LOGINあの日を境に彰人は姿を消した。年末年始になっても、彼が訪れることはなかった。年が明け、春を迎えるころには願乃の腹はさらに大きくなっていた。それでも、彰人は戻ってこない。ただ、時折結代にメッセージを送ってくるだけだった。――海外出張中だ、と。大きなプロジェクトを自ら開拓している、と。そんな言葉ばかりだった。人づてにいろいろな噂も耳に入る。――あの新しい恋人、涼香を連れて行ったらしい。――海外で二人を見かけたという人もいる。――腕を組んで、仲睦まじく買い物をしていた、と。その話を聞くたびに、願乃はただ淡く微笑むだけだった。気にしているのは結代のことだけだ。「パパに会いたい?」そう尋ねると、結代はうなずいた。「会いたい。でもね、パパは忘れないよ」そう言って、小さく笑う。「きっと、清席に会いに戻ってくる」その言葉がどこか救いのように響いた。やがて、願乃の腹は九ヶ月を迎えた。それでも、彰人は戻らなかった。まるで、この世界から消えてしまったかのように。……その夜、願乃は夢を見た。雪が降っていた。周防本邸の庭が静かに白く染まっていく。そして、彰人と初めて出会った、あの日のこと。あの頃はまだ、春だった。暖かな風の中、彼の隣を歩きながら、胸の奥は緊張でいっぱいで、それでも必死に平静を装っていた。――自分はもう、大人なのだと。あの頃の二人はあまりにも違っていた。願乃はまだ何も知らない少女だった。夢の中では、結代も、清席も、すでに大人になっていた。そこにはもう涼香も、鈴音もいない。ただ、彼と自分だけ。時は静かに流れ、やがて二人は老い、初雪のように白い髪を重ねる。――金婚の年齢にまで、たどり着いていた。そして、夢から目を覚ましたとき。足元にじわりとした感触が広がっていた。破水。清席が予定より早くこの世に生まれようとしていた。……その夜、願乃は病院へと運ばれた。四月初旬の、静かな夜。四時間にわたる懸命な出産の末――清席はこの世界に生まれた。小さな、愛らしい命。清席がそっと願乃のもとへ運ばれてくる。その瞬間、彼女の頬を熱い涙が伝った。胸に抱き寄せると、じんわりとした温もりが伝わってくる。その温かさが心の奥に残
幸い、ピックアップトラックは頑丈だった。ドンッ。激しい衝撃音が響いたものの、車体は横転せずに済んだ。そのすぐそばを、一台のレンジローバーが猛スピードで通り過ぎる。急ブレーキをかけて停車すると、運転席から男が苛立たしげに降りてきた。「ちっ、なんで俺がこんな面倒なこと――」文句を垂れながらも車を降りたのは愛する妻に命じられたからだ。でなければ、こんな事故現場に首を突っ込むつもりなど毛頭なかった。翔雅は善人ではないし、ましてやお人よしでもない。下手をすれば、事故を装って金を巻き上げられる可能性だってある。だが、ピックアップの運転席を覗き込んだ瞬間、彼は言葉を失った。「……は?」そこにいたのは彰人だった。……彰人が目を覚ましたとき、そこは病院だった。まぶたを開けた瞬間、視界に飛び込んできたのはぎっしりと人の詰まった病室。京介と舞の夫婦、澪安、そして翔雅夫婦――見知った顔ばかりが揃っていた。誰もが口を閉ざし、ただ見つめ合うばかりで、重たい沈黙が流れる。やがて、その空気を破ったのは翔雅だった。皮肉とも、苛立ちとも、あるいはどうしようもない苦さともつかない声音で、吐き捨てるように言う。「彰人、お前さ……自分が悲劇の主人公にでもなったつもりか?そんなやり方で、願乃が幸せに一生過ごせると思ってんのかよ。で、お前はどうする?ああ、立派だな。誰にも何も言わずに死んで、薄情な男の汚名だけ背負ってさ。まあ……元々そういうとこあるけどな」そこで言葉が途切れた。それ以上は続けられなかった。どうすればいい。こんな状態になってまで強がって、まだ恋愛なんてしているつもりなのか。彰人は何も答えず、ただ静かに横たわっている。痛みのせいで、すでに体は限界だった。周防家の面々もまた、沈黙していた。あまりにも難しい。――舞が真実を知ったときと同じだ。どちらを選んでも誰かが傷つく。そのときだった。ドアが開き、雅南が検査結果の紙を手に入ってくる。その後ろには涼香が続いていた。彼女の目は赤く腫れている。その様子を見ただけで、彰人はすべてを察した。――良くないな。彼は静かに口を開く。「二人とも、少し外してくれるか。話がある」涼香は唇を噛んだ。「でも……」彼女は彰人に好意を抱
