Masuk「あいつ、何しに来たの?」梨々香は外面を気にする性格で、部外者の目があると思い切り怒りをぶつけられない。三久は洲人の言った「必ず会おう」という切羽詰まった一言を、実はほとんど気にも留めていなかった。洲人が姿を現した瞬間、その言葉が唐突に頭の中に蘇った。三久は梨々香に言った。「少しだけ待ってて」「あたしが先に行くから」梨々香はもう待ちきれない様子だった。「とにかく、神崎社長は中に入れないでよ」三久の返事も待たず、梨々香はもう施設の中へずかずかと足を踏み入れていた。三久は、梨々香を一人にするのが心配だった。本当に頭に血が上って手を出しかねないと思ったからだ。「何か用ですか」三久は洲人に手短に尋ねた。だが洲人の視線は、施設へ消えていく梨々香の後ろ姿を追ったままだった。「二人とも……あまり顔色がよくないな。もしかして、あの愛菜という……」三久は冷たく言葉を遮った。「用件だけ言ってください。急いでいるので」洲人は口を開きかけたが、喉元まで出かかった言葉は、結局「なら、先に行っていい。俺はここで待って……あ、いや、その……」に変わってしまった。しどろもどろで、ろくに言葉にもなっていない。三久は踵を返して立ち去った。中から、すでに言い争う声が漏れ聞こえてくる。幸い梨々香もそれなりに分別があり、温子を厨房に引きずり込んで、子供たちの前では騒がないよう配慮していた。三久がドアを開けて中に入る。温子の甲高い怒鳴り声が、真っ先に耳へ飛び込んできた。「あんたたち、いったい何のつもりなの?私を殺す気?私がこの何年、施設のためにどれだけ苦労してきたと思ってるのよ!善人が馬鹿を見るって、こういうことなのね。たかが数百万円のことで、ここまで私を追い詰めて……もう好きにしなさいよ!警察にでも、どこにでも突き出せばいいじゃない!」温子が開き直り、金を返そうともしないことは、梨々香も何度も想像していた。だが、ここまで図々しい態度に出るとは思ってもみなかった。「あんた、それでも人間なの?あたしとみくちゃんが、あんたに何か借りでもあるっていうの?この先もずっと、あたしたちから搾り取るつもり?言っとくけど、今日中にお金を返さないなら、今すぐ警察に突き出すからね!」梨々香は殴りたい衝動をこらえながら、温子の襟元をつかんで
「この馬鹿野郎、こんな重大なことを、なんでもっと早く言わなかった!」洲人は、自分の知らないところで三久が龍太郎の診察を受け、しかも本人に無断で親子鑑定まで行われていたと知ると、電話口で激しく怒鳴った。どれだけ怒鳴っても、胸の中に渦巻く怒りは一向に収まらなかった。「今年はもう、てめえの病院に一円たりとも寄付するつもりはないからな!」「神崎社長、わ、私は逆らえなかったんです……まさか、こんなことになるなんて、本当に思ってもみなくて!」院長はカルテを握りしめたまま、今にも腰を抜かしそうなほど震えていた。ただの秘書だと思っていた三久が、まさか酒井家の跡取りの子を身ごもっていたとは。こんな事態になるなど、誰が想像できただろう。「そのカルテ、誰に送った」洲人が詰問する。院長は慌てて答えた。「酒井社長の補佐をしている小林さんです」「あの忠犬みたいな男にか。お前はもう終わりだ。酒井家が本気で動いたら、お前の病院なんて跡形もなく潰されるぞ。勝手に死にたいなら止めはしないが、俺の名前をしゃべったら、俺が先にお前の息の根を止めてやる」洲人自身も最近、見合いに引っ張り回されていた。両親から「年内に必ず結婚しろ」と血眼になって迫られているのだ。最初はただ孫の顔が見たいだけかと思っていたが、両親の話しぶりから、これも由樹が仕組んだことだと知った。由樹はある土地を取引材料としてちらつかせ、年内に結婚させればその土地を九洲グループに譲ると持ちかけていたのだ。「神崎社長!どうかお助けください!」院長の悲鳴じみた懇願は、無機質なツーツーという音によって無情に遮られた。洲人は電話を切った。苛立たしげに髪を掻きむしり、執務室の中を行ったり来たりするが、いい案は一向に浮かばない。――三久に知らせて、すぐに逃げるよう伝えるべきか?こめかみがずきずきと痛み、結局スマホを取り出し、三久に直接電話をかけた。「とても大事な話がある。今すぐ会って話せないか」三久は一晩ろくに眠れず、今まさに施設へ向かって車を走らせているところだった。「すみません、ちょっと急ぎの用があるので、確認しに行かないといけないんです」三久の声はひどく疲れきっていて、力がなかった。それを聞くと、洲人はすぐに言った。「なら、俺が施設まで会いに行く。必ず会おう!
