ログインそれを聞いて、桜は振り返って安人を見た。本来なら手の届かない、雲の上の存在のはずの人が、今は自分の手をとって、深々と頭を下げ、心のこもった誓いを立ててくれている。桜はこれまで、安人ほどの男性に自分は相応しくないとずっと思ってきた。でも、そんな彼女の戸惑いや不安を、安人は揺るぎない愛情で、少しずつ消していってくれたのだ。今も桜は、安人ほどの人は雲の上の存在だと変わらず思っている。そして、彼には最高の相手が相応しいはずだ。自分にはまだ足りないところが多い。だけど、もう卑下したりはしない。彼に相応しい人間になれるように、もっと努力しようと心に決めたから。本当に好きな人と結ばれると、全てが良い方向に向かうというのは、本当かもしれない。今の桜は、自分が少しずつ良い方向に変わっていることを実感していた。安人の愛情に支えられた彼女はもはや、変わることを恐れないし、先の見えない未来に不安を感じることもなくなった。これこそが、好きという気持ちの本当の意味なのかもしれない、と彼女は思った。相手が素晴らしいから好きになったんじゃなくて、素晴らしい相手を好きになったから、自分もより素敵になれるのだ。……桜と安人は北城に戻った翌日、お土産を持って朝早くに梨野川の別荘へ向かった。サプライズをしようと、二人は事前に連絡していなかった。安人が運転し、桜は助手席に座っていた。マイバッハが梨野川の別荘に入ると、安人は庭にJ市ナンバーのファントムが停まっていることに気づいた。誰か来ているのだろうか?安人は軽く眉を上げ、車をガレージに入れた。車を停め、二人は降りた。安人がトランクを開けると、桜もそばに来て一緒にお土産を運んだ。こうして、二人は家に向かって歩いていった。玄関に着くと、真紀が出てきた。「安人様、若奥様、お帰りなさいませ!」真紀の声は、いつもよりずっと大きかった。安人は、胸の妙なざわめきがさらに強くなるのを感じた。家で何かあったのだろうか?案の定、家の中にいた綾と誠也は真紀の声を聞いて、顔を見合わせた。すると、誠也は言った。「綾、先に行って様子を見てきてくれ」綾はうなずくと、立ち上がって玄関に向かった。真紀は綾が来るのを見て、すぐに道を開けた。綾は外へ出ると、玄関のドアを閉めた。そ
「安人、あなたに相談したいことがあるの」そう言われ、安人は足を止め、彼女に目を向けた。桜は少し顔を上げて言った。「実はもう一度、学校に通おうと思って」安人は一瞬きょとんとした。確かに、それは意外な展開だった。でも、すぐに彼は納得した。「どうして急に学校に行きたくなったんだ?」それでも、安人は桜の頬を撫でながら、気持ちを聞いてあげようと思った。「このところずっと考えてたの。私が本当に好きなのは、女優でいることなのか、それとも人前に出ることなのか。それとも、ただ『演じる』っていうこと自体が好きなのか」安人は彼女を見つめて続けて尋ねた。「それで、答えは出たのかい?」「うん」桜は頷いた。「人前に立つなら、もっと良いお手本にならないと。女優でいるなら、安定して良い作品を届け続けなきゃ。でも、今の私の実力はまだ不安定なの。監督やカウンセラーの先生にも、今の演技は自分をすり減らすだけだって、何度も言われたわ。このまま続けていくためには、今のやり方を変える必要があるの」「確かにその通りだ」安人も真剣な顔で答えた。桜の瞳に宿る強い意志を見て、彼女の気持ちがよく理解できた。「で、君に何か考えがあるのか?」「我妻監督は海外留学を勧めてくれたの。知り合いの先生に、推薦状を書いてくれるって」桜はそう言うと、複雑な表情で黙り込んだ。彼女のためらいを察して、安人は低い声で言った。「桜、君はまだ若い。成長できるチャンスはすべて掴むべきだ。俺のことは気にしなくていい。君が何をしようと、俺は無条件で応援するから、君は自分の夢だけを追いかけて、目標に向かって進めばいいんだ」「でも、それじゃあなたに申し訳ない気がするの」桜は安人を見つめ、それでも躊躇いがちだった。「私たちは夫婦なんだから、家庭を一番に考えなきゃ。私、自分のことばっかり優先することはできないよ」「いいか、俺が君と結婚したのは、君を守りたかったからだ。婚姻は、互いの絆を深めるためのものだ。君を縛り付けるためじゃない。それに、君を『妻』という肩書で繋ぎとめるために結婚したわけでもない。だから、俺と結婚しても、君は思うがまま、夢を追いかけていいんだ。君らしくいられることが大切なんだ」安人の言葉に、桜の心は激しく揺さぶられた。彼女は安人を見つめ、目を赤くし、泣きそうになった。そ
