Share

第566話

Auteur: 風羽
翔雅の眼差しは、濃い夜の闇のように重かった。

澄佳が彼の脇をすり抜けようとした瞬間、伸ばされた腕に行く手を遮られる。

翔雅は彼女の間近に顔を寄せ、低く囁いた。

「澄佳……お前と奴の過去がどうであれ、結婚した以上、俺は絶対に許さない。他の男と関わることだけはな」

澄佳は鼻で笑った。

「心配しすぎよ。心配するなら、もっと若くて、可愛げのある男たちを警戒すべきじゃない?」

最初の言葉には翔雅も一瞬ほだされかけた。だが後半を聞いた途端、思わず歯ぎしりする。

彼女の腕を捉えながら、不敵に笑った。

「葉山澄佳……お前って女は、本当に見事だな」

澄佳は逆に、彼のシャツの襟を整えながら、にっこりと笑みを浮かべた。

「これからの二年、必ず成長してみせるわ。一ノ瀬社長の歩みに並べるように。だって、私が優れていなきゃ、釣り合わないもの」

翔雅は声を低めて吐き捨てる。

「覚えておけ」

二人のやりとりは一歩も引かず、火花が散る。

だが個室の中は妙に和やかだった。

一ノ瀬夫人は向日葵の種を割り、悠がその傍らで果物を剥いて差し出している。すっかり一家の団欒のようだ。

一ノ瀬夫人はにこやかに言う。

「翔雅が結婚したら、あなたも一緒に住みなさいな。部屋は余ってるから」

悠は控えめに答えた。

「撮影がない週末なら、お邪魔して伯母さんと一緒に料理を習わせていただきます」

一ノ瀬夫人はますます気に入り、家は貧しくても賢く立ち回れる青年だと褒めた。

澄佳が彼を可愛がるのも無理はない。

もし自分が二十歳若ければ、やはり惹かれただろう——姉のように。

……

一方その頃、智也と静香は桐生家へ戻っていた。

まだ結婚していないのに、すでに怨み合う夫婦のようだった。

静香は妊娠していた。だが智也の顔に喜びはなく、智也の母だけが涙を流して歓喜していた。

「これで全てが報われた」と、静香こそが最良の嫁だと信じて疑わなかった。

智也は別れを切り出さず、あの手紙のことにも触れない。

智也の母は「子どもができたから息子は目が覚めた」と思い込んでいた。

だが彼女は知らない——その手で智也の恋を殺したことを。

智也は生きながら、すでに死んでいた。

母への恩と孝の名の下に、彼の心は葬り去られた。

かつて彼の人生には、最も美しいものがあった。

けれどそれは一瞬で砕け、儚
Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第876話

    慕美の胸がどくんと鳴った。腕の中の思慕が顔を上げ、今にも泣き出しそうな声で言う。「ママ、ごはん作ってくれるって言ったのに……」慕美はそっと身をかがめ、思慕の額に自分の額を寄せた。その様子を無言で見ていた澪安の前で車を降りると、彼は無造作にドアを閉め、思慕を抱き上げてエントランスへ先に進んでいく。明るい照明が、慕美の青ざめた頬を照らした。澪安は、彼女が寒いのだろうと思った――あるいは気まずさで顔色が悪いのだろうと。まさか、彼女が重い病を抱えていることなど思いもしなかった。今日すでに血液浄化治療を終えたばかりだということも。エレベーターの中、二人は黙ったまま乗っていた。思慕だけがじっと、まっすぐに慕美を見つめている。程なくして、チン――と音が鳴り、階に到着した。澪安は顎をわずかに上げ、冷えた声で言った。「着いたぞ」慕美は小さく身を震わせた。「どうした、メルボルンの旦那様に怒られるのが怖いのか?怖いなら、もう思慕のことはお前が気にする必要はない。産んでないと思えばいい。どうせ子どもなんてどうでもいいんだろう?」「ち、違う……そうじゃないの」慕美の否定を背に、澪安はさっさとエレベーターを降りた。ピッという音とともに玄関のロックが外れ、澪安は思慕を抱いたまま室内へ。そのまま子ども部屋に向かったが、途中でふと振り返り、慕美に言う。「すぐ食材が届く。先にシャワー浴びて着替えろ。風邪でも引かれちゃ、メルボルンの旦那様に説明がつかないからな」その言葉の端々に滲む嫉妬は、痛いほど分かりやすかった。慕美は体調を軽んじる気はなかった。素直にうなずくと、寝室へ向かい、クローゼットから清潔な部屋着を選んだ。以前買い揃えた衣服はすべて残されていたため、選ぶのに苦労はない。澪安のことが気になり、長居せずさっとシャワーを浴びた。服を着終えると、ようやく少し落ち着く。寝室横の小さなリビングへ出ると、澪安が窓を開けて煙草を吸っていた。彼女に気づき、すぐに火を消す。「……思慕は?」かすれた声で慕美が問う。「布団の中でおもちゃで遊んでる。大好きなママがごはん作ってくれるのを待ってな。慕美……お前が俺をどう思おうが構わない。傷つけたのは事実だし、仕返しだと言われてもまだ理解できる。だが、思慕

