Masuk涼香は一瞬、言葉に詰まったがすぐに柔らかな笑みを浮かべた。「氷室さんは元気にされています。海外にいらっしゃいますよ。少し落ち着いたら、結代にビデオ通話してくださると思います」その言葉で、願乃はすべてを察した。――これ以上、聞いても意味はない。それ以上は何も追及しなかった。帰宅し、車を降りたとき。澄佳は願乃の様子を気遣い、「少し一緒にいようか」と声をかけたが願乃は静かに首を振った。「大丈夫。姉さん、ほんとに平気。みんな、それぞれ前に進んでるから」それでも澄佳は安心しきれず、結代に言い含める。「何かあったら、すぐ連絡してね」結代はしっかりとうなずいた。「うん。任せて。ママと清席、ちゃんと私が見るから」その言葉に、澄佳は少しだけ安堵する。結代の頭をそっと撫でる。その顔立ちはどこか彰人に似ていた。――どうか、無事でいてほしい。どんな形であれ、かつては家族だったのだから。たとえ縁が尽きたとしても――生きていてくれさえすればいい。澄佳はそう願いながら、静かに家を後にした。家では、ベビーシッターが清席を二階の寝室へと運ぶ。そこには小さなベビーベッドが新たに置かれていた。願乃がすぐに世話をできるように。結代も休みの日には一緒に寝たがり、夜中に弟が起きれば、おむつを替えるのを手伝うこともある。まだ幼いのに、どこか大人びていた。――ママのそばには人が必要だと分かっている。――そして、その「人」は自分なのだと。結代は感じ取っていた。ママはきっと、パパを想っている。パパとママは本当に終わってしまったのだろうか。その日、清席は午前中ずっとぐずっていたが、ようやく深く眠りについた。願乃は小さな靴を履かせ、ベッドの枕元に淡い水色のウサギを置く。それだけで、清席の愛らしさが一層際立つ。彰人が残していった、たったひとつの父としてのかたち。願乃は静かに、それを見つめていた。ふと、視界がにじむ。涙がこぼれそうになるのを必死に抑える。結代には見せたくなかった。だが、その隣で、結代はそっと言った。「ママ、想うことって、恥ずかしいことじゃないよ」やさしい声だった。「私も、パパに会いたい。でもね、いなくても……こうして清席にプレゼントしてくれてるってこと
病室の扉がきい、と小さく軋んだ音を立てて開く。入ってきたのは涼香だった。手には薬のトレー。今夜、彰人が服用しなければならない薬がずらりと並んでいる。錠剤だけで二十錠近く――見ているだけで、飲み込むのが辛くなる量だ。彰人がぼんやりと画面を見つめているのに気づき、涼香も視線を向ける。そこには小さな赤ん坊の写真。彼女はトレーをそっと置き、しゃがみ込んで一緒に覗き込みながら、心からの声で言った。「きれいな子ですね、氷室さん。とても似ています。清席、でしたよね?前におっしゃっていました」彰人は小さくうなずく。「……ああ、清席だ。いい名前だろう?」その声にはわずかな苦さが滲んでいた。涼香はそっと彼の手の甲に触れ、やわらかく言葉を重ねる。「一緒にいられないのは仕方のないことです。でも、あの子のそばには周防さんと、ご家族がいます」静かに、しかし確かに伝えるように。「清席はきっと、ちゃんと守られて、大切に育てられます。誰にも見下されることもなく……きっと、幸せな人生を歩みます」彰人は彼女を見つめた。――図星だった。清席は周防の名を持つ子だ。生まれながらにして守られている。自分のような――あの冷えた出自とは違う。だからこそ、安心できる。それでも、会いに帰りたかった。だが、この身体では、それすら叶わない。穏やかな時間が続くことの方が珍しく、いつ激しい頭痛に襲われるか、いつ拒絶反応で全身が腫れ上がるかも分からない。薬を口に運びながら、ふと彰人は言った。「涼香。立都市に行ってくれないか」彼はベッド脇から、小さな箱を取り出す。「これを……願乃に渡してほしい。子どもへの、俺からの贈り物だ」中に入っていたのはやわらかな布でできた、小さな靴。丁寧な刺繍が施されている。そして、淡い水色の小さなウサギのぬいぐるみ。それは彰人が幼い頃に、どうしても欲しかったものだった。だから、清席には自分が与えたかった。そのすべてをそこに込めて。涼香はそれを受け取り、じっと見つめる。やがて、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。しばらくしてから、彼女は静かにうなずく。「分かりました」……だが、その約束が果たされたのは六月になってからだった。彰人の体調は良くなったり悪くなったりを繰
