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失くした子と終わる愛

失くした子と終わる愛

에:  やまいま참여
언어: Japanese
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結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。 良介は、兄が若くして亡くなり、義姉の渡辺春菜(わたなべ はるな)だけが頼る人もなく残されたのだから、弟である自分には二つの家を背負う責任があるのだと言った。それこそが、渡辺家の人間としての情の厚さであり、義理を重んじる証なのだ、と。 その頃の私は、そんな言葉を愚かにも本気で信じていた。 その聞こえのいい義理立てを成り立たせるために、私は祝日に良介が家にいないことも、大晦日の食卓をこちらと春菜のところで掛け持ちすることも、外で「夫を義姉と分け合っている情けない妻」と陰口を叩かれることさえ、黙って耐えてきた。 けれど、良介が私に向ける声は、いつだって穏やかな中に距離があった。 あの日、玉突き事故に遭い、私たち三人の乗った車は無残にひしゃげた。 私は大きく膨らんだお腹をかばいながら、痛みに冷や汗を浮かべ、必死に車窓を叩いた。「良介、赤ちゃんを助けて……」 良介は運転席から這い出すと、血に染まった私の下半身へ一度視線を落とした。けれど次の瞬間、後部座席のドアをこじ開けていた。 良介は、額を少し擦りむいただけの春菜さんを強く胸に抱きしめた。 「見るな。大丈夫だ、俺がいる」 良介の大きな手が春菜の背中をそっと叩き、何度も何度もその恐怖をなだめていた。 一方で、助手席側のドアは変形のせいで完全に開かなくなっていた。 良介は恩義を守っていたわけではない。ただ、春菜が少しでもつらい思いをするのが許せなかっただけなのだ。

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1화

第1話

結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。

良介は、兄が若くして亡くなり、義姉の渡辺春菜(わたなべ はるな)だけが頼る人もなく残されたのだから、弟である自分には二つの家を背負う責任があるのだと言った。それこそが、渡辺家の人間としての情の厚さであり、義理を重んじる証なのだ、と。

その頃の私は、そんな言葉を愚かにも本気で信じていた。

その聞こえのいい義理立てを成り立たせるために、私は祝日に良介が家にいないことも、大晦日の食卓をこちらと春菜のところで掛け持ちすることも、外で「夫を義姉と分け合っている情けない妻」と陰口を叩かれることさえ、黙って耐えてきた。

