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第692話

Author: 風羽
「何しに来たの?」

澄佳の声は冷えきっていた。

扉を背にした翔雅の黒い瞳に宿る色に、思わず胸がざわつく。

ほどなく彼は歩み寄り、澄佳は反射的に振り返って大理石の洗面台に背を押しつけられた。硬い縁が細い背中に食い込み、じわりと赤い痕が浮かぶ。その姿はどこか痛ましかった。

二人きりになれば、理想などどこにもない。

——翔雅はまるで大きな不良そのものだった。

彼は黙って見つめ、端正な顔に貴さをまとわせながら、指先でそっと彼女の背をなぞる。

視線は顔に落ちていた。

「次は、こんなに露出の多い服はやめろ。痛くないか?」

澄佳はさりげなく身を外す。

「翔雅、これは立派なセクハラよ」

否定はしない。その眼差しこそが答えだった。

久しく会えなかった彼女を前に、どうして近づきたいと思わずにいられよう。

だが翔雅は暴走しない。二人がもはや夫婦ではないことを、忘れてはいなかった。

彼は鍵をひとつ、洗面台の上に置いた。

「今夜の落札品だ。お前が欲しそうにしていたから……フロントの金庫に預けた。番号は1314だ」

澄佳は仰ぎ見て、瞳にうっすら涙を滲ませる。

「これは何?ご機嫌取りの贈り物?

翔雅、あなたの考えくらいわかるわ。でもどうして、まだ私が受け取ると思うの?」

その瞳の奥には、消えない傷が残っていた。

一生忘れられない痛み。

彼女は鏡越しに自分を、そして背後の翔雅を見つめ、声を震わせる。

「一度しか言わない!私はもう要らない。あなたの物も、あなた自身も」

眩いライトの下で、翔雅の顔は灰色に沈んでいった。

澄佳は再び水を流し、小さく告げる。

「もう行って」

「澄佳……」

嗄れた声で名を呼び、翔雅は思わず抱きしめた。欲望ではない、ただ彼女を失いたくない一心で。

涙が一滴、彼女の白い背に落ちた。

「放して、翔雅。私はもう、あなたを愛していない」

「お前は、佐伯を愛しているのか?」

かすれ声の問いに、澄佳は彼を押し返した。

水晶の灯りの下で、彼女は微笑む。

「ええ、私は彼が好き。穏やかな暮らしが好きなの」

そう言って翔雅の身体を押しのけ、出口へ歩く。

扉の外には楓人が立っていた。ずっと待っていたのだろう。

彼は中の様子を問いただすことはなかった。

人も出来事も、いずれは向き合い、やがて忘れていかねばならないものだ。

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Comments (3)
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fuo8123
真琴に母性が無いのは分かってたけど、ここまで酷いと言葉無くす。 結局、このホストにお金を騙し取られて無一文になるのは時間の問題www 翔雅も真琴にお金を渡すなんて本当に愚かとしか思えない。 この二人には私も関わり合いたくない!! 澄佳は今度こそ幸せになれる相手を見つけて欲しい!折角、助かった命なんだからね!
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まかろん
愚か者だから養子にしそうですよね?!
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シマエナガ
翔雅は萌音を養子にしたりしないよね…?
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