LOGIN願乃が振り返り、施錠された扉を見つめた瞬間、思考がわずかに乱れた。「何してるの、彰人?頭おかしいんじゃないの?」……願乃はロックされた扉を見つめ、そのまま駆け寄って開けようとする。だが彰人の身体から漂うアルコールの匂いに気づき、刺激してはいけないと悟る。このままでは損をするのは自分だ。たとえ彼が怪我をしていようと、酒を飲んでいようと、願乃ひとりを押さえ込むことなど造作もない。結局、扉を開けることもできず、逆に男に背後から扉へと押し付けられた。逃げ場を失い、身体は強引に絡め取られる。もがけばもがくほど、状況は悪くなるばかりだった。願乃はただ、仰向けに息を荒げながら呟く。「離して」灯りの下、男の表情はどこか複雑だった。彰人は彼女を見下ろす。高く通った鼻梁が光を受けて際立ち、ほんの少し顔を寄せれば、そのまま触れ合ってしまいそうな距離――そして彼は実際にそうした。ゆっくりと願乃に近づき、彼女が息を呑んだ瞬間、片腕で腰を抱き寄せる。逃げる隙など与えない。「彰人、離して……」女の声はかすかに震えていた。いまや彼女はメディアのトップであっても、二人きりの空間では、男女の力の差はあまりにも明白だった。そしてその差があるほど、男は決して手を緩めない。腰を強く引き寄せ、黒い瞳には抑えきれない熱が宿る。低く掠れた声が彼女の唇にかかる距離で落ちてくる。「ただの付き合いだ。何もしてない。彼女には触れてもいないし、触れさせてもいない。たまたま隣に座っただけだ、場の空気を壊したくなかっただけで」その吐息は言葉の一つ一つとともに、熱を帯びて彼女に降りかかる。願乃は途切れ途切れに答える。「私には関係ない」「関係ないわけないだろ?兄貴に肋骨を三本折られたんだ。背中もほとんど裂けたみたいなもんだ。歩いても痛い、座っても痛い。そんな状態で女遊びなんてできると思うか?願乃……若い女が隣に座ってたの見て、腹が立った?」……男という生き物は驚くほど巧みに言い訳を並べる。どれだけ情を込めた声音で語ろうと、同時に相手を追い詰めることもできる。たとえ彼が心から願乃を想っていたとしても、それは変わらない。願乃は彼を見据え、はっきりと言い放つ。「彰人、ほんとにどうかしてる」男は笑った。「……ああ、そうだな」次の
医師からは一週間の入院を勧められていたが彰人は三日で退院した。退院すると、その足で莫高チップへ戻った。莫高チップはこの二年で急成長を遂げ、いまや国内の新エネルギー車メーカーにとっては、ほぼ第一選択といえる存在になっている。その日も午後四時まで仕事をしていると、モナが入ってきて、声を落として言った。「社長、万信の松山社長から、ビジネスディナーのお誘いです」彰人はデスクの向こうに腰掛けていた。白いシャツに、きっちりとした襟元。そこから覗く首筋がやけに色気を帯びている。――ビジネスディナー。その意味を彼が分からないはずがなかった。食事のあとは、たいていクラブへ流れ、歌って飲んで遊ぶ。若い女の子がつくのも、半ばお約束だ。かつて、メディアの社長だった頃の彰人なら、こうした席には出なかった。だが莫高はまだ成長期にある。多少は相手の顔を立てる必要もある。モナを見て、少し考え――「分かった。受けておいてくれ」モナは頷き、手配に向かった。彰人は彼女の背中を見送ってから、しばらくして机の上の写真立てを手に取った。春の陽気の中で撮った一枚。願乃が後ろから彼の首に腕を回し、屈託なく笑っている。彰人は長いこと、その写真を見つめていた。六時きっかりに退社し、怪我を抱えたまま会食へ向かう。それなりの地位にいる男たちの席だ。若くて綺麗な女の子がいないわけがなく、下世話な冗談も飛び交う。彰人は自分から加わることはしないが、場の空気を壊すこともしない。若い女性が一人、隣に座るのを許した。松宮可音(まつみや かのん)――まだ名前の知られていないモデル。こうした席での相場は十万〜二十万円ほど。もし気に入られて連れ出されれば、さらに別の話になる。最初、可音は彰人を狙っていた。立都市で、彰人の財力を知らぬ者はいない。だが、当の本人は至って紳士的だった。酒を飲ませることもなく、太腿に手を伸ばすこともない。可音はすぐに悟った。――この人は身持ちの堅いタイプ。たぶん、心に誰かいる。それ以上踏み込むことはせず、行儀よく隣に座っていた。その、まさに同じ夜。願乃もまた、接待の席に出ていた。個室は偶然にも隣だった。少し酒が回り、頭がぼんやりする。個室内の化粧室を使う気にもなれず
