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第6話

作者: 風羽
深秋の夜、車の中は春のように暖かい。

舞はふと、九郎の体から漂うタバコの新しい香りに気づいた。その銘柄は――京介が吸っていたものと同じだった。一瞬、舞の意識は混濁し、隣にいるのが京介なのだと、錯覚してしまった。

そっと目を閉じたまま、彼女は男の手を掴み、静かに呼びかける。「京介……」

半夢半醒の中、まるで昔に戻ったかのようだった。

京介と過ごした、あの頃の記憶へ――

九郎はその手を引き離すことも、何かを言うこともなかった。ただ静かに、前方の闇を見つめていた。夜の帳は、まるで雨夜にしっとりと濡れた絹のように黒く、柔らかで、どこか重たく湿っている。その質感は、今の彼の心情によく似ていた。

九郎には、これまで女がいなかったわけではない。

だがそれはどれも、割り切った関係だった。お互いに求め、互いに同意していただけのもの。そこに深い感情や葛藤はなかった。舞のような、理屈では測れない激しさをもった愛情。そんなものに触れたことなど、一度もなかった。ふいに彼は思った。もし自分が、この女に愛されたら、どんな気持ちになるんだろう。

遠くの夜空に、花火が次々と打ち上がった。

夜は昼のように明るかった。

助手席の舞が、微かに体を動かした。その動きは小さく、やわらかく――しかし九郎はすぐに気づいた。彼は体を向け、深い黒の瞳で舞を見つめる。「……目が覚めたか?」

舞の体にはまだ力が入らなかったが、頭の中には少しずつ、理性が戻ってきていた。

確かに酒に酔っていた。けれど、ぼんやりと――九郎が自分をバーから連れ出してくれたことだけは、覚えていた。……それ以上のことは、思い出せなかった。

舞はかすれた声で尋ねた。「今何時……?」

九郎は答える。「ちょうど午前1時半を過ぎたところだ」

舞は静かに顔を上げ、夜空に打ち上がる花火をじっと見つめた。目の奥には、わずかな潤みが宿っていた。けれど彼女は、驚くほど静かだった。

しばらく沈黙が流れた後、彼女はぽつりと語り出す。

「私はね……この世でいちばん輝く花火を見たことがあるの。その花火が、ずっと私のものだと信じてた。でも忘れてたのよね。どんなに美しい花火でも、一瞬で消えてしまうってことを。

「京介とのこともそう……私は、すべてを捨てれば彼と一生を共にできるって思ってた。でも、今になってやっとわかった。京介の中に恋愛の幻想があったとしても――その相手は、私じゃなかった」

……

苦笑いを浮かべ、舞は呟く。「九郎……私って、すごく失敗した人間よね?」

「そうではない」

九郎は淡々とした声で答えた。「お前が望むなら、お前は、いつまでも周防夫人だ」

九郎の言葉は慰めではなかった。

京介のような立場の男が、そう簡単に離婚して妻を替えることはない。若い女の子を可愛がるのは自由だが、周防夫人の座にふさわしいのは――やはり舞のような女だった。

舞はただ、薄く微笑んだ。それからまた、しばらくの間、夜空の花火を黙って見つめていた。

……

午前二時をまわった頃、九郎は舞をロイヤルガーデンまで送り届けた。

車が静かに止まる。舞はゆっくりと横を向き、小さな声で九郎に礼を告げ、彼のスーツの上着をそっと差し出した。

しかし、九郎は言った。「そのまま羽織っておいて。外は結構冷えているから」

舞はクリーニングしてから返す方が礼儀だろうと考え、これ以上は固執しなかった。彼女はそのまま上着を手に持ち、車から降りて九郎に丁寧に別れを告げた。男は車内で軽くうなずき、エンジンをふかすと、静かにアクセルを踏んでロイヤルガーデンを後にした。

月の光はひんやりと冷たく、夜風が静かに吹き抜けていく。

舞は額に手をあて、ずきずきと疼く頭痛を感じながら、ふっと息をついた。

使用人が迎えに来た。

近づくと、舞の体から酒の匂いがした。

しかし、使用人はそれを指摘せず、ただ控えめな口調で言った。「奥様、お酒を召し上がったのですね?旦那様が先ほどお電話されて、これから着替えを取りに戻られると仰っていました。奥様がご用意されますか?それとも私が上に上がってお支度しましょうか?」

舞は心の中で、もう離婚を決めていた。だから、京介のことなどもうどうでもよく思えていた。

「お願い。あなたがやって」彼女はそう答え、上着を手にふらふらと階段を上がっていく。寝室に入ると、大きなベッドに手が触れた瞬間、そのまま深い眠りへと落ちていった。

夜風がそっと白いカーテンを揺らし、月光が静かに部屋に差し込む。その光は、ベッドに横たわる彼女に淡い瑠璃色のヴェールをかけたようで、柔らかく、美しく、どこか誘うような色気すら滲んでいた。

