Share

第6話

Author: 風羽
深秋の夜、車の中は春のように暖かい。

舞はふと、九郎の体から漂うタバコの新しい香りに気づいた。その銘柄は――京介が吸っていたものと同じだった。一瞬、舞の意識は混濁し、隣にいるのが京介なのだと、錯覚してしまった。

そっと目を閉じたまま、彼女は男の手を掴み、静かに呼びかける。「京介……」

半夢半醒の中、まるで昔に戻ったかのようだった。

京介と過ごした、あの頃の記憶へ――

九郎はその手を引き離すことも、何かを言うこともなかった。ただ静かに、前方の闇を見つめていた。夜の帳は、まるで雨夜にしっとりと濡れた絹のように黒く、柔らかで、どこか重たく湿っている。その質感は、今の彼の心情によく似ていた。

九郎には、これまで女がいなかったわけではない。

だがそれはどれも、割り切った関係だった。お互いに求め、互いに同意していただけのもの。そこに深い感情や葛藤はなかった。舞のような、理屈では測れない激しさをもった愛情。そんなものに触れたことなど、一度もなかった。ふいに彼は思った。もし自分が、この女に愛されたら、どんな気持ちになるんだろう。

遠くの夜空に、花火が次々と打ち上がった。

夜は昼のように明るかった。

助手席の舞が、微かに体を動かした。その動きは小さく、やわらかく――しかし九郎はすぐに気づいた。彼は体を向け、深い黒の瞳で舞を見つめる。「……目が覚めたか?」

舞の体にはまだ力が入らなかったが、頭の中には少しずつ、理性が戻ってきていた。

確かに酒に酔っていた。けれど、ぼんやりと――九郎が自分をバーから連れ出してくれたことだけは、覚えていた。……それ以上のことは、思い出せなかった。

舞はかすれた声で尋ねた。「今何時……?」

九郎は答える。「ちょうど午前1時半を過ぎたところだ」

舞は静かに顔を上げ、夜空に打ち上がる花火をじっと見つめた。目の奥には、わずかな潤みが宿っていた。けれど彼女は、驚くほど静かだった。

しばらく沈黙が流れた後、彼女はぽつりと語り出す。

「私はね……この世でいちばん輝く花火を見たことがあるの。その花火が、ずっと私のものだと信じてた。でも忘れてたのよね。どんなに美しい花火でも、一瞬で消えてしまうってことを。

「京介とのこともそう……私は、すべてを捨てれば彼と一生を共にできるって思ってた。でも、今になってやっとわかった。京介の中に恋愛の幻想があったとしても――その相手は、私じゃなかった」

……

苦笑いを浮かべ、舞は呟く。「九郎……私って、すごく失敗した人間よね?」

「そうではない」

九郎は淡々とした声で答えた。「お前が望むなら、お前は、いつまでも周防夫人だ」

九郎の言葉は慰めではなかった。

京介のような立場の男が、そう簡単に離婚して妻を替えることはない。若い女の子を可愛がるのは自由だが、周防夫人の座にふさわしいのは――やはり舞のような女だった。

舞はただ、薄く微笑んだ。それからまた、しばらくの間、夜空の花火を黙って見つめていた。

……

午前二時をまわった頃、九郎は舞をロイヤルガーデンまで送り届けた。

車が静かに止まる。舞はゆっくりと横を向き、小さな声で九郎に礼を告げ、彼のスーツの上着をそっと差し出した。

しかし、九郎は言った。「そのまま羽織っておいて。外は結構冷えているから」

舞はクリーニングしてから返す方が礼儀だろうと考え、これ以上は固執しなかった。彼女はそのまま上着を手に持ち、車から降りて九郎に丁寧に別れを告げた。男は車内で軽くうなずき、エンジンをふかすと、静かにアクセルを踏んでロイヤルガーデンを後にした。