だが、以前出演した演劇で、桜は舞台の魅力と、観客からのダイレクトな反応や拍手の温かさを肌で感じることができた。その時から、桜の心にある考えが芽生え始めていた。でも、その考えをちゃんとまとめるには、もう少し時間が必要だった。……夏から秋へ季節は移ろい、4ヶ月に及んだ撮影も、9月中旬、ついにクランクアップの日を迎えた。クランクアップの日、浩平が桜のために打ち上げを開いてあげた。もちろん、安人も駆けつけた。今回も彼はスポンサーという立場で、打ち上げに参加していた。でも、事情を知っている何人かは、安人の本当の目的が別にあることを知っていた。打ち上げが盛り上がる中、いつの間にか主演女優とスポンサーの姿が消えていた。だが、会場では、皆がお酒を飲んで楽しく会話を交わし、いつの間にかいなくなった二人に気づく者はいなかった。……一方、月明かりがおぼろげな夜。砂浜には、ざあざあと波が打ち寄せていた。二つの人影が、肩を並べてゆっくりと歩いている。岸にあるレストランの看板の明かりが二人を照らし、長い影が砂浜に映し出されていた。安人は桜の華奢な手を引きながら、裸足になって波打ち際で遊ぶ彼女を、愛おしそうに見つめていた。9月のM市はまだ暑い。夜になっても海風は少し生暖かく、潮の香りがした。桜は顔を上げて安人を見て尋ねた。「こうして抜け出してきちゃったけど、みんな気づくかな?」「大丈夫だよ」安人は低い声で答えた。「本当に?」桜は唇を尖らせた。「撮影班のみんな、私たちのこと、ただならぬ関係だって薄々気づいてると思う。我妻監督とあなたの手前、見て見ぬふりをしてくれてるだけよ!」安人は口の端を上げて笑った。「大丈夫。もうすぐ、そんな芝居をする必要もなくなる」桜は尋ねた。「どういうこと?」「映画はもうクランクアップしただろ?」安人は彼女を見つめて言った。「我妻監督が言うには、君はこの映画で賞を獲れるのはほぼ間違いないらしい。監督は長年の経験があるから、人を見る目には狂いがない。それに、今回の映画は時代を切り取ったアート系の作品だ。海外の映画祭でも通用するはずだから、俺も追加で出資することにした」「えぇ!?」桜は驚いた。「元が取れなかったらどうするの?」「損したっていいさ。カジノで遊んだと思えば安いもんだ」
どうやら、安人は桜のサプライズが、相当気に入ったようだ。それから、桜がオフィスをゆっくり見回す間もなく、安人は彼女を抱き上げて休憩室へと向かった。もうすぐ退勤時間だということもあって、安人の行動はさらに大胆になった。安人の香りが染みついた大きなベッドで、そのダークグレーのシルクのシーツに、二人の愛の跡がことごとく残された。その結果、桜はくたくたに疲れ切ってしまった。付き合い始めたばかりの頃は別として、安人がこんなに激しくなることは滅多になかったからだ。普段の彼も遠慮するほうではないが、今日の安人は格別に興奮していて、何度も何度も桜を求めてきた。ついに、桜は疲れ果てて泣き出してしまった。彼女は安人の肩に噛みつき、八つ当たりするように言った。「安人、これ以上続けたら、明日から梨野川の別荘に泊まるから!」安人はぴたりと動きを止め、彼女の目尻の涙を優しくキスで拭った。そして掠れた声で囁く。「大丈夫、本当にこれが最後。約束する」桜はむっとしたが、彼をどうすることもできなかった。朦朧としながら、彼女はふと思った。もし自分に子供が産める体だったら、こんなに激しい安人といたら、すぐにでも子供がたくさんできちゃうんじゃないかって。子供のことを考えると、桜は少しぼーっとしてしまった。彼女が上の空なのに気づいた安人は、不意にぐっと力を込めた。