LOGINどれくらい時間が経ったのだろう。優希が目を覚ますと、外はもうすっかり暗くなっていた。雨粒が、窓ガラスを叩いていた。嵐は、とうとうやって来てしまった。目が覚めて見えたのは、いつもの病室。そして顔を向けると、志音が心配そうな顔で自分を見ていたのだった。「やっと起きたのね」志音は呆れたように、でも心配そうにため息をついた。「肺炎なのにあちこち動き回るなんて。優希ちゃん、自分が母親だって自覚あるの!?」そう言われ優希はバツが悪くて、志音に叱られるままになっていた。でも、ぐったりしている彼女を見たら、志音も強くは言えなくなってしまった。「もういいわ、とにかく無事でよかった」「まさかぶり返すとは思わなくて、朝はだいぶ楽だったのに......」優希は少し間を置いてから、「今、何時ですか?」と聞いた。「夜の9時よ」志音は彼女の真っ青な顔を見て、「お腹すいてない?」と尋ねた。「ううん、大丈夫です」優希は頭の上にある点滴を見上げてから志音に向き直った。「点滴のせいか、お腹は空かないですね。もしかして、ずっとここにいてくれたんですか?」「当たり前でしょ?」志音は少し拗ねたように言った。「私、まだ晩ご飯も食べてないんだけど!」「ごめんなさい、先輩。また迷惑をかけてしまいました」「何を今更よそよそしい!」そう言って、志音は彼女をちらりと見て、「何食べたい?今から注文するから」と続けた。優希は正直、食欲はなかった。でも、病気を治すには少しでも食べないとダメだってことは分かっていた。家では家族と二人の息子が帰りを待っている。早く元気にならなくちゃ。哲也と梓のことは、今はどうすることもできない。でも、どんな結果になっても、ちゃんと向き合うためには、まず体が資本だ。こんな時だからこそ、倒れるわけにはいかないのだ。そう思って彼女は言った。「何か消化のいい物がいいです。先輩、好きなもの頼んで、お代は私が出しますから」「ふん!」志音はスマホを取り出して言った。「奢ってくれるっていうなら、元気になってから高級レストランに連れてってよね。デリバリー一回で済まそうなんて思わないでよ!」その言葉に優希は思わず笑ってしまった。「分かりました。じゃあ、元気になったら豪華なディナーをご馳走しますね」「そうこなくっちゃ!」言いながら志音は
「お願いします」優希は椅子に腰を下ろした。ずっと無理をしていた体は、もう限界だった。力が抜けた瞬間、彼女の意識はもうろうとし始めた。警備員が水の入ったコップを差し出してくれた。優希は両手で受け取ってお礼を言うと、一口ずつゆっくりと飲み干した。しかし、水を飲み干しても、体の震えは止まらない。優希は志音にラインでボイスメッセージを送った。「警備室にいます。ちょっと寝ちゃうかもしれません。着いたら電話してください」そう言い終えると、彼女はスマホをバッグに戻し、椅子の背もたれに体を預けて意識を失った。そしてもうろうとする意識の中で、哲也の声が聞こえたような気がした。目を開けようとしたが、まぶたがとても重かった。こうして、優希はさらに深く、混乱した夢の中へと落ちていった。......「彼女の知り合いですか?」警備員は、優希の前にしゃがみこんでいる上品な雰囲気の男性に尋ねた。「さっき友達に電話してたから、もうすぐ迎えが来るはずですけど」「俺は、彼女の夫です」哲也は手を伸ばし、優希の額に触れた。熱い。彼は息を飲み、優希の顔を撫でながら、その目には苦しそうな色が浮かんだ。「こんなに具合が悪いのに、一人で出歩くなんて......ここは風が強いですからね。さっきも寒そうに震えてましたよ!」それを聞いて哲也は何も言わず、自分の着ていた上着を脱ぐと、優希の華奢な体をすっぽりと包み込んだ。そして、意識を失っている優希を抱き上げると、哲也は振り返り、警備員に低い声で言った。「彼女は俺が連れて帰ります。友達には俺から連絡しますので。今日はありがとうございました」「そんな、とんでもないです。でも、かなり具合が悪そうですから、早く病院に連れて行ってあげた方がいいんじゃないですか?」「ええ、今からすぐ病院へ連れて行きます」そう言って哲也は優希を警備室から抱きかかえて運び出すと、ファントムの助手席に乗せ、シートベルトを締めた。そしてすぐに、ファントムは病院へと急発進した。哲也は車を運転しながら、志音に電話をかけた。「優希は俺が迎えに行ったから、もう来なくていいです」「あ、無事ならよかったです!」ちょうど向かっている途中だった志音は、「喧嘩でもしたんですか?」と尋ねた。「ちょっとした誤解です」哲也は詳しい説明を避け、「もし