けれど、良介が私に向ける声は、いつだって穏やかな中に距離があった。

あの日、玉突き事故に遭い、私たち三人の乗った車は無残にひしゃげた。

私は大きく膨らんだお腹をかばいながら、痛みに冷や汗を浮かべ、必死に車窓を叩いた。「良介、赤ちゃんを助けて……」

良介は運転席から這い出すと、血に染まった私の下半身へ一度視線を落とした。けれど次の瞬間、後部座席のドアをこじ開けていた。

良介は、額を少し擦りむいただけの春菜さんを強く胸に抱きしめた。

「見るな。大丈夫だ、俺がいる」

良介の大きな手が春菜の背中をそっと叩き、何度も何度もその恐怖をなだめていた。

一方で、助手席側のドアは変形のせいで完全に開かなくなっていた。

良介は恩義を守っていたわけではない。ただ、春菜が少しでもつらい思いをするのが許せなかっただけなのだ。

救急車が現場に到着した。

消防士が油圧カッターで、私の側の車のドアを切り開いていく。

私は座席の下に目を落とした。そこに広がっているのは、私の血だ。

下腹部が、波のように何度も締めつけられる。

私は両手で必死にお腹を抱えた。七か月の赤ちゃんが中にいる。その子がまだ動いているのか、もう分からなかった。

私は車内に差し込まれた担架の上に、力なく倒れ込んだ。

救急医は酸素マスクを私の顔にかぶせ、外へ向かって声を張り上げた。

「ご家族は?妊娠何週ですか?母子手帳は持っていますか?」

良介は腰をかがめ、ティッシュで春菜の額にできた二センチにも満たない傷を拭いていた。

医師がもう一度叫んだ。

良介は私のほうへ顔を向け、口を開きかけた。

「二十九週です……ほかは、よく分かりません」

よく分かりません。

私は健診から戻るたび、報告書をきちんと書斎の二段目の引き出しにしまっていた。けれど良介は、一度もそれを開こうとしなかった。

それなのに良介は、春菜がどの薬にアレルギーがあるのか、膝を痛めたのはどちらの脚か、リラックス用のお茶を何分蒸らせばいいのかまで覚えている。

担架が動き出したとき、私は首だけをひねって良介を見た。

彼はついてこなかった。

春菜が良介の腕をつかみ、胸元にすがって震えている。

良介は頭を下げると、手のひらで春菜の後頭部を包み込んだ。

「そっちは見るな。大丈夫だ。目を閉じていろ、俺がいる」

車のドアが閉まる直前、私は良介が春菜を支え、別の車に乗せるのを見た。

病院に着くなり、私は手術室へ運び込まれた。

私は声を上げまいと唇を噛みしめた。けれど涙は、マスクの縁を伝って止めどなく流れていく。

看護師が廊下で家族を呼ぶ声がした。

「ご家族の署名をお願いします!緊急帝王切開の同意書です。ご家族はいませんか?」

扉が開いた。

良介が入ってきた。ペンを握り、最後の欄に名前を書く。その手は震えていた。

私は、良介が私のそばまで来てくれるのだと思った。

けれど良介は署名を終えると、スマホを取り出して電話に出た。

声は抑えられていた。それでも私には聞こえてしまった。

「春菜さん、怖がらないで。検査結果はすぐ出る。伊藤をそばにつけておくから、俺は署名が終わったらすぐ行く」

麻酔が入っていき、私の意識は少しずつ遠のいていった。

その手術がどれほど長く続いたのか、私には分からない。

目を覚ましたのは、真夜中だった。

親友の松本有希(まつもと ゆき)がベッドのそばに突っ伏していた。目元は赤く腫れている。

私が最初に口にした言葉は、「赤ちゃんは?」だった。

有希は答えなかった。

私は有希の表情を見て、目を閉じた。

病室の外から、姑・渡辺幸子(わたなべ さちこ)がわざと声を潜めるのが聞こえた。

「春菜ちゃん、気にしなくていいのよ。良介がもう手配してくれたから。今日は先に帰って休みなさい。君の体だって大事なんだから……」

誰ひとり、私の子どものことを口にしなかった。

まるで、私のお腹の中で七か月も育ち、私が名前をつけ、帽子まで編んであげた命など、最初から存在しなかったかのように。

その後、良介は一度だけ病室に入ってきた。

彼はベッドの足元に立ち、長いあいだ黙っていた。

それから、こう言った。「産後ケアセンターのほうには、先に部屋を押さえておいた。今は体をしっかり休めろ」

彼は謝らなかった。

赤ちゃんの葬儀のことにも触れなかった。

私は何も返さなかった。

翌日、有希は通りかかった車のドライブレコーダーに映っていた現場写真を私に見せた。

