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第8話
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碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第100話
ガチャン。手術室に、金属音が響き渡った。麻酔科医は、麻酔を注入しようとしていた手を止めた。斉藤主任は眉をひそめ、第一助手に「どうしたんですか？」と尋ねた。第一助手は「私じゃないです。これは......」と答えた。麻酔科医が注射針を抜いて、「地震です！」と叫んだ。綾は、目を見開いた――手術室の照明が点滅し、綾は軽いめまいを感じた。手術台が揺れている。次の瞬間、病院中に非常ベルが鳴り響いた。「手術中止！至急、避難してください！」何が起こったのか分からなかった綾は、星羅と麻酔科医に支えられ、手術台から降りた。手術室のドアが開くと、廊下には患者と医療スタッフが溢れかえり、騒然としていた。輝が駆け寄ってきて、「どうした？手術は終わったのか？」と尋ねた。「とにかく、外に出よう！」星羅は綾を支えながら言った。輝は頷き、二人を庇うようにして非常口へと向かった......幸い、地震はすぐに収まった。非常口と廊下は、人で溢れかえっていた。地震は収まったが、まだ余震が来るかもしれないと、皆、不安な様子だった。病院の非常ベルが止まった。しばらくすると、院内放送が流れた。「先ほど、気象庁から発表がありました。午前10時45分頃、マグニチュード5.6の地震が発生しました......現在、地震の危険性はなくなりましたので、医療スタッフは患者を病室へ誘導してください。怪我をしている人はいないか、確認をお願いします......」皆、ホッとした。医療スタッフは、患者たちを病室へ戻し始めた。「綾、大丈夫？」星羅は綾に心配そうに声をかけた。「ええ、大丈夫」綾は首を横に振った。「麻酔を入れる前で本当に良かったです。もし麻酔を入れていたら、君を担いで逃げなければなりませんでした」山下主任はそう言ってから、「医者になってけっこう経ちますが、手術中に地震に遭遇したのは初めてです」と続けた。「北城で地震なんて、本当に珍しい。ましてや、こんなに揺れが大きかったのは、私も初めてです」斉藤主任は、綾の腹部を見ながら言った。「とにかく、もし手術を続けるとしても、もう一度消毒をし直さなければなりません。二宮さん、一旦病室に戻って待っていてください」綾はうつむいて、自分のお腹にそっと手を当てた。星羅と輝は、顔を見
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第99話
綾は、妊娠していることを知っていた。そして、それを自分に隠していたのだ。あの日のことを思い出す......あの日は吹雪が酷く、綾の態度も冷たかったので、自分は怒りに我を忘れてしまい、最も重要なことに気づかなかった。マイバッハは、街中を猛スピードで走っていた。何度か危険な追い越しをしたが、スピードを落とすことはなかった。誠也はハンドルを強く握りしめ、険しい表情をしていた。綾は自分の子供を妊娠したまま離婚し、輝と一緒になるつもりなのか？自分の子供に、他の男を「お父さん」と呼ばせるつもりか？男の薄く結ばれた唇が、ふいに皮肉げに持ち上がった。「綾、お前は本当にやってくれるな！」誠也は片手でハンドルを握りながら、丈に電話をかけた。「綾があなたの病院にいる。すぐに彼女の診察記録を調べてくれ......」プップー――前方の交差点から、信号無視の大型トラックが飛び出してきた。驚いた誠也は、とっさにハンドルを切った――黒いマイバッハは大きく横滑りし、歩道に乗り上げて、標識に激突した。ドゴン。大きな音と共に、ボンネットがへこみ、エアバッグが作動した――マイバッハのボンネットから、白い煙が上がった。誠也はハンドルに寄りかかったまま、その目は閉じられていた。座席の下に落ちた携帯は、まだ通話中のままだった。「碓氷さん？碓氷さん！返事してください！碓氷さん――」丈の焦った声が聞こえてきたが、誠也は何も答えなかった......-病院で、丈は診察室から飛び出してきて、「奥山！」と叫んだ。助手が駆けつけ、「どうしましたか、佐藤先生？」と尋ねた。「すぐに救急車を手配して！救急の入り口前に待機させるんだ！あとあなたは、救急セットを持ってきて！」助手は、すぐに指示通りに動いた。丈は、知り合いの警察官に電話をして、誠也の居場所を調べてほしいと頼んだ。5分も経たないうちに、警察から連絡が来た。丈は助手と共に救急車に乗り込み、事故現場へと急行した。同じ頃、手術室ではすべての手術準備が整っていた。綾は手術台に横たわっていた。いよいよ手術が始まるとなると、綾は緊張のあまり体が震えた。滅菌服を着た星羅は、綾の隣に立ち、「綾、大丈夫よ。リラックスして。麻酔科の先生が、麻酔を打つわ」と優しく声を
