Share

百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった
百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった
Author: 道中ヘルベチカ

第1章:夢の終わり*遥花

last update Last Updated: 2025-08-27 17:17:45

【2015年2月】

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、温かな腕に抱かれる夢を溶かした。目を覚ますと、頬に残る甘い感触が消え、冷たい天井だけがそこにある。胸が締め付けられるように痛んだ。

隣の枕は、いつものように空っぽだ。夫の大道寺悠真だいどうじ ゆうま――ステアリンググループの御曹司であり、あの冷たい瞳の持ち主は、もう一ヶ月もこの東京・港区に構える屋敷に帰っていない。広い寝室に、私の吐息だけが響く。

二年前、悠真との結婚を「愛の始まり」だと思った。ルミナスコーポレーションの経営者である養父母に育てられ、ビジネスの駒として厳しく躾けられた私にとって、この婚姻は初めて「本当の家族」をくれる希望だった。

でも、それは悪夢の始まりだった。「お前は借り物の娘だ」「恩を返せ」。養父母の声が今も耳に残り、企業間の冷たい取引の記憶が時折よぎる。私の愛だけは、借り物なんかではない、私自身のものだと思っていた。そう思いたかったのに。

再び夢の中へ戻りたいという欲望に駆られる。“好きだよ、愛してる”と、甘い声で囁きながらベッドの中で深く私を抱きしめてくれた悠真。そんな彼とはもう、夢の中でしか会えない。

そもそも結婚当初の彼も、実際にそんな風だったろうか。もはや過去を美化しすぎた妄想か、ただの夢かとも思えてくる。

ふと、お腹をさする。何やら違和感があった。最後に「あれ」がきたのはいつだったろう。季節やストレスなどの影響によって時期がズレることもあるが、心当たりがないこともなかった。

悠真が酔った勢いで私を抱いたのは、まさに最後に彼が家に帰ってきた一ヶ月前だ。まるで性処理道具のように扱われ、私の心は打ちひしがれた。当然、避妊もなかった。

「夫婦だろ。何を気にしてやがる」

アルコール臭い息を吐きながら悠真は言った。わかっている。ステアリンググループという大きな組織の跡取りの妻として、子を為すことは私の義務だ。また、時には夫のストレスの捌け口になることだって妻の使命。

それでも、彼の腕の中で愛を感じたかった。大切な夫婦の営みに、そうした心の安らぎを望むのは悪なのだろうか。許されないのは、私が所詮“借り物”の存在に過ぎないからなのか。

気怠さを振り払いながら、近くの産婦人科の予約を確認する。予感が的中したとしたらどうしよう。わからない。ただ、先のことなど思案する余裕はなかった。

午前中の予約はすでに混み合っていて、取れたのは夕方の時間帯だ。それまでの間、ずっとこの不安を抱えて過ごすことになる。朝の冷たい光の先に、何も見いだせずにいた。

「双子です。おめでとう、遥花はるかさん」

微笑む医師の言葉に、ただぼうっとしていた。まずは予感が的中したことに驚かずにはいられなかった。ましてや、双子? 一度に二つの命を、この身に宿すことになるなんて。

「言葉にならないといった様子ですね。まぁ無理もありません。不安もあるでしょうし」

しかし医師は、すぐ真剣な顔になって言葉を続けた。

「ただ……余計に不安を煽るようで大変心苦しいのですが、医師としてお伝えしなければならないこともあります。あなたの体をお調べしたところ、子宮頸管無力症しきゅうけいかんむりょくしょうが確認されました」

「“シキュウケイカンムリョクショウ”?」

聴き慣れない言葉に、眉を潜めてしまう。あまり良くない言葉であることだけはすぐに察した。

「いわゆる、ハイリスク妊娠です。子宮頸部、つまり赤ちゃんの部屋を閉じる管の力が弱く、しかも双子という負担もあって、早産の危険が高いんです。感情的なストレスは絶対に避けてください。母子ともに命に関わります」

“命に関わる”――その言葉が、頭に重く響く。双子を宿したお腹に手を当て、息を飲んだ。悠真に伝えなきゃと、一瞬、胸が熱くなった。でも、それで彼が帰ってくるだろうか。知ったとして、またあの無関心な目で私を見るだけではないだろうか。