一枚目の写真には、良介が私の側の車のドアのそばに立ち、ひしゃげたドア枠に手をかけている姿が写っていた。

二枚目の写真には、良介が背を向けて後部座席へ向かい、春菜側のドアをこじ開けている姿が写っていた。

私は写真を見下ろしたまま、指の腹で紙面を強く押さえつけた。

あの瞬間、間に合わなかったわけではなかった。

良介はもう、選んでいたのだ。

私は写真を病床の上に伏せ、空っぽになった下腹部を手のひらで押さえた。目はひりつくほど乾いて、涙さえ出なかった。

病室の外で、誰かが春菜はひどく怯えていたのだと小声で話していた。

私は目を閉じ、光の届かないほうへ顔を背けた。

その夜、私は初めて、良介の帰りを待たなかった。

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第1話
結婚して五年、渡辺良介(わたなべ りょうすけ)はほとんど半分の時間を、川向こうのマンションで過ごしていた。良介は、兄が若くして亡くなり、義姉の渡辺春菜(わたなべ はるな)だけが頼る人もなく残されたのだから、弟である自分には二つの家を背負う責任があるのだと言った。それこそが、渡辺家の人間としての情の厚さであり、義理を重んじる証なのだ、と。その頃の私は、そんな言葉を愚かにも本気で信じていた。その聞こえのいい義理立てを成り立たせるために、私は祝日に良介が家にいないことも、大晦日の食卓をこちらと春菜のところで掛け持ちすることも、外で「夫を義姉と分け合っている情けない妻」と陰口を叩かれることさえ、黙って耐えてきた。けれど、良介が私に向ける声は、いつだって穏やかな中に距離があった。あの日、玉突き事故に遭い、私たち三人の乗った車は無残にひしゃげた。私は大きく膨らんだお腹をかばいながら、痛みに冷や汗を浮かべ、必死に車窓を叩いた。「良介、赤ちゃんを助けて……」良介は運転席から這い出すと、血に染まった私の下半身へ一度視線を落とした。けれど次の瞬間、後部座席のドアをこじ開けていた。良介は、額を少し擦りむいただけの春菜さんを強く胸に抱きしめた。「見るな。大丈夫だ、俺がいる」良介の大きな手が春菜の背中をそっと叩き、何度も何度もその恐怖をなだめていた。一方で、助手席側のドアは変形のせいで完全に開かなくなっていた。良介は恩義を守っていたわけではない。ただ、春菜が少しでもつらい思いをするのが許せなかっただけなのだ。救急車が現場に到着した。消防士が油圧カッターで、私の側の車のドアを切り開いていく。私は座席の下に目を落とした。そこに広がっているのは、私の血だ。下腹部が、波のように何度も締めつけられる。私は両手で必死にお腹を抱えた。七か月の赤ちゃんが中にいる。その子がまだ動いているのか、もう分からなかった。私は車内に差し込まれた担架の上に、力なく倒れ込んだ。救急医は酸素マスクを私の顔にかぶせ、外へ向かって声を張り上げた。「ご家族は?妊娠何週ですか?母子手帳は持っていますか?」良介は腰をかがめ、ティッシュで春菜の額にできた二センチにも満たない傷を拭いていた。医師がもう一度叫んだ。良介は私のほうへ顔を向け、口を開きか
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第2話
退院の日、良介が迎えに来た。良介は車のドアを開け、私の背中にそっと手を添えた。仕草は優しく、気遣いに満ちているように見える。車に乗ってから、私はずっと口をきかなかった。車がマンションの下に着くと、良介は降りて荷物を取りに行った。リビングに入ると、ローテーブルの上に見慣れない茶色の救急箱が置かれていた。ソファの肘掛けには、ベージュのカシミヤのショールが掛かっている。私のものではない。テレビボードのそばには、良介の兄、渡辺文人(わたなべ ふみと)の遺影が立てられている。私は玄関先に立ったまま動けなかった。背後で靴を履き替えていた良介の動きが、一瞬止まった。「春菜さんはこの数日、状態がよくないんだ。夜中にけいれんを起こすことがあって、一人ではいられない。しばらくここに住んでもらうことにした。落ち着いたら戻るから」私は何も答えず、そのまま主寝室へ向かった。少し開いていたドアを押すと、春菜が私のベッドの端に座り、小さな薬瓶を整理していた。春菜は私のルームスリッパを履いている。私が入ってくるのを見ると、すぐに立ち上がった。「茜、帰ってきたのね」彼女は声を落とした。