月の光はひんやりと冷たく、夜風が静かに吹き抜けていく。

舞は額に手をあて、ずきずきと疼く頭痛を感じながら、ふっと息をついた。

使用人が迎えに来た。

近づくと、舞の体から酒の匂いがした。

しかし、使用人はそれを指摘せず、ただ控えめな口調で言った。「奥様、お酒を召し上がったのですね?旦那様が先ほどお電話されて、これから着替えを取りに戻られると仰っていました。奥様がご用意されますか?それとも私が上に上がってお支度しましょうか?」

舞は心の中で、もう離婚を決めていた。だから、京介のことなどもうどうでもよく思えていた。

「お願い。あなたがやって」彼女はそう答え、上着を手にふらふらと階段を上がっていく。寝室に入ると、大きなベッドに手が触れた瞬間、そのまま深い眠りへと落ちていった。

夜風がそっと白いカーテンを揺らし、月光が静かに部屋に差し込む。その光は、ベッドに横たわる彼女に淡い瑠璃色のヴェールをかけたようで、柔らかく、美しく、どこか誘うような色気すら滲んでいた。

そして――あの男の、黒いスーツの上着が、ベッドの端に、無造作に置き去りにされていた。

……

深夜、庭に車の音が響いた。

京介が帰ってきたのだった。

彼は車を降りず、ただ黒いロールスロイスのドアを開けた。

夜、舞と不愉快な言い合いをしてしまい、さらに愛果の容態も良くなかったため、着替えだけを取りに来て、すぐに立ち去るつもりだった。

音を聞きつけた使用人が駆け寄ってきて、着替えの入ったバッグを車の中の京介に手渡した。そのとき、何気なく言葉を添えた。「奥様がちょうど戻られました!どうやらかなりお酒を召し上がったようで、上原先生がご親切に送ってくださったそうです」

舞が、酒を飲んだ?京介は眉をひそめた。

彼は考えてみて、やはり二階に上がってみることにした。

やがて寝室の前に立ち、ドアを静かに開ける。

寝室の中は薄暗く、空気中にはかすかに赤ワインの香りが漂い、女性の息遣いも一層甘く感じられた……

京介はそっと手を伸ばし、寝室の壁にある灯りのスイッチを入れた。

寝室はたちまち真昼のように明るくなった。

すると、彼は妻がベッドに横たわり、長い髪が胸の前に乱れ、シルクのブラウスの襟元が大きく開き、白くて滑らかな肌が露わになり、黒いスカートは寝返りで少しめくれ上がり、女性の誘惑的な曲線を強調しているのを見た……

舞のスタイルは、ずっと整っていた。

そのことを誰よりもよく知っているのは、夫である京介だった。彼女はただ、自分をさらけ出せなかっただけ。ベッドの上ではいつも冷静で、時には行為の最中にすら仕事の話を持ち出すこともあった。そんなことが続けば、男の興味も次第に薄れていくのは当然だった。

それでも目の前のベッドに広がる光景は、美しく、京介の中に、久しく忘れていた男としての欲がふっと芽生えた。そうだ、彼はしばらく誰とも深く関わっていなかった。女を抱きたいと思うのは、そんな間隔のせいかもしれない。ふだんは清く抑えた生活を送っていたはずなのに。

京介は静かにベッドの端に腰を下ろし、眠っている妻の顔を見つめた。

彼女は深い眠りの中にいた。それでも、整った眉はうっすらとしかめられ、どこか哀しげな表情を浮かべていた。

舞が自分を好いていることを、京介は最初からわかっていた。だが――彼は舞を愛してはいなかった。彼が彼女に与えられるのは、「周防夫人」という肩書きだけ。夫婦としての情愛など、最初から考えたこともなかった。

京介は手を伸ばし、そっと舞の頬に触れた。

触れた手は冷たかった。

彼の瞳はさらに深く沈み、静かに口を開いた。「周防夫人という肩書きじゃ足りないのか?舞、あまりに濃すぎる感情は、人を破滅させるだけだ。お前はもう、世のすべての華やかさを見尽くして、情愛なんてとうに捨てたものだと、そう思ってた」