あの日を境に彰人は姿を消した。年末年始になっても、彼が訪れることはなかった。年が明け、春を迎えるころには願乃の腹はさらに大きくなっていた。それでも、彰人は戻ってこない。ただ、時折結代にメッセージを送ってくるだけだった。――海外出張中だ、と。大きなプロジェクトを自ら開拓している、と。そんな言葉ばかりだった。人づてにいろいろな噂も耳に入る。――あの新しい恋人、涼香を連れて行ったらしい。――海外で二人を見かけたという人もいる。――腕を組んで、仲睦まじく買い物をしていた、と。その話を聞くたびに、願乃はただ淡く微笑むだけだった。気にしているのは結代のことだけだ。「パパに会いたい?」そう尋ねると、結代はうなずいた。「会いたい。でもね、パパは忘れないよ」そう言って、小さく笑う。「きっと、清席に会いに戻ってくる」その言葉がどこか救いのように響いた。やがて、願乃の腹は九ヶ月を迎えた。それでも、彰人は戻らなかった。まるで、この世界から消えてしまったかのように。……その夜、願乃は夢を見た。雪が降っていた。周防本邸の庭が静かに白く染まっていく。そして、彰人と初めて出会った、あの日のこと。あの頃はまだ、春だった。暖かな風の中、彼の隣を歩きながら、胸の奥は緊張でいっぱいで、それでも必死に平静を装っていた。――自分はもう、大人なのだと。あの頃の二人はあまりにも違っていた。願乃はまだ何も知らない少女だった。夢の中では、結代も、清席も、すでに大人になっていた。そこにはもう涼香も、鈴音もいない。ただ、彼と自分だけ。時は静かに流れ、やがて二人は老い、初雪のように白い髪を重ねる。――金婚の年齢にまで、たどり着いていた。そして、夢から目を覚ましたとき。足元にじわりとした感触が広がっていた。破水。清席が予定より早くこの世に生まれようとしていた。……その夜、願乃は病院へと運ばれた。四月初旬の、静かな夜。四時間にわたる懸命な出産の末――清席はこの世界に生まれた。小さな、愛らしい命。清席がそっと願乃のもとへ運ばれてくる。その瞬間、彼女の頬を熱い涙が伝った。胸に抱き寄せると、じんわりとした温もりが伝わってくる。その温かさが心の奥に残
幸い、ピックアップトラックは頑丈だった。ドンッ。激しい衝撃音が響いたものの、車体は横転せずに済んだ。そのすぐそばを、一台のレンジローバーが猛スピードで通り過ぎる。急ブレーキをかけて停車すると、運転席から男が苛立たしげに降りてきた。「ちっ、なんで俺がこんな面倒なこと――」文句を垂れながらも車を降りたのは愛する妻に命じられたからだ。でなければ、こんな事故現場に首を突っ込むつもりなど毛頭なかった。翔雅は善人ではないし、ましてやお人よしでもない。下手をすれば、事故を装って金を巻き上げられる可能性だってある。だが、ピックアップの運転席を覗き込んだ瞬間、彼は言葉を失った。「……は?」そこにいたのは彰人だった。……彰人が目を覚ましたとき、そこは病院だった。まぶたを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはぎっしりと人の詰まった病室。京介と舞の夫婦、澪安、そして翔雅夫婦――見知った顔ばかりが揃っていた。誰もが口を閉ざし、ただ見つめ合うばかりで、重たい沈黙が流れる。やがて、その空気を破ったのは翔雅だった。皮肉とも、苛立ちとも、あるいはどうしようもない苦さともつかない声音で、吐き捨てるように言う。「彰人、お前さ……自分が悲劇の主人公にでもなったつもりか?そんなやり方で、願乃が幸せに一生過ごせると思ってんのかよ。