LOGIN慕美はふと見上げ、淡く笑った。――三十五歳の澪安と三十五歳の慕美。今が、きっと一番いい時期なのだろう。最終的に、彼女は澪安に似合うシャツを二着選んだ。もちろん支払いは自分のカード。気取っているわけじゃない。ただ、この程度なら自分で贈れる。それに、周防家から受けた恩のほうが、百万円なんて額よりよほど重い。たとえば黒川夫人。周防家との縁がなければ、あそこまで誠実に耳を傾けてはくれない。慕美が選んだのは黒と深いグレー。「成熟した男に似合う色よ」本当は、五年前から澪安はこの手の色ばかり着ていた。ただ口に出してからかうのが楽しい。それが対等な恋人同士というもの。もう彼の前で卑屈になる必要なんてない。澪安もまた、伏せたまつ毛の奥で同じ想いを抱いていた。近くにいた店員が、思わずスマホのシャッターを切る。慕美は両手で澪安の胸を押さえるように触れ、二人はじっと見つめ合った。店員はそっとグループチャットに送った。【やばい、視線が絡まって溶けそう!】【絶対流出しない、ここは澪安×慕美愛の防衛隊】【名前しっくりくる】……買い物を終え、車に戻る。助手席には、小ぶりのおはぎの箱と白い百合の花束。「これ、わたしに?」シートベルトをつけながら澪安が横目で見た。「他に誰がいる」「可愛い箱……開けていい?」箱を開けた瞬間、慕美の動きが止まった。中に入っていたのはおはぎではなく、深い緑の光を宿したエメラルドのジュエリーセット。一億円はするだろう。しかも「知る人ぞ知るブランド」であり、つまり、澪安が自分で選んだものだ。慕美は唇を噛み、そっと彼を見る。「いつ置いたの?全然気づかなかった」声には甘えが滲む。「先に降りたとき、トランクから取った」慕美はそっとネックレスを取り出し、続けてピアスを見比べた。目元が、ふわりとほどける。「気に入った?」「うん」彼女はピアスだけ着け、ネックレスは控えた。セットで着けるには少し華やかすぎる。「シャツ二枚で宝石一式……悪くないわね」澪安の声がかすかに低くなる。「じゃあこれからも買ってくれ。俺も、買うから」慕美は黙って彼を見る。澪安も同じように、黙ったまま。――五年の空白。もう若くはない。
ちょうどそばで片付けをしていた店員が、聞こえてしまったのか顔を真っ赤にした。それを見た慕美は、一気に恥ずかしくなり、澪安を睨みつけるとクラッチバッグを手にそのまま先に歩き出した。澪安は肩で笑い、後ろからついてくる。車に乗り込むと、シートベルトを留めた澪安が横目で彼女を見る。「怒った?男女がどうこうするなんて、普通のことだろ」慕美はそれには答えず、別のことを聞いた。「黒川夫人が相手を紹介してくれたって、どうして知ってるの?」澪安はハンドルを軽く指で叩き、面倒くさそうに笑った。「女同士で話すことなんて、たかが知れてる。恋愛、結婚、噂話……他に何がある?」反論したい気持ちはあるのに、口に出すと負けた気がして黙る。澪安は、今夜は慕美を迎えてそのまま周防本邸で過ごすつもりでいた。だが慕美は、市内のスーパーに寄ってほしいと言い出す。手ぶらで行くのは失礼だ、と。澪安は眉をひそめた。「思慕まで産んでるのに、手土産なんて形だけだろ?」慕美は彼の足を小さく蹴った。「礼儀が必要なの。常識でしょ」澪安は降参するように息を吐き、スマホで近くの商業施設を検索する。栄光グループ傘下じゃない建物を、わざわざ選んだ。その方が一緒にぶらぶらできる。それに、歳のせいか、最近こうして女と並んで買い物するのが悪くないと思うようになった。