  • 私が去った後のクズ男の末路   第875話

    慕美が車に乗り込むと、車内の温もりで現実に引き戻されたように大きく息をのみ、突然、窓を叩きながらしわがれた声を上げた。「思慕の居場所、分かった!分かったよ!」……二〇分後。薄暗いアパートの階段踊り場。そこに、小さく丸まった影がある。思慕だ。ここは、慕美と半年間一緒に暮らしていたマンション。――思慕にとって家だった場所。思慕はどうしてもママに会いたくなって、あの家へ向かった。けれど、そこはもうママのいない場所になっていた。かすかな記憶だけを頼りに、遠い道のりを歩いてきたのだ。けれど、ママはいなかった。戻ろうにも、思慕はお金を持っていない。お腹が空きすぎて、頭がくらくらして、もう動けなかった。だからここで、じっとママを待っていた。――ここに来れば、ママが迎えにきてくれる。――そしたら、家に帰れる。そんな望みだけを抱きしめていた。薄い灯が、思慕の小さな背中を照らしている。あまりにも孤独で、小さすぎる影だ。「……思慕……」慕美の掠れた声が震える。何度も、息のつまった呼びかけを繰り返す。ようやく、思慕がゆっくり顔を上げた。うつろな瞳で、掠れた声を漏らす。「……ママ……ママ……」そして、堰を切ったように涙をこぼした。慕美は駆け寄り、思慕をぎゅっと抱きしめる。思慕も、必死でママにしがみつき、か細いうめき声を上げた。「ママ、ごめんなさい……思慕、悪くないようにしたかったのに……帰りたかったのに……歩けなくて……お金もなくて……」幼い子が、何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。そのたびに、慕美の胸は裂けるほど痛んだ。叱れるわけがない。叱るどころか、抱きしめてあげるしかなかった。慕美は痛みに耐えながら、思慕を抱き上げるように支え、無理やり笑顔を作った。「ママがね、思慕の好きな料理を作るよ」「ほんと?」「ほんとだよ。思慕のために、美味しいのを作る」そばで見ていた允久は、事情を知っているからこそ、目に光るものをこらえきれなかった。静かに背を向け、少し距離をとる。最後にそっと慕美の肩に手を置いた。慕美は小さく微笑んで言った。「……ありがとう」その光景を見た澪安は、ふたりの関係をさらに恋愛として受け取ってしまった。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第874話