で、お前はどうする?ああ、立派だな。誰にも何も言わずに死んで、薄情な男の汚名だけ背負ってさ。まあ……元々そういうとこあるけどな」そこで言葉が途切れた。それ以上は続けられなかった。どうすればいい。こんな状態になってまで強がって、まだ恋愛なんてしているつもりなのか。彰人は何も答えず、ただ静かに横たわっている。痛みのせいで、すでに体は限界だった。周防家の面々もまた、沈黙していた。あまりにも難しい。――舞が真実を知ったときと同じだ。どちらを選んでも誰かが傷つく。そのときだった。ドアが開き、雅南が検査結果の紙を手に入ってくる。その後ろには涼香が続いていた。彼女の目は赤く腫れている。その様子を見ただけで、彰人はすべてを察した。――良くないな。彼は静かに口を開く。「二人とも、少し外してくれるか。話がある」涼香は唇を噛んだ。「でも……」彼女は彰人に好意を抱
明らかに、彰人はまだ目を覚ましていなかった。痛みに意識が揺らぎ、書斎に漂う静かな空気の中で、彼は再びあの夢の中へと引き込まれていく。書き換えられた結末――願乃と金婚を迎え、雪の降る周防本邸の庭を並んで歩く夢。彼女の髪には、淡くやわらかな雪が降り積もっていた。現実では身体は激しく痛んでいる。夢だけはあまりにも穏やかで、美しかった。彰人は願乃を強く抱きしめ、かすれた声で夢の中の言葉をこぼす。だが願乃には、その言葉ははっきりとは聞き取れないし、聞こうとも思わなかった。彼女は軽く彼の腕を押し、彼がぼんやりと目覚めるのを待ってから、小さく囁いた。「彰人、手……離して」男の瞳はまだ焦点が定まらず、ゆっくりと現実へ戻ってくる。本来なら、すぐにでも手を離すべきだった。けれど――離したくなかった。彼は静かに願乃を見つめ、その手をそっと彼女の大きく膨らんだ腹へと添える。低くかすれた声で、問いかけた。「願乃、今、何時だ?」こんな時だけだ。意識がはっきりしていないふりをして、こうして名前を呼べるのは。――自分の感情を取り乱さずに済むから。案の定、願乃は彼がまだ完全に目覚めていないと思っている。彰人はそっと、胎内の命の気配を感じ取る。清席――彼の、まだこの世に生まれていない清席。生まれるその時、自分はまだ生きているのだろうか。もし生きていたとしても、どれだけの時間を共に過ごせるのか。何度、この子の顔を見られるのか。――これはもしかすると最後になるかもしれない。掌の下で、胎児がゆっくりと動いた。七ヶ月。すでに命の気配があり、心音も刻まれている。もしかしたら――これが父親だと感じているのかもしれない。いつの間にか夕方になっていた。雪はとっくに止んでいる。床まで届く大きな窓から、柔らかな夕陽が差し込み、書斎の中を淡い橙色に染め上げる。そこに、かすかな温もりが宿っていた。どれほどの時間が過ぎたのか。願乃が静かに口を開く。「もう離して、彰人。起きてるの、分かってる」彰人はゆっくりと目を上げ、彼女と視線を交わす。そこに宿るのは言葉にできない深いもの。彼は手を離した。――もう、自分は別の女性と付き合っている男だ。未練を見せるわけにはいかない。言えるのはただひとつ。……
願乃はソファに座り、本を読んでいた。結代はその横に寄り添い、顔を近づけて一緒に覗き込む。ときどき、ふくらんだお腹にそっと触れては嬉しそうに頬をほころばせた。満ち足りた心を持つ子だ。両親が離れても、卑屈になることも寂しさに沈むこともない。そこへ、彰人が入ってきた。足音に気づき、願乃が顔を上げる。彰人はゆっくりと手を拭きながら、静かに言った。「山の方から取り寄せた年の食材を、少し持ってきた。山で獲れたジビエが手に入ってな。今、下処理させてる。あとで結代に食べさせてやろうと思って……年の瀬だし、一緒に食事でもどうかと思って。午後四時には帰る」淡々とした口調。だがその奥には遠慮とどこかすがるような気配があった。離婚しただけではない。別れただけでもない。彼にはすでに別の女性がいる。――どこを取っても、気持ちよく再会できる関係ではない。願乃が断ることも、関わりを一切断つことも当然の選択だった。