彼に答えたのは、舞の浅い息遣いだった。

京介はそのまま立ち上がろうとした。だが、ふと視線の端で何かに気づく。その瞬間、彼の動きが止まった。

ベッドの端に、男性用のスーツジャケットが散らばっていた。

京介は手を伸ばし、ジャケットを拾い上げた。それは、ある高級オーダーメイドブランドのものだった。確かに彼自身のスーツも、ほとんどはこのブランドで仕立てられている。けれどこの一着は、明らかに彼のものではなかった。

九郎が、置いていったのだ。

その瞬間、京介の胸に、どうしようもない不快感が広がった。九郎が舞に対して何かを企んでいるとは思っていない。それでも男としての本能、自分のものに対する占有欲が、激しくざわついた。

舞は、自分の妻だ。

……

一階のロビーは明るく照らされていた。

使用人はずっと眠らずに、京介が降りてくるのを待っていた。やがて、階上から足音が聞こえる。

京介は不機嫌そうな面持ちで階段を下りてきて、手にしていたジャケットを無言で使用人に手渡した。そして、淡々と命じる。「これをクリーニングに出して、九郎の法律事務所に届けさせろ」

使用人は余計なことは言わず、黙ってそれを受け取った。

京介は玄関先に停めていた黒いロールスロイスのドアを開け、病院へ向かうつもりで乗り込む。……だが、エンジンをかける直前、ふと手を止めた。顔を上げて、屋敷の二階を見上げる。

舞はあそこで眠っている……

今夜、彼らは不愉快なまま別れた。舞は、どうしても伝えたい大事なことがあると言っていたのに――

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1302話

    同じ頃。陽白は専用機に乗り込み、H市へ向かっていた。飛行機が到着し、空港から邸宅へ戻った頃には、すでに深夜二時を回っていた。黒い高級ワゴンが静かに庭へ滑り込む。車を降りた陽白は声を落としていた。話しかけてきたのは夜番の使用人だけだ。「旦那様たちをお起こししますか?」陽白は荷物を手にしたまま首を振る。「いや、いい」使用人は何か言いたげに口を開きかけ――最後には、くすっと笑った。陽白もつられて笑う。「……可愛いだろ?」その言い方がどこか自慢げで、使用人は思わず吹き出した。「それはもう。女優さんより綺麗なくらいですよ」陽白は玄関で靴を履き替えながら、柔らかく笑った。「芽衣の家系は、みんな顔が整ってるんだ。双子の兄がいるけど、そっちも相当だぞ。葉山章真っていう」使用人は驚いたように目を丸くする。「男の子までそんなに綺麗なんですか?それじゃあ、学生時代は女の子たちが放っておかなかったでしょうねぇ」陽白は肩を竦めた。芽衣と章真は双子だ。けれど性格はかなり違う。章真はどちらかと言えば翔雅に似ていた。商売では容赦がなく、恋愛にも派手なところがある。特別女好きというわけではないが、恋人は多かった。海外時代の自分といい勝負だ。それに比べると、芽衣は驚くほど古風だった。陽白はそんなことを思いながら荷物を持ち、三階へ上がる。東側の主寝室。ドアを開けた瞬間、月明かりが室内へ静かに流れ込んだ。灯りをつける気にはなれなかった。ただ、そのまま静かに中を見つめる。ベッドの奥では、芽衣が眠っている。昔から、頭まで布団を被って寝る癖がある。黒髪だけが少し覗き、掛け布団の中には細い人影が浮かんでいた。空気にはシャンプーの甘い香りが漂っている。心地よくて、懐かしい匂いだった。陽白は黙ったまま、その光景を見つめ続ける。――昔、夢見ていた未来と重なった。あの頃。芽衣と結婚する未来を考えなかったわけではない。けれど、最後には自分で手放した。合理性を選び、彼女を切り捨てた。もう忘れたと思っていたのに。この瞬間、当時の感情が鮮明によみがえる。なぜ帰国したのか。なぜ立都市で起業したのか。きっかけは卓史の何気ない一言だった。【お前、芽衣

