LOGIN動画は、俺の迷いなんてそっちの気で進んでいく。摺りの工程が淡々と進む。必要な道具を選ぶ手には迷いがなく、瞬く間に色が重なっていく。色と色の境の、細く紙に乗る線だけが白い。あとは色、色、色。見慣れているはずのナターシャの技術は、ナターシャ越しの映像だと違って見える。……すごいな。率直に、そう思った。贔屓目じゃなく、これは、評価されると思ったら国内だけじゃない。——海外でも評価される。簡単に、想像はつく。石川明梗。ナターシャの動画に、人間国宝で海外でも知名度の高い石川先生の名前が付く時点で、ナターシャの動画は立ち位置が違う。スケールが、最初から世界を見ている。日本国内の話じゃ済まない話だ。「……やめろよ」つぶやきが、無意識に溢れたと気づいたのは、狭い非常口に反響した自分の声。眉が、眉間による。想像が、勝手に先に進んでいく。海外メディアの注目。インタビュー。コラボレーションのオファー。ナターシャの名前が広がる。顔が知られる。ナターシャという存在が、世界に根付いていく。ナターシャは、頑固だ。進むと決めたら、進む。(……その中で、あいつは)ナターシャが、傷つくことはある。言葉は、評価のためだけのものではない。嫉妬や抗議。評価される分だけ、ナターシャは理不尽に叩かれる。持ち上げられる分だけ、落とされる。ナターシャは、強いけど、無敵じゃない。「……くそ」スマホを握る手に、力が入る。俺はナターシャを守りたい。これは、昔からなんにも変わらない。今すぐにでも、この全てを遮断して、ナターシャをかっさらって、俺だけの、俺しか知らない場所に隠してしまいたい。 誰の目にも触れない場所にナターシャを閉じ込める。ナターシャのことは、俺だけが知っていればいい。——そんな衝動。ああ、俺は父さんと同じだ。母さんは、常に父さんの庇護下にある。父さんが傍にいなくても、護衛の長谷川さんとか、親戚の誰かとか、父さんの影響力の中にいる。それでいいらしく、笑っている母さん。それでいいと思ってもらうため、母さんが望む環境をせっせと作っている父さん。二人は、二人そろってそれでいいと思っているからできる関係。でも、俺たちは違う。それは、できない。ナターシャが、望んでいない。ナターシャは、自らの意思で、世界に向けて一歩を
「桐谷! お前の幼馴染の二年生の、えっと、花岡ナターシャだっけ。あの動画すげえな」……これでもう、何度目だろう。ナターシャが出る新しい動画が公開されたのは、昨夜のことだった。昨夜、公開と同時にその動画を見ようとした。でも、見れなかった。ナターシャの顔を見てから、その顔に後悔がなければ、見ようと決めた。朝食の席は、その話になると分かっていた。だから、母さんにそう言っておいたら、母さんは俺の部屋に朝食を届けてくれた。手間をかけさせてしまったと謝る前に、茉白と莉乃を止めらそうにないからと逆に謝られてしまった。妹たちと顔を合わせないように、部活を理由にして先に出かけた。家は母さんの根回しのおかげで静かだった。でも、学校は賑やか。校門をくぐった瞬間から、違和感があった。騒めき。興奮。いつも無機質な校舎が、まるで生きもののように活気づいていた。「花岡ナターシャだ」誰かの呟きに、それを震源地として人が一斉に動く。彼らの視線を辿ると、ナターシャがいた。二年生のタイをつけた女の子たちと話している。その顔は……うん。「桐谷?」「トイレ」.トイレに行く振りをして、階段を上にのぼる。
「やりたいことやってるだけでしょ?」軽い口調。でも、場を制する力がある。「……そうだけど」斜め前の子が、彼女の雰囲気に臆する。「ならさ、それでいいじゃん。騒ぎすぎだよ」その一言で、ざわつきが少し収まった。助けてくれた?そう思った瞬間——。「でもさ」彼女は、私をまっすぐ見た。「これから大変だよね」表情は、笑っている。でも、その目は笑っていない。「こういう目立った活動って、桐谷先輩の迷惑になるんじゃない?」そうなのか。彼女は誠司が……。——これは、試されている。私は、視線を逸らさなかった。「うん、そうかも」「へえ、分かっているんだ」少しだけ、興味を持ったような顔。「でも誠司のお母さんも動画配信をしていて、この動画も、その繋がりだったから……私が何をしたって、あまり変わらないと思う」「……コネ、じゃん」その言葉には、棘があった。棘を、隠していなかった。でも、完全な敵意ではない。私の変化に戸惑っている。距離を測りかねている。声に出したのが彼女というたけで、これは周りの人たちも同じだろう。「コネだよ。それでも、やると決めたから頑張っているの」
