ANMELDEN遠くから、一人の人影が歩いてくる。涼香だった。冬のベルリンはやはり厳しく冷え込んでいる。涼香はダウンコートに身を包み、大きな帽子を深くかぶっていた。そのせいで顔がいっそう小さく見え、どこか願乃に似た雰囲気をまとっている。彰人はしばらく黙って彼女を見つめていた。その視線に気づいた涼香は静かに問いかける。「彼女のこと、考えていたんですか?」彰人は答えなかった。沈黙がそのまま答えだった。涼香は彼の隣に立ち、同じように遠くを見つめる。遊んでいる子どもたちの方へと。彼の苦しみは分かっていた。全身を病に侵され、願乃のもとへ戻ることもできない。舞の意向はベルリンで適合する肝臓を待ちながら、一つずつ治療を進めるというものだった。彰人がぽつりと呟く。「ここにいたくない」声はかすかに震えていた。立都市へ戻りたかった。遠くからでいい。願乃を見守りたかった。結代のことも、そして――これから生まれてくる小さな命も。そのために、舞とは激しく衝突した。彼女は一切容赦しなかった。言い合いの末、思いきり頬を打たれたほどだ。だから今、彰人はただ静かにここにいる。それから一週間ほどベルリンに滞在したのち、彰人の強い希望により、結局一行は立都市へ戻ることになった。彰人は舞を安心させるように言った。体調に気をつけながら、肝臓のドナーを待つ、と。その日、専用機は立都市に降り立った。黒塗りの車が彰人を邸宅へと送り届ける。舞は帰る前、涼香を呼び止め、二人きりで少し話をした。書斎に入るとき、涼香は内心ひどく怯えていた。自分がどんな扱いを受けるのか、想像がつかなかったからだ。弁解しようと口を開きかけたとき、大きな窓の前に立つ舞が先に静かに言った。「あなたのことは知っているわ。モナから聞いた。彰人が一年で一千万円を支払って、あなたに身の回りの世話を頼んでいるって。でもね、もしあなたが彼を好きになって、いつか彰人もあなたを好きになったなら……私を気にする必要はないわ。反対なんてしない。むしろ祝福する。彰人と願乃はもう別れている。お互い自由な身よ――分かるわね?」……涼香は言葉を失った。責められるものだと思っていた。自分の過去は決して誇れるものではない。かつては彼のそばにい
そう言い終えると、手を握られた。来た人物がもう一度口を開く。「彰人、私よ」言葉よりも先に涙がこぼれた。彰人にとって、舞はただの親族ではなかった。恩人であり、まるで母のような存在でもあった。彼は舞に対して負い目があった。願乃を幸せにできなかったこと。過去に背負ったもの、そしてこれからの人生でも背負い続けるもの――そのすべてを。彰人は身体を起こそうとした。だが舞はそれを許さなかった。手首を押さえ、ベッドに寝かせたままにする。何度も感情を押し殺した末、舞は低く言った。「モナが私を呼んだこと、責めないであげて。あなたのカルテは見たわ。確かに、簡単な状況じゃない。彰人、私にとってあなたは願乃の夫であるだけじゃない。私が育ててきた子でもあるの。だから、メディアの株を売ったと聞いたとき、本当に胸が痛んだの。たとえ願乃のためだとしても、許せなかった。私はずっと、公私を分けられる人であってほしかった。でもあなたは……ただ、愛に生きる人でいようとしたのね」彰人はうつむき、かすれた声で言った。「母さん」舞の声はさらに低くなる。「でも彰人。メディアを手放して、そのうえ想いも報われなかった……後悔していないの?」周防家を離れ、メディアを手放す――それは上流社会から追放されることと同じだった。それでも、彼は後悔しているのだろうか。「後悔していない。母さん、俺は一度も……後悔したことはない」――最後の数文字は震えていた。どうして後悔などできるだろうか。彼が抱いているのはただ一つ、憎しみだった。不公平な運命への怒り。あとほんの少しだけ足りなかった、自分の運の悪さへの悔しさ。願乃とのすべてにおいて――彼は一度たりとも後悔していない。彼女を傷つけたことも。彼女を不機嫌にさせたことも。それでも、後悔はない。それが彼という人間だった。だが、それでも彼は手放すことを選ぶ。願乃、俺は身を引く。だから――ほんの少しでいい、俺を恨む気持ちを和らげてほしい。しばらく言葉を交わした後、舞は決断した。それは一人の母としての決断だった。願乃の母であり、同時に、彰人の母でもある者としての。「彰人、ベルリンに行きましょう。肝臓の治療ができるか診てもらう。それから、脳の専門医と精神科医も探すわ。あ
