LOGIN古河家から正式な挨拶が済んで以降――陽白はほとんど芽衣のマンションに住み着くようになった。最初は着替えだけ。次は洗面道具。気づけば仕事用のデスクまで運び込まれていた。国内投資だけでなく、彼は依然として海外金融市場でも動いている。そのため深夜に仕事を始めることも多い。もっとも、その時は必ず外の書斎を使った。物音ひとつ立てず、芽衣の眠りを邪魔しない。普段は冷静そのもの。多少の利益や損失程度では、まるで表情も変わらない。けれど――海外の大物投資家たちを相手に大勝ちし、一晩で数億ドル単位の利益を叩き出した時だけは別だった。そういう夜に限って、陽白は寝室へ戻ってくる。そして芽衣を捕まえ、そのまま滅茶苦茶に甘やかす。芽衣としてはかなり言いたいことがあった。だが翌朝になると、なぜか自分の口座に数千万ドル規模の送金が入っている。……まあ、悪くない。そう思ってしまう自分もいる。ただし、腰は本当に辛かった。それでも。二人の生活は案外穏やかだった。相性もいい。芽衣は元々、恋人に依存するタイプではない。ちゃんと自分の仕事も、自分の世界も持っている。……深まる秋のある夜。陽白は昔の仲間たちとの集まりに参加していた。金融業界や投資銀行の幹部たちが中心で、そこに帰国した元留学生組も混ざっている。帰国祝いを兼ねた会だった。陽白は芽衣も誘った。だがその日は仕事が立て込んでいたため、彼女は断った。代わりに、「お酒くらいなら飲んでいいよ。仕事終わったら迎えに行くから」と伝えていた。電話を切った陽白が個室へ戻ると、中はかなり盛り上がっていた。あちこちで酒が回っている。その中心にいたのは一人の女性だった。沢渡萌香(さわたり・もえか)。陽白と同じ時期に海外へ渡った女だ。向こうでの成功は陽白ほどではなかったが、それでも十分華やかなキャリアを築いている。そして今年、戻ってきたばかりだった。かなり酒を飲まされているらしい。洋酒を半分ほど空けただけで、頬が艶っぽく赤く染まっていた。彼女は頬を押さえ、小さく文句を言う。「ねぇ、Alan。少しくらい庇ってくれてもよかったじゃない」陽白は軽く笑う。「お前なら平気だと思ってた」すると萌香はそのま
陽白は動きを止めた。その黒い瞳で、じっと芽衣を見つめる。嬉しかった。胸が満たされるほど嬉しいのに、同時に後ろめたさもある。そして、抑えきれない熱も。本当はもっと穏やかに愛したかった。恋人同士らしく、静かに想いを重ねて。月明かりの下で語り合うような、そんな時間を。けれど――身体が許してくれない。彼女を前にすると、どうしても欲しくなってしまう。ようやく触れ合えた。唇を重ね、肌を重ねれば、そこから先はもう止まらない。芽衣は息を乱しながら、陽白の肩を叩く。「ここ、あなたの家なのに。少しは大人しくしてよ……」陽白はなおも彼女を見つめる。それから軽く口づけを落とした。「無理だ」低く掠れた声。「ここ何日も我慢してたんだぞ?大人しくしろって言われても、身体が言うこと聞かない」その一言で、芽衣の抵抗する気力は完全に消えた。この階には二人しかいない。両親も、陽白が帰ってきたことを知っていて、わざわざ上がってくることはない。使用人たちも空気を読む。それでも芽衣の立場を気遣って、陽白は深追いしなかった。結局、軽く二度だけ。そのあと。芽衣は完全にベッドへ沈んでいた。浴室から戻ってきた陽白は長距離移動の疲れもあるはずなのに、妙に目が冴えている。満たされた男の顔だった。彼はベッドの芽衣を見下ろし――「……可愛い」ぽつりと呟く。ぐったりして、まるで小さな魚みたいだった。頭の中だけで思っていればいいのに、口に出すからたちが悪い。芽衣は真っ赤になって、思いきり彼を抓った。陽白は笑いながら隣へ腰掛ける。汗で湿った黒髪を優しく撫でながら、低い声で囁いた。「少し休んだら下で朝飯食おう。庭も案内したいし、昼は祖父の家に行く。午後は二人で出かけようと思ってる。母さんにも言ってある。この二日間、大半の時間は俺が芽衣を独占するって」そこで少し笑う。「……もっとも、明後日にはまた戻らないといけないけどな。まだ向こうの仕事が片付いてない」今回は完全な強行スケジュールだった。もちろん、こんなことをするためだけに戻ってきたわけじゃない。芽衣が自分の家にいる。それだけで、どうしても帰ってきたかった。母親と親しいとはいえ、芽衣が自分の家にいる時くらい