朝、家を出るときから、少しだけ空気が違う気がしていた。気のせいかもしれない。でも……。.駅に向かう途中で、何人かに見られた気がして、足がほんの少しだけ速くなった。スマホは、朝から通知が鳴りやまなかった。中は、見ていない。見たら、揺らいでしまうかもしれないから。.いつも通り、右から二番目の改札を抜けて、ホームに向かう。いつもと同じ、まだ人の少ない朝の時間帯の、いつもと同じ電車。いつもと同じ車両に乗る。人は少ない。なのに、落ち着かない。視線が、刺さる気がする。——気づかれてる?いや、まだ、分からない。初めて顔を出した動画が公開されたのは、昨日の夜。深夜〇時。まだ十時間も経っていない。そこまで広がる?でも——。(……ありえる)石川先生のことが頭をよぎる。石川先生は、技法に拘らずCGとかもやっているから、若い人にも注目されている人間国宝。もともと、あの浮世絵の動画も石川先生の絵の浮世絵化って感じで人気があった。誰がやっているのかって、探るようなコメントも多かった。それに、顔を出したんだ。目立つ条件は揃っている。電車の窓に映る自分の顔を、ほんの一瞬だけ見た。昨日と同じ顔。なのに、まるで違う人間みたいだった。.学校に着く。校門をくぐる、その一歩がやけに重い。「……おはよ」すれ違う、学年も名前も知らない、顔しか知らない人に声をかけられた。毎朝、この時間に登校する人は少ない。ましてや、部活で早いわけではない私は、ある意味目立っていたと思う。でも、挨拶をされたのは初めて。“おはよう”。ありきたりの挨拶。でも、目が違う。一瞬、何かを確認するように、じっと見られた。「……おはよう、ございます」三年生かもしれないと思って、敬語にしておく。でも、返す声が、少しだけ硬くなってしまった。下駄箱で靴を履き替えるときも、背後に気配を感じた。ひそひそとした声。小さな笑い声。向けられている、気がする。教室の扉の前で、一度立ち止まった。ドアの向こうから、ざわざわとした声が聞こえる。いつもは、人がいないのに。なぜ、今日はこんな早くに?深呼吸。教室のドアを開けた。——一瞬で、静かになった。さっきまでのざわめきが、嘘みたいに消えた。その代わりに、集まる視線。全員が、私を見ている。「……おは
折々舎の会議室は、無機質なほど整っていた。白い壁。長机。余計な装飾は一切ない。ガラス張りの窓から入る光だけが、やけに明るい。その空間に座っていると、自分の輪郭がはっきりしていく気がする。どんどん逃げ場がなくなっていくことに、恐怖を感じないわけではない。でも、私は逃げないと決めた。.*.「本日はお越しいただき、ありがとうございます」正面に座るのは、折々舎の社長である相沢陽菜乃さんと水野百花さん。桔梗おば様の動画作成・配信をきっかけに起業した二人を、私は幼いころから知っている。本来なら、無名の私の契約に社長二人が同席することはない。「桔梗が何かしてくれたみたいだね」カノンがこっそりと呟いたことに、私は頷いた。相沢さんと水野さんのほかに、知らないスーツ姿の男性——法務担当者だと自己紹介された。法務担当と聞いて、緊張が増す。私の右隣にはカノン。左隣にはヨッシー。二人とも、いつも通りの穏やかな顔をしているのに、空気が違う。特にヨッシーが、違う。カノンはいつも通り保護者だけど、弁護士のヨッシーは私の法務担当者だ。大丈夫。それだけで、背筋が伸びた。「本日は、ナターシャさんの出演形態の変更に伴い、契約内容の確認と、リスクについての説明をさせていただきます」机の上に、分厚い書類が置かれた。その音が、やけに重く響いた。「まず前提として——ナターシャさんは未成年です。そのため、出演契約は保護者の同意を必須とします」法務担当の人が感情を交えず、淡々と説明する。「加えて、顔出しでの出演となる場合、これまでとは比較にならないリスクが発生します」リスク。その言葉に、私は、膝の上で手を握りしめた。「具体的には——個人情報の特定、SNS上での誹謗中傷、ストーキング行為、無断転載・二次利用などです」言葉が一つずつ、現実として落ちてくる。「また、ナターシャさんのご家族に関する情報も、いろいろ探られる可能性があります」一瞬だけ、視線が揺れた。でも、逸らさない。「……はい」私が頷くと、法務担当の男性は続けた。「当社としても、コメント管理や通報対応など、可能な範囲での対策は行います。ただし——すべてを防ぐことはできません」彼は、はっきりと言い切った。守ってくれる、とは言わない。その代わりに、“どこまで守れないか”を明示する。