夕方、彰人は病院へと戻ってきた。モナは気が気ではなく、思わず叱りつけようとしたが、その瞬間、彼の後ろに立つ涼香の姿が目に入る。目を見開き、女と彰人を交互に見た。たしか、きっぱり終わらせたはずでは?どうして、また一緒にいるのか。彰人は何事もなかったかのようにベッドへ横たわり、淡々と口を開いた。「願乃とは、完全に別れた。子どもは二人とも、あいつに任せた。これで……もう関係はない」モナはしばらく言葉を失った。まったく理解が追いつかない。彼女の知る彰人は死んでも手放さない男だった。それなのに、あまりにもあっさりと手を離した。また、何か企んでいるのでは?まさか――わざと距離を置いた?すべてを隠して、あとで真実を知った願乃に後悔させるつもりなのか。だが、その予想を打ち消すように、彰人は静かに目を閉じる。「今回は、本当に終わりだ。俺が病気だってことも、あいつは知ってる。それに、これからは涼香もそばにいる。モナ――初めてだよ。こんなふうに……手放すのは。頼む。願乃には何も言うな。あいつには……あいつの人生を生きさせてやってくれ。自由を……返してやりたい」……モナの鼻の奥がつんと熱くなる。それ以上、言葉を続けられず、彼女は静かに部屋を出た。廊下に立ち尽くし、しばらく動けない。どれほど時間が経ったのか。気がつくと、そばに涼香が立っていた。そっとティッシュを差し出し、小さな声で言う。「モナさん……私も最初は受け入れられませんでした。でも……それでも、氷室さんのそばにいたいんです」モナは深く息を整え、かすれた声で問いかける。「どんな条件で、話がついたの?」涼香は少し目を伏せ、呟いた。「年、一千万円です」モナは彼女を見つめた。目は赤く滲んでいる。責めることなどできなかった。むしろ、この条件を受け入れてくれたことに、感謝すべきなのかもしれない。彰人にとって、それは最後に残された――かろうじて守れる尊厳だったのだから。モナは静かに言った。「お願い。そばにいてあげて」その夜更け。モナは一人、ある人物と約束を交わし、とある場所へ向かった。かつて彼女は舞の秘書だった。そして今は彰人の側近。――このままではいけない。そう思った。……
彰人が邸宅を出たのは午後のことだった。ここに置いてある彼の荷物は驚くほど少ない。数着の衣類と、家族写真。それに、結代の私物がいくつか――それがすべてだった。荷物を手に寝室の扉の前に立つ。本当は最後に願乃へ声をかけるつもりだった。だが、やめた。きっと、もう会いたくはないだろう。いつも彼女を計算に巻き込み、傷つけてきた男。何度も泣かせてきた男。そんな自分の顔など、見たくもないはずだ。先ほど「他に女がいる」と告げたときも、願乃は少しも悲しそうな顔を見せなかった。――本当に、終わったのだ。……彰人はすべてを願乃に残した。そして、自ら車を走らせ、邸宅を後にする。黒のロールスロイス・ファントムは静かに門を抜けていく。門番の前で一度だけ停まり、昨夜約束していたタバコを数箱手渡した。再び車を発進させる。彰人はふと、ハンドルを切り直し、バックミラー越しに邸宅の方角を見つめた。――願乃、お前のもとを離れるこの日、吹雪はひどく荒れている。二階のテラスでは、願乃がウールのブランケットにくるまりながら、静かにその背中を見送っていた。二人の関係は「別れ」と呼ぶには少し違う。ただ、離れただけ。そもそも正式に復縁したわけでもなく、恋人と呼べる関係ですら曖昧なまま、子どもができて――そして今、こうして離れる。