同じ頃。陽白は専用機に乗り込み、H市へ向かっていた。飛行機が到着し、空港から邸宅へ戻った頃には、すでに深夜二時を回っていた。黒い高級ワゴンが静かに庭へ滑り込む。車を降りた陽白は声を落としていた。話しかけてきたのは夜番の使用人だけだ。「旦那様たちをお起こししますか?」陽白は荷物を手にしたまま首を振る。「いや、いい」使用人は何か言いたげに口を開きかけ――最後には、くすっと笑った。陽白もつられて笑う。「……可愛いだろ?」その言い方がどこか自慢げで、使用人は思わず吹き出した。「それはもう。女優さんより綺麗なくらいですよ」陽白は玄関で靴を履き替えながら、柔らかく笑った。「芽衣の家系は、みんな顔が整ってるんだ。双子の兄がいるけど、そっちも相当だぞ。葉山章真っていう」使用人は驚いたように目を丸くする。「男の子までそんなに綺麗なんですか?それじゃあ、学生時代は女の子たちが放っておかなかったでしょうねぇ」陽白は肩を竦めた。芽衣と章真は双子だ。けれど性格はかなり違う。章真はどちらかと言えば翔雅に似ていた。商売では容赦がなく、恋愛にも派手なところがある。特別女好きというわけではないが、恋人は多かった。海外時代の自分といい勝負だ。それに比べると、芽衣は驚くほど古風だった。陽白はそんなことを思いながら荷物を持ち、三階へ上がる。東側の主寝室。ドアを開けた瞬間、月明かりが室内へ静かに流れ込んだ。灯りをつける気にはなれなかった。ただ、そのまま静かに中を見つめる。ベッドの奥では、芽衣が眠っている。昔から、頭まで布団を被って寝る癖がある。黒髪だけが少し覗き、掛け布団の中には細い人影が浮かんでいた。空気にはシャンプーの甘い香りが漂っている。心地よくて、懐かしい匂いだった。陽白は黙ったまま、その光景を見つめ続ける。――昔、夢見ていた未来と重なった。あの頃。芽衣と結婚する未来を考えなかったわけではない。けれど、最後には自分で手放した。合理性を選び、彼女を切り捨てた。もう忘れたと思っていたのに。この瞬間、当時の感情が鮮明によみがえる。なぜ帰国したのか。なぜ立都市で起業したのか。きっかけは卓史の何気ない一言だった。【お前、芽衣
芽衣はずっと微笑んでいた。車が静かに走り出す。陽白の母は芽衣の隣に座り、陽白の父は前の席へ追いやられていた。運転手は陽白が手配した専属ドライバーだった。陽白が成功してからというもの、両親はH市でも指折りの高級住宅街に暮らし、何不自由ない生活を送っている。けれど陽白の母は昔から親戚や知人への面倒見がよく、困っている人を放っておけない性格だった。そのせいか人望も厚い。今回、芽衣が恵さんと繋がりを持ちたいと話した時も、古河家の義姉が一声かけただけで、あっという間に段取りが整ってしまった。陽白の母は終始ご機嫌だった。頭の中では、もう孫の名前まで考えている。男の子でも女の子でもいい。できれば双子が理想。……とはいえ、そこは若い二人の自由だ。しばらく好きに過ごして、落ち着いた頃に一人でも産んでくれたら、自分と夫で面倒を見たい。もっとも――そんな話を今したら、芽衣に逃げられてしまうかもしれない。だから胸の奥にしまっておく。車内は終始、祝い事の前みたいな空気に包まれていた。陽白の母には、この車がまるで結婚式の送迎車のように思えてならなかった。そのまま車は立都市へ向かう。三十分後。黒い高級ワゴンは約二千平米ほどの広大な邸宅へ静かに入っていった。門を抜け、庭園の灯りが次々と灯る。その光景を見た瞬間――芽衣の胸はわずかに揺らいだ。陽白の母の表情には、誇らしさと幸福が滲んでいる。