「暗いところが怖くて、一人ではどうしても耐えられなくて……良介が、ひとまず二日だけ泊まればいいって言ってくれたの。少しよくなったら出ていくから、迷惑はかけないわ」私は春菜の足元のスリッパを見つめた。妊娠してから替えた、柔らかい底のものだった。良介が長い時間つき合って、一緒に選んでくれたものだ。私は良介へ顔を向けた。「春菜さんが主寝室に泊まるの?」良介はドア枠にもたれ、少し困ったような顔をした。「夜中に一度けいれんを起こして、床に倒れていたところを見つかったんだ。主寝室はリビングに近い。何かあったときに見に行きやすい。この数日だけ、書斎で寝てくれ。書斎のベッドはもう整えてある」喉の奥に、何かが詰まったようだった。言いたいことは山ほどあった。けれど一言も出てこない。言えなかったのは、怖かったからではない。その瞬間、この家での私の居場所など、いつでも簡単に動かされるものなのだと気づいてしまったからだ。夕食のとき、春菜は食卓のそばに座り、良介のためにスープをよそっていた。春菜は私をちらりと見て、すぐに目を伏せた。「茜
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第3話
再診の日、良介は仕事があると言い、運転手に私を病院まで送らせた。私は一人で受付を済ませ、順番を待ち、エコー検査を受け、報告書が出るのを待った。医師はカルテをめくりながら眉をひそめた。「術後の回復があまりよくありません。子宮内にまだ血の塊が残っています。薬はきちんと飲んでください。無理は禁物ですし、精神面も気をつけてください。ご家族は?どうして誰も付き添っていないんですか?」私は、家族は忙しいのだと答えた。医師は私を一度見ただけで、それ以上は聞かなかった。家に戻ると、良介はリビングに座っていた。彼は立ち上がり、私の手から袋を受け取った。「結果はどうだった?」「まだ回復途中だって」良介はうなずいた。それから、私の体を凍りつかせるような一言を口にした。「茜、流産したことは、しばらく外には言わないでくれ。春菜さんは最近、精神的にかなり不安定なんだ。そういう話を聞くと、昔のことがよみがえってしまう。分かってやってほしい」私は玄関に立ったまま、コートも脱いでいなかった。「私に隠せっていうの?」「隠すんじゃない。ただ今は公にしないだけだ。春菜さんがもう少し落ち着いてからにしよう」私は長いあいだ良介を見つめた。良介の表情は真剣で、どこか私にすがるようだった。その顔を、嫌というほど知っている。良介が私に譲らせたいときは、いつもそんな顔をする。翌日、義母から電話がかかってきた。「茜、良介から聞いたわ。お義母さんを冷たいと思わないでね。あなたはまだ若いんだから、これからまた子どもを授かれるわ。でも春菜は違うの。あの子はもう文人を失っているのよ。これ以上刺激を受けたら、本当に耐えられないわ。赤ちゃんのお披露目に押さえていた席は、文人の四回忌の身内の食事会に変更しておいたわ。親戚にももう知らせてあるけれど、いいわよね?」私はスマホを握ったまま、書斎に座っている。赤ちゃんのお披露目の会は、私が妊娠四か月のとき、良介と一緒に予約したものだった。私がメニューを選び、招待客のリストを作り、席札には赤ちゃんの愛称まで印刷していた。それが今、別の人のための追悼の食事会に変わった。私は口を開いた。「お義母さん、あの子の存在を忘れたくないんです。小さな記念プレートを置きたいんです。あの子がここ
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第4話
私は、赤ちゃんのために陶器のメモリアルプレートを用意した。それは私がひそかに作っておいたものだった。手のひらほどの大きさで、赤ちゃんの名前が焼きつけてある。書斎の引き出しに入れて鍵をかけておいた。鍵は私だけが持っている。だかその翌日、引き出しを開けると、中は空っぽだった。使用人を問いただしたが、首を振って否定した。家じゅうを探し回り、ゴミ箱のそばに置かれたリサイクル袋の中から、その陶板を見つけた。陶板は三つに割れ、文字は一部しか残っていなかった。春菜が書斎に入ってきて、しゃがんで破片を拾っている私を見て足を止めた。「茜……あの陶板、わざとじゃないの。書斎を片づけていたとき、うっかり引き出しに触れてしまって、手が滑って、それで……」私は静かに口を開いた。「引き出しには鍵がかかっていたはずです」春菜は一瞬、言葉に詰まった。