    スマホの向こうから、澪安の冷えた声が落ちてきた。「思慕が行方不明だった」……三十分後。慕美は急いで、以前住んでいたマンションへ駆けつけた。澪安はエントランス前で立ち尽くしていた。慕美の足音が近づくと、彼は鋭く顔を上げた。しかし、次の瞬間――後ろにいる允久を見た途端、その視線はさらに冷たく凍りつく。だが何も言わず、ただ簡潔に告げた。「高原さんが迎えに行ったが……先生の話だと、思慕は家族を見かけたと言って幼稚園から走り出た。その後、高原さんは追いつけなかった」「なんで……あなたが迎えに行かなかったの?」慕美は息を切らしながら問う。澪安は無表情のまま、皮肉に似た声で答えた。「そうだな。なぜ俺が行かなかったんだろうな。じゃあ訊くが、慕美――お前はどうなんだ?母親のくせに、なぜ迎えに行かなかった?お前が思慕を捨てたんじゃないのか?思慕が走り出たのは、お前に会いたかったからだ。それなのに、お前は俺を責めることしかできないのか?ああ、分かった――新しい結婚生活がそんなに大事か?」慕美の顔は真っ白になった。しかし反論はしなかった。ただ、震える声で言う。「思慕を探すのが先よ」澪安は冷たく言い放つ。「思慕が失踪したことは、もう周防本邸に伝わってる。後で、お前の口から俺の両親に別れた理由を説明しろ」「分かったわ。私が説明する」慕美の声はかすかだ。横で允久が何か言おうとしたが、慕美は彼の腕を強く握って制した。その目は、必死に、懇願するように揺れていた。――何も言わないで。彼女が澪安に残せるものは、もうほとんどない。せめて悪くない名誉だけでも残したい。名誉、五年前から、それは慕美にとって執念にも近いものになっていた。允久はそんな彼女の壊れそうな背中を見つめた。しばらくして肩の力を抜き、そっと彼女を支える。その寄り添う姿が、澪安の視界に刺さった。澪安は冷笑し、ひと足先に階段を降りていった。周防本邸からも人が続々と集まり、担当区域の警察官も駆けつけ、監視カメラの映像を探し始めた。だが思慕は一度タクシーに乗り、しかも現金払い。行き先の特定は難航していた。空は次第に暗くなる。思慕の行方は、依然として分からなかった。冬の夜に、細かい雨が降り始める。糸の

  • 私が去った後のクズ男の末路   第873話

    慕美は小さなワンルームを借りた。立都市の大きな病院のそばで、治療に通うには便利だ。この病気は、待つしかない。方法はそれしかない。夜更け、慕美はマンションで、ただぼんやりと座り込んでいた。思慕と別れたばかりなのに、彼のことが頭から離れない。スマホを握りしめ、幼い頃の思慕の写真を何度も見返す。そのとき、スマホがふっと光った。澪安からのメッセージだった。【本当につらいなら、帰ってきてもいい】送信後すぐに撤回され、その後また同じ文が送られてきた。慕美には、その一言の裏にどれほどの葛藤があったのか分かってしまった。彼が妥協するということ――それは逆に胸が痛むほど重かった。彼が不器用に差し出した最後の救いを、自分は受け取るべきではないと思った。むしろ、自分を憎んでくれた方が楽だった。彼が遊び人のままなら、こんなに苦しむこともないのに。愛するということは、なんて残酷なんだろう。自分が味わってきた恋の痛みを、澪安には味わってほしくなかった。彼と思慕には、穏やかで、健やかな歳月を歩んでほしい。できることなら――彼が「独身の澪安」として、もう一度良き人と巡り会えるように。スマホの光はすぐに落ち、また暗闇が戻る。慕美の頬を、涙がひとつ、またひとつ落ちて、スマホの画面に滲んだ。深夜、見知らぬベッドで身体を丸めて横になると、外で雨が降り始めた。ガラスに落ちる雨粒の音が、ぽつり、ぽつりと続く。その音に包まれながら、彼女はいつしか微睡みに沈んでいった。……翌日。慕美は病院へ向かった。結果は、良くなかった。治療が始まったのだ。付き添ったのは允久だ。本来なら看護師を雇うつもりだった。だが、彼はそれを許さず、自分が一緒にいると言い張った。待合室で痛みに耐える間、慕美はリクライニングチェアにもたれ、天井を静かに見つめていた。允久はただ、黙って彼女を見守った。途中で席を立ち、外で一本だけ煙草を吸った。煙の向こうで、允久の表情には深い哀しみが滲んでいた。まさか、慕美の結末がこんなものだとは、思いもしなかった。彼女がひとつ腎臓を失った経緯を思うと胸が締めつけられる。あのメルボルンでの時間、もっと気にかけていれば。少しでも楽にしてあげられたのに。彼女は、