その顔を見ていると、芽衣はふと思ってしまう。――あの頃、陽白が自分と別れ、海外へ渡った選択は間違っていなかったのかもしれない、と。もちろん、もし自分と結婚していたとしても、陽白なら周防家や一ノ瀬家の事業の中で頭角を現し、両親に同じような暮らしをさせていただろう。けれど、それでも違う。誰もが彼を見て、『周防家の婿』や『葉山芽衣の夫』と呼んだはずだ。陽白自身の才能や努力をここまで真正面から認めてもらえたかは分からない。複雑な気持ちのまま考え込んでいるうちに、車は静かに停まった。陽白の両親は完全に芽衣を未来の嫁として扱っていた。もちろん最低限の礼儀はある。だが、芽衣と陽白は大学時代から付き合っていたし、陽白の母とも以前から親しくしていた。そのため、必要以上によそよそしくはない。家に入
芽衣が了承した瞬間。陽白の母は目に見えて機嫌が良くなった。やがて披露宴が始まる。芽衣は目立ちすぎて新郎新婦の邪魔になるのを避け、終始おとなしく陽白の母の隣に座っていた。ただ、その合間を縫って、芽衣はそっと陽白の父へ恵さんの件を相談する。陽白の父は真面目で堅い性格だ。けれど心の中では理解していた。――芽衣はたぶん息子にとって唯一結婚まで行ける女なのだと。彼はちらりと兄夫婦のほうを見やり、それから芽衣へ言った。「安心しなさい。この件、ちゃんと話を通しておく。後日、おばさんと一緒に食事の席を作ろう。その時に、ゆっくり話せばいい」今回の結婚祝い。彼は三千万円近いご祝儀を包んでいる。そのくらいの顔は立ててもらわなければ困る。芽衣はそっと菊地へ向かって小さくOKサインを送った。ようやく肩の力が抜ける。同時に、心のどこかで思ってしまう。――陽白って、本当に運を持ってるのかも。……どれだけ大人しくしていても、会場ではやはり目立ってしまう。なにしろ新婦は星耀所属女優の大ファンなのだ。これで目立つなというほうが無理だった。新郎新婦が各卓を回って挨拶に来た時。恵さんも新郎側親族として一緒に来ていた。彼女は芽衣を見るなり、少し驚いたような、困ったような顔をする。その瞬間。芽衣は絶妙なタイミングで口を開いた。「叔母さま、今日はおめでとうございます」その柔軟さ。空気を読む力。陽白の母は完全にご満悦だった。――やっぱり商売できる子は違う。親戚付き合いも上手い。陽白の母は自ら芽衣を連れ、恵さんの席へ挨拶に向かう。恵さんは慌てて立ち上がった。芽衣を見つめ、笑みを浮かべる。「なんだ、陽白くんの彼女だったのね。最初から知ってたら、もっと早く会ってたのに。いいわ。日を改めてお茶でもしましょう。ゆっくり世間話しながらね」陽白の母は満面の笑み。「芽衣ちゃん、ほら。叔母さまにちゃんとお礼言って」芽衣は素直に頷く。きちんと頭を下げた。恵さんは少し感慨深そうだった。彼女は芽衣を知っている。立都市の周防家も知っている。財界でも別格の名家だ。商談の席で見せる芽衣はもっと鋭く隙がない。なのに今の彼女はまるで普通の女子大生みた
その時、陽白の母は結婚式へ出席していた。会場はH市でも名の知れた高級ホテル。芽衣は外回りから戻り、ホテルのロビーへ入った瞬間――不意に、陽白の母と鉢合わせた。陽白の母は宴席が始まるまでの間、親族たちとロビーで談笑していたところだった。ふと視線を上げたその瞬間、芽衣の姿を見つける。「芽衣ちゃん!」驚きと喜びが混じった声。芽衣は振り返った瞬間、完全に固まった。――陽白のお母さん。前回は半分付き合っているふりのような形だった。それでも芽衣は彼女のことが本当に好きだった。優しいし、料理は美味しいし、一緒にいると不思議と安心する。だから芽衣は慌てて歩み寄り、素直に頭を下げた。「こんにちはおばさま」菊地も横で挨拶する。「ご無沙汰しております、古河様」その場にいた親族たちはぽかんとしていた。――誰、この綺麗なお嬢さん。しかも秘書まで連れてる。陽白の母はすっかり得意顔になる。にこにこしながら紹介した。「前に話したでしょう?