タクシーの中で、医師の「ストレスは絶対に避けて」という言葉を反芻した。そんな簡単なことが私には果てしない試練だった。子宮の弱さが、まるで私の人生を象徴しているようで苦しかった。

屋敷に戻ると、ドライバーが車を磨いているのが見えた。今日は悠真に付きっきりの予定だったはずだ。ということは、彼が帰ってきたのだろう。それ自体珍しいのに、まだ日も暮れない時間帯でなんて。

玄関のドアを開ければ、悠真の革靴と赤いハイヒール。床にステアリンググループの封筒が落ち、角が握り潰されている。誰のハイヒール? 何の封筒? 足が凍りつくが、意を決して足を進める。するとリビングの扉のガラス越しに、中にいる人物が見えた。

悠真がソファに座り、誰かを優しく抱きしめている。相手は女性――佐野百合子さのゆりこだ。ステアリンググループの関連企業に勤め、社交の場や公開イベントなど、私が夫人として出席するような場でもやたらと悠真に近づいていた社員の一人だった。

心臓が砕けるように痛い。お腹にチクッと痛みが走り、子宮頸管の弱さを思い出し、慌てて息を整える。幸か不幸か、中の二人はまだ私の存在に気づいていない様子だ。

百合子は悠真の胸に顔を埋め、涙ながらに震える声で訴えていた。扉を閉めていても聞こえる、特徴的な、甘えた高音ボイスで。「遥花さんが……先月の新年会で、私に冷たい視線を投げてきたの。私が悠真さんのそばにいることが、あの人には我慢できないみたい」

嘘だ。冷たい視線なんて投げた覚えはない。確かに百合子は新年会で何度も悠真に近づき、彼の腕に触れながら、親密そうに笑っていた。私が夫人であることを知って、わざと牽制してくるように。

私は“女性社員にも慕われる夫に対し、理解ある寛大な妻”を演じて、努めてニコニコしていただけだ。その作り笑いに「冷たい視線」を感じたと言うならそうかもしれない。ただ、先に挑発してきたのはそちらだろう。私を悪者に仕立てようとしている――胸がざわつく。

扉の前で、踏み込むべきか否かを躊躇していると、悠真と百合子の顔が徐々に近づきつつあった。あわやキスしそうな距離の二人を目の前に、辛抱できず、扉を開けた。

「遥花……!」

私の姿を見た悠真の声は鋭い。気まずい場面を見られて狼狽したようだが、それを覆い隠すような怒りの感情を剥き出しにし、百合子を離さずこちらを睨みつけてくる。「佐野君に冷たくしたそうじゃないか。彼女は大事な社員だ! 傷つけるようなことをするな!」

言葉が喉に詰まる。言いたいことは山ほどあるのに――なぜ妻の私より、百合子の言葉を信じるの? “大事な社員”じゃなくて、もう“愛人”なんじゃないの? そんなぶつけたい言葉たちが、百合子の涙と悠真の怒りによって崩されていく。どうせ言っても無意味だ。所詮私は、親同士の政治で結ばれた、書類上の妻でしかないのだから。

私はただ、静かにリビングを後にした。私の方こそ涙をこぼしたかった。でも、まだこぼすわけにはいかない。お腹の痛みが、私が本当に守るべきものが何かを思い出させる。

自室に戻り、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。震える指でペンを握り、自分の名前を書き込んだ。悠真を愛していた。心のどこかで、今も愛している。性処理の道具のように抱かれた夜だって、私の中に溢れた彼に、愛しい気持ちを抱けたのは確かだ。それが結実し、双子の命として宿った今、悦びだって感じている。

でも、この家に私の居場所はない。私の唯一の悦びを――この双子の命を守る。そのために、この悪夢を終わらせると決めた。もう、弱い自分に負けない。

自室のドアが乱暴に開いたのは、数時間後、日もとっぷり暮れてからだ。悠真の目にはなお、怒りと、どこか怯えたような光が宿っている。百合子との情事を楽しんでいたような様子はない。

