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第112話
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私が去った後のクズ男の末路 第900話
スマートフォンが数度震え、夕梨はようやく応答した。「朝倉監督？」少し掠れた声。風邪気味なのか、どこか弱っているようにも聞こえる。その柔らかな声音は、寒真の胸の奥をふっと撫でていった。軽い羽根で心臓をなぞられたような、不意のざわめき。「家に着いたのか？」抑えた声音で問うと、受話器の向こうで夕梨が小さく笑った。「こんな時間に、わざわざそれを聞くために電話してきたんですか？さっきまでずっと私の車をつけていたの、監督のほうでしょう？どこに帰ったかなんて、監督のほうがよくご存じでは？」――ぐさり。寒真は生まれて初めて、女に恥をかかされたような気がした。だが夕梨の機嫌が悪いのも無理はない。今夜の夕梨は、とにかく気持ちが沈んでいた。胸の奥が重く、どこか痛む。そこへ、よりによってこの男が何度も姿を見せるのだから、遠慮している余裕などなかった。「朝倉監督、あなたが今夜ホテルにいたのが仕事だからってことぐらい、分かっています。三年ぶりに私に会いに来た、なんて――そんな勘違いはしませんよ。覚えていてくれたことには、一応感謝します。でも、私たちはもう終わったんです。引きずる理由も、曖昧さを残す必要もありません。情だの恋だの、そんなものはとっくに私の中から消えました。これで十分伝わりましたか、朝倉監督？」電話越し、わずかな沈黙。寒真は細く息を呑み、低く問い返した。「周防澪安のせいか？」しばし沈黙が流れ、その後、夕梨は淡く息を吐いた。「ええ、そうですよ。私は澪安を、どうしようもないほど深く愛しています」ぷつと通話が切れた。ホテルのVIPである寒真をブロックすることはできない。だからこそ、彼女ははっきりと言葉で線を引いた。――お兄さん、ごめんなさい。あなたの名前まで巻き込んでしまった。電話が切れたあと、寒真の表情はひどく険しかった。だが、その苛立ちも長くは続かない。立都市に戻ってきたのには、そもそも外せない用件があったからだ。次回作――肝心のヒロインが、まだ決まっていない。星耀エンターテインメントに一人、有望な新人がいると耳にし、今回はその所属社長である澄佳に会う予定だった。しかし――それが澄佳、つまり周防澪安の妹だと思い出した途端、寒真の胸のどこかが、またちくりと疼いた。
私が去った後のクズ男の末路 第899話
夕梨の車が、ゆっくりと別荘へ滑り込んでいく。寒真は、半眼になりながらその様子を眺めた。別荘――【夕梨】彼女の名前をそのまま冠したこの邸宅は、ざっと見積もっても百億円は下らない。どれほど厚遇されてきたのか、一目でわかる。――なるほど……ああやって本妻に取り入るわけか。寒真は鼻で笑う。慕美の体調が不安定なことは、財界の間でも有名だ。であれば、夕梨は、澪安の夫婦生活の不足分を補うために囲われた女なのか？本妻の影になり、男の欲だけを引き受ける、便利な存在として。しかし、三年前は……あれほど清らかで、打算など微塵も見せなかったのに。どうして、こうなった？寒真は深く息を吸い、車へ戻るとポケットからスマホを取り出した。検索欄に「岸本夕梨」と打ち込み、彼女のLINEアカウントを見つける。アイコンは、淡い白の梨の花。しばらく無言で見つめた後、メッセージを打ち込んだ。【久しぶりだな、夕梨。お金、困ってるのか？】既読はつかないまま、画面には静寂だけが落ちていた。寒真は数秒固まり、それから無造作にスマホを放り投げた。椅子に背を預け、タバコを咥え、火をつけて大きく吸い込む。三年ぶりに再会した彼女は、すっかり大人びて、落ち着きさえ漂わせていた。あの頃はまだ何も知らない、ただの清らかな女だったというのに。寒真は目を閉じ、彼女が澪安と情事を交わしている光景を想像してしまい、どうにも胸の奥がざらついた。――まともな相手はいないのか。――どうして愛人みたいな立場を選ぶ？――よりによって、本妻の目の前で靴を履き替えさせるような真似までして。考えれば考えるほど、気分は悪くなるばかりだった。やがて、寒真は指に挟んだ煙草を車外に向けてひねり潰し、そのままハンドルを切って走り出した。関係をもう一度持つ気がまったくなかったわけではない。だが、どうしたことか――女遊びが日常の自分には珍しく、胸の奥に微かなざらつきがあった。言葉にできない違和感だ。だからこそ、どれほど夕梨が魅力的でも、今夜はやめておこうと思った。……寒真がホテルへ戻った。立都市の人間とはいえ、自宅にはほとんど寄りつかない。長く空けすぎて掃除も入れておらず、今ごろは埃だらけだろう――そう思うと、自然とホテル暮らしに