店に着くと、慕美は家族の年上の人たちに一人ひとりにカシミヤのマフラーを選んだ。一本十万円から十五万円。子どもたちの分も合わせれば、合計は百万円くらい。澪安にとっては小銭でも、慕美にとっては大きな出費だった。最初、澪安はカードを差し出した。だが慕美は首を振り、自分で支払った。そのやり取りのあと、澪安がぽつりと言う。「いいんじゃないか。そのほうが、家族らしい。で、結婚したら給料は全部俺に渡せよ。家計は俺が管理する」慕美は吹き出した。「どこでそんな昭和みたいなこと覚えたの?」「願乃から。あいつ、主婦ネットワークに強いから」結婚、という言葉を聞いた瞬間、慕美は思わず澪安を見上げた。澪安は気づかないふりで、軽く鼻先にキスを落とす。その仕草は、説明ではなく「安心させるため」のものだった。近くの店員はその様子を見ていた。もちろん澪安を知っている――栄光
部屋の灯りは柔らかく、慕美の横顔を淡く縁取っていた。五年という時間が流れても、その肌は白く、どこか幼さを残しながらも、目元には大人の女性らしい艶が宿っている。「好きなんかじゃない」そう言った声は小さかったが、澪安にはわかっていた。允久、あの男こそ、自分にとってもっとも厄介な存在だと。彼女が自然に笑い、抵抗なく距離を許せる相手。どんな男でも、そんな関係を前にすれば、胸の奥がざらつく。澪安は言葉の代わりに唇で塞いだ。先ほどまでの優しさとは違い、口づけは深く、強く、所有の色を帯びていた。重ねては離れ、奪っては与える。互いに息を乱しながら、何度も、何度も。その熱が最高潮に触れた瞬間、玄関の方から控えめなノックが響き、澪安が息を整えながら囁いた。「デリバリーか」慕美は顔を逸らし、濡れた睫毛を伏せる。頬は薄紅に染まり、肩に流れた黒髪がやけに艶めいて見えた。小さく頷いた彼女を見て、澪安は身を返し、外から届いた袋を受け取ると、わざと灯りを落としたまま戻ってきた。「澪安」不安と期待が交じった声で名前を呼ぶと、彼はまた近づき、後頭部を支えるようにして口づけた。「ここで?それとも――寝室?」そう問われ、慕美は彼の首に腕を回し、震える声で答えた。「……寝室」次の瞬間、身体がふわりと浮き、そのまま抱き上げられる。進むたび唇が触れ、落とされたベッドの柔らかさと、肌に触れる体温が境界を溶かしていく。そして夜は深く、長く続いた。「もう慣れていない」と口では言ったくせに、いざ触れれば長く空いていた時間を埋めようとするかのように、夢中で彼女を求め、離れようとしなかった。夜は深まり、温かな部屋にはまだ灯りがともっていた。ようやく彼女を手放した頃には、澪安も息を潜めていた。慕美を抱き上げて軽くシャワーを済ませたあと、濡れた髪をタオルで拭き、丁寧に乾かし、スキンケアまで済ませてやる。だが、その手つきがだんだん怪しくなっていくのを感じて、慕美は目を閉じ、くすぐったそうに呟く。「澪安。どれだけ溜めてたの」彼は喉の奥で笑い、短く答えた。「一度もしてない」慕美は聞き返さなかった。その指をそっと外し、肩に顎を乗せたまま言う。「ねえ。少し話そう」本来なら、男にとって言葉より行為の方が優先さ