「んっ」桜は小さく喘ぎ、はっと我に返って彼女は安人を睨みつけた。「何を考えてた?」安人は彼女を見つめ、セクシーな掠れ声で言った。「よそ見をするなんて、物足りないってことかな?」そう言われ、桜は唇を噛み、恥ずかしさと悔しさを込めて彼を睨み返した。一方、安人は顔を近づけ、彼女に深いキスをした…………全てが静まり返った頃には、空はもうすっかり暗くなっていた。桜は疲れ果てて、指一本動かしたくなかった。安人は桜を抱き上げ、シャワーで優しく体を清めてあげた。でも、ここには桜の着替えがない。安人は仕方なく、クローゼットから自分のシャツを取り出して彼女に着せてあげた。安人の白いシャツを着た桜は、まるで大人の服を着た子供のようだった。「先にベッドで休んでて。夏帆に頼んで、着替えを届けさせるから」桜はベッドに横になりながら、あくびを一つした。そして気まずそうに言う。「そんなことし
それと同時に、新太はドアを開け、急いで部屋の中を見回したが、桜の姿が見当たらなかったので、彼はホッと一息ついた。桜はきっと休憩室にでも隠れているんだろうな、と彼は思ったから。「社長、デスクの上にあるのは急ぎの書類です。目を通していただき、問題がなければサインをお願いします。すぐに秘書課からマーケティング部に回させますので」「わかった」安人は部屋に入ると、まっすぐデスクへ向かい、腰を下ろした。片やそのデスクの下で、桜は口を手でふさぎ、目をまん丸くした。安人は椅子をデスクの方へ滑らせる。すらりとした長い脚を広げ、背筋を伸ばして座った。彼は書類を開いて、すぐに内容を確認し始めた。そんなこととはつゆ知らず、デスクの下にいる桜は、顔が真っ赤になっていた!これは、とんでもないアクシデントだ!彼女は、すぐ目の前にある安人のある場所を見つめながら、口をおさえて息をひそめた……安人は書類を読み終えると、問題ないと思いペンを取ろうとした。でも、その時ふと手が滑って、ペンが足元に落ちてしまった。彼は一瞬動きを止め、それを拾おうとかがみこんだ——すると、そこでくりくりっとした大きな瞳と不意に目が合ってしまうのだった。安人はきょとんとした。桜も、固まってしまった!すぐに安人は何かを察して、片方の眉をくいっと上げた。その黒い瞳に、いたずらっぽい笑みを浮かべて桜を見つめた。そう見つめられた桜は、思わず手で顔を覆った。それに対し、安人は口の端を少し上げて笑うと、ペンを拾って体を起こした後、また何事もなかったかのように平然としていた。彼はさっとサインをして、書類を新太に渡した。新太はそれを受け取ると、「社長、ほかに何かありますか?」と尋ねた。「今は大丈夫」安人は新太を見ながら、彼がこっそり桜を連れてきたのだろうとすぐに見抜いた。でも、彼のあの反応を見るかぎり、まさか桜がデスクの下に隠れているとは思っていなかったようだ。新太は書類を持って、オフィスを出ていった。ドアが閉まった後、安人は少し待ってみた。でもデスクの下の彼女が出てくる気配がないので、やれやれとため息をついて言った。「新太はもう行ったよ。まだ出てこないの?」そしてすこし、沈黙が続いた。安人が椅子を少し後ろに下げようとした時、ふと、彼女は華
鈴木秘書はぼそっと聞いた。「いったい何者なの?古川さんが直接、社長室にお通しするなんて」すると、湯川秘書が言った。「あんな風に顔を隠してるってことは、ただ者じゃないわよね。きっと芸能人よ。どの女優さんかしら?」それを聞いた、秋山秘書は思わず言った。「なんか、あの人のスタイル、私の推しの桜りんに似てない?」「桜りんって?」鈴木秘書は驚いて聞き返した。「もしかして春日桜さんのこと?」「うん。体型がそっくり。それに、あのバケットハット、桜りんもよくかぶってるのよ!」「ありえないでしょ、桜ちゃんなわけないじゃない!」湯川秘書は反論した。「碓氷社長が芸能人嫌いなのは、ビジネス界でも有名な話よ。それに、うちの会社がタレントをCMに起用したことなんてあった?この間も課長から聞いたんだけど、桜井社長との提携を断ったのも、あそこがいつもタレントを起用しているからだって話じゃない!」鈴木秘書も便乗して言った。