「たぶん、使用人が掃除したときに鍵をかけ忘れたんだと思う。茜、本当にわざとじゃないの。そこに赤ちゃんの名前が刻まれているのを見て、胸が苦しくなって、手が……」春菜の目が赤く潤んだ。義母が戸口から入ってきて、春菜の腕を取った。「春菜ちゃん、もう泣かないの。そんな大したことじゃないでしょう。茜、春菜ちゃんはただでさえ心が弱っているのよ。何でもかんでも見えるところに置いておいたら、目に入った春菜ちゃんがつらくならないわけないでしょう」私は床にしゃがんだまま、三つの破片を握りしめている。破片の縁が指に食い込んでも、痛みは感じなかった。「お義母さん、この引き出しには鍵がかかっていました」義母は眉をひそめた。「どういう意味?春菜ちゃんがわざと壊したとでも言いたいの?」春菜が一歩あとずさった。「茜が私を信じてくれないなら……もういい。どうせ私が何を言っても、全部私のせいだと思うんでしょう」春菜は背を向け、涙を拭った。義母の声は冷たかった。「茜、自分がつらいからって、春菜に八つ当たりするのはやめなさい。あの子が失ったもののほうが、あなたよりずっと大きいのよ」良介が帰宅したとき、義母はすでに春菜を実家へ連れて行っていた。良介はローテーブルの上に置かれた三つの破片を見た。「茜。君が悔しいのは分かる。でも、春菜さんの精神状態が本当に悪いのも事実なんだ。こんなことを
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第5話
翌朝早く、私は有希の家へ移った。それから三つのことをした。一つ目は、渡辺家の親族LINEグループをすべて抜けること。二つ目は、銀行に連絡し、夫婦共同口座からの高額支出に必要な承認権限を凍結すること。三つ目は、あの銀のブレスレットを取り戻すこと。ブレスレットを取りに行ったとき、春菜はいなかった。使用人がローテーブルの引き出しから取り出して渡してくれた。ブレスレットの内側に刻まれた文字には、浅い傷が一本増えている。親指でその傷をなぞり、ブレスレットをポケットにしまった。有希の家に身を寄せた最初の一週間、私は結婚前に取得していたファイナンシャルアナリストの資格証明書を、箱の底から引っ張り出した。証書の角は少し丸まっているが、まだ有効期限内だ。有希は市内にある知り合いの事務所に連絡してくれた。ちょうど人手が足りないところだった。給料は高くない。それでも、部屋を借りて食べていくには足りる。私はまた、基礎的な企業会計の案件を受け持つようになった。毎日、報告書と伝票に向き合い、深夜まで机に座っていた。二週目、有希が仕事から帰ってきて、私にある話をした。「旦那さんが街の南側にある老舗の銀細工店に行ったみたい。同じ銀のブレスレットをもう一つ作れないかって聞いたんだって」手にしていたペンが、わずかに止まった。有希はドア枠にもたれたまま、私を見ている。「職人さんが言うには、ブレスレットの内側の刻字は手彫りで、年月も力加減も再現できないって。本人の言葉だと、壊れたものは壊れたものなんだって。銀の問題じゃなくて、時間は戻せないって」私は何も答えなかった。三週目、私は弁護士と面談した。弁護士は財産分与の初期案を整理してくれた。私が持参した取引明細をめくるうち、その表情は少しずつ険しくなっていった。「渡辺さん、この三年間、共同口座から第三者個人へ支出された金額は、通常の親族扶養の範囲を大きく超えています。相手方が、これらの支出についてあなたの書面による同意を証明できない場合、返還請求が可能です」私はうなずいた。弁護士はさらに尋ねた。「お子さんの件について、精神的損害もあわせて請求しますか?」少し考えてから、私は首を横に振った。金額で測れないものもある。法律事務所を出たところで、私は良介に会
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第6話
