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作者: 酔夫人
last update 公開日: 2025-12-19 08:53:57

婚約破棄の後、私は父に謹慎を命じられた。

表向きの理由は「世間体」と「反省」だったが、実際には外聞と、母の実家である西園寺家の目を気にした、いかにも父らしい保身の判断だった。

あの夜のことがどこかに漏れれば、花嶺家の体面は簡単に崩れる。だから私を閉じ込め、存在ごと静めてしまう。それが一番手っ取り早いと考えたのだろう。

.

部屋に押し込められた最初の数日は、時間の感覚が曖昧だった。

カーテンの隙間から差し込む光で朝と夜を判断し、与えられた食事を機械的に口に運ぶだけの日々。そのことをいま思い返すと、何度も頭をよぎるのは「病院に行くべきだった」という後悔。あのとき、どうにかして足を動かし、アフターピルを処方してもらっていれば、少なくとも今の状況だけは避けられたのかもしれない。だが現実の私は、そんな判断すらできなかった。

あの夜の記憶を思い出さないことに必死で、ただ「なかったことにする」ために、思考そのものを止めていたからだ。

それはあまりにも致命的な逃避だったが、当時の私にはそれが限界だった。

結局、過去を変えることはできない。「あのときこうしていれば」という思考は、何も生まない無駄な繰り返しに過ぎない。

.

謹慎期間は明確に区切られてはいなかったが、長くは続かないと分かっていた。

あの三人は、日常のほとんどを私に依存していたからだ。

「無料で使える便利な家政婦」――そう笑っていたのは、玲子さんと桜子だった。

けれど、その言葉の裏にある現実には気づいていなかった。

私がいなければ、家は回らない。実際、数日も経たないうちに、家の中は目に見えて乱れ始めた。

食事の時間はずれ、掃除は行き届かず、父の仕事に必要な書類の整理も滞る。彼らは家事というものを「そんなこと」と軽んじていたが、その「そんなこと」さえ自分たちでは満足にこなせないのだと、ようやく思い知らされたのだろう。

結局、謹慎は形だけのものとなり、私は再び日常へと引き戻された。

家計を管理し、父の仕事を手伝い、玲子さんの代わりに付き合いのある夫人たちへ手紙を書き、桜子の代わりにお茶会の準備を整える。やるべきことは以前と何一つ変わらない。ただ一つ違っていたのは、私の内側だった。

あの夜を境に、何かが決定的に失われたのだと思う。

怒りも、悲しみも、羞恥も、すべてが遠くなり、ただ目の前の作業を処理するための器だけが残ったような感覚。嫌がらせを受けても、叱責されても、感情は波立たず、ただ淡々と次の行動へ移る。

自分でも不気味だと思うほどの無感動さで、その変化に最初に気づいたのは玲子さんと桜子だった。

後ろめたいものを抱えている人間ほど、相手の変化に敏感になる。

何を考えているのか分からない、反応を示さない私の存在が、次第に二人にとって不気味なものへと変わっていったのだと思う。そして、その不気味さはやがて恐怖に変わり、排除すべき対象として再び私に向けられることになった。

計画は、以前よりもさらに露骨で、そして雑だった。

.

ある夜、花嶺家に「侵入者」が現れた。

桜子の部屋に忍び込んで彼女を襲ったという筋書きで、桜子の悲鳴を聞きつけて家中の人間が駆けつけたときには、すでに男は取り押さえられていた。

あまりにも出来すぎた展開。

捕らえられた男は、まるで台本を読み上げるかのように語った。「この家には、あの娘に手引きされて入った」と。指し示されたのは―――当然のように私だった。

あまりにも稚拙で、あまりにも分かりやすい虚偽。それでも私は、即座に否定するしかなかったし、父が迷うことなく玲子さんの言葉を信じたことを不思議に思わなかった。

  『婚約者を奪われた逆恨みで、こんなことをしたのだろう』

すべてが予想通り。私の動機をそう決めつけて、私の言葉など最初から聞く気はなかった。

再び謹慎を命じようとする父だったが、その判断は途中で鈍った。ほんの数日の「不便さ」を、父自身が身をもって知ってしまったからだ。

私を閉じ込めれば、家が回らなくなる。その現実が父の決断を鈍らせていて、玲子さんと桜子は父のその様子に明らかな苛立ちを見せていた。

計画が思い通りに進まないことへの焦りもあっただろう。焦りこそが、彼女たちの危うさをより際立たせていたと思う。

私は、その一部始終を、どこか遠くから眺めるように見ていた。

ただ一つ、確かだったのは「怖い」という感覚だった。

次に何をされるのか分からない。どこまでやるのか分からない。その予測不能さが、何よりも恐ろしかった。倫理を踏み越えた人間は、次にどこまで踏み込むのか、自分でも制御できなくなる。そのことを、私はすでに知ってしまっていたからだ。だ

から、私は選んだ。

これ以上巻き込まれる前に、自分から距離を取ために玲子さんに直接交渉した。

あの夜のことを外に漏らさない代わりに、この家を出る。そのための資金を用意させた。それは取引と呼ぶにはあまりにも歪んでいたが、それでも私にとっては唯一現実的な選択だった。

玲子さんは一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐに納得した。自分たちの罪が外に出るリスクを考えれば、安いものだと判断したのだろう。こうして私は、花嶺家を出た。

その後、二人が父に何を吹き込んだのかは知らないし、知るつもりもない。もう関係のないことだ。

私はただ、あの家から離れたかった。

あの場所に戻れば、また何かが起きる。そう確信していたから。だからもう、振り返らない。あの家とも、あの人たちとも、関わるつもりはない。

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