私が去った後のクズ男の末路 第898話
夕梨は、慕美の靴を履き替えさせると、そっと裾を整えてやった。誰も知らない――夕梨がなぜここまで慕美に優しくするのかを。彼女自身は知っている。慕美の命がどれほど脆く、あの日、どれほど簡単に途切れかけていたか。そして、従兄の澪安がどれほど苦しんだか。その痛みを、夕梨自身も深く知っている。だからただ願うのだ――誰もが無事で、静かに、生きていてくれればそれでいい。慕美は胸を打たれ、そっと夕梨の手を握った。そして視線を上げ、遠くの寒真を見やる。彼が、夕梨の悲しみの原因だと思い違いをしているから。……澪安は、慕美をそのまま家へ連れて帰るつもりはなかった。立都市の央筑ホテルに、最高級スイートを一室押さえてあった。部屋に入ると、澪安は慕美をドアへ押しつけ、そのまましばらく深い口づけを落とした。だが長くは続けない。慕美のドレスは赤ワインで湿っていたのだ。身体を冷やしてしまう。澪安は静かに彼女の服を外し、柔らかなタオルで肌を拭い、そのまま浴室へ連れていって温かいシャワーを浴びさせた。湯気に包まれながら抱き上げられて戻ると、慕美の白い肌はうっすらとピンク色に染まり、まるで生まれたばかりの赤子のようにベッドへ沈んだ。「澪安」不安を含んだ声で、慕美が彼を呼ぶ。仰向けのまま、震える手で澪安の首に触れる。澪安は彼女の手をそっと外し、両腕の横へ置いて、挑むような瞳で見つめた。何をしたわけでも、何を言ったわけでもない。ただ見つめられただけで、慕美の呼吸は乱れ、胸は小刻みに上下した。「どうした？」頬に触れながら、わざととぼけてみせる。慕美はあわてて薄い毛布を引き上げ、「な、なんでもない。早く、お風呂……行って……」と上擦った声で言った。彼女が恥じらっているのは、すぐに分かった。手術後、二人はまだ夫婦として触れ合っていない。ぎこちないのは慕美だけではない。澪安もまた、不器用になっていた。――急ぐ必要はない。時間は、これからいくらでもある。澪安はわざとゆっくりと、シャツのボタンをひとつずつ外し、長い脚で浴室へと消えていった。彼はいつもよりも、さらにゆっくりと身体を洗っている――慕美を焦らすためだ。それを分かったうえで、どこか楽しんでいるようでもあった。寝室では、慕
私が去った後のクズ男の末路 第897話
夕梨が離れた直後、宴会場では小さな騒ぎが起きていた。耳に装着したインカムが急かすように鳴り、彼女はすぐさま現場へ向かったが、到着した頃には、すでに処理は終わっていた。誰かがスタッフに足を引っかけ、数杯の赤ワインが慕美の黒いベルベットのドレスにこぼれた。幸い濃い色の生地だったため目立ちはしないが、しっとり濡れてしまい、このままでは身体を冷やしてしまう。澪安も、予想外の事態に予備のドレスを用意していなかった。せっかくの華やかな夜が、数杯のワインで台無しになった格好だ。立ち去ろうとしたその時、澪安の視線が一瞬、今回の張本人へ向けられた。――玲華。白峰家の鉄の女とも呼ばれる人だ。「澪安、ごめんなさい。本当にわざとじゃなくて……」だが、大勢の視線が集まる中、澪安は彼女に一片の情けも見せなかった。「悪いけど、白峰さん。俺たち、そこまで親しくないよね。栄光グループと御社の取引も、これで終わりだ」玲華は息を呑む。たった一つの過失が、ここまでの怒りを招くのか。――彼は、そこまで慕美を庇うのか？自分のどこが、慕美に劣るというのか。学歴でも、仕事の手腕でも、何倍も勝っているはずだ。まして体も丈夫で、子どもを産み育てる面でも、あの女よりよほど扱いやすい――そうやって何度も匂わせてきたのに、どうして澪安は振り向かないのか。恋というものは、人を理屈の通らない方向へと走らせる。玲華はまさにその典型だった。澪安が慕美を伴って会場を離れようとしたその時、夕梨が駆け寄ってきた。「少しお待ちください」彼女は慕美の足元を見て、静かに言う。「ヒールが濡れています。滑りやすくなっていますから、フラットシューズを用意させます。そのほうが安全です」慕美は胸が熱くなる思いで夕梨を見つめた。夕梨は彼女より十歳も若いのに、穏やかで優しく、気遣いに満ちている――慕美の目には、どこまでも美しく映った。ほどなくアシスタントが駆けつける。「岸本さん、23センチのフラットシューズです」夕梨は受け取ると、その場で膝をついた。慕美は慌てて手を伸ばしたが、夕梨は微笑んで首を振る。――慕美が腰を曲げると、まだ下腹部の傷が痛むことを知っているから。恋の苦しみ以外、何一つ不自由のない女。だからこそ、二十五の