「佐野君には帰ってもらったよ……彼女はたまたま、仕事の書類をうちに届けにきてくれただけなんだ……それがたまたま、あんな話になってしまって……」

何も尋ねていないのにペラペラ喋る。ずいぶん「たまたま」が続くことだなと思いつつ、私は黙って彼に背を向け、荷造りを続けた。

「また、“プチ家出”か?」

「違うわ」

さすがに言葉を返す。惜しいけれど、違う。

「狙いは何だ、遥花?」狼狽えた様子ながらも、彼は質問を続ける。声は低く、抑えきれぬ激情を帯びていた。「今度はどんな芝居で俺を縛るつもりだ?」

背後から悠真が近づき、腕を掴んだ。その力は強く、まるで私を壊すかのようだった。「やめて!」叫んだが、彼の手は緩まない。勢いに任せ、彼が私をベッドに押し倒そうとしたその瞬間――。

「離婚しましょう」

私の声が静かな部屋に響く。狼狽え、手を離す悠真。私はすぐ机に向かい、数時間前に名前を書き込んだ書類を取ると、震える手でそれを――離婚届を突き出した。

紙が彼の胸に触れ、静かな部屋にカサッと音が響く。悠真は虚ろな目でこちらを見ている。私は涙で潤む瞳に、揺るぎない決意を宿して彼をにらんだ。これこそが、最後の賭けだった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第25章:疑惑の涙*悠真

    玄関のベルが鳴り、百合子を迎えに行っていたドライバーが帰ってきたことを知らせた。「お連れしました」屋敷のエントランスで百合子を迎え入れる。黒のタイトスカート、赤いリップ。いつもの妖艶さだ。だが、今日はどこか疲れた目をしている。ドライバーは、今日の仕事はもう終わりといった表情をしていたが、目配せしてもうしばらく敷地内に待機するよう指示した。意外そうな表情をしながらも、彼は電子煙草を取り出して玄関の外へと出ていった。もちろん、その分のチップが受け取れることを了解して、だ。彼女をリビングに招き入れ、ソファに腰を下ろさせる。広い部屋に二人きりだ。「怖い顔してどうしたの、悠真」「お前こそ、なかなか会ってくれなくてどうしたんだ。俺に愛想尽かしたのかと思った」百合子が笑う。細い指で、俺の手を取る。思いのほか冷たい。「そんなわけないじゃない。あなたは私の運命なのに」「運命、か」俺は手を振りほどく。彼女の言葉に、違和感が募る。「その運命とやらにかこつけて、俺が利用されてるとしたら、たまったもんじゃないな」百合子が目を細める。「何を言ってるの?」「周りの連中がうるさいんだ。俺は“女狐”にハメられてるだけだって」「言いたい奴には言わせておけばいいのよ」彼女が再び手を取る。冷たい指。俺は思い出す。2月のあの日、彼女が初めて家を訪れ、ここで手を取り合っていたことを。それが、俺と遥花の離婚のきっかけになった。けれど5月、彼女が手首の傷について語り、俺の記憶の奥底で眠っていた誘拐事件を思い出させてくれた。そのことで、百合子の出会いは運命だったと感じることができた。離婚後の虚しさも、百合子が埋めてくれたはずだった。「幼いころ、私が誘拐されていたあなたを救ったのは事実。そしてあなたと付き合い始めてから、何度も熱い夜を過ごしあったのだって事実でしょ」「何度も……」だが、その言葉に引っかかる。彼女との営みに関して、俺の記憶では数えるほどだ。「百合子、お前、いま誰と会話しているんだ?」「誰って……あなたよ、悠真……」当たり前のことを言う百合子。もし間違えて他の男の名を呼べば尻尾がつかめると思ったが、そう簡単にはいかないようだ。「悠真、なんだか変よ。最近、いろいろありすぎて疲れちゃったんじゃない?」そう言う百合子に、いつもだったら仕事のことを労ってくれてい