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1301話

    芽衣はずっと微笑んでいた。車が静かに走り出す。陽白の母は芽衣の隣に座り、陽白の父は前の席へ追いやられていた。運転手は陽白が手配した専属ドライバーだった。陽白が成功してからというもの、両親はH市でも指折りの高級住宅街に暮らし、何不自由ない生活を送っている。けれど陽白の母は昔から親戚や知人への面倒見がよく、困っている人を放っておけない性格だった。そのせいか人望も厚い。今回、芽衣が恵さんと繋がりを持ちたいと話した時も、古河家の義姉が一声かけただけで、あっという間に段取りが整ってしまった。陽白の母は終始ご機嫌だった。頭の中では、もう孫の名前まで考えている。男の子でも女の子でもいい。できれば双子が理想。……とはいえ、そこは若い二人の自由だ。しばらく好きに過ごして、落ち着いた頃に一人でも産んでくれたら、自分と夫で面倒を見たい。もっとも――そんな話を今したら、芽衣に逃げられてしまうかもしれない。だから胸の奥にしまっておく。車内は終始、祝い事の前みたいな空気に包まれていた。陽白の母には、この車がまるで結婚式の送迎車のように思えてならなかった。そのまま車は立都市へ向かう。三十分後。黒い高級ワゴンは約二千平米ほどの広大な邸宅へ静かに入っていった。門を抜け、庭園の灯りが次々と灯る。その光景を見た瞬間――芽衣の胸はわずかに揺らいだ。陽白の母の表情には、誇らしさと幸福が滲んでいる。その顔を見ていると、芽衣はふと思ってしまう。――あの頃、陽白が自分と別れ、海外へ渡った選択は間違っていなかったのかもしれない、と。もちろん、もし自分と結婚していたとしても、陽白なら周防家や一ノ瀬家の事業の中で頭角を現し、両親に同じような暮らしをさせていただろう。けれど、それでも違う。誰もが彼を見て、『周防家の婿』や『葉山芽衣の夫』と呼んだはずだ。陽白自身の才能や努力をここまで真正面から認めてもらえたかは分からない。複雑な気持ちのまま考え込んでいるうちに、車は静かに停まった。陽白の両親は完全に芽衣を未来の嫁として扱っていた。もちろん最低限の礼儀はある。だが、芽衣と陽白は大学時代から付き合っていたし、陽白の母とも以前から親しくしていた。そのため、必要以上によそよそしくはない。家に入