明らかに、彰人はまだ目を覚ましていなかった。痛みに意識が揺らぎ、書斎に漂う静かな空気の中で、彼は再びあの夢の中へと引き込まれていく。書き換えられた結末――願乃と金婚を迎え、雪の降る周防本邸の庭を並んで歩く夢。彼女の髪には、淡くやわらかな雪が降り積もっていた。現実では身体は激しく痛んでいる。夢だけはあまりにも穏やかで、美しかった。彰人は願乃を強く抱きしめ、かすれた声で夢の中の言葉をこぼす。だが願乃には、その言葉ははっきりとは聞き取れないし、聞こうとも思わなかった。彼女は軽く彼の腕を押し、彼がぼんやりと目覚めるのを待ってから、小さく囁いた。「彰人、手……離して」男の瞳はまだ焦点が定まらず、ゆっくりと現実へ戻ってくる。本来なら、すぐにでも手を離すべきだった。けれど――離したくなかった。彼は静かに願乃を見つめ、その手をそっと彼女の大きく膨らんだ腹へと添える。低くかすれた声で、問いかけた。「願乃、今、何時だ?」こんな時だけだ。意識がはっきりしていないふりをして、こうして名前を呼べるのは。――自分の感情を取り乱さずに済むから。案の定、願乃は彼がまだ完全に目覚めていないと思っている。彰人はそっと、胎内の命の気配を感じ取る。清席――彼の、まだこの世に生まれていない清席。生まれるその時、自分はまだ生きているのだろうか。もし生きていたとしても、どれだけの時間を共に過ごせるのか。何度、この子の顔を見られるのか。――これはもしかすると最後になるかもしれない。掌の下で、胎児がゆっくりと動いた。七ヶ月。すでに命の気配があり、心音も刻まれている。もしかしたら――これが父親だと感じているのかもしれない。いつの間にか夕方になっていた。雪はとっくに止んでいる。床まで届く大きな窓から、柔らかな夕陽が差し込み、書斎の中を淡い橙色に染め上げる。そこに、かすかな温もりが宿っていた。どれほどの時間が過ぎたのか。願乃が静かに口を開く。「もう離して、彰人。起きてるの、分かってる」彰人はゆっくりと目を上げ、彼女と視線を交わす。そこに宿るのは言葉にできない深いもの。彼は手を離した。――もう、自分は別の女性と付き合っている男だ。未練を見せるわけにはいかない。言えるのはただひとつ。……
願乃はソファに座り、本を読んでいた。結代はその横に寄り添い、顔を近づけて一緒に覗き込む。ときどき、ふくらんだお腹にそっと触れては嬉しそうに頬をほころばせた。満ち足りた心を持つ子だ。両親が離れても、卑屈になることも寂しさに沈むこともない。そこへ、彰人が入ってきた。足音に気づき、願乃が顔を上げる。彰人はゆっくりと手を拭きながら、静かに言った。「山の方から取り寄せた年の食材を、少し持ってきた。山で獲れたジビエが手に入ってな。今、下処理させてる。あとで結代に食べさせてやろうと思って……年の瀬だし、一緒に食事でもどうかと思って。午後四時には帰る」淡々とした口調。だがその奥には遠慮とどこかすがるような気配があった。離婚しただけではない。別れただけでもない。彼にはすでに別の女性がいる。――どこを取っても、気持ちよく再会できる関係ではない。願乃が断ることも、関わりを一切断つことも当然の選択だった。言い終えた彰人はわずかに緊張していた。拒まれることを恐れていた。願乃は膝に小さなブランケットをかけ、本をその上に置いたまま、彼を見る。それから、結代の期待に満ちた目を見て――ふっと微笑んだ。「この前、お料理を習いたいって言ってたでしょう?ちょうどいいわ。あとでパパが作るのを横で見て覚えなさい。教えるなら、あの人の方が上手だから」結代は大喜びだった。