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第564話

Author: 風羽
「泣いてなんかない……ただ、あなたが痛くしたのよ」

澄佳の声には涙が混じっていた。

翔雅は黝く深い瞳で彼女を見つめる。いつもの強気な姿とは違い、黒のタートルに身を包んだ横顔はどこか儚く、その美しさに胸を突かれる。

声色が自然とやわらぐ。

「泣いてないだって?その涙で麺が茹でられそうだ」

彼女が言い返す前に、翔雅は白い足を掌に取り、腫れた踵をやさしく揉みほぐす。

逃げようとするが、強く押さえられた。小麦色の手と雪のような肌の対比は、あの夜の記憶を否応なく呼び起こす。

翔雅はじっと澄佳を見つめ、意味ありげに目を細めた。

澄佳は落ち着かず、顔を少し背ける。

低く掠れた声が耳を打った。

「結婚したら毎日俺の味を知ることになる。そうなったら離婚なんて口にできなくなるさ。泣きながら『捨てないで』とすがってくるだろう」

「自分を安売りするのが上手ね」澄佳は冷笑する。

翔雅は臆面もなく続けた。

「あの夜だって、後悔はしてないだろ?俺は若くて顔も悪くない。仕事も順調だ。むしろ誇っていいくらいだ」

彼の頭にあるのは愛などではなく、欲と子供と事業だけ。

それでも口を閉ざした澄佳を、ついに翔雅は抱き寄せ、顎を押し上げて唇を重ねた。戯れと本気の狭間を漂うような口づけ。

「結婚のいいところは、堂々と好きなことができるってことだ。そうだろう?」

「気分次第ね」

結婚しても、いつでも応じるつもりはない。

「確かに。女は生理の時は機嫌が悪いもんな」

澄佳は心の中で舌打ちした。

——まったく、この男、最低だわ。

やがて翔雅は表情を引き締め、現実に話を戻した。

「婚約写真は出したが、立都市の親戚筋に正式な挨拶が要る。式まで半月、準備も山積みだ。明日には戻るが、一緒に来るか?」

澄佳は頷いた。たしかにこれ以上、風見市に留まるわけにはいかない。

「お母様もまだいらっしゃるし、夜は悠も呼んで食事しましょう」

その一言で、翔雅の顔が曇る。澄佳が風見市に来た本当の理由——悠に会うためだと気づいたからだ。

彼にとって悠は、顔がいいだけのヒモに等しい。

「一ノ瀬家の妻になったからには、男優と曖昧な関係はご法度だぞ」

「じゃなきゃどうするの?」

翔雅は彼女の顔を両手で包み、指を髪に絡めて囁く。

「ベッドから出られなくしてやる」

その夜、二人は互いを確かめ合
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