そう思うと早紀はすぐに冷静さを取り戻し、眉をひそめて声を潜めた。「私のせいで奥さんが傷つくなんてことになったら、私の気持ちが収まらない。哲也、前に言ったでしょ?私はあなたの家庭を壊すつもりなんてないって。あなただって言ってたじゃないか、私たちの関係はもう終わったんだって。それに私も、もうすぐ別の人と結婚する。だから私のことで奥さんともめないで。早く奥さんのところへ行ってあげて!」「俺たちは婚前契約を結んでいる。今日こんなことがあったからには、彼女の性格上、もう俺とはやっていけないと思う」早紀は、ぽかんとした顔で尋ねた。「婚前契約?」「ああ。もともと彼女とはできちゃったから結婚しただけなんだ」哲也は早紀を見つめ、冷たい声で言った。「結婚前に婚前契約と離婚合意書を交わした。どちらかが心変わりしたり、不貞行為をしたりしたら、もう一方が一方的に婚姻関係を解消できると書いてある」それを聞いて、早紀は心の底から湧き上がる喜びを抑え、眉をひそめて言った。「でも、私たちは別に、やましいことなんて何もしてないじゃない......」「俺たちがしたかどうかなんて関係ない」哲也は鼻で笑った。「優希がそうだと決めつけたら、あいつは何が何でも俺と離婚するだろう」早紀は俯き、声を震わせた。「ごめん、全部私のせいだわ......あなたに会いに戻ってきたりしなければ......」口ではそう言っていたが、彼女の目には興奮と得意の色が満ち溢れていた。一方、哲也は早紀を無表情で見つめ、低い声で言った。「君のせいじゃない。先に俺を騙したのは彼女の方だ。離婚したいならそれでも構わない。ただ、俺たちの間には息子が二人いる......」それ聞くと、早紀ははっと顔を上げた。そして慌てた様子で言った。「早まらないで。子供たちのために、もう一度奥さんと話し合ってみたら......」「帰ってちゃんと話すつもりだ。できれば子供は一人ずつ引き取るのが一番いい。でも、もし彼女が二人とも引き取ると言うなら、それも尊重する」そう言うと、哲也は早紀に視線を移して尋ねた。「でも、もし一人ずつ引き取ることになったら......早紀、君は俺の子供を受け入れてくれるか?」早紀はきょとんとした。まさか哲也がそんなことを聞いてくるなんて、思ってもみなかったのだ。ということは、哲也は本当
「哲也、いつでも誰か一人の言葉だけを鵜呑みにしないで。私は言ったはずよ、何があってもあなたを信じるって。だから、あなたにも私を信じてほしいの」優希は、この歳にもなって、一方的な言葉で傷つけ合うべきではない、と思った。もし哲也が今、早紀の策略のせいで自分を疑うなら、これまでの4年間の夫婦生活は本当に無駄だったってことになる。優希が哲也にもう一度チャンスを与えようと思ったのは、かつて、自分も彼を誤解したことがあったからだった。離れ離れになったあの5年は、自分の不信感から始まったのだ。だからこそ、今度は同じ過ちを繰り返したくなかった。もちろん、二人の息子たちの存在も大きかった。子供たちのために。優希は自分に言い聞かせた。何があっても、この状況を全力で立て直さないと。哲也は優希を見つめたまま、長い間なにも答えなかった。そんな彼はとても冷たく見えた。優希が歩み寄ろうとしても、心は全く動いていないようだった。優希は深く息を吸い込んで、もう一度口を開いた。「哲也、一緒に帰ろう」哲也はわずかに眉をひそめた。「先に帰ってくれ。早紀の容体が落ち着いてから帰るから」すると、ドアの枠を掴んでいた優希の手に力がこもり、指先が白くなるほどだった。彼女は尋ねた。「本気なの?」哲也は優希の視線を避け、ぽつりと、「ああ」とだけ答えた。