いつも通り朝起きて、学校に行く準備をして、いつも通りリビングに向かう。でも、ドアの前に立って、しばらくドアを開けることができなかった。廊下でこうして立ち尽くしていても意味がないと分かっているけれど、ドアを開ける勇気が出ない。ドアにはまったガラス越しに、カノンとヨッシーがいつものように、ソファでニュースを見ているのが見える。いつも通りの風景に、胸の奥がぎゅっと痛んだ。言わなきゃ、いけない。 でも、『いつもの』に囲まれると、言いたくないなって怖気づく。私が選びたいと思う道は、私の大切な二人に嫌な思いをきっとさせてしまう。ゲイであることを隠して生きてきた二人。その生活を、私が壊してしまう。それでも、誠司の隣に立ちたい。誠司の隣を、誰にも渡したくない。それなら、私はもう隠れていられない。深呼吸をして、リビングへのドアを開けた。「おはよう」先に私が入ってきたことに気づいたのは、ヨッシー。「おはよう……どうしたの?」私がいつもと違うことに気づいたのは、カノン。「……話したいことがあるの」二人が同時に、私に体ごと向く。なんでも聞くって、そう言っている優しい目。 その優しさに、胸が痛む。 「どうした、ナターシャ?」 「学校で何かあった?」私は首を振った。 そして、ゆっくりとソファの前に立つ。「……私、あの配信している動画で顔を出したいの」カノンが瞬きをした。ヨッシーも。そうだよね。それは、目立つことは、私が頑なに拒否していたこと。ヨッシーの眉間に皺が寄った。不快そう。やっぱり……。「折々舎から、そうしたいって言われたのか?」あ……そうか。それで、そんな顔……。「折々舎からは、何も言われていない。顔を出すのは、私が決めたの」 「ナターシャが、一人で?」私は頷いた。「うん。これまでみたいに、手元だけじゃなくて……ちゃんと、私自身が前に出たいの」リビングの空気が、少さしだけ張りつめた。「理由を聞いてもいいか?」 ヨッシーの声は、いつも通り穏やかだった。「誠司の、隣に、立ちたい」私は、胸の奥に溜め込んでいた言葉を、ひとつずつ吐き出す。「私……誠司の隣に立ちたいの。誠司の隣に立つためには、私はいつまでも、隠れているわけにはいかないの」二人は黙って聞いてくれている。「誠司は……これから、来年には
錦野柾が桔梗に会おうとすれば、その理由はやり直しを求めるものだと普通は思う。でも、それならばなぜそれを桔梗の夫である俺に言うのか。仮に桔梗に連絡先をブロックされていたとしても連絡の手段は他にいくらでもある。桔梗が錦野柾とやり直すなら俺との離婚は必須で、その連絡を俺経由でするというのは失礼な話でしかない。 「桔梗に連絡をしたいというのは口実で、俺に会うのが目的の可能性がある」「それなら普通に会いにくればいいだろ?」「目的は、恐らく脅し。脅されたくないならその対価、それを準備しておけってことだろう」「脅しって……吉川凜花か」「ああ。あの音声で俺を脅そうとしている可能性が高い」
桔梗と花岡社長の関係については調べた。男の嫉妬は女に向かうから、見当違いの俺の嫉妬で桔梗を傷つけないため、桔梗と花岡社長の関係については調べておいたほうがいいと祖母さんに言われたからだ。 調べてみると桔梗と花岡社長は確かに仲が良かったらしいが、年頃の男女にしては珍しく性愛めいたものはなく、二人の間にあったのは友情だったという。但し、あえて名前をつけるなら『友情』という雰囲気。互いに互いしかおらず他の者は信じられないといった排他的な雰囲気が二人の間にはあり、友情でくくるには大きすぎるが、だからといって恋人になる前のような雰囲気は一切なかったという。二人は大学3年生のときに同居を始めた
前の私と今の私は同じだけど、私の感覚的には別の人。前の私は例えるなら本の中の登場人物。前の私に起きたことは理解しているけれど、そのときに感じたことが書かれていないので出来事が羅列されているだけ。自分のことなのに他人事で、国語の問題のようにそのときの私の気持ちを推測している。恋なんて、感情的なものはまるっと抜けている。前の私が蓮司さんを好きだったのでは……でも、その先は?なにがどうなって誠司を授かったのか、前の私の恋物語は白紙の状態。その答えを持つ蓮司
「なんで俺たちが呼び出されるわけ?」佳孝と一緒にスタッフに案内された個室に入ると、中にいた桐谷蓮司が顔を上げた。顔色も表情も素面だが、桐谷蓮司の前に置かれたボトルが今日おろした新品ならかなり飲んでいることになる。「花岡社長、滝田さん。なにを飲む?」私と佳孝は互いの顔を見て、肩を竦めるとまだ扉の前にいたスタッフにそれぞれのお酒を注文した。 それにしても、桔梗の夫となったこの桐谷蓮司とこうしてお酒を飲む仲になったことに驚かされる。それもこれも――。「相変わらずいい男