Mag-log in車内には重苦しい沈黙が流れていた。結安は章真に行き先を尋ねなかった。どうせ向かう先は一つしかない。身体を重ねるだけなら、場所などどこでも同じだった。今日はもう疲れ切っている。本当なら買い物を済ませて郊外へ帰り、チョコと過ごすつもりだった。けれど章真に振り回され、この夜はもう帰れそうになかった。信号待ちで車が止まる。章真は煙草を一本取り出して火をつけると、煙を吐きながら横目で結安を見た。「最近はどうなんだ。林とできてるのか?もう寝たのか?脚本の打ち合わせなんて口実を作って、ホテルの部屋に行くなんて、この業界じゃ珍しくもないだろ」結安はゆっくりと目を開いた。そして静かに問い返す。「章真は何を聞きたいの?私が林さんと寝たと言ってほしいの?それとも、寝てないと言ってほしいの?もし寝たって言ったら嫌になる?そんなに気になるなら、お金を積んで清純派の若い女優でも抱けばいいじゃない。きっと綺麗なままよ。昔の私みたいに」……章真は眉をひそめた。だが次の瞬間、ある少女の姿が頭をよぎる。海外で囲んでいる、あの子だ。もし結安が何事もなく自分のもとへ戻ってきていたなら、あの子との関係はそこで終わらせていただろう。学費だけは最後まで面倒を見る。それ以上会うこともない。そう思っていた。だが今の結安では違う。章真はあの少女に本気ではない。二、三か月に一度顔を見に行くだけ。身体の関係もない。ただ、心を誤魔化すための拠り所だった。もちろん、それを結安に話すつもりはない。話す価値もない。章真は煙をくゆらせながら結安を見つめる。一瞬だけ――本当に遊び相手の女を見るような目になった。心の中にいるのは別の誰か。それでも身体だけは正直だった。欲しいのは、結局結安だけだと。芽衣に守られた結安をここへ連れて来るために、あれこれ手を尽くした。三浦先生のためなら、結安は素直に自分のもとへ来る。抱かれても芽衣には告げ口をしない。章真は昔から目的のためなら手段を選ばない男だった。罪悪感などない。あるとすれば――愛しているからこそ憎い、その矛盾だけだった。……車は高級マンションの前で止まった。立都市でも屈指の一等地。最上階、二十八階。
章真の冷酷さを誰よりも痛いほど知っているのは結安だった。三浦先生に近づいたのも、自分を揺さぶるためだ。――結安が見過ごせないと分かっていて。そして、その読みは当たっていた。自分のせいで、結婚を控えた何も知らない女性まで巻き込まれる。そんなことだけは耐えられなかった。三浦先生はまだ結安の存在に気づいていない。……結安は近くの化粧室へ入り、ゆっくりと手を洗う。胸の奥が重苦しく締めつけられ、息が詰まりそうだった。ふいに、一つの影が隣へ立つ。章真だった。壁にもたれながら金色のライターを指先で弄び、静かに結安を見つめている。まるで自分だけの所有物を見るような眼差し。そこには愛情も宿っている。だが同時に、結安の「穢れ」を受け入れられない深い嫌悪も滲んでいた。結安は洗面台に手を添えたまま、静かに口を開く。「三浦先生は……本当に純粋な人なの。ただ、あなたを好きになっただけ。何も悪いことなんてしてない」……章真は小さく笑った。「そうか?でも、もし俺があの人と寝たら、きっと喜ぶんじゃないか。この数年も、年賀の挨拶だとか、たまに連絡をくれていた。俺はその想いに応えてやるだけだ。もっとも、結安――お前の純情な先生は、一度抱かれたら付き合っていると思い込むだろう。だが、俺は結婚なんてする気はない。そのとき傷つこうが、俺の知ったことじゃない」眩しい照明の下で、結安は力が抜けていくのを感じた。芽衣は自分という存在を守ってくれる。けれど、自分の人生までは守れない。章真の卑劣さは結安の想像をはるかに超えていた。視線を落とし、水を流しながら静かに言う。「……三浦先生を巻き込まないで。あの人はあなたの遊び相手じゃない。章真は女と寝たいだけなんでしょう?だったら……私が相手になる。だから今、この場で先生に連絡して。別れるって伝えて。あの人を、これ以上傷つけないで」そのメッセージはきっと三浦先生を傷つける。それでも――あとで人生を壊されるよりは、ずっとましだった。結安は章真という男を知り尽くしている。目的を果たした章真はゆっくり歩み寄ると、背後から細い腰を抱き寄せた。顎を結安の髪へ優しく擦り寄せながら、低く囁く。「数年見ない間に、ずいぶん賢く
