瑛二のスマホが鳴った。少しして通話を終えると、彼はスマホをしまいながら言った。「ちょっと用事があるんだ。先に帰るけど、一緒にどう?」淳一は我に返り、少し目を伏せながら応じた。「いや、もう少しここで人を待つつもりだ。先に帰ってくれ。今度また時間が合えば」「分かった」瑛二はそのままその場を離れていった。その背中が人混みに紛れて見えなくなると、淳一はカフェの方へと足を向けた。カフェの扉を開けた瞬間、ちょうど茜を連れてトイレへ向かおうとしていた優里と鉢合わせた。二人ともその場で足を止めた。優里は彼を認めて言った。「徳岡さん?偶然ですね」「ええ」淳一はドアを閉めながら、店内をさっと見回し、注文中の智昭の姿を見つけた。彼の視線は次に茜へと移った。その一瞬の目線だけで、彼はほぼ確信した。茜は智昭の娘だと。茜の顔立ちには智昭の面影がはっきりと残っていた。そう思いながらも、彼は一応確認するように訊ねた。「この子は……」優里は目を伏せて、答えた。「智昭の娘です」やはり、そうだったか。淳一の胸に重く沈むものが広がった。そのとき、茜が無邪気に訊ねた。「優里おばさん、このかっこいいおじさんは誰?」優里はかがみこみ、茜の小さな鼻先をちょんと触れて微笑んだ。「おばさんのお友達よ」茜が「ふん……」と声を出した。優里は淳一に向き直って、訊ねかけた。「徳岡さん、お知り合いと待ち合わせですか――」その言葉の途中で、茜に遮られた。彼女は優里の腕を揺さぶりながら言った。「優里おばさん、早くトイレ行こうよ」さっき飲んだミルクティーのせいで、彼女はかなり我慢の限界にきていた。優里がまだ淳一と話す気でいる様子に、待ちきれなくなって口を挟んだのだった。あまりにもトイレを我慢していたせいで、彼女の言葉はまるで優里に命令しているかのように聞こえた。淳一には、優里が茜にとても優しいのに、茜はどこか彼女に対して偉そうに振る舞っているように見えた。彼は再び、濃い眉をひそめた。だが優里は気にした様子もなく、茜を見つめる目は変わらず優しく穏やかで、「はいはい、おばさんが悪かったね。すぐに行くから」と言って微笑んだ。そう言ってから淳一に一言声をかけた。「先に行きますわね。また後で」そのやり取りを見ていた淳一の胸に
「お姉さん、りんご飴いかがですか?」玲奈が振り返る。瑞々しくて鮮やかな色合いのりんご飴が目に飛び込み、彼女の胸が少し揺れた。彼女自身、もう長いことこのりんご飴を食べていなかった。そう思って、彼女は自然と茜の方へ視線を向けた。案の定、茜はりんご飴を手にして楽しそうに食べていた。その傍らで、いつの間にか優里の手には真っ赤なバラの花束があった。彼女は智昭のそばに寄り添いながら話していて、茜はひと口かじったりんご飴を彼女に差し出していた。優里は微笑みながらそれを受け取り、茜の手からそのままかじった。茜もまたもう一口かじると、今度は智昭へと差し出した。だが、智昭は首を横に振り、何かを口にしてから、それを食べようとはしなかった。玲奈はそっと視線を外し、売り子の少女に向かって言った。「苺のを一つください」その言葉を口にして、瑛二にも買うかどうか訊こうとした瞬間、瑛二の方が先に口を開いた。「私が払いますよ」そう言って財布を取り出し、すぐに代金を支払うと、彼は渡されたイチゴ飴を彼女に差し出した。飴はたった400円ちょっとだ。玲奈は手を伸ばしてそれを受け取り、「ありがとう」と言った。「どういたしまして」二人が会話を交わしている間に、優里と智昭がちょうどこちらを振り返っていたことには気づいていなかった。ちょうどそのとき、瑛二が支払いをして玲奈に飴を渡す光景が、二人の視界に入った。智昭の瞳が一瞬だけ暗くなり、優里の顔からも笑みがすっと消えた。玲奈と瑛二は、その視線にはまったく気づいていなかった。今回の花火ショーは約二十分続く予定だ。花火はまだ続いており、二人も再びそちらへ身体を向けた。茜が振り返って訊いた。「パパ、優里おばさん、何を見てたの?」智昭は目を戻し、「なんでもない」と答えた。優里も笑ってごまかした。数分後、ついに花火ショーが幕を閉じた。玲奈は言った。「花火に連れてきてくれてありがとう。それに、イチゴ飴も」「そろそろ帰るんですか?」「うん、ちょっと植物を買って、それで帰るつもりです」そう彼女は答えた。瑛二も無理に引き留めず、「そう」とだけ答えた。「じゃあ、またですね」「また」玲奈はそのまま去っていった。瑛二も人の流れに乗って駐車場へ向かい、車を出そうと
