッテは一歩前に出た。エルフリーデの手が、まだ手首を握っている。指に、少し力がこもった。「それは、エルフリーデが私の名を預けていたもの。彼女のものでも、あなたのものでもない」「あなたの名だ」ヴェルナーは欠片をかざした。「あなたの名を、三つに割った一つ。つまり、あなたの一部を、私が握っている」背筋に、冷たいものが走った。「どういう意味ですか」「こういう意味です」ヴェルナーが、欠片を握り込んだ。その瞬間、リーゼロッテの足が、勝手に動いた。一歩。もう一歩。自分の意思ではなかった。膝から下が、見えない糸に引かれるように、前へ出る。「リーゼ!」エルフリーデの声が、背後で跳ねた。足が止まらない。床の円の外へ、ヴェルナーのほうへ、体が引っ張られていく。喉の奥で、息が詰まった。声を出そうとして、出ない。名前を握られると、声まで握られるのだと、体が理解した。そのとき、手首に、強い痛みが走った。エルフリーデが、後ろから、両手で掴んでいた。左手首。脈の上。あの日と同じ場所を、折れそうなほど強く。「行かせない」低い声だった。喉の奥から絞り出すような。「あなたの名前は、全部は思い出せない。でも」足が、ほんの少し、止まった。「あなたの手首の握り方は、全部、覚えています」指が、脈を押さえ込んだ。力は強いのに、痛みの底に、温度があった。「脈が乱れているな」その一言で、足首の糸が、ぷつりと緩んだ気がした。ヴェルナーの眉が、わずかに動いた。「
広間に集まった七人は、誰もが所在なげに立っていた。壁の前に、輪を作るための白い石の円が、床に描かれている。七つの手形が、等間隔に刻まれていた。リーゼロッテは、その一つ一つに目をやった。アリは叔母の袖を握っている。トビアスは、小さなミナを背中に隠すようにして立っていた。老漁師は壁の名を見上げて、口を半開きにしている。リオは、母のエルナの手を両手で包んだまま、決して離そうとしなかった。手形は七つ。人は、六人と、一人。壁際に、ミレイユが立っていた。帽子を外した銀の髪が、肩に落ちている。「入れないと、思う」彼女は先に言った。「輪は、名を呼ばれた者の手で繋がる。リーゼロッテが記憶を持つ者として、一人ずつ名前を呼ぶ。そうして初めて、手形が応える。私には、呼ばれる名がない」「ヘレナさんが覚えていたのは」「消えたわ。壁から」声は静かだった。その静けさが、胸に重かった。リーゼロッテの隣で、エルフリーデが、ごくわずかに身を寄せた。背中に、手のひらの温度が当たる。触れているのか、いないのか、分からないほどの距離だった。「白い部屋へ行きましょう」リーゼロッテは言った。ミレイユの肩が、びくりと揺れた。「会えば、また、他人の顔をされる」「はい」「そのたびに、私は」「他人の顔をされても、手が覚えています」エルフリーデが言った。低い声だった。「私は、そう教わりました」ミレイユは、長いこと、エルフリーデの顔を見つめていた。それから、小さく頷いた。白い部屋の窓から、朝の光が細く入っていた。ヘレナは卓に向かって、ゆっくりと茶を飲んでいた。三人が入ると、静かに頭を下げた。「いらっしゃいませ。今朝は、お客様が多いのですね」ミレイユは、扉の脇で立ち尽くしていた。喉が、何度も動いている。ヘレナは、その顔をじっと見た。「あなたは、いつも、窓の外にいらっしゃった方では」「……ええ」「ご挨拶が、遅れて、すみません。お名前を、まだ伺っていませんでした」ミレイユは、唇を噛んだ。「名前は、ありません。今は」「あら」ヘレナは、首を傾げた。「それは、お困りでしょう。毎朝、手のひらに書こうにも、書く名がないのですから」ミレイユの目が、見開かれた。ヘレナは、卓の上の墨壺の蓋を開けた。細い筆に墨を含ませて、静かに言った。「もしよろしければ、僭越ながら、私が、つけてもよ
名の広間に入った途端、リーゼロッテは冷たい石の粉の匂いを嗅いだ。壁の下の床に、白い石屑が散っていた。見上げると、壁のあちこちが鑿で抉られたように削れている。刻まれていたはずの細かな文字が、ところどころ丸ごと消えていた。「四十ほどです」宰相が、震える指で数えた。「削られたのは、礎の中でも古い名ばかりです」国王は壁の前に立っていた。外套の胸元を、片手で握りしめている。顔色は白蝋のようだった。「陛下」「大丈夫だ」大丈夫には見えなかった。握った手の下で、何かが脈打っている。外套の隙間から、赤い光が漏れていた。エルフリーデが一歩前に出た。「胸が、痛むのですか」「君の名だ」国王は絞り出すように言った。「壁が削られるたびに、これが引かれる。誰かが礎から、名を引きずり出そうとしている」「引き出されたら」「預かり主の私から、剥がれる。奪われる」エルフリーデの眉が険しくなった。「返してください。今すぐ。奪われるくらいなら」「それはできない」国王は首を振った。「今抜けば、礎の穴を塞げずに、結界がその場で割れる」「ですが」「君の名を守るために、国を割ることはできない。分かってくれ」エルフリーデは唇を結んだ。握りしめた拳が震えている。リーゼロッテはその拳に、自分の手を重ねた。「七つの手を集めます」「リーゼ」「期限は、三日後に縮まりました。それでも間に合わせます」拳が、ほんの少しだけ、ほどけた。広間を出る前に、リーゼロッテは壁の一角で足を止めた。ヘレナ。ミレイユ。並んだ二つの名のうち、ミレイユの側が削られていた。白く抉れた溝が、字の形を失っている。背筋が凍った。「白い部屋へ」エルフリーデが、すぐに頷いた。白い部屋の扉を開けると、ヘレナは窓辺に座っていた。いつもと同じ、背筋の伸びた姿勢だった。けれど卓の上の墨壺は、蓋を閉じたままだった。「おはようございます」彼女は丁寧に頭を下げた。「おはようございます。今朝は、お書きにならないのですか」ヘレナは自分の両手を見下ろした。左の掌が、白かった。「それが、おかしいのです。いつも通り墨を磨ろうとしたのに、手が動かなくて。何を書こうとしていたのか、思い出せなくなってしまって」窓の外に、銀色の影があった。つばの広い帽子の下で、ミレイユが立ち尽くしている。庭師の鋏が足元に落ちていた。ヘレナが