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第7話

Penulis: 花野めい
三久は足を止めた。静かに息を飲み込んで、表情が少しずつ固まっていく。

「どういうことですか?」

哲朗には事情がまったくわからない。

「早坂さんが本社に戻りたいってことじゃなかったんですか?」

三久はかぶりを振った。

「違います。退職を申し出に来たんです」

哲朗が目を丸くした。

「退職?なぜですか!」

「個人的な理由です」

三久は端的に答えた。

「本社への異動、撤回できますか?」

「撤回するにも社長の許可が必要ですし……」

哲朗は困り顔だ。

三久はこめかみを指で押さえた。じわじわとした絶望的な無力感が込み上げてくる。

哲朗がなだめるように言った。

「年末は会社が一番忙しい時期ですし、退職のことは年明けにもう一度落ち着いて話しましょう。とりあえず荷物を取りに行って、戻ってきてください。

さっそく頼まれごとが入っています。村上さんから、午後の出勤時にタピオカを買ってきてほしいとのことです」

「……わかりました」

三久はそれだけ言って、支社に荷物を取りに向かった。

午後一時、三久は本社の社長秘書席に座っていた。

荷物を整理して、マンゴーのタピオカティーを手に社長室へ入る。

午後の陽光が窓から差し込み、デスクに向かう由樹を照らしていた。白いシャツに、整った目鼻立ち。品格と威圧感が自然とにじみ出ている。

ソファには千歳が腰かけ、テーブルの上は高級な袋菓子だらけだった。

三久が入ってきても、由樹はちらりと見ただけで、すぐ仕事に戻った。

「村上さん、ご注文のタピオカです」

「置いといて」

千歳は爪を磨きながら、素っ気なく言った。

三久は静かに置いて、席に戻った。自分のデスクを片づけ始めたところで、内線が鳴った。

低い声が響くる。

「入ってこい」

三久は手を止め、再び社長室へ向かった。

ドアを開けると、やはり最初に目に入るのは、デスクの前に座る由樹だ。

彼がちらりと千歳を見る。

三久もつられてそちらを向くと、千歳の不満そうな視線とぶつかった。

「買ってきたのはなんで温かいの?」

「今は冬ですので。冷たいものがよろしければ……」

三久は静かに確認した。

千歳は軽くふんと鼻を鳴らした。

「当然でしょ」

三久は思わず由樹を見た。由樹はデスクの前に平然と座ったまま、何も言わない。

「では、今から冷たいものをお持ちします」

少しして、三久は氷入りのタピオカを持って戻ってきた。

千歳はなかなか受け取らず、意地悪く問いかけた。

「甘さは少な目にしてもらった?多め?」

「村上さんのお好みに合わせて、調整していただきました」

三久は隙を見せず、飲み物を千歳の前に置いた。

「ごゆっくりどうぞ」

「あなたって……」

三久に言葉の隙を突かれ、千歳はむっとして言った。

「じゃあ、ポテトチップス買ってきて!」

「ポテトチップス以外に、村上さんは他に召し上がりたいものはありますか?まとめて買ってきますよ。そのほうが、またお待ちいただく必要もありませんし」

三久はそう言いながら、ポケットからメモ帳を取り出し、買うものを書き留める準備をした。

言い返せなくなった千歳は、苛立ちを隠せない顔で立ち上がり、由樹のそばへ歩み寄りた。

「由樹さん、見てよこれ。わざとよ……」

仕事に集中していた由樹がようやく顔を上げ、腕時計に目をやってから、面倒そうに言った。

「夜にレセプションがある。俺もまだ仕事が残ってるんだ、やめてくれ」

千歳はぱっと目を輝かせ、三久を指差した。

「じゃあ、この人に私のドレス選びについてきてもらうわ」

由樹は少し考えてから、財布からブラックカードを取り出して三久に渡した。

「千歳をドレス選びに連れていけ。ついでにお前の分も選んでこい」

三久はわずかに眉を寄せたが、ブラックカードを受け取るほかなかった。

「はい」

以前、由樹の仕事の場に同席する時は、ドレス代は会社持ちだった。最低でも数十万円はかかるのだから、それが当たり前だった。

だが、千歳は格が違う。指定したのは、市内でも名の知れた完全予約制の高級ドレススタジオだった。

三十分後、三久が駐車場に車を止める。後部座席のドアを開けると、千歳が我が物顔で先に降りた。

「持って」

目に飛び込んできたのは、青みがかったピンクのバッグ。国際的ブランドの最新作だ。

三久はそれを受け取り、千歳に続いてスタジオへ向かった。