その夜のうちに、彰人は病院へ運ばれた。肋骨三本の骨折に、軽度の内出血。結局、丸一週間の入院となった。身の回りの世話は気の毒なほどモナが引き受けている。その間、周防家からも見舞いがあった。と言っても、来たのは他でもない翔雅だ。「人が死んでないか」の確認役として派遣され、元気そうなのを一目確かめると、しばらく腰掛けただけで帰っていった。翌日、放課後になると、結代が病室に顔を出した。腕を吊り、顔色の悪い父を見上げて、唇を尖らせる。「パパ、伯父ちゃんが言ってたよ。パパはあんまり打たれ強くないって。数発で限界だったらしい」彰人は今にも血を吐きそうな気分になる。――あの澪安がよくもそんなことを言えたものだ。あれほど太い棒をへし折っておいて、自分が数発受けてみろというのか。もっとも、結代はそれなりに親孝行だった。小さな手で、彼の腕を揉んでやると、すぐにノートを取り出して宿題を始める。その姿を見ていると、胸が熱くなる。未来はまだ捨てたものじゃない。彰人は尋ねた。「ママは?」「仕事だよ。パパが後始末を丸投げしたんだから、忙しいに決まってるでしょ」彰人は一瞬、言葉に詰まった。結代は鉛筆を動かしながら、独り言のように続ける。「私、早く大きくなって、パパとママの会社を継ぐの。女社長になるの。そしたら二人は思う存分恋愛すればいいじゃない。追いかけ合って、潰し合って、好きにやれば?」彰人は言葉を失った。モナは思わず口元を押さえて笑う。彰人は結代を指差し、拗ねたように言う。「ほら見ろ、この子。どこでそんな言葉覚えたんだ。伯父ちゃんに似たんじゃないか?」モナは笑いを堪えながら答える。「いえ、たぶん社長に似たんだと思います。周防さんは子どもの頃、もっとマイペースで、遊ぶのが好きでしたから。結代ちゃんみたいに野心的じゃなかったですよ」彰人は一度、ふっと笑った。だが、その笑みはすぐに固まる。願乃と出会った頃、彼女もよく笑う少女だった。大きな理想もなく、家族の願いはただ――楽しく生きてくれればいい、というだけ。それでも、その彼女をここまで追い込んだのは自分だ。彰人は自分が身勝手だと認めている。結代の、願乃によく似た顔を見つめながら、視界がわずかに滲んだ。彼は石でも鉄でもな
まずコートを脱ぎ、次にシャツを脱ぐ。一枚、また一枚と無駄のない動きだった。「分かった。仏間へ行く」仏間とはもともと周防祖父の書斎を改めたものだ。跪いて拝むことは実はそう多くない。代わりに多いのは、折檻である。周防家の男も婿も例外なく一度は打たれてきた。ただし、元婿を打つのは今回が初めてだった。だが、彰人はまるで粘りつくような存在で、願乃がどうしても振り切れない男だ。ならば、一度打つなら徹底的に打つまで。一行は仏間へと移動した。彰人は実にあっさりとしていた。祖父の遺影の前に、背筋を伸ばし、真っ直ぐに跪く。翔雅も来ていた。彼は澪安の肩に軽く肘を当て、声を潜める。「この肩と腰の差、反則だろ。昔、願乃が夢中になったのも無理ないな。どこの女の子だって、くらっとくる。外に出たら、相当な稼ぎ頭だぞ」澪安はくっと小さく笑った。そこへ、寛が震える足取りで近づき、棒を澪安に差し出した。声もまた、細かく揺れている。「祖父はな……もう目がよく見えん。澪安、お前がやるのがいい。思い切り打て。情けは要らん。壊れやせん。周防家の男で、打たれて駄目になった者などおらん。打てば打つほど、まともになる。この小僧のためだ。丁寧に、しっかり打て」澪安は棒を受け取り、静かに頷いた。「承知しました、お爺様」さすがに、彰人も一瞬、言葉を失った。澪安は働き盛りだ。