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第98話
星羅はまず綾の入院手続きを行い、それから病室へ連れて行って病院服に着替えさせた。着替えが終わると、いくつかの検査を受けた。検査結果は30分後に出る。綾は窓辺に立ち、じっと外を眺めながら、不安な時間を過ごしていた。星羅と輝は、綾に何も言わずにただ寄り添っていた。30分後、検査結果が出た。異常はなく、手術は可能だった。ちょうどその時、手術室の準備ができたと連絡が入った。「綾」星羅が声をかけた。「そろそろ手術室に行こう」綾はまつげを震わせ、ゆっくりと振り返った。星羅は綾に近づき、彼女を抱きしめた。「大丈夫。私がついてるから」「うん」綾は小さく答えた。輝は何も言わずに立っていたが、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。三人が手術室の前まで来ると、輝はそこで立ち止まった。星羅は綾の手を取って、手術室の中へ入って行った。重いドアが、二人の後ろで閉まった。......北城裁判所。裁判官は判決を下した。未成年者に対するレイプ事件で、原告の勝訴が確定した。誠也が裁判所を出ると、被害者の両親が駆け寄ってきた。「碓氷先生、ありがとうございました！」やつれた顔の夫婦は、誠也にひざまずき、深々と頭を下げた。誠也は驚き、慌てて二人を立たせた。彼は真剣な表情で、落ち着いた声で言った。「弁護士として当然のことをしたまでです。頭を下げるのはおやめください」「こんな大きな北城で、誰も私たちを助けてくれようとしませんでした。碓氷先生だけが......あなたは私たちの大恩人です！命の恩人です！」被害者の母親は、涙を流しながら言った。誠也は法廷では雄弁だったが、普段は人付き合いが苦手だった。彼は清彦を見た。清彦はすぐに二人のそばに行き、優しく言った。「そんなに恐縮しないでください。碓氷先生は弁護士として当然のことをしたまでです。もう心配はいりません。裁判にも勝ちましたし、安心して家に帰ってお嬢さんのそばにいてあげてください」誠也は、人々を慰めるのは清彦に任せ、自分の車へと向かった。車に乗り込み、携帯を取り出すと、晋也から、何度も着信があったことに気づいた。彼は眉をひそめ、晋也に電話をかけ直した。電話に出た晋也が、まくし立てるように言った。「やっと繋がった！お前、今、病院の産婦人科で誰を見かけたと思う？
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第97話
「そういう意味じゃないですよ」綾は少し微笑んでため息をつき、立ち上がって言った。「気持ちは嬉しいですが、もう決めたんです」輝も立ち上がり、彼女をじっと見て問い詰めた。「本当にいいんだな？」「ええ」綾は頷き、強い口調で言った。「手術が終わるまで、あなたにどうやって隠そうかなと考えていましたが、もう知ってしまったのなら、秘密にしていてください」綾の決意が固いのを見て、輝はそれ以上何も言わなかった。「分かった。絶対口外しないよ」彼は少し間を置いて、また尋ねた。「明日の手術、何時からなんだ？」「9時です」「だったら、私が病院まで送って行くよ」「いいえ、大丈夫です」綾は輝に迷惑をかけたくなかったので、「星羅が病院にいるから、彼女が全部手配してくれます」と言った。「先生たちから、君のことを頼むって言われてるんだ。秘密にさせるんなら、せめて手術が終わるまで付き添って、無事なのを確認させてくれよ」綾が何か言い出す前に、輝は遮って言った。「決めたからね。もし断るなら、今すぐ先生に電話するよ！」綾は何も言えなかった。先生たちに心配をかけたくないので、綾は輝の申し出を大人しく受け入れた。......翌朝、午前8時10分。レンジローバーは病院へ向けて静かに走っていた。車内は静まり返り、重苦しい空気が漂っていた。輝は、何度か横目で綾を盗み見たが、綾は助手席に座り、静かに窓の外を眺めていた。交差点で信号が赤になり、レンジローバーはゆっくりと停止しすると、ちょうど目の前のビルの巨大スクリーンに、遥の広告が映し出された。輝は、遥の能天気な笑顔を見て、つい口に出してしまった。「やっぱり、碓氷さんは桜井さんのために離婚したのか？」綾は我に返り、スクリーンをチラッと見てから嫌悪感を露わにし、そっけなく「ええ」と答えた。「昨日、あのガキが『遥母さん、遥母さん』って呼んでたから、遥のことを母親として受け入れてるみたいだな」「彼女は継母じゃないですよ」「え？」輝は不思議そうに綾を見た。「桜井さんは、悠人の実の母親なの」「実の母親？！マジかよ！なんだそれ？君と碓氷さんが夫婦で、悠人は桜井さんのガキ？じゃあ、君が継母ってことじゃんか！」輝は愕然とした。「二人は幼馴染なのです」綾はこめかみを押さえた。今更