予約済みとあって、担当者が玄関まで出迎えていた。

「村上様!お待ちしておりました」

千歳は担当者に目を向け、さりげなく視線で合図を送った。

担当者は三久のほうに視線を走らせ、何かを察したように、こっそりと小さく頷いた。

「最新作を全部出してちょうだい」

千歳はゆったりとした足取りでソファに腰かけた。

たちまち数人がかりで彼女の周りを囲み、ドレスを運んでくる者、コーディネートのイメージ画像を見せる者、お茶を注ぐ者、果物とお菓子を差し出す者。

三久は店内に並ぶドレスをひと通り見渡した。ここの最安値でも七桁は下らない。

あまり目立たない値段のものを選ぼうと近づこうとしたところで、千歳の声がかかった。

「早坂さん、こちらに来て」

三久の足が向きを変え、千歳のそばへ歩み寄り、バッグを差し出した。

「そこに立ってなさい。うろうろしないで」

コーディネート画像を選りすぐりながら、千歳は顔も上げずに命じた。

三久は出しかけた手を引っ込め、無言のまま千歳の背後に立った。

まる二時間。千歳がドレスを選び、ヘアメイクを試し、何かひとつ決めるたびに「そこにいなさい、どこにも行かないで」という嫌がらせの言葉を投げかけてきた。

三久は焦らなかった。どのみちドレスは選ばなければならない。仕事時間を使って、給料をもらいながらただ立っているだけなら、仕事より楽なくらいだ。

ようやくすべてが終わり、千歳が三久を振り返った。

「ここで一番安いドレスを出してあげて」

担当者は心得たようにアシスタントにアイコンタクトを送った。

数秒後、出てきたのは黒地にグレーとオレンジ色のリボンをあしらったドレスだった。

「悪趣味」という言葉でも表現しきれないほどひどかった。近くで見ると、ちぐはぐな色の組み合わせと、荒い縫い目が目も当てられない。

三久の眉が自然と寄った。

「村上様が気を遣ってくださったんですよ。このドレス、八百万円しますから」

担当者は千歳のドレスを整えながら、棘のある笑みで三久に言い添えた。

八百万。確かに安くはない。三久はこれまでそんなに高いドレスを買ったことがない。会社の経費で落とした時でさえ。

「由樹さんのお金を使うなら、私の言うことを聞くものよ。嫌なら自分で買えばいいじゃない。買えるならね」

千歳が鏡越しに三久をちらりと見た。

淡い紫のドレスを纏った千歳は、精巧なメイクを施されて、艶やかで気品があった。

もし三久がそのひどいドレスを着て千歳の隣に並んだとしたら、道化も同然だ。

「これでいいわ」

千歳は鏡の中の自分に満足そうな目を向けた。

「お会計して」

受付が二着分の請求書を持ってきて、三久に渡した。

三久は静かに深呼吸し、ブラックカードを出して二着分まとめて支払った。

「メイクはされますか」

担当者がおざなりに聞いた。

「結構です」

三久は振り返らずに答えた。

支払いを済めてドレスを受け取り、千歳のバッグを提げて、先に店を出た。

千歳は三久の後ろ姿を見送ってから、担当者に向かってわかりあったような笑みを交わした。

帰路、由樹から電話が入った。

「時間がない、そのままホテルに来い」

「わかりました」

三久は返事をして、ハンドルを切り直し、ホテルへ向かった。

レセプションの開始五分前、三久は正面玄関に車を止めた。

哲朗がすでに待っていて、後部座席のドアを開けた。

「由樹さんは?」

千歳が車から降りながら聞いた。

「取引先のご担当者と、一足先にお入りになっています」

話しながら、哲朗は三久がまだ着替えていないことに気づいて、目を丸くした。

「早坂さん、どうしてまだ……」

「先に村上さんをお連れして。私も着替えてすぐ行きます」

三久はドレスの袋を手に車から降りた。

正面へ向かいかけた千歳が振り返り、得意げな一瞥を三久に向けて、高いヒールで颯爽と歩き去った。

「何があったんですか?」

哲朗はふたりの間の空気の妙に気づいて、戸惑い顔だ。

三久はかぶりを振った。

「ここ数日、風邪薬を飲んでいてお酒が飲めないので、今夜は接待をお願いします」

三久と哲朗はいつもふたりで役割を分担していた。一方が接待、もう一方が送迎担当として。

「了解です」

哲朗は先に宴会場へ戻っていった。

三久は手元のドレスをしばらく見つめた。唇をわずかに動かしただけで、何も言わずにホテルの中へ入っていった。

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