会計事務所での仕事は、少しずつ軌道に乗り始めた。私は毎朝八時に出社し、夜七時に退勤した。週末も半日だけ出た。担当先は三社から、少しずつ十数社へ増えていった。どれも小さな会社で、帳簿は複雑ではない。けれど私は、一つ一つの数字を丁寧に確認した。同僚には、そこまで細かく見なくてもいいのにと言われた。小さな会社の帳簿なんて、大きな問題さえなければ十分だ、と。私は、癖みたいなものだと答えた。本当は癖ではなかった。びっしり並ぶ数字で、頭の中を埋めていたかっただけだ。少しでも隙間ができると、もう考えないと決めたことまで思い出してしまう。一か月後、私は昼休みに有希を待ちながら、事務所の下にあるカフェにいた。入口のドアベルが鳴った。春菜が入ってきた。彼女はウエストを絞ったトレンチコートを着て、髪もきちんとまとめている。渡辺家で見せていた、あの弱々しい姿とはまるで違っている。そして、古いアルバムを一冊、私の前に押し出した。「茜、謝りに来たの」私はそのアルバムに触れなかった。「このところ、ずっと考えていたの。茜を嫌な気持ちにさせることをたくさんしてしまったって分かっている。でも、わざとじゃないの。文人が亡くなってから、私には本当に良介しかいない。でも、二人の邪魔になりたいわけじゃないの。私は渡辺家を出て、地方へ移ってもいい。ただ……一つだけお願いがあるの」彼女は一拍置いて、言葉を継いだ。「良介に、私のせいで妻を見捨てたなんて言われるようなことだけはさせないで。あの人だって、もう十分苦しいの。あなたたちが離婚したら、世間は良介が妻を放り出したと言うわ。渡辺家の評判にも傷がつく」私は春菜を見つめた。「春菜さんが私に会いに来たのは、良介が責められるのを心配しているからじゃない」春菜は一瞬、言葉に詰まった。私は続けた。「渡辺家を出たら、もう良介みたいに守ってくれる人がいなくなる。それが怖いんでしょう。良介は春菜さんの夫じゃない。でもこの三年、あの人は夫以上のものを春菜さんに与えてきた。あなたは、その居場所を失うのが怖いのよ」春菜の指が、テーブルの上でぎゅっと丸まった。「春菜さんの苦しみは分かる。でも私はもう決めた。春菜さんには関係ないことよ」春菜は背筋を伸ばした。「茜は今、
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第7話
翌朝、私はいつもより三十分早く出社した。会計事務所の前には、すでに五、六人が立っている。そのうち三人は渡辺家の遠縁の親戚で、以前の食事会で見た顔だ。ほかに二人、スマホを構えて撮影している人間もいる。先頭に立っているのは、昨夜電話をかけてきた遠縁の叔父だ。手には、印刷した投稿のスクショが握られている。「この女だよ、未亡人の義姉に金を出せって迫ってるのは!自分が流産した腹いせに義姉を責めるなんて、人の心がないのか!」周りの人たちも、それに合わせて騒ぎ立てた。私は足を止めず、事務所の入口まで歩いてカードキーをかざした。叔父が手を伸ばし、私の前に立ちはだかった。「今日はっきり説明するまで、誰一人ここには入れないからな」私は顔を上げて、叔父を見た。「何を説明しろと言うんですか?」「春菜ちゃんはこの三年、渡辺家のために文人の位牌を守ってきたんだぞ。お前は何様のつもりだ?文人の弔慰金は春菜ちゃんが受け取って当然のものだろう。どうして返せなんて言えるんだ!」私はバッグからファイルを取り出した。「私は渡辺文人さんの弔慰金には一切手をつけていません。返還を求めているのは、夫婦の共同口座から、私の同意なく春菜さん個人の生活費として支出された分です。まったく別の話です」しかし、叔父は資料に目もくれなかった。「どうせ都合よく数字をいじったんだろう。春菜ちゃんが言ってたぞ。お前は家でも昔のことをほじくり返してばかりだって」スマホを持った人が、レンズを私の顔ぎりぎりまで近づけてきた。「ほら、みんなに言ってみろよ。流産しておかしくなったんですかって」事務所の中から有希が飛び出してきて、私の前に立った。「これは嫌がらせです!もう警察を呼びました」叔父は鼻で笑った。「警察?俺たちは渡辺家の親戚だ。身内の話をしに来ただけで、何が悪い」別の一人が背後から回り込み、事務所の入口に供花を置いた。有希がその人に詰め寄った。「正気なの?ここは営業中の事務所よ!」二人がもみ合いになった。私は有希の腕をつかもうと一歩踏み出した。その瞬間、誰かが横からぶつかってきた。肘が下腹部に食い込んだ。手術の傷跡が引きつり、私はその場で体を折った。額に一気に冷や汗がにじむ。ドア枠に手をつき、しゃがみ込んだ。
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第8話