うちの陽白の彼女なの。大学の頃から付き合ってるのよ。この前、私が立都市へ行った時も、芽衣ちゃんがずっと買い物付き合ってくれてねぇ。本当に優しくていい子なの。しかも仕事もすごいのよ。星耀エンターテインメントって知ってる?芸能事務所の。今の人気女優さんたち、何人も芽衣ちゃんが育てたのよ。すごいでしょう?」親族たちは一斉に感嘆の声を上げる。「えぇ~!こんな若いのに?今の若い子って本当にすごいわねぇ。陽白くんとお似合いだこと」……芽衣は少し照れながら微笑んだ。「家業みたいなものです。私は継いだだけなので……」その一言に、親族たちが一斉に陽白の母を見る。「名家のお嬢様なのねぇ」陽白の母はもう嬉しくてたまらない。「芽衣ちゃん、出張で来てるの?ちょうど陽白の従兄が結婚式なの。せっかくだし一緒にお祝いしていきなさいよ。菊地ちゃんも一緒に。おめでたい席なんだから、幸せのお裾分けもらわなきゃ」本来なら、芽衣と菊地はホテルで企画の打ち合わせをする予定だった。けれど、ここまで歓迎されると断りづらい。芽衣は菊地と顔を見合わせ、そのまま一緒に披露宴会場へ向かった。そしてさらに驚いたのは――陽白の母が当然のように彼女
人は衝動に駆られると、つい理性を失いがちだ。晩餐会のオークションには十二点の出品物が並び、そのどれもが貴重な品だった。翔雅は澄佳を食い入るように見つめていた。彼女が一瞥でもくれれば、ためらうことなく札を上げ、その品を落として贈るつもりだった。結果、競りの半分以上は翔雅の独壇場となり、数十億円を投じて八つの逸品をさらっていった。「さすが一ノ瀬社長、実力が違う」ざわめきの中、人々は感嘆の声をもらした。やがて壇上に呼ばれたのは翔雅。司会を務めるのは篠宮だった。笑顔を浮かべながらも、内心では「まったく、愚か者め」と毒づきつつ、彼女は落札品を手渡し、形式的な言葉を添える。
智也は芽衣と章真を連れていた。そばには、もう一人、小さな女の子が寄り添っている。智也の娘、瑶である。公園の一角では、飴細工師が小さな人だかりの前で巧みに飴を形作っていた。智也は三人の子どもを連れて列に並び、腕には芽衣を抱き、章真と瑶はぴたりと身体を寄せていた。その光景だけでも、彼がベルリンで長い間、子どもたちと過ごしてきたことがわかる。本来なら彼の子どもであるのに、世話をしてきたのは智也だった。澄佳は元妻だ。重い病に冒されていることを智也は知っていた。しかし翔雅は何も知らず、悠ですら承知していたのかもしれないのに、彼にだけは一言も告げられなかった。最後に知らされたのが翔雅だった
楓人は別れたくはなかった。しかし大人である以上、自分が生まれ育った家庭と完全に縁を切ることはできないと理解していた。もし澄佳の我慢を代償にするくらいなら、最初からそうするべきではない、と。夜の雨は、音もなく黒い傘を叩いている。布を裂くような細やかな響きは、二人の最後の夜を静かに刻んでいた。そこにあったのは、穏やかさと温もり、そして理解。若いころのような衝動や激情はもう薄れ、代わりに積み重ねてきたものの重みを感じていた。抱き合った後、二人は並んで歩き、最後の道のりを共にした。およそ三十分、周防邸の門前に辿り着く頃には雨脚も弱まっていた。楓人は傘を澄佳に手渡し、上か
六月の末、翔雅のもとに一通の封書が届いた。差出人は瑞光幼稚園。かつて芽衣と章真が通うはずだった園である。二人は合格していたのに、結局入園せず、学校から確認の書簡が送られてきたのだ。封筒を見つめる翔雅の視線は宙に彷徨った。——澄佳が子どもたちを入園させる準備をしていた。その住所には、自分の名が記されている。翔雅は書面を凝視し、やがて力が抜けるように椅子の背にもたれた。腕を目にかざしたその姿は、どうしようもなく孤独だった。ちょうどその時、秘書の安奈が資料を抱えて入ってきた。目に映ったのは、珍しく気落ちした社長の姿。「社長、新婚なのに……どうしてそんな顔を?最近は毎日残業ばか