梨々香は顔を真っ青にし、震える指で温子に電話をかけた。しかし、いくら呼び出しても出ない。三久も自分のスマホを取り出し、何度もかけ直した。それから三十分もの間、二人は取り憑かれたように電話をかけ続けた。窓の外はいつの間にか土砂降りの雨になり、初夏の鬱陶しい蒸し暑さを激しく洗い流していく。だが三久の心の中は、雨音に急かされるようにますます落ち着かなくなっていった。まるで真綿で首を絞められているような、じわじわとした焦燥感があった。見えない危険が少しずつ、だが確実に足元まで迫っているような、不気味な危機感を覚えた。だが冷静になろうとしても、どこに危険が潜んでいるのか、はっきりとは分からない。雨は激しく打ちつけ、二人が孤児院へ温子を探しに行く道を容赦なく阻んだ。広大な西戸の街全体が、土砂降りの雨に飲み込まれていた。雨粒が執務室の大きな窓を激しく打ちつけ、ガラスに映る男の姿を何度も洗い流していく。だがそれでも、その体に漂う暗く沈んだ気配だけは、決して洗い流すことができなかった。深夜十一時、由樹は哲朗に電話をかけた。「調べろと言った件、どうなった」三日の期限まで、残りはあと一日だった。これまで由樹が何かを命じれば、有能な哲朗はいつも必ず期日より前に完璧に片付けていた。だが今回だけは、勝手が違った。哲朗は今日、何度も意図的に由樹を避け、わざわざ他の社員がいるタイミングを見計らって書類を届けに行っていた。由樹と二人きりにならないように。だが、由樹からの直接の電話までは避けようがなかった。「社長、それが……少々複雑で、非常に厄介な案件でして。何しろずいぶんと前のことなので、確認に時間が……」ツーツーという無機質な音が響いた。由樹が一方的に電話を切ったのだ。電話越しにも由樹の凄まじい怒りが伝わってきて、哲朗はごくりと唾を飲み込んだ。飲み込みきらないうちに、またスマホが短く鳴った。由樹からの短いメッセージだった。【明日までに結果が出なければ、会社を辞めろ】そう、冷酷に宣告する内容だった。哲朗の顔からすっと血の気が引いた。必死に言い訳を考え、明日の由樹の反応をあらゆるパターンで想定し、自分がどう対応すべきか考え込んだ。あの夜のように、また養育同意書を握りしめて三久のところへ行くことになる
午後、二人は蒼汰を連れて近所を軽く散歩し、夕食前に帰宅した。夕食の席で、三久は午後からずっと胸の奥にくすぶっていた疑念を、ついに堪えきれず口にした。「あんた、何か隠し事してない?」その一言に、梨々香の手がびくりと震えた。箸が茶碗の縁に当たり、カチリと乾いた音を立てた。「教えて。本当のところ、何をしたの」三久は腕を組み、その表情は次第に厳しいものへと変わっていく。そもそも、梨々香は隠し事ができない性分なのだ。温子の件は、まだ梨々香にどう伝えたものか決めかねていた。もし愛菜が重病などではなかったと知れば、直情的な梨々香は、包丁を握りしめて孤児院に乗り込みかねない。いつもなら、三久が何かを隠そうとすると、勘の鋭い梨々香がすぐに見抜いてくる。だが今日は、梨々香のほうが見抜くどころか、愛菜の病気や医療費の話題を、不自然なほど一切口にしようとしないのだ。直感が告げていた。梨々香のほうが、今の自分よりずっとおかしい、と。「あたし、みくちゃんに隠すことなんて何もないよ」梨々香は強がってみせたが、顔はほとんど茶碗に突っ込みそうなほど俯いていた。三久は細い眉をひそめ、声の調子を一段落とした。「早く言って。愛菜の病気のことと関係あるんでしょ?あなたも何か気づいたの?」「ただ、愛菜の医療費のことはもう心配しないでって言いたかっただけ。私にはお金があるから、あなたのお金は子供を育てるために取っておいて」梨々香は観念したように箸を置き、正直に打ち明けた。だが、まだすべてを話しきってはいなかった。三久はさらに鋭く問い詰める。「そのお金、どこから出したの」彼女は梨々香の貯金額を、円単位まで正確に把握しているといってもいいくらいだった。必要な四百万円のうち、今の梨々香の手元には半分も残っていないはずだ。「……借りたのよ」梨々香はしどろもどろになりながら、その言葉を絞り出した。三久ははっと何かに思い当たったように、確信を込めて言った。「まさか、昨日のあの羽振りのいい人から借りたんじゃないでしょうね」「……!」梨々香が勢いよく顔を上げ、三久を見た。その見開かれた目は、「どうして分かったの」と物語っていた。三久の眉間の皺がさらに深く刻まれる。「見ず知らずのファンからお金を借りたの?そんなの広まったら、配信者とし