本気で振るわれれば、命が半分持っていかれかねない。それでも、この場で怯むわけにはいかない。彰人は歯を食いしばり、膝をついたまま動かなかった。澪安に容赦などない。棒は一本一本、確実に、広い背へと叩きつけられる。一言も発さず、ただ黙々と執行するその姿に、翔雅は背筋が粟立つ思いだった。――昔、自分の番が澪安でなくて本当によかった。この男、容赦がなさすぎる。十分も経たないうちに、彰人の背中は血に染まった。痛みはとっくに人の耐えられる域を超えている。だが、呻けば資格を失う。ここで命乞いをすれば、周防家の敷居を二度と跨げなくなる。痛みと、願乃を失うこと――後者のほうがはるかに耐え難い。彰人はただ耐えた。――そして。乾いた音とともに、棒が折れた。同時に、彰人の肋骨も三本、折れていた。男は床に伏し、背中はもはや、
灯りが滲むように揺れていた。彰人は上から下へと、女の身体を静かに見下ろす。シャワーを浴びたばかりの願乃は胸から太腿の付け根までを覆うバスタオル一枚を巻いているだけだった。それ以外はすべてが男の視界にさらされている。白く、柔らかな肌――かつて、幾度となく彼が触れた場所。目を閉じても、思い描けてしまう。しばらくして、男が低く言った。「風呂上がりはいつもそんな格好なのか」願乃はブランケットを引き寄せ、肩に掛けると冷ややかに笑った。「自分の寝室よ。裸でいようが、私の自由でしょう。それに――彰人、私たちはもう離婚してる。これからは入る前にノックして」彰人は黙って彼女を見つめた。濡れたままの髪。あまりにも昔の記憶を刺激する。かつてはこうして抱き合い、濡れた髪のことなど気にも留めず、何度も身体を重ねた。気づけば髪は乾き、喉は掠れ切っていた――そんな夜が確かにあった。男は何も言わず、手を伸ばす。スイッチが押され、寝室は闇に沈んだ。「彰人」反射的に名を呼ぶと、すぐに応える声がする。「ここにいる。ここにいるよ、願乃」……掠れ切った声と同時に、彼女の身体は強く抱き寄せられた。その熱は焼き付くほどだった。薄い唇が逃げ場を与えずに彼女を覆う。息を殺すほどの掠れ声で、宥めるように同じ言葉を繰り返す。「願乃……俺はここだ」手慣れた動きで、バスタオルが引き剝がされる。そのあとは、理性も順序も失われた。願乃は小さく抗議の声を漏らしたが、男は離そうとしない。唇はまるで糊のように貼りつき、執拗に奪い続ける。耐えきれず、彼女は思い切り、平手を二度振るった。それでも――彼はまだ口づけようとする。理性を失ったまま、しばらくのあいだ、ただ唇を重ねていた。どこから湧いたのか分からない力で、願乃は彼を突き放した。男の身体はソファの角に押し付けられ、腰に鈍い痛みが走る。それでも、彼は唇に触れ、かすかに笑った。「願乃……顔、真っ赤だ」羞恥と怒りが一気に込み上げ、願乃は急いでバスタオルを引き寄せる。「出て行って」彰人はそれ以上は踏み込まず、素直に身を引いた。男が去ったあと、願乃はソファに身を預け、しばらく呆然と座り込んだ。やがて、そっと唇に触れる。そこにはまだ、彰
結局のところ、願乃は少し早めに席を立った。胸の内はひどく掻き乱されていた。あの光景はまるで時の歯車が噛み合わなくなったかのようで、眩暈を覚えるほど現実感がなかった。人というものはなんと厄介なのだろう。片方では確信をもって選びながら、もう片方ではどうしようもなく後悔している。――どうして、こんな結末になったのか。自嘲の念が静かに胸を満たす。それでも、生活は続いていく。彰人と自分のあいだには、一人の娘がいる。それは否定しようのない事実だった。だからこそ、彼と向き合えば、今でも胸が痛むとしても。向き合わなければならない。結代は十二歳。ちょうど思春期の芽が出始める年頃だ。願乃は子どもの気持ちを冷やす母親にはなりたくなかった。過去の出来事を何度も蒸し返し、父親への憎しみを心に植えつけるようなことは決してしない。心に愛を持つ子どもこそが、遠くまで歩いていける。そうしてこそ、将来、より多くの幸福を掴めるのだと、彼女は信じていた。