ぱっと駆け寄り、彰人の腕に抱きつく。「パパ!この前のテスト、学年一位だったの!賞状もいっぱいもらった!」彰人の表情が誇らしさと優しさで満ちる。「それは……ご褒美をあげないとな」レザージャケットのポケットを探り、取り出したのは小さなミルクキャンディ。結代は嬉しそうに受け取り、すぐに口へ入れる。そしてそのまま彰人の手を引き、台所へ向かった。「パパ、山鶏とキノコの炒め物が食べたい!」「分かった」そう答えながらも、彰人の視線はなおも願乃の顔に留まっていた。離しがたく。数秒後、ようやく結代に引かれていく。こんな時間は彼にとってあまりにも貴重だった。あと何度、こうしていられるのか分からない。残された時間も。脳に潜む爆弾がいつ発火するのかも。何一つ、確かなものはない。だからこそ、願乃と娘には穏やかで幸せな日
願乃はその場で足を止めた。視線を落とし、男の手を見る。しばらく会わないうちに、ずいぶん痩せたように見える。――新しい恋人のせいだろうか。それにしては少し無理をしすぎている気もする。そんな取りとめのない考えが頭をよぎり、願乃はそっとその手を振りほどいた。気まずくはしたくなかった。だから、低い声で淡々と言う。「会いに行きたいなら、結代に直接連絡すればいいわ。もう個人のスマホを持ってるの。あとで連絡先、登録しておくから。毎晩一時間だけ、通話や調べものに使わせてるの」彰人は何か言おうとした。けれど――願乃は軽く微笑んでそれを遮る。夕梨に声をかけ、そのまま立ち去った。少し離れたところまで来て、ようやく歩みを緩める。前を見つめたまま、ぼんやりと。――自分は間違っていた。平気だと思っていた。何も感じないはずだと。でも、知るのと――実際に目にするのとではまったく違う。彰人があの子を見つめる目はあまりにも優しくて。その瞳の中には、彼女しかいなかった。願乃の目にわずかな潤みが浮かぶ。夕梨がそっと近づき、肩を軽く叩いた。言葉はなくても、それだけで十分だった。願乃は無理に笑う。「少し、見て回ろうか」少しは辛い。けれど、生活は続いていく。きちんと別れたのだ。彰人も子どもには十分すぎるほどの保障を残した。十年以上、メディアのために働き続けたのと同じくらいに。そう考えれば、少しだけ心が軽くなる。――感情なんて。誰にだって過去はある。そして、未来もある。きっと、そのうち慣れる。彰人のいない生活にも。彼が誰かの夫になることにも。彼に、別の子どもができることにも。……きっと、慣れていくのだろう。願乃の背中が遠ざかっていく。彰人はその場に立ち尽くしたまま、長い間動けなかった。やがて、涼香がそっと近づいてくる。手にはあの可愛らしいうさぎのヘアピン。「これ、どうしますか?」慎重に尋ねる。彰人はそれを受け取り、しばらく見つめていたが、やがて首を振った。「いらない」涼香は唇を噛み、ためらいながら言う。「きっと、誤解しているんだと思います。説明されたらどうですか?私たちはそういう関係じゃないって。私はただの付き添いだって
待つというのはあまりにも長い。それが望みの薄いものを待つとなれば、なおさらだ。年の瀬が近づく頃。彰人の脳腫瘍はまだ発症していなかったが、肝臓の病はほとんど爆発的に悪化していた。一度入院して治療を受けたものの、退院後は薬でどうにか持たせている状態だった。涼香はほとんど付きっきりで彼の世話をしていた。彼女の部屋は寝室の隣にあり、ほかに二人の看護スタッフも常駐している。彰人と願乃がまったく顔を合わせていないわけではなかった。メディアの業務は舞と京介が引き継いでいたものの、莫高チップとのやり取りなど、いくつかの案件は彰人自身が直接関わっていた。――そのわずかな口実を使って。彰人は願乃と二度だけ会っている。いずれも会社での、事務的な面会だった。舞はそれを知り、呆れながらも、どこか哀れに思っていた。年末が迫るある日。彰人はふと、結代に会いに行きたいと思った。何か、プレゼントも買ってやりたかった。