Masuk智也はうつむきながら、かすかに名を呼んだ。「澄佳」翔雅は二人を見つめ、親密な空気に苛立ちを隠せず、冷ややかに嘲った。「澄佳、おまえに俺を責める資格があるのか?左右どちらにもいい顔をして……前回は佐伯の新しい男、今度は桐生の昔の恋人か?どっちが本命なんだ、それとも両方ともおまえの懐に入れておくつもりか?」激情にまかせて吐いた言葉は、酷く醜かった。澄佳は静かに彼を見返した。醜悪なその姿を。そして、一言も返さず、目を逸らすこともなく、そのまま立ち去った。桐生は気が気でなく、彼女のあとを追った。エレベーターが地下二階に着いたとき、澄佳は足を止め、柱に寄りかかる。仰ぎ見る横顔で、ふっと息を吐くように言った。「智也、私、可笑しく見える?」「いいえ」智也の声は柔らかく、温かかった。彼はかつて自分のものだった少女を見つめる。長い年月を経て、不幸そうな姿を前に、自責の念が胸を締めつける。「澄佳、俺が悪かったんだ。あのとき、もっと強く、勇気を持っていれば……君はこんな苦しみを背負わなくて済んだのに」澄佳の瞳の端が、わずかに濡れる。その目差しは、古い友に向けるような信頼を帯びていた。そして苦く微笑む。「でも……そうしたら、芽衣や章真は生まれなかったわ」彼女は芽衣と章真を心から愛している。だから、仮定でさえも手放したくはなかった。智也は逡巡の末、どうしても聞きたかったことを口にする。「澄佳……余生を、俺に託してくれないか?」その瞬間、空気が凍りついたように静まった。澄佳は涙を湛えた瞳で、かつての恋人を見つめる。甘さも苦さも混じる想い。懐かしい記憶と、現実の痛ましさ。彼女はもう昔の澄佳ではない。病状は思わしくなく、再手術の可能性すらある。それでも、彼女は苦笑を浮かべた。「智也、やめて」彼は男盛りで、事業も順調。子どももいる。健やかな女性と新たな家庭を築けば、きっと幸せになれる。澄佳にとって、愛はただ受け取るだけのものではなかった。与えるものでもある。だが、彼女にはもう智也に与えられるものがない。だから、首を横に振った。それが彼女なりの優しさだった。智也は理解していた。八年を共に過ごした初恋の相手だ、分からぬはずがない。今の二人の感
澄佳は智也と共にいた。もともとは友人との食事会に参加していたのだが、その帰りに願乃への贈り物を選ぼうと立ち寄った店先で、偶然智也と出くわした。智也には、どうしても星耀エンターテインメントとの協力が必要な企画があった。他社では到底担えない規模のものだ。澄佳が耳を傾けると、内容は悪くなかった。星耀側は人脈を貸すだけでよく、利益の五パーセントを譲渡するという。その条件なら、澄佳に断る理由はなかった。彼女は普段あまり会社に顔を出さない。だから智也と歩きながら話を続けた。しかも智也は願乃とも顔見知りであり、贈り物を買うのも自然な流れだった。——まさか、その場で翔雅と真琴に鉢合わせするとは。二人は恋人そのものの姿で、男は豪放に振る舞い、女は情熱的に笑みを浮かべていた。翔雅が真琴の首にダイヤのネックレスを掛け、彼女が人目もはばからずキスをする——絵に描いたような熱愛ぶり。一瞥しただけで、澄佳は思った。——かつての自分の目は、なんと愚かだったのだろう。そして翔雅もまた。翔雅の視線は、澄佳と智也に注がれる。自然に並び歩き、まるで長年の恋人のように見えるその姿に、彼の胸はざらついた。かつてなら拳を振り上げていただろう。だが今は違う。別れたのだ。澄佳にはすでに「新しい男」が幾人もいる。男の矜持が、翔雅にそれ以上の言動を許さなかった。言葉を交わすこともなく、ただ沈黙と怨念が残る。唯一、真琴だけが上機嫌だった。翔雅の腕に絡み、にこやかに澄佳へ言葉を投げかける。「私、無駄遣いが嫌いだから貧しい子どもたちに寄付したいって言ったの。でも翔雅がどうしても買ってくれるって。葉山さん、責めないでね?」澄佳は冷ややかに睨み返した。「私、あなたに話しかけたかしら?」……真琴の表情が一瞬で凍りつく。屈辱で頬が熱を帯びる。翔雅は不快げに眉をひそめた。「澄佳、何もそこまで言わなくてもいいだろう」「何よ、もう庇うの?庇うくらいなら、私に言わないことね。翔雅、あんたの恋人を全員が甘やかすと思ったら大間違いよ」翔雅の顔は険しくなる。「お前……ずいぶんと意地が悪くなったな」「そうよ、私は意地悪。あの時にあんたを徹底的に叩き潰しておけばよかったって、今でも後悔してる」「翔雅……」真琴が不安げに縋る。翔雅は堪え
