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第553話

Author: 風羽
四階で智也たちが降りると、澄佳はすぐに翔雅の腕から逃れようとした。

だが彼は細い腰を強く抱き寄せ、顎を彼女の肩に預けながら、エレベーターの鏡面に映る二人を見て呟く。

「どうした?使ったら捨てるつもりか」

澄佳は冷たく鼻を鳴らした。

「まさか、お礼でも欲しいの?」

翔雅は厚かましく笑みを浮かべる。

「そうだ。欲しい。くれるか?」

「一度、泌尿器科にでも行ったらどう?一日中そんなに元気だと、何か隠してるんじゃないの」

澄佳の皮肉に、翔雅はただ喉の奥で笑った。

本来は食事をしながら契約の話をする予定だった。

だが澄佳の気分は、そんな気になれなかった。

今夜はただ少し酒を口にして、眠りに落ちたい——眠ってしまえば、過去に囚われずに済むから。

翔雅はこれまで何人かの女と付き合ったが、「骨の髄まで残る恋」を知らない。

だからこそ、澄佳の過去を引きずるような彼女の姿勢を、どこか軽蔑していた。

「松宮がいるんじゃなかったのか?どうだ、ベッドでは桐生に敵わないか?」

「くだらない」

澄佳は相手にせず、エレベーターのボタンを押した。

「今夜は酒が飲みたい。投資の話はまた今度」

その手の上に、大きな掌が重なる。

翔雅が見下ろし、低く囁く。

「一人で飲むと危ないぞ。俺が付き合う」

澄佳は顔を上げ、挑むように男を見返す。

その瞳には三分の誘惑、七分の挑発が混じる。

翔雅は身を屈め、唇を触れさせながら甘く囁いた。

「飲みすぎれば……考えが変わるかもな」

澄佳は彼のネクタイを指先で整え、小猫のように嗄れた声で言う。

「まだ諦めないのね、一ノ瀬社長……いいわ、今日はチャンスをあげても」

女は気分が沈み、ほんの少しだけ放縦に身を委ねていた。

酒場で、澄佳は最も強い酒を注文した。翔雅が傍にいるからこそ、できることだった。

烈酒に過去を溶かす、それ以上に似合うものはない。

店内が最高潮に盛り上がる頃、澄佳はジャケットを脱ぎ捨て、黒いキャミソール姿をさらす。

胸元には細い真珠のネックレスが幾筋も垂れ、白い肌と相まって妖艶さを放った。

手を動かすたび、色香が溢れる。

彼女は酒量も気にせず、誰と一緒かも構わず、ただ放縦に酔いたかった。

隣にいるのが翔雅だとわかっていながらも。

……酔えば、ようやく一歩を踏み出す勇気が出るかもしれない。

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