章真は芽衣へ視線を向けた。その眼差しは鋭く、冷え切っていた。兄妹の仲は昔から誰もが羨むほど良く、口論ひとつしたことがない。それなのに今、この場には張り詰めた空気が流れている。すべては――結安一人のためだった。物音を聞きつけた陽白が、まだフライ返しを手にしたままキッチンから姿を現す。陽白はさすがに大人だった。状況を一目で察し、子どもたちを見て、結安を見て、そして林へと視線を移したあと、芽衣へ穏やかに声をかけた。「芽衣。話なら章真と書斎でしなさい。子どもたちを怖がらせちゃいけない」その「子ども」の中には、もちろん結安も含まれていた。陽白にとって、結安は今でも守るべき年下の子どものような存在なのだ。……書斎へ入った途端――兄妹は同時に口を開いた。腕を組んだ芽衣が、兄をまっすぐ見据える。「ずいぶん偉そうじゃない。四千万じゃ足りないなら四億円って……結安を何だと思ってるの?自分の欲をぶつけるための女?そんなに女が欲しいなら外で探せばいいでしょう。お兄ちゃんなら見た目だっていいし、お金だって惜しまない。喜んで相手をする女性なんていくらでもいる。でも結安は違う。結安は、お兄ちゃんが昔、誰よりも大切にしていた子でしょう?どうしてそんなふうに踏みにじれるの?私は認めない。父さんも母さんも、きっと認めないわ」章真は皮肉げに笑った。「結安は俺が育てた」その一言に、芽衣の胸が締めつけられる。しばらく兄を見つめ続け、静かに問いかけた。「……お兄ちゃん。結安を、これからどうするつもり?昔のお兄ちゃんは、結安にこんな言い方なんてしなかった。結安が人気者になるのが嫌なんでしょう?有名になれば、自分の思いどおりにできなくなるから。でも、本当に好きなら縛るべきじゃない。対等じゃない関係は恋愛じゃない。ただの支配よ。また四年前みたいに、結安を追い詰めて、自分の前からいなくしてしまうつもり?この四年間、一度も結安を思い出さなかったなんて言わせない。だったら、今度こそ結安自身に選ばせてあげて。結安には、自分の人生がある。まだ若いんだから、自分で未来を選ぶ権利がある。お兄ちゃんに追い詰められて、仕方なく従う人生なんて間違ってる」……こんなことを真正面から言えるのは芽衣だけだった。
章真は立ち去ろうとしていた。そのとき、コンコンと執務室のドアがノックされた。扉の前には、いかにも清楚な雰囲気を装った若手女優が立っていた。戸惑ったような表情を浮かべ、声まで震わせながら口を開く。「葉山様……脚本について、ご相談させていただけませんでしょうか」章真はわずかに眉をひそめた。――どこの女だ。鼻につく。自分から近づいてきたくせに、ここまで清純ぶるとは。その白々しさに、胸がむかつく。章真は一瞥すらくれず、そのまま桐生を呼び入れると、苛立ちを隠さぬ声で言い放った。「次も同じことがあったら、二度と入れるな」琴葉は目を丸くした。ここへ来る前、彼女なりに徹底して下調べをしてきた。結安の話し方や仕草まで真似してきたのだ。章真はこういうタイプが好みではなかったのか。立ち去り際、章真はふと思い出したように足を止め、振り返る。「俺は清純な子は好きだ。でも三十過ぎのおばさんが無理して清純ぶってるのは反吐が出る」その言葉は、毒でも塗り込められているかのように容赦がなかった。桐生は一目で機嫌の悪さを悟る。――結安のことだ。この数年、結安という存在は章真にとって癒えない傷そのものだった。ようやく本人は戻ってきたというのに、その傷は治るどころか、ますます深くこじれている。章真が去ったあと、桐生は琴葉へ心から忠告した。「葉山様のことは諦めたほうがいいですよ。