言い終えた彰人はわずかに緊張していた。拒まれることを恐れていた。願乃は膝に小さなブランケットをかけ、本をその上に置いたまま、彼を見る。それから、結代の期待に満ちた目を見て――ふっと微笑んだ。「この前、お料理を習いたいって言ってたでしょう?ちょうどいいわ。あとでパパが作るのを横で見て覚えなさい。教えるなら、あの人の方が上手だから」結代は大喜びだった。ぱっと駆け寄り、彰人の腕に抱きつく。「パパ!この前のテスト、学年一位だったの!賞状もいっぱいもらった!」彰人の表情が誇らしさと優しさで満ちる。「それは……ご褒美をあげないとな」レザージャケットのポケットを探り、取り出したのは小さなミルクキャンディ。結代は嬉しそうに受け取り、すぐに口へ入れる。そしてそのまま彰人の手を引き、台所へ向かった。「パパ、山鶏とキノコの炒め物が食べたい!」「分かった」そう答えながらも、彰人の視線はなおも願乃の顔に留まっていた。離しがたく。数秒後、ようやく結代に引かれていく。こんな時間は彼にとってあまりにも貴重だった。あと何度、こうしていられるのか分からない。残された時間も。脳に潜む爆弾がいつ発火するのかも。何一つ、確かなものはない。だからこそ、願乃と娘には穏やかで幸せな日
慕美はふと我に返り、そっと澪安の腕に身を預けた。胸の奥には言いようのない痛みがあった。あと二か月もすれば、叔母はもういない。この世に血のつながりは誰も残らなくなる。取引で結ばれた澪安――それでも今の自分にとって最も近しい存在だ。だが長くは続かない。それは分かっていた。自分と彼とは、まるで天と地ほどの隔たりがある。それでも、この短い時間が、長い人生の中でたった一度の温もりとして刻まれればいい。澪安は彼女を抱き寄せたまま智朗に電話を入れ、五つ星ホテルに料理を手配させた。三十分以内に届けるようにと念を押す。電話を切ると、澪安は改めて慕美の身体に視線を滑らせた。昨夜、腕
清都。翔雅はホテルの一室で、チャリティー晩餐会の生中継をスマホで眺めていた。ソファには、痩せ細った小さな少女がちょこんと座っている。——萌音だった。彼女はこの男を覚えていた。かつて母に連れられて会ったことのある人。大きな邸宅に住み、とても高価なピアノを持っていた、あの「叔父さん」だ。売られた自分を、まさかこの人が助けてくれるとは思わなかった。半年のあいだに気の小ささはさらに募り、怯えがちに暮らしていた。今夜は安奈が飛んできて付き添い、香りのよい湯に浸からせ、新しい服を着せてくれた。もうすぐ、叔父と叔母が迎えに来てくれる。一度は共に暮らした家族。だが、その後、萌音
金持ちの男にありがちなことだ。三十そこそこの澪安が、未だ無垢な身であるはずがない。とうに多くの女性を渡り歩き、数々の浮名を流してきた。その噂は慕美の耳にも届いていた。だからこそ、彼女は彼に近づこうとは思わなかった。——一度関われば、二度と抜け出せなくなるから。慕美は背を向け、一人で薄雪の歩道を進んだ。病院を出てバス停まで歩き、十分ほど凍えるように待ち続け、ようやくやって来たバスに乗り込む。頬も鼻先も真っ赤に染まっていた。バスが発車する頃、病院の敷地から一台の黒いロールス・ロイス・ファントムが滑り出た。運転席にいるのは澪安だった。彼は前だけを見据え、すれ違うバスの存在にも
燦めくシャンデリアの下で、二人は無言のまま視線を交わしていた。やがて、澪安が低く囁く。「携帯を出して」慕美は意味がわからず、機械仕掛けのようにスマートフォンを差し出す。澪安はそれを受け取り、長い指で数回スワイプし、西園寺の番号を見つけ出した。画面にはふざけた備考――「西園寺ブタ」とあった。彼は思わず慕美を一瞥し、そのまま番号を削除する。携帯を返しながら、淡々と告げた。「今後、連絡はするな」――その瞬間、慕美は悟った。自分はもう澪安のものなのだと。頬を打たれるような痛みが走る。積み上げてきた信頼も、夢見た小さな家庭も、その一言で容易く崩れ去った。自分と澪安とでは、