ある意味、自然な流れだったのかもしれない。彼が言っていた「相手」とはあの玉井涼香のことだろうか。同じ業界にいる以上、噂を耳にしたことはある。けれど、それは彰人の自由だ。そして今、二人とも自由になった。……本当に?心まで、自由になれたのだろうか。願乃は彰人の言葉の意味を理解していた。これから彼はほとんどここへは来ないだろう。結代の顔を見に来ることはあるかもしれない。そして、生まれてくる清席にも。だが、もう、自分とは関わらない。それはかつて望んでいたはずの形なのに。こんな雪の降りしきる日にはどうしてか、ひどく寂しく感じられた。願乃は寝室へ戻る。ベッドの端に腰を下ろし、ナイトテーブルの上に置かれた小さな箱を手に取る。開けると、淡いピンクダイヤのブレスレットが静かに光を放っていた。きれいだ。本当は好きなのだ。彰人はいつだって、彼女の好
その夜、彰人は長いあいだ話し続けていた。やがて願乃は眠りに落ちる。目を覚ましたときには、すでに空は明るく、庭からは使用人が雪をかく音が聞こえていた。枕元にはもう彼の姿はない。願乃は静かに身を横へ向け、空いた場所を見つめたまま、しばらくぼんやりとする。やがて起き上がり、身支度を整えてゆっくりと階下へ降りると、使用人がすぐに歩み寄ってきた。「奥様、旦那様は結代ちゃんを学校までお送りになりました。すぐにお戻りになるそうです」願乃は窓の外に広がる一面の雪景色を見やりながら、問いかける。「自分で運転して?」邸宅には何台か車があり、普段は彰人が運転していた。使用人は首を横に振る。「いえ、今日は運転手でございます」願乃は小さく頷き、食卓についた。温かいミルクが運ばれてくる。湯気の立つそれを口に含むと、体の奥からじんわりと温まっていく。トーストを二枚ほど食べ終えた頃、外から車の音がした。使用人は二人の関係が少し和らいだのではないかと期待し、どこか弾んだ声で伝える。「旦那様がお戻りです」願乃はただ頷いた。ほどなくして、彰人が玄関から入ってくる。靴を履き替えながら、彼は願乃を見つめ、低く静かな声で言った。「さっき結代を学校に送ってきた。午後は……運転手とおばさんに一緒に迎えに行かせてくれ。出産前なんだから、しばらくは自分で運転しないほうがいい。最近は天気も不安定だしな」長年連れ添った夫婦だからこそ、願乃はその言葉の端々に違和感を覚える。――まるで、何かを託すような言い方だ。まるで、別れの支度をしているかのような。だが、その答えはすぐに知ることになる。三十分後。二人は書斎に向かい合って座っていた。室内は暖かく、ガラス張りの大きな窓の向こうには、凍てつく冬の景色が広がっている。雪に覆われた世界の中、それでもクリスマスらしく、街のあちこちに赤い装飾が見えて、どこか賑やかだった。彰人はデスクの向こう側に座っている。その上には分厚い書類が一式、整然と置かれていた。願乃は湯呑みを手に、ぼんやりと視線を落としている。……やはり、気づいているのだろうか。物質的なものに執着しない彼女だからこそ。この結末をすでに受け入れているのかもしれない。――ある問いがある。
彰人が寝室の扉を押し開けたとき、室内はやわらかな温もりに包まれていた。願乃は広いベッドの上で、深く眠っている。灯の下、頬はほの白く光を帯び、静かな呼吸だけが部屋に満ちていた。腹の子はもう六か月。布団越しでもはっきりとわかるほど、丸く大きく膨らんでいる。彰人は思わず、両手をそっとその上に重ねた。命の存在を確かめるように。――きっと、男の子だろうか。新しい年は穏やかに澄み。これからの道は静かに満ちていく。もし周防の姓を継ぐなら、周防清席(すおうきよせき)がいい。清席。いい響きだ。彰人はその名前を小さく紙に書き留める。そして、それを贈り物の箱に添えた。箱の中身は淡いピンクダイヤのブレスレット。あるブランドのクリスマス限定品だ。決して安価ではなく六千万円はする品だ。それに、ピンクダイヤは常に手に入るものではない。願乃が出産を迎える頃、この柔らかな光を身につけてくれたなら、きっとよく似合う。