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第24章:冷たいキス*百合子

    ホテルのスイートルーム。乱れたベッドのシーツ。先ほどまでの体の熱が冷たく消えていくのを感じ、裸の上半身を毛布でくるむ。ベッドの縁に座っている男が、そちらも裸の姿のままでセブンスターにライターで火をつける。煙が漂う薄暗い部屋。窓の外では、11月も暮れの夜の東京が光っている。「大道寺家の御曹司を取り込む計画はどこまで進んでる?」彼――隆一の声はいつも通り無機質だ。ダスクコーポレーションの再起の話を私に持ち掛けてきたビジネスパートナー。私を利用し、私も彼を利用している。「ちょっとした計画のズレが生じてね……あの佐伯敏夫とかいう秘書に言いくるめられて。悠真ったら、私に内緒でお見合いしたみたいなの。信じられる? 浮気と一緒でしょ」私は笑ってごまかす。悠真がお見合いに本気じゃないのは分かる。でも、佐伯の裏工作が気に入らない。わざと私を遠ざけるようなことをして、完全にこちらの素性をお見通しだと言わんばかりに。「浮気、か。今の今まで他所の男に抱かれていたお前とは違うのか?」隆一の目が鋭く光る。私は肩をすくめる。「ぜんぜん違うわ。私とあなたはビジネス。事を円滑に進めるためのコミュニケーションじゃない。そのハズでしょ? それともあなた、私に変な気を持った? やっぱりあなたも単なるオスだったってワケ?」隆一が笑う。「馬鹿にしてもらっちゃ困る。私もわきまえてるよ。酒を飲みかわす行為の延長線上だ。それ以上でもそれ以下でもない。だいいち、自分の娘ほどの年齢のお前に、そんな気を起こすと思うか」「自分の娘ほどの年齢の女と抱き合った男が言うセリフじゃないでしょ」「はは、そりゃそうだ。まあ、どんなときにもエンターテインメントは必要だからな」そう言って煙を吐くと、隆一は私の唇を奪う。冷たく、乾いたキス。舌が絡む、計算された動き。私は目を閉じ、受け入れる。「ふふっ、私、あなたのそういうところは嫌いじゃないわよ。ちゃんとドライに弁えてるところも、どこかのお坊ちゃんと違ってキスが上品なところも」「どこかのお坊ちゃん、か。今はそれが大事なターゲットだろ。離すな、モノにしろ」隆一の声が低く響く。悠真はダスク再起の鍵。ステアリンググループの御曹司である彼を手中に収めれば、未来が開ける。なのに最近、思うようにできない。「じゃああなたも、あの秘書をどうにかしてよ」私が

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第23章:温もりの夜*遥花

    部屋の暗闇が、私の心を優しく包み込む。テレビに映るのは、TSUTAYAから借りてきたDVDの映像だ。ハイスピードアクションもので、主人公が敵の銃弾をかわし、ビルを駆け上がっていく。爆発の炎が画面を赤く染め、追う影が迫る。ドキドキが止まらない。隣に座る香澄がポップコーンの袋をガサガサ開ける音が、唯一の現実味だ。取り出しやすいように袋の側面を開く、いわゆる“パーティ開け”されたポップコーンに手を伸ばすと、指先が香澄の手に触れた。温かく、柔らかい感触。「あ、ごめん、当たっちゃった」香澄の声が耳元で囁くように響き、彼女の指が私の指に軽く絡む。離さないまま、笑顔を向けてくる。「あはっ、相思相愛だね」その言葉に、胸がときめいてしまう。香澄の目が、スクリーンの光を反射して輝く。女同士なのに、こんな気持ちになるなんて思わなかった。ほんの数ヶ月前まで、私は別れたはずの悠真の影を完全には払いきれないまま、養父母や脅迫めいた謎の手紙に怯え、双子の命を案じていただけだった。離婚の痛みや早産の恐怖に心を支配され続けていた。でも今は違う。すべての苦しみが、香澄の存在で少しずつ溶けていった。この温もりが、私の新しい現実なんだ。映画の銃声が鳴り響く中、手を握り返す。香澄の掌が汗ばんでいる。緊張から? それとも、私と同じドキドキを感じてくれているのだろうか。アクションの連続が、心臓の鼓動を加速させる。敵の罠に落ちかけた主人公が、逆転のカウンターを決める。香澄が小さく声を上げる。「よしっ! かっこいい!」興奮する香澄。私はただ、隣の存在に意識が奪われる。女同士の恋。世間がどう見ようと、今、この瞬間は純粋だ。数ヶ月、共に過ごした時間――病院のベッドサイドで手を握り、NICUのガラス越しに双子を見つめ、夜遅くまで語り合った。あの親密さが、私を変えた。いや、それ以上に。香澄のまっすぐな視線が、私を「遥花」として見てくれるから。映画がクライマックスを迎える。主人公が、恋人を守るために最後の賭けに出る。爆風が画面を揺らし、静寂が訪れる。エンドロールが流れ終わり、香澄が照明を点ける。放心状態の私の肩に、彼女の手が触れた。「あー、面白かったねぇ。やっぱアクションってスッキリするわぁ……って、え、遥花!? 泣いてる!? そんな、泣くようなシーンあった?」目から涙がこぼれる。拭いながら、首を