「君……交際している方がいるんですか?」研は困惑を隠せない様子で問い返した。もし三久に本当に恋人や夫がいるのなら、なぜわざわざお見合いの席に顔を出したのか。それに、研が初めて真剣に交際を申し込んだあの日に、正直に打ち明けてくれてもよかったはずだ。三久は言葉に詰まった。とっさに、上手い言い訳が出てこなかったのだ。研は少し迷ったようだが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。「すみません、私が何かご迷惑をおかけしましたか」これまでの朝晩のメッセージのことや、会社で広まった心ない噂のことを言っているのだろう。あるいは、お腹の子の父親に誤解されないかという、彼なりの気遣いだったのだろう。「こちらこそ、失礼な言い方をしてしまって」三久は小さく頭を下げた。温子の件で頭に血が上っていて、気分はどん底まで落ち込んでいた。心に余裕がなく、つい刺々しい言葉をぶつけてしまった。妊娠の事実を口にしたこと自体は、さして問題ではなかった。研は由樹とは何の接点も持たない人物だからだ。だが今の自分の口調と態度は、決して褒められたものではなかった。「気にしないでください」研は少し横にずれ、二人の間にさりげなく距離を作った。「母の退院の迎えに来ていて、家族を待たせているので、私はこれで」三久は静かに頷いた。二人は病院の入口で、互いに背を向け、逆方向へと歩き出した。三久がマンションに戻ると、梨々香はまだベッドで熟睡していた。蒼汰の面倒を見ながら時間を潰し、そろそろお昼という頃になって、ようやく梨々香が目を擦りながら起き出してきた。梨々香はソファにどすんと腰を下ろすと、三久の肩に頭をもたせかけ、三久の腕の中から蒼汰を抱き取った。「このままいくと、あたしよりあなたのほうに懐いちゃうんじゃないの?」蒼汰は梨々香の腕の中で、「あー」「うー」と無邪気に声を上げた。三久は笑ってその様子を見つめた。「私がどれだけお世話しても、この子はちゃんとお母さんにいちばん懐くよ」「あなたに懐いてほしくないわけじゃないの。むしろ、この子があなたにべったりになって、あたしのことなんて見向きもしなくなればいいって思ってるくらい。そうしたら、これからはあたしが稼ぐから、あなたは家でこの子の面倒を見ながら、のんびり暮らせるでしょ?」梨々香が蒼汰を可愛がる
三久は茶封筒を温子に手渡した。「これはコピーです。原本の証拠はすべて私の手元にあります。もし私の言う通りにしないなら、これを証拠として警察に提出します」温子に対する最後のわずかな寛容と情は、この瞬間、三久の中で完全に尽き果てた。彼女は踵を返して立ち去った。温子が慌てて追いすがってくる。「待って、三久、あの四百万はもういらないから。前のお金は子供たちのために取っておいて……」三久はエレベーターに乗り込む。無機質な扉が静かに閉まった。温子は乗り込む勇気もなく、その哀願はエレベーターの扉に遮られた。そのふてぶてしい態度もろとも、冷たい扉の向こうへ閉ざされていく。扉が閉じた瞬間、反省したように見えた温子の表情が、醜く一変した。スマホを取り出し、震える手で電話をかける。「まずいことになったのよ、三久に気づかれた。あなた、私を助けなさいよ……」「誰が欲張って、また四百万円よこせなんて言えと頼んだんだよ?」電話の向こうから、苛立った声が響く。「自分でどうにかしなさい。