――そのとき、自分はまだそばにいられるだろうか。彼女の隣に。彼女を支える存在として。――いや、もう「伴侶」としてではないのかもしれない。願乃。どうしても、諦めきれない。けれど、この病を抱えたまま、何をもってお前を愛せるというのだろう。求めすぎたから、罰が下ったのか。彰人の瞳に、深い陰が落ちる。彼はそっとベッドに横たわり、布団越しに願乃の腹へと手を添えた。胎児はすでに胎動が活発な時期だ。最初はゆっくりとした蠢き。やがて、掌の温もりを感じ取ったかのように、とん、とんと小さく蹴り返してくる。まるで、遊んでいるかのように。……元気な子だ。結代と同じように、きっと明るく、よく動く子になる。彰人の胸が柔らかくほどけていく。この子が生まれたら、どんな顔をするだろう。どんなふうに育っていくのだろう。どうか――順風満帆に。穏やかに、何事もなく。願乃の兄、澪安のように。だからこそ、やはり、この子は周防の名を継ぐべきだ。そのとき、願乃が目を覚ました。子どもの動きに気づいたのか。それとも、彰人の気配に気づいたのか。彼女は何も言わず、静かに横たわったまま。ただ、わずかに早まった呼吸だけが、その意識を物語っていた。薄暗がりの中、彰人の声がかすか
夕暮れ時、澄佳は別荘のソファに身を預け、退屈そうにテレビを眺めていた。その時、中庭に車のエンジン音が響く。悠のマネージャーが彼を送り届け、軽く挨拶だけしてすぐに引き下がった。悠はごく普通の家庭の出身で、両親は共働き。家の事情が悪化して初めて芸能界に入ったが、足を踏み入れた場所は、よりによって澄佳という「女王の牙城」だった。白いシャツに黒いスラックス、清潔感に満ちたその姿。澄佳は心の内で思った——誰かに装いを指南されたのだろう、まるで智也のコピーのように。だが、彼女にとってはどうでもいいことだった。ただ暇を紛らわす相手が欲しかっただけ。澄佳が相手をしなくても、悠は気を
その日を境に、翔雅は澄佳を追い回すことをやめた。一ノ瀬夫人は二人が結ばれないと悟り、内心落胆しながらも、時折悠を呼び出してはスーパーに出かけたり、一緒に料理をしたり、澄佳の話をしたりした。悠はまだ世間慣れしておらず、どこか青臭さが残る青年だった。だが、そのぶん誠実で礼儀正しく、一ノ瀬夫人との時間を楽しみながらも、常に一線を守っていた。投資の件については、一ノ瀬夫人の強引な説得に折れて翔雅が署名した。当事者である翔雅も澄佳も姿を見せず、双方の弁護士だけが手続きを済ませた。互いに余計な憶測を避けたい思惑があったのだ。深秋、映画【風のささやき】が風見市でクランクインした。撮影
空気は重く、息が詰まるほどだった。静香は思い上がって手を上げようとしたが、その手首は智也に強く掴まれた。痛みに顔を歪め、涙目で叫ぶ。「智也さん……!」だが智也は振り返らず、視線を澄佳に注いだまま、低く告げた。「先に出ていろ」八年、彼女に指一本触れたことのない自分が、どうして静香に手を上げさせるものか。不満げな顔をしながらも、智也の険しい表情に押され、静香は渋々その場を去った。洗面所には、かつての恋人だけが残った。智也の顔には疲労が色濃く滲み、祝福されるはずの婚約者発表の後とは思えない陰があった。冷たいタイルに背を預けたまま、彼は懐かしむように澄佳を見つめ
それはまるで心の奥に刻まれた朱砂のようだった。翔雅はようやく悟った。——智也という男が、彼女にとってどれほど大きな存在なのか。八年を費やした初恋。十人の松宮悠を並べても届かないもの。澄佳は静かに言った。「先に食べてて。少しお手洗いに行ってくるわ」翔雅は口にしかけた言葉を飲み込み、ただ視線を落とした。……洗面所。金色の蛇口から水音が響く。鏡の前で澄佳はゆっくりと手を洗い、その目はわずかに赤く滲んでいた。八年の青春が、あまりにも空しい。手を拭き、出ようとしたそのとき。扉が開き、入ってきたのは静香だった。「葉山さん」かつての素朴な娘は、もはやど