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1300話

    芽衣が了承した瞬間。陽白の母は目に見えて機嫌が良くなった。やがて披露宴が始まる。芽衣は目立ちすぎて新郎新婦の邪魔になるのを避け、終始おとなしく陽白の母の隣に座っていた。ただ、その合間を縫って、芽衣はそっと陽白の父へ恵さんの件を相談する。陽白の父は真面目で堅い性格だ。けれど心の中では理解していた。――芽衣はたぶん息子にとって唯一結婚まで行ける女なのだと。彼はちらりと兄夫婦のほうを見やり、それから芽衣へ言った。「安心しなさい。この件、ちゃんと話を通しておく。後日、おばさんと一緒に食事の席を作ろう。その時に、ゆっくり話せばいい」今回の結婚祝い。彼は三千万円近いご祝儀を包んでいる。そのくらいの顔は立ててもらわなければ困る。芽衣はそっと菊地へ向かって小さくOKサインを送った。ようやく肩の力が抜ける。同時に、心のどこかで思ってしまう。――陽白って、本当に運を持ってるのかも。……どれだけ大人しくしていても、会場ではやはり目立ってしまう。なにしろ新婦は星耀所属女優の大ファンなのだ。これで目立つなというほうが無理だった。新郎新婦が各卓を回って挨拶に来た時。恵さんも新郎側親族として一緒に来ていた。彼女は芽衣を見るなり、少し驚いたような、困ったような顔をする。その瞬間。芽衣は絶妙なタイミングで口を開いた。「叔母さま、今日はおめでとうございます」その柔軟さ。空気を読む力。陽白の母は完全にご満悦だった。――やっぱり商売できる子は違う。親戚付き合いも上手い。陽白の母は自ら芽衣を連れ、恵さんの席へ挨拶に向かう。恵さんは慌てて立ち上がった。芽衣を見つめ、笑みを浮かべる。「なんだ、陽白くんの彼女だったのね。最初から知ってたら、もっと早く会ってたのに。いいわ。日を改めてお茶でもしましょう。ゆっくり世間話しながらね」陽白の母は満面の笑み。「芽衣ちゃん、ほら。叔母さまにちゃんとお礼言って」芽衣は素直に頷く。きちんと頭を下げた。恵さんは少し感慨深そうだった。彼女は芽衣を知っている。立都市の周防家も知っている。財界でも別格の名家だ。商談の席で見せる芽衣はもっと鋭く隙がない。なのに今の彼女はまるで普通の女子大生みた

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1299話

    その時、陽白の母は結婚式へ出席していた。会場はH市でも名の知れた高級ホテル。芽衣は外回りから戻り、ホテルのロビーへ入った瞬間――不意に、陽白の母と鉢合わせた。陽白の母は宴席が始まるまでの間、親族たちとロビーで談笑していたところだった。ふと視線を上げたその瞬間、芽衣の姿を見つける。「芽衣ちゃん!」驚きと喜びが混じった声。芽衣は振り返った瞬間、完全に固まった。――陽白のお母さん。前回は半分付き合っているふりのような形だった。それでも芽衣は彼女のことが本当に好きだった。優しいし、料理は美味しいし、一緒にいると不思議と安心する。だから芽衣は慌てて歩み寄り、素直に頭を下げた。「こんにちはおばさま」菊地も横で挨拶する。「ご無沙汰しております、古河様」その場にいた親族たちはぽかんとしていた。――誰、この綺麗なお嬢さん。しかも秘書まで連れてる。陽白の母はすっかり得意顔になる。にこにこしながら紹介した。「前に話したでしょう?うちの陽白の彼女なの。大学の頃から付き合ってるのよ。この前、私が立都市へ行った時も、芽衣ちゃんがずっと買い物付き合ってくれてねぇ。本当に優しくていい子なの。しかも仕事もすごいのよ。星耀エンターテインメントって知ってる?芸能事務所の。今の人気女優さんたち、何人も芽衣ちゃんが育てたのよ。すごいでしょう?」親族たちは一斉に感嘆の声を上げる。「えぇ~!こんな若いのに?今の若い子って本当にすごいわねぇ。陽白くんとお似合いだこと」……芽衣は少し照れながら微笑んだ。「家業みたいなものです。私は継いだだけなので……」その一言に、親族たちが一斉に陽白の母を見る。「名家のお嬢様なのねぇ」陽白の母はもう嬉しくてたまらない。「芽衣ちゃん、出張で来てるの?ちょうど陽白の従兄が結婚式なの。せっかくだし一緒にお祝いしていきなさいよ。菊地ちゃんも一緒に。おめでたい席なんだから、幸せのお裾分けもらわなきゃ」本来なら、芽衣と菊地はホテルで企画の打ち合わせをする予定だった。けれど、ここまで歓迎されると断りづらい。芽衣は菊地と顔を見合わせ、そのまま一緒に披露宴会場へ向かった。そしてさらに驚いたのは――陽白の母が当然のように彼女