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第22章:対峙の炎*香澄

    【2015年10月】マンションの部屋で独り、PCに向かって密かに作業を進める私。まだ入院中の遥花は帝王切開の痛みに相当苦しんでいたし、早産でNICUに運ばれた双子の様子も心配だった。また医者から「安静に、ストレスを避けて」と念を押されたが、養父母がまたいつ訪ねてくるかという不安が最も大きなストレスとして私たちにのしかかっていた。遥花がいない、久しぶりに独りきりの部屋で、私はルミナスのネットワークにハッキングを仕掛けた。その道の専門家としては簡単だったけど、心はざわついた。画面に広がるデータの中から、私たちの個人情報が流出したことさえわかればよかったが、潜れば潜るほどルミナスが隠していた不正が次々と出てきた。顧客の個人情報が闇市場に流れるログ、税務署への虚偽報告。叩き上げで地位を築いてきた会社の蔵は真っ黒に染まっていた。やがて私は、最も厳重になっている扉にたどり着く。パスワードは、5回間違うと完全にネットワークからシャットアウトされるばかりか、彼らにハッキングの通知が飛んでしまう。開けるか、開けまいか。私たちの個人情報が流出していたという事実がつかめなくても。彼らを訴えるには十分すぎるほどの材料がある。何もこんな危ない橋まで渡らなくていいだろう。そんな気もして、一旦は離れたのだが。「私……そのパスワード、わかるかもしれない」翌日、遥花を見舞いに行ったときに、彼女はそう言った。「養父がある日、呪文のように変な言葉を唱えていたの。確か、“ルミナスの心臓、誕生日……ルミナスの心臓、19500825”って。何を言ってるかと思ってこっそり部屋を覗き込んだら、パソコン画面に表示された小さなダイアログに、何か文字を入力していて。それを打ち込むと、一気に画面の中に、データの波が広がっていったの」“ルミナスの心臓、誕生日”がパスワードに紐づく情報? それを口にしていたというなら何とも間抜けだが、彼ほどの老人ならありえる話だ。「でもそれ、いつの話?」「私が結婚する直前だったから、2年半くらい前になるわ」2年半くらい前のパスワード。そんなものをいまだに使っているだろうか。いや、老いた人々には、パスワードを頻繁に変える習慣はない。システムから変えるように警告されて一度変えても、次に警告されたときにもとに戻してしまう人間だっている。どんなにシステムを刷新したところで、