そう思って、彼女はふっと笑い、「うん」と答えた。二人は人の流れに紛れて歩き出した。柵のそばまで来たところで、対岸に色鮮やかな花火が打ち上がり、周囲から歓声と笑い声が上がったが、それもすぐに轟く音にかき消された。その場では、写真を撮る人、願いごとをする人、思い思いに楽しんでいた。玲奈が黙って花火を見つめているのを見て、彼は訊いた。「動画を撮ってあげましょうか?」玲奈は首を振った。「いいです。見てるだけで十分ですから」瑛二もそれ以上は何も言わなかった。その時、優里がこちらの方をふと見やった。距離は数メートルあったが、瑛二は背が高く、容姿も目立つため、彼女の視線にすぐに入った。瑛二とは何度か顔を合わせているし、知人程度の間柄ではあった。優里は茜を抱いている智昭に一声かけて、瑛二のところへ挨拶に行こうかと考えていたが、その時、さっきまで瑛二の体に隠れて見えなかった玲奈の姿が目に入った。玲奈の姿を認めたとたん、彼女の笑顔はすっと消えた。どうしてあの二人が一緒にここにいる?こういうイベントは、普通なら家族か恋人同士で見るものだ。玲奈と瑛二の間に関係があるといえば、以前パーティーで一度ダンスを踊ったくらいで、それ以外は何の接点もなかったはず。まさか、あの二人が一緒にいるなんて――もう一度見直しても、やはりそこにいるのは玲奈と瑛二だけだった。「優里おばさん、見て見て!すっごく綺麗だよ!」その時、茜が優里の視線が逸れているのに気づいた。見逃してほしくなくて、彼女は嬉しそうに身をかがめ、優里の耳元で声を弾ませた。優里は顔を戻した。「うん、ちゃんと見えてるよ」智昭も目を向け、彼女がどこか上の空なのに気づいた。「どうした?」優里はすぐに返した。「ううん、なんでもない」茜の意識はすっかり対岸の盛大な花火に向いていて、玲奈の方を見ようともしなかった。そのため、玲奈の存在には気づいていなかった。そんな中、智昭が優里に顔を向けて話しかけた瞬間、偶然にも玲奈の姿を目にした。ちょうど瑛二が話しかけていたせいで、玲奈の視線もこちらへ向いていた。そして、二人の視線が空間越しに交わった。玲奈は一瞬動きを止め、唇をきゅっと結び、そのまま視線を外した。その時、瑛二が振り返って花火を見上げた。その横顔が
茜は特にクリスマスが大好きだった。昔は毎年、一緒に家でクリスマスツリーを飾りつけていた。当日には一緒に街へ出て、まわりの人々と一緒にクリスマスの雰囲気を満喫していた。けれど、茜が智昭と一緒に海外に行ってからは、もう一度も一緒にクリスマスを過ごしたことはなかった。いや、正確に言えば、彼女はもう完全にクリスマスを祝うことすらやめていた。もう気持ちに整理をつけようとしていたとはいえ。十月十日お腹で育て、長年手塩にかけて育てた娘なのだ。今、賑やかな街の中でまわりの光景を眺めていると、過去の思い出が次々と押し寄せてきて、心の静けさをかき乱していた。「青木さん?」玲奈が振り返る。そこに立っていたのは、瑛二だった。玲奈は軽く頭を下げた。「田渕さん」「こんなところで一人で、どうしたんですか?」玲奈は目の奥にある感情を隠しながら微笑んだ。「ちょっと植物を買いに来ただけです」瑛二が声をかけたのは、少し離れたところから玲奈の寂しげな立ち姿が目に留まったからだった。どこかに拭いきれない悲しみの影も見えた。彼は玲奈のことをよく知らない。何が彼女をここまで哀しませるのか、見当もつかなかった。「何か飲みに行きませんか?」と彼は尋ねた。玲奈は首を振った。「少し買い物して帰ろうと思ってたんです」そう言ってから、丁寧に訊いた。「あなたこそ、お一人ですか?」瑛二が言った。「友人と食事に来たんですが、急用で先に帰ってしまって」瑛二は彼女がたまたま来たと聞いて、こう伝えた。「このあと、ここで大きな花火大会があるんですよ。もしよかったら見ていきませんか?」これは誘いというより、ただの情報共有だった。知らせておこう、ただそれだけの意図だった。玲奈は微笑んだ。「なるほど、それで今日はこんなに人が多いんですね」玲奈は瑛二と親しいわけではないが、何か言おうとしたそのとき、人混みの中に突然現れた三つの人影に言葉を止めた。智昭、優里、そして茜の姿だった。三人は広場の方へ歩いていった。どうやら花火を見に来たらしい。瑛二は彼女の表情に気づき、そっと視線を追うと、智昭と優里、そして小さな女の子の姿が目に入った。彼は一瞬、動きを止めた。以前、淳一から聞いたことがある。最近、智昭には子どもがいるという噂が広ま