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1298話

    翌朝。芽衣は目を覚ました。今度は完全に意識がはっきりしていた。隣で眠る男を見つめながら、胸の内は複雑だった。諦めたい。でも、積み重ねてきた長い時間を思うと、どうしても手放せない。一緒にいたい。けれど、まだ心の整理がつかない。過去の自分を許しきれず、頭の中はぐちゃぐちゃだった。ちょうどその時。菊地から電話が入った。H市の大口サプライヤーとの交渉が難航しており、相手がどうしても芽衣本人と話したいと言っているらしい。本来なら、こうした案件に彼女が直接動く必要はない。けれど今は――出張に出たほうが少し頭を冷やせる気がした。電話を切ると、芽衣はそのまま荷造りを始める。ある程度まとまった頃。寝室のベッドが小さく軋み、続いて男が起き上がった。そのままクローゼットの前まで歩いてきて、後ろから彼女を抱きしめる。陽白は背が高い。上半身は裸のままで、朝の光の中では眩しいほど絵になっていた。芽衣は鏡越しの彼をまともに見られない。薄い唇が首筋へ触れる。昨夜の余韻を残した掠れ声。「どこ行くんだ?」芽衣は少し考えてから、正直に答えた。「H市。ちょっと仕事でトラブルがあって」陽白は即答する。「俺も行く」芽衣は首を横に振った。それから小さく笑う。「私、子どもじゃないんだから。出張にまで保護者同伴なの?」その言い方が少し間の抜けた可愛さで。陽白はそれがたまらなく好きだった。そして彼はとても頭のいい男だった。押しすぎれば駄目になることを知っている。だからそれ以上は言わず、代わりに彼女の荷物を確認し、シャワーを浴び、簡単な朝食を作り、さらには空港まで車で送る準備までしていた。芽衣は何度も「そこまでしなくていい」と言った。けれど陽白は譲らない。朝の光を受けながらハンドルを握る横顔はやけに整って見えた。「芽衣。今の俺、一応お前を口説いてる途中なんだ。これくらい、未来の彼氏なら普通にやるだろ」彼女は他の女とは違う。金でもない。時間でもない。ちゃんと心で向き合いたい。芽衣は何も返せなかった。昨夜の余韻もあり、正直まだ身体がだるい。男は静かに運転を続ける。昨夜のことは流れたものだと思っていた。けれど空港の駐車場へ着き、陽白がシ

  • 私が去った後のクズ男の末路   第1297話

    芽衣は男の胸にもたれかかっていた。三十二歳の陽白。若さだけではない、大人の男の空気を纏った陽白だった。煙草の残り香すらどこか色気に変わってしまう。成功を手にした男。きっと、多くの女が好きになる男。芽衣も、やっぱり好きだった。でも――それ以上に、苦しかった。彼は本当に自分と一緒にいたがっている。そう分かるからこそ、余計につらい。芽衣は今にも泣きそうな声で呟いた。「陽白……私、本当に悔しいの。今でもすごく腹が立つし、あの頃の自分の何が駄目だったのか分からない。どうして、あんなふうに捨てられたのかも。一緒にいたいって思うのに……でも一緒にいたら、昔の私に申し訳なくなるの。陽白……この気持ち、分かる?」……男は彼女を抱きしめたまま、甘やかすように答えた。「分かるよ。芽衣、ちゃんと分かってる。もう置いていかない。どこへ行くにも、お前を連れて行くから。全部、俺が悪かった。自由ばかり欲しがってた。変なプライドと自尊心に縛られて、お前の家に入る男にはなりたくなかった。でも、俺はお前の存在を軽く見すぎてた。だから戻ってきたんだ。芽衣。俺、お前のところへ戻ってきた。……嬉しくない?」女はまだ、弱々しい声だった。「全然、迎えに来た感じじゃない。いっぱい彼女いたじゃない。あの食事会で見たもん。みんな脚長くて、綺麗で……まるで妖精みたいな女の人ばっかり。陽白は遊び尽くして、そろそろ落ち着きたくなっただけ。それで、一番馬鹿で騙しやすい私を思い出したんでしょ」……男はさらに強く抱きしめた。赤ん坊をあやすみたいに。「そうだな。俺の芽衣は一番素直で可愛い。だから……また一緒にいよう?」そう言うと、彼はそのまま口づけた。少しずつ。優しく。最初、芽衣は抵抗していた。けれど彼の甘い誘導に逆らえず、いつの間にか唇を開いてしまう。深く。もっと深く。最後には唇を噛みながら彼の胸へ逃げ込み、それ以上はもう駄目だと首を振った。陽白はずっと彼女を抱きしめ、優しく宥め続ける。そのとき。ぐぅ……と間の抜けた音が鳴った。芽衣のお腹だった。せっかくの甘い空気が一瞬で崩れる。陽白が視線を落とす。芽衣は唇を噛み、居心地悪そう