あの方は、とても好みがうるさいですから」琴葉は思わず尋ねる。「どうしてですか?シェリーなんて、私より全然――」桐生は小さく笑った。「本当にそうでしょうか?芸能界を探したって、結安さんより清らかで、守ってあげたくなる人はいません。あの魅力だけは、誰にも真似できないです。そして葉山様にとって、結安さんはたった一人の特別なんです。あのお二人は、世間でいう『資産家と女優』なんて単純な関係じゃありません。その意味、わかりますか?」琴葉には理解できなかった。男女なんて、結局は身体の関係ではないのか。結安にできることなら、自分にもできる。結安にできないことなら、自分のほうがもっとできる。それなのに、どうして自分は結安に敵わないのか。……章真は足早にビルを出た。黒いカリナンへ乗り込むと、まずスマートフォン
林の視線がすべてを物語っていた。結安の起用は、もはや決定事項だった。「蒼穹の花」の助演女優枠は間違いなく結安のものになる。琴葉は悔しさのあまり足を踏み鳴らした。――全部、葉山章真のせいだ。そう思わずにはいられなかった。結安が章真と特別な関係にあるから。だからこそ、こんな待遇を受けているのだと。最近、業界内ではある噂が流れていた。巨石エンターテインメントに新しいオーナーが入るらしい、と。そして、その相手はほぼ間違いなく葉山章真だともっぱら噂されていた。結安は昔の情を利用して章真を取り戻し、その見返りとしてこの役を手に入れたのだ。そうに違いない。なら、まだ負けたわけではない。章真を振り向かせればいい。そうすれば役だって取り返せる。琴葉は密かに決意を固めた。そして気高い態度を崩さぬまま、その場を後にした。……一方その頃。芽衣は結安の手を引き、車へ乗せていた。運転席には陽白。林監督の車が後ろを追走する。三十分ほどして、車は一軒の邸宅へと入っていった。芽衣と陽白の自宅だった。新婚当初は都心の高級マンションに住んでいたが、二年前に双子の男児が生まれてからは、広い邸宅へ引っ越している。家政婦も雇いやすく、子育てにはこちらの方が都合が良かった。双子はまもなく三歳になる。長男――古河芽人(ふるかわ めいと)。次男――古河湊人(ふるかわ みなと)。陽白が車を降りた途端、二人の幼い男の子が駆け寄ってきた。「パパー!」「遊んでー!」左右の脚にしがみつく。陽白は思わず頬を緩めた。片腕に一人ずつ抱き上げ、順番に頬へキスをする。だが心の片隅では思う。――できれば娘が欲しかったな。本当は女の子を望んでいた。だが芽衣は出産時に大量出血を起こした。あの時の恐怖を思い出すだけで胸が締め付けられる。もうこれ以上子どもを望む気にはなれなかった。結安も車を降りる。そして双子の姿を見た瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。チョコを思い出したのだ。血の繋がりがあるからだろうか。芽人と湊人はチョコとどこか似ていた。六割ほど面影が重なる。だからこそ愛おしく、だからこそ切なかった。結局――自分と章真の縁は切れない。幾重にも絡み合った糸
そんな和やかな時間の最中だった。コンコン――再びドアがノックされる。高梨が微笑みを浮かべながら入室した。「葉山社長、林雅人(はやし まさと)監督がお見えです。候補者を一度見ておきたいとのことですが……」芽衣は即答した。「その役は結安で決まりにしましょう。シェリーという芸名も海外向けにはちょうどいいわ。国際映画賞を狙う作品なのでしょう?林監督には、賞レースの件はこちらで動くと伝えておいて」高梨は思わず結安を見た。内心では驚いていた。芽衣がここまで肩入れする相手はそう多くない。しかも、これほど露骨な厚遇となればなおさらだった。すると芽衣は何か思い出したように言葉を続けた。「それから、林監督には一階で待っていてもらって。今日はうちで食事をするから。助演女優も一緒だと伝えてちょうだい」「承知しました」高梨は笑顔で頭を下げた。