社長室の扉が静かに開いた。ソファには真琴が腰掛け、カップを手に微笑んでいた。「翔雅、安奈さんが淹れてくれたコーヒー、とても美味しいわ」翔雅は一口匂いを嗅いだだけで、それがインスタントだとすぐに見抜いた。横目で秘書室をうかがうと、ガラス越しに安奈が真剣な顔で資料をまとめているのが見える。翔雅はそれを口に出すことなく、手にした書類を持って中へ入り、革張りの椅子に腰を下ろした。机の上の協議書が視界に入り、一瞬胸がざわつく。しかし真琴の顔はあくまで穏やかで、何事もなかったかのように恬やかな表情を浮かべていた。——その姿に、翔雅の心にはわずかな罪悪感が生まれた。結婚を約束した彼女に、身体は拒み、財産でも冷遇してしまう。それでも真琴は不満を口にせず、受け入れてくれている。だからこそ、男としての後ろめたさから、せめて少しでも良くしてやりたいと思った。愛していようがいまいが、未来の妻としてきちんと扱わねばならない。翔雅は引き出しを開け、書類を鍵付きでしまうと、真琴の穏やかな顔を見て言った。「あとで食事に行こう。それから衣装と宝飾もいくつか選べ。ドキュメンタリーの宣伝期だ、相応の格好は必要だから」真琴は彼の背後から両腕を回し、首に絡めて甘えた。「やっぱり、あなたが一番」翔雅の瞳が一瞬揺れる。——その言葉を、かつて別の女性も囁いた。新婚旅行の頃、スキーで転んだ澄佳の膝をホテルで手当てしたとき。消毒液がしみて痛みに顔を歪めながら、彼の首にしがみつき、小さな声で「あなた」と呼んだ。その一言で、翔雅の目頭は熱くなり、夜通し彼女を求め、澄佳の声が掠れるほどに愛した。思い出は今も胸を締めつける。真琴はそれに気づき、内心で奥歯を噛みながらも、表面上は満開の笑顔を咲かせる。「じゃあ……立都市の名物料理にしましょう。何年もいるのに、きちんと味わったことがないの」我に返った翔雅は小さく頷いた。彼は償うように、最も高価な店を選び、食事の場でも極限まで優しく振る舞った。だが、それがどれほど丁寧でも、真琴にとっては満たされない。——男というものは、金を投じる場所にこそ愛を注ぐ。その真理を、真琴はよく理解していた。彼女はあえて気づかぬふりをし、落ち着いた大人の女を演じた。澄佳を直接攻撃する
翔雅の強い要望により、三城弁護士は正式な書面を作成した。翔雅は署名捺印し、その書類は三部作られた。そのうちの一部が、彼の執務机の上に置かれていた。夕刻。翔雅は製品発表会に出席しており、オフィスには不在だった。ちょうどその頃、真琴が姿を見せ、遠慮もなく社長室へ足を踏み入れた。安奈が茶を用意しに行っている間、真琴は初めて「未来の社長夫人」として訪れた場所を物色する。執務室を一周し、環状のソファに腰を下ろし、その柔らかさを確かめる。やがて安奈がコーヒーを運んでくると、真琴はわざと不満を口にした。「砂糖が一つ多いわ」安奈は微笑を浮かべて答える。「相沢さん、砂糖は一つしか入れておりません」真琴は冷ややかに笑い返した。「では半分にして」内心で軽蔑を抱きながらも、秘書という立場上、安奈は素直に淹れ直しに向かった。——秘書室の給湯スペース。インスタントの粉をカップに入れ、半分に割った角砂糖を落とす安奈の手元を、若い秘書が覗き込む。「未来の社長夫人に、インスタントでいいんですか?せめて挽きたてを」銀のスプーンをくるくると回しながら、安奈は涼やかに言い放つ。「彼女の出自じゃ、ドリップとインスタントの区別なんて気にしない。重要なのは、私をこき使えるかどうかだけ。それにね、社長が心を奪われている相手が誰か、あなたにはわからない?相沢さんなんて、社長の人生においては所詮通りすがりよ」その若い秘書は感嘆の声を漏らした。「さすが安奈さん……」安奈はわずかに笑みを浮かべた。誰に媚び、誰を見限るか——利口な者にはわかっている。……社長室。真琴は甘さを半分に抑えたコーヒーを味わいながら、表面上は優雅に振る舞っていた。豪奢な執務室のソファに深く身を沈めると、まるで本当に一ノ瀬家の嫁に収まったかのような気分になる。安奈はにこやかに言葉を添える。「ごゆっくりどうぞ。社長は六時ごろ会議を終えられます」「わかったわ」真琴は軽く頷いた。安奈が出ていくと、真琴は手にしたカップをゆっくり回した。挽きたてで淹れられたコーヒー——首席秘書の気の利いたサービス。半生を貧しさの中で過ごしてきた彼女も、今ではこうして豊かさを味わえるようになったのだ。環状のソファに身を預け、床から天井まで届く窓の外を眺