だが彼の体調は日に日に悪くなっている。脳の状態もあり、ひとりで外出することは許されていない。そのため外に出るときは、必ず涼香が付き添った。その日も二人で出かけた。ちょうど莫高チップから、冬の福利厚生として支給されたダウンコートがあった。倹約家の涼香はそれを二着受け取り、交互に着ていた。一方の彰人は病気になってからというもの、願乃と会う予定でもなければ身なりに気を使わなくなっていた。会社の作業用ダウンは黒一色で、着慣れていることもあり、そのまま外に出ても違和感がない。――並んで歩けば、まるで恋人同士のようだった。ショッピングモールに着くと、彰人は本心ではない様子で品物を選びながら、涼香に意見を求めた。長く一緒にいるうちに、彼はすでに彼女を妹のように感じていた。もともと彼女はずっと年下だ。もし時代が違えば、父親と呼ばれていてもおかしくないほどに。涼香は嬉しかった。彼に想いを寄せている彼女にとって、結代のこともまた、大切な存在だったからだ。だからこそ、心から選んでいた。彼女はふわふわのうさぎがついたヘアピンを手に取り、試しにつけてみる。鏡の前で何度も角度を変えながら、楽しそうに笑っている。その様子を彰人は静かに見つめていた。――まるで、若い頃の願乃を見てい
輝はふと顔を上げ、瑠璃を見た。胸の奥で、少年のように鼓動が早まる。期待と喜びが入り混じる。否定することなく、財布を取り出し微笑んだ。「じゃあ、二人分。飲み物は温かい水にしてくれ」店員が素早く入力する。「合計で六千二百六十円です」会計を済ませ、五分ほどでチキンセットが出来上がった。輝はトレーを手に席へ向かう。窓際に座る瑠璃の横顔、白い首筋に黒髪がかかり、その美しさに思わず目を奪われた。彼は視線を深め、そっと席に着くと、丁寧に二つのセットを並べた。「一人分ずつだ」茉莉の前を整え、瑠璃の方へも向き直る。「いい匂いだな。少しは食べてみないか」声には滅多に
レストランの中で、輝はひとり長く座り続けていた。細雨はなおも降り止まず、暮色があたりを覆っても止む気配はない。三月の雨は大地を潤すのに、彼の心までは浸せなかった。掌にはあの珊瑚の数珠が残され、彼はそれを弄び続けていた。——瑠璃幻想。瑠璃という、彼の夢。なぜ自分はあれほどまでに瑠璃を追い詰めるのか。小さな茉莉を思ってのことだけではない。別の理由があることを、彼自身うすうす気づいていた。認めたくはなかった——自分が嫉妬しているのだと。瑠璃は岸本に嫁ぎ、その男との間に子を成した。輝の目が熱を帯びる。やがて暮色の中で立ち上がり、ガラス扉を押し開け、雨の幕の向こうにその長身を
瑠璃は一瞬、言葉を失った。——輝はもう知ってしまった。「どうして黙っていた?どうして……妊娠を教えてくれなかった?もし言ってくれたら……」掠れた声で問う輝に、瑠璃は笑った。泣くよりも痛ましい笑みで。「私に……あなたに縋って結婚を迫れっていうの?でも、あなたは英国で別の女に婚約を約束した。一本の電話すらなく、あっさり他人を妻に選んだ。私に選択肢なんてあった?——あの日、新しい女を控室に住まわせて、大々的に婚約を発表したのは誰?もし本気なら、どうして一言の知らせもくれなかったの?子どもは産むわ。でも姓は岸本。出生証明書には、父母の欄に——岸本雅彦、赤坂瑠璃と書かれる。周
瑠璃の唇は震え、何度も言葉を紡ごうとするが、一音も出てこない。岸本がそっと支え、医師に頭を下げる。「子どもは助かったんだ。安心して」優しく声を掛けられ、瑠璃は涙をぽろぽろと零した。わずか数時間の出来事が、一生分の涙を流したかのようだった。その場にいた周防家の者たちも、ようやく大きく息をついた。茉莉はVIP病室へ運ばれた。岸本はあえてその場を離れた——瑠璃と輝、親として避けられない話があると分かっていたからだ。廊下を歩きながら、岸本の胸にはひどく冷たい風が吹き込む。自分の体は今はまだ持ちこたえている。だが、もし自分が先にいなくなったら……残される子どもたちは、