それを聞いて優希は、言うべきことはすべて言ったし、待つだけ待ったと思った。それでも哲也の態度は変わらない。そう思うと彼女はもう哲也にすがるのをやめた。静かに視線を外し、背を向けてその場を去った。秋物のコートを羽織っていても、優希の体は華奢で服が大きく見えた。そのうしろ姿はあまりにも細いが、そこには意地と、生まれ持った誇りが確かににじみ出ていた。哲也は去っていく彼女のうしろ姿を見つめ、体の横で拳を強く握りしめていた。喉仏をごくりと鳴らし、彼の瞳の奥に、こらえきれない痛みの色がよぎった。一方、早紀も、優希のことを見ていた。早紀は優希のことをよく知っている。二宮家で大事に育てられた令嬢だ。優希には彼女なりの誇りがあるから、他の女とみっともない言い争いをするなんて、プライドが許さないのだ。そして早紀が狙っていたのは、まさに優希のその誇りだった。かつて日記に、優希と哲也を引き裂くような言葉を書いた
「嘘だと?」哲也は優希をじっと見つめた。彼女の顔は青白かったが、その表情は頑なで、うろたえる様子もなければ、悔しがる様子もなかった。「哲也、もう奥さんと帰ってあげて!」早紀は口元を覆って泣きながら言った。「もし帰らないなら、わ、私が出て行く......」そう言って早紀は布団をめくってベッドから降りようとした。すると、哲也は慌てて彼女の肩を押さえて言った。「体はまだ弱ってるんだから、無理するな」しかし早紀は顔を上げ、涙に濡れた瞳で訴えた。「でも、私がここにいたら、奥さんが嫌な気持ちになるわ......」「ここは俺の個人資産だ。俺たちは婚前契約を結んでいる。それぞれの資産をどう使おうが、お互いに口出しする権利はないんだ」これを聞いて、早紀は驚いて言った。「あなたたち、どうして......」「哲也!」優希は声を荒げた。「どうしてそんなことまで、彼女に話す必要があるの!?」一方、哲也は優希に冷たい視線を向けた。「あなたが早紀を突きとばすのを、俺はこの目で見たんだ。優希、早紀はあなたと違って、子供のころから苦労してきたし、あなたの身勝手によって俺は彼女に関する記憶を失ったままになった。それで彼女は辛い目に遭ったんだ。俺が彼女を覚えてさえいれば、彼女はあんな酷い目に遭わずに済んだかもしれないだろ」「ええ、私が彼女を押したわ」優希は哲也を見つめた。その瞬間、体の芯から凍えるような寒気を感じた。「でも、私が身勝手だって?哲也、彼女の言うことを何でも信じるわけ?私たちの4年間と、二人の息子たち。それ全部を合わせても、突然現れてあなたの初恋相手だなんて言う女ひとりには敵わないっていうの!?」「この4年間、俺は夫としてあなたに悪いようにはしてこなかったつもりだ。二人の子供が生まれてからも、父親としての責任はちゃんと果たしてきた。何も、やましいことなんてない」「やましいことなんてない......」優希は冷たく笑った。哲也の冷酷な顔を見ていると、今までの自分の頑張りが全てバカみたいに思えてきた。「じゃあ、私からも言わせてもらうわ」優希は堂々と哲也を見据えた。「この女は被害者を装って私を陥れ、私たちの仲を引き裂こうとしているの。これが私の言い分よ」「引き裂く?」哲也の顔が曇った。「優希、早紀はさっきからずっと、あなたを責めないでくれっ
事故の後、自分はしばらく深刻なPTSDに悩まされていた。皐月は自分の専属カウンセラーで、事故から5年間、定期的に彼女の元へ受診に通っていた。だが、皐月は自分に、恋人がいたことを一度も話さなかった。それどころか、この数年間、周りの誰もそのことを自分に教えてくれなかった。哲也は、これはおかしいと感じた。早紀の話が本当かどうかは別として、少なくとも一つだけ確信したことがある。自分の記憶は、確かにおかしい。しかし、皐月は4年前に亡くなっていた。哲也も優希と結婚してからは、カウンセリングを受けに行くことはなくなっていた。そこへ突然、早紀が現れたのだ。だから、彼はもう、何もしないでいるわけにはいかなくなった。哲也は、皐月の元秘書だった高田拓也(たかた たくや)を訪ねた。拓也は皐月から、もし哲也が自分の記憶を疑う日が来たら、彼の治療記録を渡してほしいと託されていた。