こっちは知らない」「ちょっと!助けてくれないなら、あなたのこと、全部ばらすからね……!」温子はなりふり構わず相手を脅した。電話の向こうは数秒間、沈黙していた。やがて、相手は温子を激しい言葉で罵り始めた。ひとしきり毒づいてから、相手は吐き捨てるように言った。「こっちがどうにかできるわけないだろうが」「三久が私を訴えるって言ってるの。あんたが何とかしてよ」「自業自得でしょ。ばらしたいなら、勝手にすれば?こっちはもともと、三久と縁が切れたって構わないんだから」温子の脅しなど、電話の向こうの相手にはまるで通じなかった。一方的に電話が切られ、温子の顔からすっと血の気が引いた。……エレベーターに次々と人が乗り込み、三久はいちばん奥へと押しやられた。その後も階を下るごとに乗客は増え続け、車内はますます窮屈になっていく。三久は両手でそっとお腹をかばった。もともと動揺していた心が、この混雑に揉まれるうちに、かえって奇妙な落ち着きを取り戻していくのを感じた。「大丈夫ですか」頭上から、ふいに声が降ってきた。顔を上げると、目の前に立っていたのは研だった。研は、左隣から押し寄せる人の波から三久をかばうように立っていた。「ありがとうございます
宴会場では、由樹が動くたびに自然と人の輪ができた。財界の重鎮たちと和やかに言葉を交わしながらも、次々と彼のもとへ挨拶に訪れる客が途切れることはない。「由樹さん」千歳が横に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。由樹の腕が一瞬だけわずかに固まったが、すぐにふっと力が抜けた。「ちょうどよかった、紹介しよう。こちらは金子(かねこ)会長だ」千歳は由樹にぴたりと寄り添いながら、愛くるしい笑顔を向けた。「金子様、父からお噂はかねがね伺っております。今日ようやくお会いできて光栄です」「千歳ちゃんが小さい頃、抱っこさせてもらったことがあるんだよ……」金子会長は千歳と和やかに言葉を
三久は足を止めた。静かに息を飲み込んで、表情が少しずつ固まっていく。「どういうことですか?」哲朗には事情がまったくわからない。「早坂さんが本社に戻りたいってことじゃなかったんですか?」三久はかぶりを振った。「違います。退職を申し出に来たんです」哲朗が目を丸くした。「退職?なぜですか!」「個人的な理由です」三久は端的に答えた。「本社への異動、撤回できますか?」「撤回するにも社長の許可が必要ですし……」哲朗は困り顔だ。三久はこめかみを指で押さえた。じわじわとした絶望的な無力感が込み上げてくる。哲朗がなだめるように言った。「年末は会社が一番
依果は口では「わかった」と言いながら、部屋を出ていく摩美の背中に向かって、思いきり舌を出した。――千歳が由樹の腕を取ってダイニングへ向かう残酷な場面が、三久の頭から離れなかった。あれは、見るんじゃなかった。帰り道、冷たい夜風を浴びながら少し正気を取り戻した三久は、途中の店で温かい食事を食べてからアパートへ帰った。それから数日、由樹と千歳に関する華々しいニュースが連日のように報じられていた。もどかしかったのは、肝心の退職手続きにまだ何の動きもないことだ。人事部で顔のきく大島沙織(おおしま さおり)に電話をして事情を聞いてみた。驚いたことに、沙織は三久が退職を申し出
三久は思わずダウンジャケットの前を合わせ、まだ平らな腹を隠した。「出ていたよ。年のせいか、今年は特に寒くて」席に着きながら、さりげなく話題をそらす。「私のパソコンを使いましょうか?車から取ってきますが」「俺のを使え」由樹がノートパソコンを三久の前に滑らせた。スクリーンセーバーには古い写真が映っていた。男女の後ろ姿。男のほうは一目で由樹だとわかる。女の体型は、千歳に似ていた。三久はそちらを見ないようにしてファイルを開き、機械的に議事録を打ち始めた。仕事の上では、三久と由樹の呼吸は完璧に合っていた。彼が一つ視線を向ければ、どの項目を指摘して後で重点的に確認すべき