私が去った後のクズ男の末路 第896話
私用のレディースルーム、周囲には誰の気配もない。夕梨は胸元をそっと押さえ、スーツのポケットから薄い小箱を取り出した。予備を持っていてよかった。お客様の前でこんな姿を見られたら、不作法どころではない。女性用の洗面所ということもあり、夕梨は気を緩めていた。そっと膝丈のタイトスカートをたくし上げ、桃のように滑らかなヒップを露わにする。指先で黒いストッキングを丁寧に脱ぎ、新品を脚に通していくその所作には、どこか艶めく気配すら漂っていた。――その姿を、男が静かに見つめているとも知らず。微かな物音。女性用の洗面所のドアが、静かに閉まる。夕梨ははっとして顔を上げた。目に飛び込んできたのは、寒真の姿だった。四百万円はするタキシードを、まるで安物の部屋着のように気怠く着こなし、長身の身体をドアにもたせかけている。圧倒的な存在感。思わず息を飲むほどの高さだ。寒真はゆっくりと煙草を取り出し、火もつけないまま唇に咥え、こちらを射抜くように見つめた。「随分と艶っぽいじゃないか。そうやって周防澪安を誘惑してるのか？」周防澪安？まさか親族相手に色を使った、とでも？何を言っているんだ、この人は――だが夕梨はすぐに状況を理解する。先ほどの何気ないやり取りを、彩望あたりが面白おかしく吹き込んだのだろう。あの界隈の女たちの争いは、ときに目を覆うほど露骨だ。夕梨は寒真に誤解されても痛くも痒くもなかった。三年前、彼らはもう終わっている。深夜の、あのぞんざいな電話の数々――執着する理由など、どこにもない。そもそも、彼を好きだったことなど一度もないのだから。だから、彼女は迷うことなく淡々と言い放った。「ええ。ご想像のとおりです。周防さんだけじゃありません。他にも何人もいます。みんな、そうやって誘惑してますけど……何か問題でも？」「いや、別に」寒真は眉をわずかにひそめ、じっと彼女を見つめる。大勢の女たちと関係を持ってきた男であっても、たった三ヶ月の関係に過ぎなかったはずの夕梨をこうして再び目にした瞬間――奇妙な既視感のような、言いようのないざわめきが胸に走った。どこで……誰に……似ている？夕梨は淡々とした声で言う。「朝倉監督。ここは女性用の洗面所です。男性が長居する場所ではありません」
私が去った後のクズ男の末路 第895話
慕美が再び社交の場へ姿を見せるようになった頃、すべては、以前とは違った。彼女は今や、澪安の正式な妻だ。立都市を含むアジア圏で五指に入る富豪・周防澪安の妻だ。誰が軽んじようか。しかもすでに正当な後継者の思慕を産んだ。あの子は聡明で、容貌も澪安によく似ていると評判だ。この一点だけで、慕美の地位は揺るぎない絶対となった。そして、慕美の立場が上がったことで、ひとり思わぬ恩恵にあずかった者がいた。宴司。理由は詩と結婚したからだ。詩は慕美の右腕。その詩と結婚した宴司は、自然と周防家の光を浴びた。最初の頃は澪安に冷たい視線を浴び続けたが、宴司の図太さは筋金入り。追い払われようが怒鳴られようが、気にせず通い続け――気づけば澪安とかろうじて友情とも呼べるものが芽生えた。とはいえ、ほとんどの時間は澪安が宴司を鬱陶しがっていたが。宴司は妊娠中の詩を、宝物のように扱っていた。詩のお腹には本庄家の長男がいる。宴司の喜びようは、周囲が呆れるほどだ。慕美はそんな二人の喧嘩を微笑ましく眺めた。もし自分と澪安があんな波乱を経験しなかったら、たぶん今も、毎日ケンカして、仲直りして、また小競り合いして。そんな日々だろう。そのとき、そっと肩に手が置かれた。振り向くと、夫の澪安が立っていた。まるで彼女の心の中を覗いていたように、ふっと笑う。「今の俺たち、充分うまくいってるじゃないか？幸せだろ？」慕美はわずかに笑い、侍者から赤ワインを受け取り、一口だけ含んで言った。「あなただけじゃないの？」澪安は周囲を見回し、声を落とす。「じゃあ今夜は、俺が周防夫人をご機嫌にする。最後に泣かなきゃいいがな」その声音には露骨な暗示と挑発が混じり、大勢の前だというのに耳元へそっと忍び寄ったその一言だけで、慕美の頬は瞬く間に朱に染まった。澪安は喉を鳴らし、目を細めた。今すぐ彼女を連れ去りたいが、そんな欲を、理性で押しとどめていた。今夜は、慕美にとって大切な夜。彼は彼女の喜びを優先するつもりだった。夫婦が甘くじゃれ合っていると、一人の女優が近づいてきた。「周防さん、周防夫人……ご一緒にお写真、お願いできます？」女優である桐谷彩望だ。今の朝倉寒真の恋人。だが彼女が狙うのは寒真だけではな