これは、あまりいい兆しではなかった。彼らは彼女と話をしようと考えていた。正雄が声をかける。「玲奈……」玲奈が口を開く前に、礼二がにこやかに言った。「大森社長、ここに来たのは、玲奈との関係を皆に公表したいからですか?」正雄の笑みが一瞬こわばり、すぐに気まずそうに笑って返した。「湊社長、少し玲奈と話がしたいんですが、よろしいですか――」玲奈が何も言わぬうちに、礼二があっさり遮った。「もし大森社長が、玲奈との関係を皆に知られても構わないのなら、何を話してもらっても構いませんよ」正雄としては、礼二を敵に回すわけにはいかなかった。そのため、彼は律子と共にその場を離れるしかなかった。ただ、去る前に彼は玲奈に声をかけた。「あとで電話する。忘れないでくれよ」玲奈は何も返さなかった。彼女は返事をする気にもなれなかった。電話など、取るつもりもなかった。礼二は内心苛立ちながら思った。「もう、いっそ全部ぶち壊してしまいたい気分だ」玲奈とて、そう思わないわけではなかった。けれど、智昭との一件で、自らの潔白を証明する証拠が見つからなかったことは、彼女の中でずっと引っかかっていた。もしここで大森家と公然と対立すれば、智昭や辰也たちは、優里を守るために、きっとその件を持ち出して彼女を攻撃してくるだろう。それに、遠山家が手のひらを返して非難してくることは、彼女も十分に思い知らされていた。母が未だに療養院から出られずにいるのが何よりの証拠だ。礼二としばらく言葉を交わした後、玲奈がふと横を見ると、智昭たちはすでに囲碁を打ち終えていた。時刻も遅くなり、彼たちは青木おばあさんを迎えに行くことにした。青木おばあさんはちょうど田渕先生との絵の話を終えたところだった。田渕先生にはさらに知人が訪れていたため、彼はその対応に向かった。青木おばあさんも、田渕先生にこれ以上迷惑をかけたくはなかったため、玲奈が迎えに来たのを機に帰る準備を始めた。彼らが帰ると知った田渕先生は、わざわざ出てきて、青木おばあさんに気に入っていた松山図の絵を贈ってくれた。軽く言葉を交わしたあと、玲奈たちはその場を後にした。帰り際、彼らは涼亭で茶を飲みながら談笑している智昭と優里たちの姿を目にした。智昭と優里たちもまた、玲奈たちに気づいた。智
彼らは智昭を見てから、玲奈に視線を移し、そして最後に優里に目を向け、ゆっくりと眉をひそめた。沈黙の中、智昭がふいに口を開いた。「久しぶりなんだろ?囲碁」玲奈は彼の布石を崩しながらも、顔を上げずに「うん」とだけ答えた。彼と結婚してからというもの、彼女はほとんど囲碁を打つことがなかった。智昭が静かに言った。「少し勘が鈍ってるのは見て取れる」玲奈はそれに返すことなく、ただ盤面に集中していた。今の局面は、彼女にとって不利だった。見た目には智昭側に抜け道があるように見えるが、実際には彼が仕込んだ伏兵があちこちに潜んでおり、彼女が踏み込めば一気に仕留められるような罠だった。しばらく考えた末、玲奈はその罠を回避し、別の場所に石を置いた。盤面はようやく再び整った。今度は智昭が劣勢に立たされた。智昭は眉を上げて微笑み、しばし考え込んでからようやく一手を打った。局面は再び白熱していく。数手の応酬の末、玲奈はわずかな差で敗れた。「惜しかったな」田渕先生が言った。「でも、さっきの対局よりもずっと見応えがあった。今回は先手の利もなかったのに、初戦で相手の棋路を読み取って、何度も自ら身を投じて罠を仕掛け、攻勢を食い止めていた……若いのにこの観察力と記憶力、全体の掌握力、大したもんだよ」そして一言、中島に向かって断言した。「君でも勝てんよ」「……分かってるさ」もしさっき智昭と対局していたのが自分だったら、玲奈ほど粘れなかっただろう。玲奈が盤を片付けて席を立とうとし、もう打つ気がなさそうなのを見て、智昭が言った。「もう一局、どう?」その言葉に、優里は唇をきゅっと引き結んだ。玲奈がまだ何も答えないうちに、誰かが声を上げた。「そうだよ、もう少しだったし、もう一局打てば勝てるかもしれないし!」「そうそう」だが、玲奈は首を横に振った。「やめとく」さっきの対局は一見、差がほとんどないように見えた。まるで智昭の棋路をほとんど読み切ったかのようだった。けれど、それが実は彼がわざと見せた偽りの姿だったとしたら?そう思うと、彼女は一切振り返ることなく、その場を後にした。空いた席には伊藤が座った。礼二が前に出て言った。「ちょっと飲みに行かない?」玲奈「いいね」田渕先生は、礼二と玲奈が親しげに並んで歩く姿