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第21章:幼き日の檻*遥花

    【1993年~2000年】養父母の影は、私の人生の始まりからずっと付きまとっている。6歳より前のことは何も覚えていない。物心ついたのがいつだったかさえ、ぼんやりしている。目が覚めたら、6歳の道仲遥花としてそこにいた、という感覚だ。白い壁の部屋、知らない大人たちの声。そして偽りの家族。すでに言葉も話せるし、自分が「遥花」という名前なのも理解している。ただ「道仲」という苗字がどうも馴染めなかった。他所の家から間違えてそこに連れてこられたような感覚は、その頃からあった。家族との記憶の最初は、養母の膝の上に座らされ、冷たい紅茶を飲まされる場面。砂糖も入れてもらえず、苦みだけが口に広がって、思わず吐いてしまった。「ちょっと、なんてこと! カーペットが汚れたじゃない!」養母はそんな私の頬を反射的に叩いた。躾ではなく、単純な怒りで叩いたという感じだった。重厚な本棚が並ぶ養父の書斎はビジネス系の書籍で埋め尽くされ、革の椅子には煙草の匂いが染みついている。当時ルミナスコーポレーションは、まだ小さな会社だった。養父は夜遅くまで机に向かい、数字を睨み、電話で怒鳴っていた。「この契約が取れれば、俺たちは大物だ。ステアリンググループとの提携だって夢じゃない」そんな養父が私を見る目は、いつも計算高かった。「遥花、お前は親戚から預けられた仮の存在だ。本当のお父さんとお母さんは、事故で死んだ。もう会えない。だから、俺たちを大事にしろよ」6歳の私にそんな残酷な言葉を突きつけるなんて。夜はいつも、布団の中で泣きじゃくった。両親が死んだのは何の事故? 顔も、声も、何ひとつ思い出せない。ただ、胸にぽっかり空いた穴が痛かった。養母は慰めもせず、ため息を吐いてはいつもこう言い聞かせた。「泣くんじゃないよ。女の子は強くないと。ルミナスの娘として、恥をかかせてもらっちゃ困るの」“娘”? そんなときばかり“娘”なんて言葉を使う。大人は卑怯だ。いつもは“仮の存在”だ、“駒”だと言うくせに。会社が成長途中の頃、養父はよく豪語した。「遥花、やがてお前は大企業の経営者の元へ、妻として嫁ぐことになる。お前は会社と会社をつなぐ大事な駒だ。そのために、あらゆるマナーや作法を叩きこむ。それらを身に付けて、“上流階級の娘”として恥じない振る舞いをしろ」毎日のレッスンは地獄だった。朝からドレスを着せら

  • 百合な親友と共に双子を育てる離婚妻。元夫とのすれ違い愛には裏があった   第20章:反逆の始まり*香澄

    11月の朝、マンションの窓から差し込む柔らかな光がリビングを照らす。秋の空気がカーテンを揺らし、外では街路樹の葉が赤く染まり始めている。遥花が双子より先に退院して1週間。お腹の傷はまだ疼くようで、私も最初のころはあまり笑わせないようにと気遣っていたが、「もう無理して真面目ぶらなくても大丈夫だよ。いつもの香澄じゃないみたいだし。また前みたいに、いっぱい冗談言って笑わせてよ」と、数日前に許可も下りた。ただ、それで私が調子に乗り「よぉし、じゃあ私が遥花を笑顔120点満点にしてやるぞぉ~!」と思いっきり変顔をしてみたら、遥花のツボに入ってしまったのか大笑いさせ、「イタッ、イタタタタタッ……やばっ、しぬ!」とまた苦しめてしまって猛省したりもした。そして今、日曜日に至る。リビングで二人、ハムとチーズを挟んだマフィンを食べながら、「今日も双子、元気にしてるかな」と言う私。NICUですくすくと育つ双子は、徐々に体重も2,000g前後まで増えていった。もちろん今日も、これから二人で面会に行く予定だ。「このまま順調だったら、今日で退院時期も決まるって言ってたね」と遥花。そのセリフには少し不安も見え隠れしているよう。「大丈夫だって! 昨日もいっぱいほぎゃあ、ほぎゃあって元気に泣いてたじゃない」と励ました。支度をしてマンションを出、電車に乗って2駅先の産婦人科へ向かう。前に遥花が住んでいたアパートからは徒歩で行ける距離だったが、遠くなってしまったのは私のマンションで一緒に暮らし始めたことの弊害だ。「姫……出産直後の大事な体に無理をさせて、申し訳ございませぬ……」時代劇っぽく詫びを入れる私。今さらというか、毎回のルーチンになっている気がする。「いいよ気にしなくて。どうせ歩いていくのと負担は変わらないし。それに、香澄とデートしてるみたいで楽しいじゃん」と、遥花。食卓にいたときの不安も薄れたのだろうか、「デート」だなんて可愛いことまで言ってくれる。やばっ、惚れ直しちゃうじゃん。産婦人科に到着し、NICUに通される。「蓮くんも、菖蒲ちゃんも元気ですよ」と、案内しながら言う看護師。双子に名付けたのは遥花だ。ちなみに私の「レッドとピンクにしようよ! じゃなかったら、アクアとルビー!」といった案は、ことごとく没にされた。NICUのガラス越しに、双子が

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status