「湯川さんの言う通りだよ。秋山さん、最近ちょっと夢中になりすぎなんじゃない?顔を隠してる人を見たら、みんな桜りんに見えちゃうんでしょ、ははは!」秋山秘書は気まずそうに頭をかいた。「そうかもね。だって昨日の夜も、桜りんはまたひどい目に遭わされそうになったんだから。輝星エンターテイメントがうまくやってくれたけど。桜りんも最近せっかくいい感じになってきたから、やっぱり事務所って大事よね。彼女は絶対にスターになるんだから!」「知ってる、拓真でしょ。正直、彼には全然興味がなかったけど、昨日の夜、彼と彼の事務所のやり口はひどすぎてドン引きしたわ」湯川秘書は言った。「私みたいな、アイドルに興味ない人間でもムカついたくらいだから。でも、天罰はすぐに下ったみたいね。朝8時にはネットで彼のスキャンダルが炎上してたし、笑えるわ。これで、彼のガチ恋ファンたちがまたネット上で大騒ぎしてたわよ!」そこに秘書課の課長がやってきて、デスクをコンコンと叩いた。「はい、仕事中に無駄話はしないように」若い秘書たちはすぐに口を閉ざし、仕事に没頭した。その時、新太が社長室から出てきて、静かにドアを閉めた。秘書課の課長は固く閉ざされたドアに目をやり、新太の方を向いた。「古川さん、中にお茶菓子などお持ちしましょうか?」新太は聞き耳を立てている若い秘書たちに目をやり
そして、蛍はベッドから降りて、バスルームに入った。まもなく、バスルームからシャワーの音が聞こえてきた。冷たい水が頭からつま先まで降り注ぎながら、蛍はシャワーヘッドの下で、唇を固く結び、びくともせずに立っていた。......一方で、二階の主寝室には、小さなベランダがついていて、花梨が詩乃のためにうどんを作って、ちょうど運んできたところだった。詩乃はあまりお腹が空いていなかった。でも、赤ちゃんのためを思うと、食欲がなくても少しは食べなければいけないと思った。彼女は小さなテーブルの前に座って、静かにうどんを食べていると、その隣で浩平が黙って立っていた。そんな彼の背の高いす
それから優希がレストランに着いて、お店に入ったとたん、バッグの中のスマホが鳴った。彼女は足を止め、スマホを取り出した。知らない番号だった。電話に出ようとした、その時だった。窓際の席に座っていた男性が立ち上がり、こちらに手を振っているのが見えた。優希は、それが颯介だとすぐにわかった。チャコールグレーのスーツに身を包んだ、背の高い男性だった。優希がためらっているうちに、着信音は鳴りやんだ。彼女はもう気にせず、スマホをバッグに戻し、颯介の方へ歩いていった。近づくと、優希にも彼の顔がはっきりと見えた。写真とほとんど変わらない。キリっとした眉に、涼しげな目元。落ち
「法律事務所の仕事、また一人でやらされるの?」「どうせあなたは2週間も放っておいたんですし、今さら数日増えたって変わらないでしょう」優希はわざと言った。「でも、年末のボーナスはありませんからね」「ケチ!そうやって勘定が細かいんだから!」志音は笑って手を振った。「まあ、状況を見るわ。本当は帰りたくないんだけど、母が毎日うるさくて。結婚なんてしたくないのに!」「さっきは恋に憧れるって言ってたじゃないですか?」「恋に憧れるのと結婚に憧れるのは別よ」志音は指を折りながら数えた。「今年私たちが受けた案件を見てよ。6割が離婚案件なの。どの案件にも、依頼した女性の血と涙の歴史があるのよ。本当
優希に最後に会ったのは、もう1ヶ月も前のことだった。1ヶ月ぶりに会う優希は、だいぶ顔色が良くなっていて、頬も少しふっくらしたように見えた。哲也はゆっくりと視線を下にずらし、まだ平らな優希のお腹を見つめた。優希は落ち着いた顔で安人を見て言った。「お兄ちゃん、ちょっと外してもらってもいい?」そう言われ安人は眉間にしわを寄せて、不満そうだったが、何も言わずに部屋を出ていった。そして、ドアが閉まると、優希は前に進み出て、哲也に見つめられながら、ゆっくりとソファに腰を下ろした。哲也は、優希が私服に着替えているのを見て尋ねた。「今日、退院するのか?」「ええ」優希は彼を見て言った