弁護士の動きは早かった。三日も経たないうちに、春菜の従妹名義の口座を経由した送金の流れが、すべて明らかになった。投稿アカウント、渡辺家の遠縁に連絡した通話履歴、ゴシップ系アカウントへ支払われた謝礼の記録。そのすべてが、同じところにつながっていた。有希が調査報告を送ってきたとき、私は顧客の四半期分の税務書類を整理していた。「確定。全部、春菜さんの従妹の口座を通してる。でも、許可を出して指示したのは春菜さん本人」私は、思ったほど動揺しなかった。どうでもよかったからではない。春菜がカフェであの口ぶりを見せたときから、こうなることは分かっていたからだ。その日の午後、良介の秘書から電話があった。良介が一度会いたいと言っているらしい。私は断った。秘書は少し迷ったあと、良介からの伝言を口にした。渡辺家の遠縁には、すべての非難を公に撤回させること、そして事務所が営業できなかった期間の損害も全額負担すると伝えてあるのだという。私は、賠償の話は弁護士を通してほしい、私に言う必要はないと答えた。電話を切ると、有希が私を見ていた。「旦那さん、なんとか償おうとしてるんだね」「あの人の埋め合わせは、いつだって傷つけたあとに来るの」有希はそれ以上、何も言わなかった。さらに二日後、良介が事務所の下に現れた。私が出てくるのを見ても、良介は近づいてこなかった。私もそちらへは行かなかった。隣のコンビニで水を一本買い、会計を済ませて出てくると、良介はまだそこに立っている。ようやく良介が口を開いた。「茜、少しだけ話を聞いてくれないか。事故の日のことなんだけど――」「知ってる」私は遮った。良介は一瞬、固まった。私は言った。「良介が最初に見たのは私だった。私が座っていた助手席側のドアに、もう手をかけていた。でも、良介は後部座席へ行った」良介の目が赤くなった。「春菜さんは……兄が車の中で亡くなるのを、目の前で見ているんだ。あのとき、俺の頭には一つしかなかった。同じ光景を、もう二度と見せてはいけないって」私は言った。「だから春菜さんには見せないことを選んで、私を車の中に残したのね」良介は声を荒げた。「違う――」私は静かに口を開いた。「良介は春菜さんを救ったんじゃない。自分の罪悪感を救い
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第9話
一週間後、良介は離婚協議書に署名した。弁護士から連絡が来たとき、私は顧客の年次決算書類を作っていた。「良介さんから異議はありませんでした。協議書の内容はすべて受け入れるそうです。財産分与もあなたの案どおりです。ただ、あなたは法的に認められる分しか受け取っていません。もう少し多く受け取ることを考え直さないか、一度だけ確認してほしいとのことでした」私は、必要ありませんと答えた。弁護士は少し黙った。「渡辺さん、余計なことかもしれませんが、今ある証拠と状況なら、もっと請求できますよ」私は言った。「分かっています。でも、良介に借りを作りたくありません。お金でこの件をなかったことにできると思われるのも嫌なんです」弁護士は分かりましたと言った。離婚届を出しに区役所へ行った日。良介は入口の前に立っている。久しぶりに見る良介は、驚くほど痩せている。目の下には濃い隈があり、頬の線も三年前よりずっと削げて見えた。私たちは並んで区役所の中へ入った。窓口では、職員が淡々と書類を確認し、本人確認を済ませた。二十分もかからず、すべて終わった。外へ出ると、陽射しがまぶしかった。良介は階段の上に立っている。手には二通の離婚届受理証明書があり、その一通を私に差し出した。私は手を伸ばして受け取った。けれど良介は、すぐには手を離さなかった。「茜、最後に一つだけ言わせてくれ」私は顔を上げた。良介は言った。「ごめん」その言葉を、良介はもう何度も口にしていた。聞くたびに、干からびた井戸へ小石を投げ込むようで、何の響きも返ってこなかった。私は、うん、とだけ言い、証明書を引き抜いてバッグに入れた。良介の指が力なく下がった。「赤ちゃんの供養のこと、もし、いつか俺にも関わらせてくれるなら――」「それはない」私の声は静かだった。良介は目を閉じた。「分かってる」その後のことは、弁護士から聞いた。春菜の従妹は、ベビー用品のすべてと、転売で得たお金を返した。本人は、親戚を巻き込んだ嫌がらせと、事実と違う情報を広めた件で、渡辺家の意向によりこの街を離れることになった。良介は直接、春菜の前には出なかった。弁護士に今後の生活費に関する合意書を作らせ、文人さんの保険金の残額を一括で春菜に渡した。あわせ
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