  • 私が去った後のクズ男の末路   第872話

    一階のエントランスには、黒く磨き上げられた二台の大型ワゴン車が静かに停まっていた。使用人が荷物を積み終え、澪安のもとへ歩み寄る。「周防様、出発できます」その瞬間、思慕がまた泣き出した。小さな身体をひねって振り返り、家の方を見つめながら、迷子の子猫みたいな声で絞り出す。「ママ……」澪安は息子の頭をそっと寄せ、言葉にしない慰めを与えた。思慕はぎゅっと澪安の首に腕を回す。澪安もまた、視線を上階へ向けた。――どうか、彼女が降りてくるように。――思慕を望んでくれるなら、どんなことだって許せるのに。――自分自身のことだって、やり直せるのに。しかし、夜は静まり返ったままだった。階段の方からは、彼女の足音は聞こえてこない。澪安の端正な横顔に、滅多に見せない迷いの影が過った。それでも彼は思慕を抱き上げ、低く声を落とす。「行くぞ」運転席の高原は、何か言いたげにミラー越しに振り返った。慕美のことをよく知る彼には、どうしても「彼女が冷たい母親」とは思えなかった。あれほど思慕を大切にしていた人が、理由もなく手放すはずがない――そう感じていた。スライドドアが閉まり、車内に闇が落ちる。思慕はまた泣きそうになったが、ママに言われた「男の子はそんなに泣かない」という言葉を思い出し、必死に堪えた。小さな拳はぎゅっと握られ、肩は震えている。澪安はその小さな頭を軽く抱き寄せる。「泣いていいんだ、思慕。お前はまだ小さいんだから、我慢しなくていい」彼の声は低く温かい。「ママは思慕を捨てたんじゃない。ただ暮らし方が少し変わるだけだ。時間ができたら、ちゃんと会いに来てくれる」しかし、「暮らし方が変わる」なんて抽象的な言葉を、思慕が理解できない。彼はただひたすらに、ママが恋しいだけだった。……三十分ほど走った頃、車は大きな邸宅へと滑り込んだ。澪安がここ二年のあいだに新しく購入したもので、思慕が暮らすには十分すぎるほどの場所だった。白い外壁に、赤い瓦屋根がよく映える広い庭付きの洋館。夜の闇の中、庭の噴水はライトアップされ、神様の像がまるで息づくように浮かび上がっていた。その優しい顔立ちが、思慕にはママと重なって見えた。わぁ……と声にならない息が漏れ、また涙が滲む。周防本邸より

  • 私が去った後のクズ男の末路   第871話

    夜の八時。慕美は思慕の荷物を、すべてリビングに並べていた。思慕がずっと欲しがっていたおもちゃ、好きな文具箱やペン、そして衣服まで。春から冬へ――一年を通して、思慕が十歳になるまでのものを、彼女は買いそろえていた。十歳を過ぎた頃、もし自分がもうこの世にいなければ、思慕はきっと自分のことを忘れてしまうのだろう。そんな思いが胸を刺す。荷物の小山の前で、思慕はぽつんと立ち、涙をぼろぼろ零していた。慕美は最後に服を整え、丁寧にファスナーを閉め、ランドセルを背負わせてから顔を上げる。「これからは、パパとおじいちゃん、おばあちゃんの言うことをちゃんと聞くのよ。学校で誰かにいじめられたら、すぐにパパに言うんだよ。いいね?」思慕は泣き続けていて、声も弱々しかった。「わかった……」慕美はその柔らかい頬にそっと口づけし、強く抱きしめた。――どれほどの時間、抱きしめていたのだろう。やがて、かすれた声で言う。「思慕……パパと行こうね」傍らで使用人が荷物を持ち、次々と階下へ運んでいく。すべてが運び終わる頃、慕美は思慕を澪安に渡そうと抱き上げた。だが、思慕は激しく抵抗し、張り裂けそうな声で泣き叫ぶ。「いやだ……いやだよ、ママ!ママがいい、思慕はママがいい!」慕美は心を鬼にして、彼を澪安に渡した。思慕は絶叫する。「行かない!ママと一緒がいい!思慕は行きたくない!」小さな顔は涙でぐしゃぐしゃだ。ただ抱いてほしいだけなのだ。生まれてからずっと慕美と暮らし、親子で寄り添い、支え合い、笑い合ってきた。なのに突然、「ママはいなくなる。これからはパパと暮らす」と言われても、受け入れられるはずがない。たとえパパがどんなに優しくても――ママにかなう人なんて、この世界にいるはずがない。思慕の泣き声は、胸をえぐるように激しかった。その一声一声が、慕美の心に鋭く突き刺さる。澪安は何度も宥めようとしたが、思慕は暴れ続けた。ついに慕美が、震える声でしかし強く言い放つ。「思慕、言うことを聞きなさい」その一言に、思慕はぴたりと動きを止めた。涙が頬に貼りついたまま、ゆっくりと滑り落ちる。そして、小さく、小さく呟いた。「ママ……」慕美はそっと近づき、頬に触れる。「パパの言うこと、ちゃん

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status