胸のざわつきを抑えきれず、願乃は脇に置いたバッグから細身の煙草を一本取り出した。火をつけ、唇に運んで、ゆっくりと一息吸い込む。淡い煙が風に溶けていく。半分ほど吸ったところで、もう消そうと思った、その瞬間――先に伸びてきた手があった。彼女の指から煙草を奪い取り、そばで押し消す。続いて、低く掠れた男の声が落ちた。「二年も会わないうちに、煙草を覚えたのか。願乃……前は煙の匂い、あんなに嫌ってたのに」願乃は黙って彼を見つめた。しばらくしてから、低く言葉を落とす。「あなたが言ってるのは昔の願乃よ。今、あなたの前にいるのはメディアの社長。大きな会社を動かしていれば、煩わしさもあるし、煙草だって吸う。それに――彰人、あなたも時間を巻き戻せないでしょう。全部をやり直すことなんて、できない。私だって、選べるなら、こんなに険しい道は選ばなかった。もしあなたが現れなければ、メディアは最初からプロ経営者体制だったはず。でも、あなたは現れた。周防家の婿にまでなった。変わったのは私じゃない。あなたよ。あなたがすべてを変えたの」男は何も言わなかった。ただ、彼女の言葉を受け止める。どうしようもないのだ。彼は手放せない。けれど、それ以上に――願乃のいない人生など、耐えられなかった
翔雅と澄佳の最初の亀裂は、この夜に生じた。もしこの夜、翔雅がもう少し寛容で、妻に心を寄せていたなら——後に二人が決定的に壊れることも、あそこまで醜く争うこともなかったかもしれない。若い男は、結局のところ血気盛んで、抑えが効かない。胸の奥に渦巻く苛立ちを抱えたまま寝室へ戻った翔雅は、澄佳を乱暴に引き寄せ、無理やり夫婦の営みに及んだ。激しく荒々しい男に、女は半ば拒みつつも受け入れるしかなかった。それは甘美な愛ではなく、力ずくの衝動に過ぎなかった。翔雅自身、その苛立ちが嫉妬や執着から来るものだとは気づいていなかった。ただ、行為によって澄佳が自分の妻であると証明しようとし、満足を得
今夜、翔雅は酒をかなりあおっていたが、意識を失うほどではなかった。酒場で宴司を待っていたが現れず、代わりに香坂と鉢合わせた。夜の闇の中、彼女は黒い衣装に身を包み、サングラスまでかけた完全武装の姿。「翔雅!」女の声は驚きと喜びに弾んでいた。翔雅は冷淡に目を向ける。「どうしてここに?」香坂はサングラスを外し、男の前に腰を下ろす。大きな瞳に艶やかな笑みを浮かべた。「これも縁じゃない?」縁、だと?翔雅は澄佳を思い出す。あの出会いも縁だったはずだ。だが今残っているのは瓦礫ばかり。——澄佳は分居を望んでいる。自分は彼女に尽くしていないのか?ベッドの上で、満たしてやれなか
翔雅は結局、家に戻らなかった。秘書の安奈が英国行きの直近の便を手配し、搭乗手続きまで済ませていた。だが、保安検査場の前で彼の足は止まった。——英国に追いかけて行って、何になる?澄佳とはすでに離婚した。二人はもう他人なのだ。今さら彼女に許しを乞い、やり直そうと望むというのか。澄佳が応じるはずがない。智也との八年を経ても、彼が悔いて手を伸ばしてきても、澄佳は一度も迷わず結婚を選んだ。彼女は昔から、燃える炎のように強く、常に華やぎをまとって生きてきたのだ。大晦日の夜、空港のロビーは人で溢れていた。顔いっぱいに喜色を浮かべる人々の中で、翔雅だけが無様に立ち尽くしている。
蘭クラブ。宴司がやって来るなり、翔雅はいきなり噛みついた。「お前があの日、遅れなければ……俺が香坂に絡まれることもなかった。あれがなければ澄佳と別れることもなかった!」宴司はむっとして言い返す。「車が故障したんだ。俺のせいにするなよ。香坂がしつこく迫ってきたとき、お前だって振り払えただろ。それに、俺は離婚しろなんて一言も言ってない。結局は自業自得だ。 澄佳に謝るどころか、スキャンダルで散々迷惑をかけて、彼女が深夜まで必死に火消ししてくれたその日のうちに、お前は逆に離婚だと言い出したんだ。そんなもの、向こうが呑み込めるはずがない。周防家は名門だぞ。お前のわがままに付き合う