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第96話
誠也は悠人を連れて帰った。もちろん、遥が「絶対気に入ると思う」と言っていたラグドールの子猫も一緒にだ。彼らが帰った後、綾はとうとう倒れてしまった。輝が倒れそうになった綾を抱きとめ、オフィスにあったソファに寝かせた。綾はソファにもたれ、胸を押さえて荒い呼吸をしていて、顔は真っ青だった。これは、過呼吸の発作だ。輝は綾の口を塞ぎ、落ち着いた声で言った。「過呼吸だ。口を閉じて、私のペースで息を吸って。いち、に、吸って。そう、上手。いち、に、吸って......」輝のおかげで、綾の呼吸は落ち着きを取り戻し始めた。輝は白湯を汲んで、綾に差し出した。「少し飲め」綾はソファにもたれ、少しずつ白湯を飲むと、体がようやく落ち着いてきた。輝は近くにあったクッションを綾の背中に当て、「これで楽になるだろ」と言った。綾は輝を見て、青白い唇を少しだけ緩め、「ありがとうございます」と静かに言った。ここ数日一緒に過ごして、綾は輝の口は悪いけど、根はいい人だと感じていた。年齢の割に、ずいぶんと気が利く。「なんだこれ？」輝は床に落ちていた紙を拾い上げ、眉をひそめた。「妊娠検査の結果？誰の......」綾はドキッとして、身を起こし、輝から紙を奪おうとした——「ちょっと待て！」輝は綾の手をかわし、立ち上がって紙の内容をじっくりと読んだ。数秒後、彼は顔をしかめて綾を見た。「妊娠してるのか？」綾は輝を見つめ、眉をひそめて言った。「誰にも言わないでください」「え、ちょっと待てよ、碓氷さんと離婚するんだろ？！」輝は綾を見た。「まさか、シングルマザーになるつもりか？」「明日、手術を受けます」輝はびっくりして、「手術？」と聞き返した。「はい」綾は立ち上がり、輝の手から検査結果を取り返すと、小さな声で「堕ろすんです」と言った。輝は言葉を失った。綾は検査結果をバッグにしまい、ドアに向かって歩き出した。子犬はまだ大人しくペットケージの中で飼い主を待っていた。綾が出てくると、すぐに立ち上がって「ワン！」と吠えた。綾は微笑んで子犬をケージから出してやった。子犬は嬉しそうに綾の足元に擦り寄り、しっぽをブンブン振っていた。輝は歩み寄り、綾と子犬が戯れている様子を見ていた。しばらくの沈黙の後、輝は「碓氷さんは知ってるのか
碓氷先生、奥様はもう戻らないと 第95話
綾は、誠也の言葉に悔しくて涙がこぼれそうになった。「誠也、あなたの息子には、母親がいる。空は桜井さんであって私じゃない。それに、あなたが、私が母親として失格だと言うのなら、そういうことなんだろうね。私は、悠人の母親になる資格はない。だから、あなたの息子を連れて、ここから出て行って」そう言い終えると、綾は激しいめまいを感じ、体がふらついた。輝が慌てて綾を支え、「大丈夫か？」と小さな声で尋ねた。綾は深呼吸をして、落ち着きを取り戻すと、小さく頷き「大丈夫です」と言った。二人の様子を見た誠也は、口を固く結び、鋭い視線を輝に送った。しかし、その時悠人は泣くのも忘れ、口をぽかんとあけ、綾のことをじっと見ていた。今、母さんは何て言った？母は......本当に、自分のこといらないの？悠人は、強い不安に襲われ、誠也の首にぎゅっと抱きついた。「お父さん、母さんは、怒ってるだけだよね？母さんは僕の母さんだよ。僕のこと、いらないなんて言わないよね？」悠人は、怒るのをやめて、しくしくと泣き始めた。誠也は悠人の頭を優しく撫で、「母さんは、ただ今、少し辛いだけなんだ。もう少し、待ってあげよう」と言った。「でも......」悠人は鼻をすすり、泣きそうな声で言った。「母さんは、前はどんなに機嫌が悪くても、僕を怒ったりしなかった......きっと、新しい彼氏ができちゃったから、僕のこと、好きじゃなくなったんだ」悠人は、輝を睨みつけた。輝は何も言えなかった。まだ小さいくせに、芝居がかったことばかりしやがって！輝は、呆れて笑ってしまった。「売られた喧嘩は買う」がモットーの輝は、悠人を見てニヤリと笑って言った。「当たりだ。綾ちゃんが一番愛しているのは、確かにこの私だ」悠人は、涙で濡れた目を大きく見開き、叫んだ。「嘘だ。この意地悪。母さんは、あなたのことなんて好きじゃない。母さんは、僕とお父さんが一番好きなんだ」「ああ、それは君が勝手に言ってるだけだろ？」輝は悠人に笑いかけて言った。「母さんの気持ちは、違うかもしれないぞ」悠人は悔しくて泣き出し、「母さん、こんな人と付き合っちゃダメ！」と叫んだ。こんなに駄々をこねる悠人を見るのは、初めてだった。だけど、今更あの子を諭す気にもなれない。綾は冷たい目で誠也を見た。「悠人