平川が一歩前に出て、礼を尽くした口調で真琴に声をかけた。「相沢さんだな。翔雅は今夜、俺と一緒に本邸へ戻る。家族のことで話がある。だからお前とは一緒に行けない」真琴は慌てて頭を下げる。「伯父様、私……」だが平川は手を上げて制した。「話ならまた改めて。翔雅の母親がとても心配している。俺が連れて帰らなければ」思わず真琴は口を突いて出た。「では私も、ご一緒します」平川は淡く笑みを浮かべ、はっきりと拒んだ。「これは一ノ瀬家の問題だ。よそ者は入るな」そのやりとりだけで、平川の態度は明らかだった。真琴は一ノ瀬家の門をくぐることは許されない。顔色を失った真琴は、翔雅を見つめた。せめて自分を選んでほしいと願ったが、翔雅は重苦しい心境の中で彼女を顧みる余裕もなかった。深夜、黒い車に乗り込んだ父子を、真琴は呆然と見送った。車が静かに動き出し、一ノ瀬邸へ向かっていく。その瞬間、真琴の心に冷たい現実が落ちてきた。——たとえ翔雅と結婚しても、一ノ瀬家は決して自分を認めない。彼女は外に住まい、年末年始に翔雅が帰宅しても、その門を跨ぐことは許されないだろう。翔雅の両親が他界したとしても、喪服を着て並ぶ資格すら与えられない。そのうえ、澄佳は翔雅のために双子を産んでいる。では、自分が将来産む子どもはどうなる?耀石グループの株は、我が子に分け与えられるのか。その子に継承権は与えられるのか。夜風が吹き抜け、真琴の全身を凍らせた。……やがて黒塗りの車が一ノ瀬邸に到着する。真っ先に平川が降り、険しい顔で玄関をくぐった。翔雅が車を降り、玄関を抜けて別邸に入ると、両親がリビングにいた。一ノ瀬夫人は冷たい顔でソファに腰を下ろし、息子を射抜くように見据える。その声は氷のように冷ややかで、思わず身がすくむほどだった。「妻子を失うまで騒ぎ立てて……それで満足なの?」翔雅が口を開く前に、一ノ瀬夫人は畳みかける。「あの相沢真琴って女、あなたに何を吹き込んだの?当時あんなに惨めだったときも、そこまで哀れまなかったくせに。今さら?妻子がいながら、なぜ彼女だけを不憫がる?彼女は何も失ってないじゃない。命を張って助けに行ったのは澄佳の方よ。その結果、丸ごと汚されたのはあの子じゃないの」一ノ瀬夫人の声は怒りに震えた。
翔雅の目は血走り、前方の黒いスポーツカーを射抜くように見つめていた。楓人が通りかかったとき、一瞥をくれただけで車を停めることなく走り去る。翔雅の胸には、これまでにないほどの挫折感が押し寄せる。酔いに任せてスマホを取り出し、震える指でメッセージを送った。【澄佳、少しは自制できないのか?】……その頃、澄佳はベッドの背にもたれ、まだ胸の苦しさを引きずっていた。さきほど息苦しさを訴えたとき、楓人が戻ってきて診てくれ、薬を渡して「心配いらない」と確認したあとに去ったばかり。恐らくその姿を外で翔雅に見られたのだろう。送られてきたメッセージを眺めていると、澪安が横から手を伸ばしてスマホを取り上げ、今にも罵り返そうとした。だが澄佳はそれを取り返し、静かに言った。「どうでもいい人よ。相手にする必要はないわ」そして、翔雅のメッセージを削除し、電話番号までも着信拒否にした。二人は完全に決別した。芽衣と章真は自分ひとりで育てるつもりであり、翔雅という存在は彼女の世界から消えてもかまわなかった。澪安は水を注いでベッド脇に差し出し、苦笑する。「まったく、あんなやつに構うだけ無駄だ」澄佳は淡く笑みを浮かべる。「兄さんこそどうなの?最近外に出かけてばかりだって。宴司が言ってたわよ、九条慕美のクラブにしょっちゅう顔を出してるって。好きなら娶ればいいじゃない。九条さんの娘なら、父さんも母さんも反対なんてしないわ。きっとお母さんは彼女をもっと可愛がるはずよ」「ガキが、兄貴のことに口出すな」澪安は横目で睨む。澄佳は声を立てて笑った。「でも私たち双子でしょう?恋愛経験なら、私の方がずっと上だと思うけど」「だから何だ、誇らしいのか?」澄佳はそれ以上言わず、子どものころのように兄の肩に頭を預ける。しばらくして澪安がその頭を撫で、穏やかに囁いた。「もう、あのろくでなしのことは忘れよう」澄佳は小さくうなずいた。……その頃、翔雅は電話をかけようとしたが、既に着信拒否されていることに気づいた。LINEも削除されている。彼はただ俯いたまま、長い時間じっと画面を見つめていた。瞳には赤い光がにじみ出ていた。帰り道の翔雅は、心ここにあらずでハンドルを切り損ね、中央分離帯に車をぶつけてしまった。駆けつけた警官が