そして――あの男の、黒いスーツの上着が、ベッドの端に、無造作に置き去りにされていた。

……

深夜、庭に車の音が響いた。

京介が帰ってきたのだった。

彼は車を降りず、ただ黒いロールスロイスのドアを開けた。

夜、舞と不愉快な言い合いをしてしまい、さらに愛果の容態も良くなかったため、着替えだけを取りに来て、すぐに立ち去るつもりだった。

音を聞きつけた使用人が駆け寄ってきて、着替えの入ったバッグを車の中の京介に手渡した。そのとき、何気なく言葉を添えた。「奥様がちょうど戻られました!どうやらかなりお酒を召し上がったようで、上原先生がご親切に送ってくださったそうです」

舞が、酒を飲んだ?京介は眉をひそめた。

彼は考えてみて、やはり二階に上がってみることにした。

やがて寝室の前に立ち、ドアを静かに開ける。

寝室の中は薄暗く、空気中にはかすかに赤ワインの香りが漂い、女性の息遣いも一層甘く感じられた……

京介はそっと手を伸ばし、寝室の壁にある灯りのスイッチを入れた。

寝室はたちまち真昼のように明るくなった。

すると、彼は妻がベッドに横たわり、長い髪が胸の前に乱れ、シルクのブラウスの襟元が大きく開き、白くて滑らかな肌が露わになり、黒いスカートは寝返りで少しめくれ上がり、女性の誘惑的な曲線を強調しているのを見た……

舞のスタイルは、ずっと整っていた。

そのことを誰よりもよく知っているのは、夫である京介だった。彼女はただ、自分をさらけ出せなかっただけ。ベッドの上ではいつも冷静で、時には行為の最中にすら仕事の話を持ち出すこともあった。そんなことが続けば、男の興味も次第に薄れていくのは当然だった。

それでも目の前のベッドに広がる光景は、美しく、京介の中に、久しく忘れていた男としての欲がふっと芽生えた。そうだ、彼はしばらく誰とも深く関わっていなかった。女を抱きたいと思うのは、そんな間隔のせいかもしれない。ふだんは清く抑えた生活を送っていたはずなのに。

京介は静かにベッドの端に腰を下ろし、眠っている妻の顔を見つめた。

彼女は深い眠りの中にいた。それでも、整った眉はうっすらとしかめられ、どこか哀しげな表情を浮かべていた。

舞が自分を好いていることを、京介は最初からわかっていた。だが――彼は舞を愛してはいなかった。彼が彼女に与えられるのは、「周防夫人」という肩書きだけ。夫婦としての情愛など、最初から考えたこともなかった。

京介は手を伸ばし、そっと舞の頬に触れた。

触れた手は冷たかった。

彼の瞳はさらに深く沈み、静かに口を開いた。「周防夫人という肩書きじゃ足りないのか?舞、あまりに濃すぎる感情は、人を破滅させるだけだ。お前はもう、世のすべての華やかさを見尽くして、情愛なんてとうに捨てたものだと、そう思ってた」

彼に答えたのは、舞の浅い息遣いだった。

京介はそのまま立ち上がろうとした。だが、ふと視線の端で何かに気づく。その瞬間、彼の動きが止まった。

ベッドの端に、男性用のスーツジャケットが散らばっていた。

京介は手を伸ばし、ジャケットを拾い上げた。それは、ある高級オーダーメイドブランドのものだった。確かに彼自身のスーツも、ほとんどはこのブランドで仕立てられている。けれどこの一着は、明らかに彼のものではなかった。

九郎が、置いていったのだ。

その瞬間、京介の胸に、どうしようもない不快感が広がった。九郎が舞に対して何かを企んでいるとは思っていない。それでも男としての本能、自分のものに対する占有欲が、激しくざわついた。

舞は、自分の妻だ。

……

一階のロビーは明るく照らされていた。

使用人はずっと眠らずに、京介が降りてくるのを待っていた。やがて、階上から足音が聞こえる。

京介は不機嫌そうな面持ちで階段を下りてきて、手にしていたジャケットを無言で使用人に手渡した。そして、淡々と命じる。「これをクリーニングに出して、九郎の法律事務所に届けさせろ」

使用人は余計なことは言わず、黙ってそれを受け取った。

京介は玄関先に停めていた黒いロールスロイスのドアを開け、病院へ向かうつもりで乗り込む。……だが、エンジンをかける直前、ふと手を止めた。顔を上げて、屋敷の二階を見上げる。

舞はあそこで眠っている……

今夜、彼らは不愉快なまま別れた。舞は、どうしても伝えたい大事なことがあると言っていたのに――

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