芽衣は再び結安へ向き直る。乱れた黒髪を整えながら、その眼差しには隠しようのない愛情が宿っていた。そして陽白へ言う。「先に車を回しておいて。私と結安はあとから行くわ」陽白は軽く頷き、先に部屋を出ていった。扉が閉まる。室内には芽衣と結安だけが残された。その時だった。芽衣は机の引き出しを開け、一冊の通帳を取り出した。静かに結安の手へ置く。「……え?」結安は戸惑いながら表紙を開いた。次の瞬間、目を見開く。そこに記されていた金額は百億円。思考が止まるほどの大金だった。結安は顔を上げる。理由が分からなかった。芽衣は穏やかな声で言った。「母から預かってきたの。何としてもあなたを引き留めてほしいって。結安、行かないで。兄とどうなるかは関係ないわ。ここに残って。私があなたを守るから。女優を続けたいなら、必ず大スターにしてみせる。芸能界に飽きたら休んでもいい。世界中を旅してもいいし、大学へ行ってもいい。結安……これは兄があなたに負っているものなの。もちろん、こんなものでは到底足りない。でも私たちはみんな、あなたが好きなのよ」葉山家と立花家の因縁。芽衣もすべて知っていた。たしかにビジネスの世界は非情だ。だが立花家の破綻に関しては、少なくとも七割は章真にも責任がある。彼がもう少し手加減
憂いに沈む者がいれば、喜びに染まる者もいる。その夜、晩餐会を終えた寒真は、休む暇もなく深夜便でスイスへと飛ばなければならなかった。夕梨は、今回は同行することができない。宴が幕を閉じると、寒真は彼女を連れて車に乗り込んだ。夕梨はシートベルトを締め、隣の彼に視線を向けた。「フライトは何時?」寒真は彼女の頬に手を伸ばした。その声は、わずかに熱を帯びて掠れている。「午前一時だ」彼は手元の時計を確認した。現在は夜の十時。つまり、あと一時間半は猶予があるということだ。彼は少し考えた後、率直に願いを口にした。「……俺のマンションへ行かないか?数日会えなくなると思うと、どう
夕梨が病室を出てくると、朝倉家の面々が一斉に彼女を出迎えた。紀代は、涙ぐみながら尋ねた。「どうだった?寒笙は何か食べてくれそう?」夕梨は淡い笑みを浮かべた。「ええ、もう大丈夫です」朝倉家の人々は感謝の言葉を口にし、仁政もまた、惜しみない称賛を送った。仁政は昔から夕梨のことを気に入っていた。だからこそ、今でも未練を抱いているのだ。寒真があの女優と別れ、夕梨と寄りを戻せばいい、あの二人はあんなにお似合いだったのに、別れてしまうなんてあまりに惜しい――と。夕梨は彼らの心中をおおよそ察していたが、静かに首を横に振った。「兄と約束しているんです。三十分で戻ると言いまし
夕方になり、夕梨は目を覚ました。意識が戻った途端、腰はだるく、全身がばらばらになったように痛む。……彼女はゆっくりと寝返りを打ち、柔らかなベッドに仰向けになって、手で照明の光を遮った。けれどしばらくすると、じっとしていられず、布団を跳ねのけ、裸足のまま分厚いウールのカーペットを踏みしめ、寝室の大きな窓の前へ行く。手を伸ばしてカーテンを引くと、目に飛び込んできたのはスイスのユングフラウだ。連なる雪山。山頂には白い雪が厚く積もり、麓には濃く鮮やかな緑が広がっている。――息を呑むほど、美しい。胸が弾み、黒い男物のシャツ一枚を身にまとったまま、彼女はソファの背に身を
寒真ははっきりと息を呑んだ。次の瞬間、腕の中の女をきつく抱き寄せ、顔を伏せて熱い口付けを落とした。絡みあうようなその最中、喉を震わせた掠れた声で言った――「寒笙が生きていた。戻ってきたんだ!一緒に立都市へ帰ろう!今すぐだ。一刻も早く、チャーター機で帰るぞ」……男はあまりにも昂ぶっていた。そのため、腕の中の人の異変に気づかなかった。抑えきれない歓喜。熱を帯びすぎた感情を、どこかで発散させなければならなかった。光と影が幾重にも重なり、理性は乱れていく。……二時間後、彼らは立都市行きの専用機の中にいた。四月を目前にした陽気だというのに、夕梨の手足は氷のよう