  • 私が去った後のクズ男の末路   第922話

    しばらくして、夕梨はぎこちなく顔を上げた。視線の先には、寒真が立っていた。いまでも彼女は、彼が自分に後ろめたいことをしたとは思っていない。ただ――あまりにも、立場がつらい。それだけだった。それでも夕梨は、最後の品位を守った。そっと息を整え、控えめな声で言う。「お二人のこと、お祝い申し上げます」ここでは自分はホテルスタッフで、目の前の二人は大切なゲストだ。夕梨は礼を尽くして会釈し、スタッフを呼んで彼らの後を引き継ぐと、まるで子どもが大人の世界から退場するようにその場を静かに離れた。外は底冷えする夜気が満ちていた。暖房が効いているはずなのに、廊下の一部はひや

  • 私が去った後のクズ男の末路   第936話

    若い者たちにとって、澪安をからかえる機会など滅多にない。そう簡単に解放するはずがなかった。披露宴は深夜まで続いた。慕美は先に部屋へ戻り、休むことにした。澪安がようやく解放されたのは夜明け前――それも京介の顔を立ててもらえたからこそで、そうでなければ朝まで引きずり回されていただろう。皆それぞれ満足し、ようやく散っていった。……周防本邸の別院は次第に静けさを取り戻した。澪安はすぐに新婚の部屋へ戻らず、裏庭へ足を向けた。そこで淡い紫の百合と白い桔梗を一束摘み取る。清らかな白とやわらかな薄紫――穏やかな夜によく似合う色合いだった。廊下ですれ違う使用人たちには

  • 私が去った後のクズ男の末路   第938話

    夕梨は顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見返して率直に言った――「そのままの意味よ。昨夜は、ただの衝動。お互い納得した上のことだったでしょう?あなたも言ったじゃない、私たちはどちらも独身で、余計なことを気にする必要はないって」……寒真は彼女を見据えた。黒い瞳には嵐の気配が渦巻いている。だが、怒るどころか、彼は笑った。「ずいぶん成長したじゃないか、岸本夕梨。つまり、一夜限りってことか?昔はキスするだけで真っ赤になってたくせに、今じゃこんな言葉を、平然と口にできるようになった。この数日で色々ありすぎたのか?それとも……吹っ切れて、遊びを覚えた?」夕梨は寒真を恐れなかった。

  • 私が去った後のクズ男の末路   第919話

    夕梨はふと視線を落とし、そのとき初めて、自分がまだ寒真のコートを着ていることに気づいた。追い返そうかと思ったが、寒真の車はすでに別荘の門を出ていた。――まあいい。クリーニングして返せば。けれど夕梨は、その大事なことを忘れていた。二人はもう二度と会わない、と自分たちで決めたばかりだったのだ。……家に戻ると、夕梨はゆっくりとシャワーを浴び、ベッドに横たわってからようやく、戻ってきた写真をゆっくり手に取った。小さな額の中の写真は、時の流れで少し滲んでいたけれど、そこに写る笑顔の温度だけは変わらなかった。夕梨は静かに見つめ続け、そのままネックレスを指に絡めながら眠りに落

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status