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第689話

Author: 風羽
少女は小さく頷き、椅子から飛び降りて駆け出していった。

真琴はその背を見送りながら、慈母そのものの微笑を浮かべていた。

だが次の瞬間——頭をピアノに打ちつけた。

鈍い衝撃音が響き、まるで冬の空に落ちる雷鳴のようだった。

翔雅の目に、もはや憐憫の色はない。冷ややかに笑い放つ。

「相沢真琴……頭がおかしくなったのか?離婚するって言ってるのに、子どもを連れてきてどうする。あの子を巻き込むつもりか?それに、誰がここに入っていいと許した?お前にこの家にいる資格なんてない」

真琴の額から血が流れ落ちたが、意にも介さず震える体で笑みを浮かべた。

「あの子は養子じゃない……私の実の子よ。翔雅、彼女は私が生んだ子なの」

震える指先でバッグを探り、親子鑑定書を取り出す。

「一ノ瀬病院で調べたもの。信じられるでしょ?それに言っておくけど、翔雅、あなたの子じゃない。ただの私の子よ。

以前は手元で育てられなくて、他所に預けていただけ。今は戻してきただけなの。私はもう産めないけど、昔は産めたのよ」

……

翔雅の瞳に興味の光は宿らなかった。

「俺の子じゃないなら、関係ない」

彼は慈善家ではない。

悪人ではない。だが、聖人のような善人でも決してなかった

一度でも哀れみを抱けば、真琴は一生まとわりついて離れないと知っていた。

翔雅はピアノの蓋に腰を下ろし、ズボンのポケットから煙草を一本取り出し、唇に咥えて火を点けた。紫煙を吐きながら、冷たく言い放つ。

「今すぐ、あの小娘を連れて出て行け。

ここで終わりにするなら、持たせた一割の株で十分だ。それを俺の『授業料』だと思え。だが二度と俺の前に現れるな。もし逆らえば、株どころかお前を一文無しにして、その小娘と一緒に路頭に迷わせてやる」

……

真琴の顔が強ばった。

「翔雅……あなた、そこまで冷たいの?」

翔雅は苦く笑った。

「お前のせいで、俺は妻も子も失ったんだ。それ以上、何を望む」

……

真琴は悔しげに唇を噛み、萌音を連れて屋敷を去った。

スポーツカーに乗り込むと、少女は怯えた声で尋ねた。

「ママ、これからどこへ行くの?」

真琴は答えず、むしろ煩わしそうに顔を背けた。

本来なら、翔雅に「完璧な家族」を見せつけるためでなければ、こんな足手まといを引き取ることはなかった。自分の人生を乱すだけの存在——

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