そこで、哲也は資料を受け取り、答えを知った。彼は本当に記憶を失くし、深く愛し合っていた女性を忘れてしまっていたのだ。彼の記憶喪失は、事故だけが原因ではなかった。自分自身が深刻な精神的問題を抱えていたからだ。彼は無意識に恋人へ強い独占欲を抱いてしまう。さらには、何度も不安に駆られ、自分のネガティブな感情を抑えきれずに恋人を疑ってしまうのだった......そんな最悪の状態が続き、恋愛において、彼は次第に度を越した狂人と化していった。哲也がさらに驚いたのは、こうした自分の過去を、優希がすべて知っていたことだ。いや、正確に言えば、周囲や家族たちは皆知っていた。そして、彼らは優希と結託して、自分を騙していたのだ......それで拓也は言った。「松尾先生は口止めしていましたが......でも、紫藤さんとあなたがこんな形で引き裂かれたのを見て、心が痛んで、やはり本当のことを話すべきだと思いました。奥さんは、どうやら昔からあなたに片思いをしていたようです。あなたが記憶を失って紫藤さんを忘れたと知ると、彼女はすぐに松尾先生の所へ行き、協力を持ち掛けたのです......」それを聞かされた哲也は、これらの情報にすっかり心をかき乱された。だが、彼が頭の中を整理する間もなく、優希と息子が病気だという知らせが届いた。その瞬間、哲也は何もかもどうでもよくなり、すぐに空港へ向
その言葉は質問ではなく、事実の確認だ。若美は要のスーツを脱がせ、ハンガーにかけながら言った。「綾さんにはお世話になりました。北条先生、彼女が追い込まれているのがどうしても見過ごせなかったんです」「俺を怒らせるの怖くないのか?」男の声は冷たく、彼女を見つめる目には感情がなく、あたかも赤の他人を見ているようだった。彼女のお腹の中には、確かに彼の子供が宿っているのにも関わらず。「あなたの怒りは怖いです。でも、北条先生、それ以上に、あなたが後悔する姿を見るのが怖いです。綾さんは見た目ほど弱くないです。本当は頑固で、あなたのそばにはいたくないと思っていれば、あなたがどんな手段を使って
「いや、それはいい」輝は素っ気なく言った。「うちは家柄に厳しい。両親は、家柄が釣り合って、過去がクリーンな女性を望んでいるので」音々はクスッと笑った。「岡崎さん、ひどいじゃないですか。断るにしても、もっと言い方があるでしょう?」輝の顔色が変わった。そして慌てて言い訳をした。「そういう意味じゃない。あなたの仕事は少し危険で、私の家族はそれを受け入れられないだろうと......」「もういいですよ」音々は手を振った。「ただの冗談です。本気で好きになったと思ったのですか?私はイケメンを見ると、ついちょっかい出したくなるだけです。相手がオープンで、私と一夜を共にする気があれば、もちろん乗るけ
それは、綾には想像もつかない世界だった。そして、世間には永遠に認められることのない世界でもあった。......二人の服は、血で染まっていた。要は、スタイリストを呼んだ。スタイリストは部屋に入るなり、その光景を見て呆然とした。「妻に新しいウェディングドレスを着させてくれ」要は冷たく言い放ち、何か言いたげなスタイリストを睨みつけた。「余計なことは言うな。自分の仕事に集中しろ」「はい」スタイリストは要の視線を避け、綾を控室に案内した。間もなくして、別のスタイリストが救急箱を持って入ってきた。「二宮さん、北条さんが傷の手当てをするようにとおっしゃっていました」綾
試着室で、綾は大量のセクシーな下着を抱え、身動きがとれなくなっていた。狭い試着室は、一人でも窮屈に感じるほどだった。しかも、この試着室は2階の屋根裏部屋、つまり倉庫と繋がっていた。そこに、足音が近づいて来た。綾は何かを感じ、顔を上げた――すると、黒い人影が現れた。男は全身黒づくめの服を着て、黒い野球帽を深く被り、顔の半分は黒いマスクで隠れていて、唯一外に出ている目は切れ長で奥深いものだった。彼は脚が長く、らせん階段を降りてくるのも、たった2歩で済んだ。彼が現れた瞬間、綾は若美の意図を理解した。彼女は目の前の男をじっと見つめた。まるで時間が止まったかのよう