夜はすでに更け、エレベーターの数字がゆっくりと階を上がっていく。到着までの時間が、やけに長く感じられた。フロアに着いたころには、指先まで少し震えていた。玄関前の灯りは運悪く切れていて、鍵穴が見えづらい。慕美は鍵を差し込もうとするが、なかなか合わない。そのとき、背後から温かい体温がふわりと覆い、まるで影のように彼女を囲い込んだ。耳元すれすれの低い声。「貸して」二人の体が密着し、呼吸の音さえ聞こえる距離。鍵は差し込めたものの、回される前に澪安が彼女の顎を掴み、そのまま唇を奪った。薄暗い玄関先で響く、湿ったキスの音だけが妙に鮮明だった。長いキスのあと、二人はドアにもたれたまま息を整える。しばらくして、慕美が小さく震える声で呟いた。「少し、寒い……」カチ、と鍵が回る小さな音。ドアが開き、澪安は慕美を抱き入れた。彼女が照明に手を伸ばした瞬間、澪安はその手をそっと押さえた。暗闇の中で、再び深い口づけが降ってくる。長い、長い沈黙と熱が続き、そのあと、彼は低く囁いた。「買わなくてもいい。もう一人、作ればいい」慕美は顔を上げ、息を整えながら答える。「今は無理。仕事もあるし……落ち着いてからでいいでしょう」感情と現実、それぞれの線引きがある。澪安は短く頷き、ようやく照明をつけた。明るくなった途端、二人の乱れた呼吸も、赤く染まった頬も、隠す余裕がなくなる。彼女が思わず胸元を押さえると、澪安はその手首を掴み、笑った。「隠す必要なんてない。綺麗だから」その声音は甘くも残酷で、逃げ道を与えない。慕美は照れたように睨むが、耳まで赤く染まっていて説得力がない。澪安はその様子に喉の奥で笑い、もう一度唇を寄せる。「で、買うんだろ?俺、あんまり我慢得意じゃない」慕美の声は、どこか甘く尖っていた。「あなたって、本当に一日中そればっかり考えてるの?」澪安は低く笑う。「男なら、普通だろ」慕美は息を詰め、諦めたようにスマホを取り出し、通販アプリを開いた。慣れた手つきでサイズを選び、カートへ入れる。――彼を知っている証拠の動き。注文直前、スマホが震えた。画面に表示された名前――允久。空気が一瞬で変わった。澪安は慕美を見下ろし、淡々と問いかける。「で?注文続
慕美はワインを少し飲んでいた。舞が澪安に言う。「送ってあげて」外に出ると、空気はすでに秋色を帯び、夜風にはひんやりとした湿り気が混ざっていた。エレベーターを降り、地下駐車場へ向かう途中、慕美は小さく言う。「送らなくていいわ。代行呼ぶから」澪安は迷いなくジャケットを脱ぎ、そっと彼女の肩に掛けた。そして、低い声で囁く。「目の前に俺がいるのに、使わない理由ある?しかも無料」慕美は苦笑する。その意味を、もう誤魔化す気はなかった。「怖いの。使ったら、代償が高すぎる」その瞬間、空気に淡い痛みが広がった。かつて愛し合った二人。それだけで、言葉より強い余韻が生まれる。今夜、慕美は新しい縁を作り、実績を手にした。かつて望んだ世界に、ようやく立てた。――自由に。――対等に。――媚びず、怯えず。けれど、それを手にした時には、もう二人はあの頃ではなくなっていた。慕美は酔いに染まった頬をほんのり赤くし、鼻先まで赤い。その姿は、一瞬、昔の少女のままだった。酒は、鎖を緩める。だからこそ、彼女は素直に言えた。「ねぇ澪安。私だってね……恨んだことがあるの。私の生まれだって悪くなかったのに、気づけばあなたの隣に立つ資格がなくなってた。どうしてって何度も思った。最後は受け入れるしかなかった。でも、受け入れる過程は地獄だった。空港で配信したあの日、私は決めたの。もう意地や勢いで恋なんてしない。もし誰かを好きになるなら、まず自分を量る。その人と並ぶ資格があるのか。好きになっていい立場なのか。そうやって確認してからじゃないと、進まないって」その言葉を、澪安は知っていた。彼女が失った自尊心と、取り戻すまでの痛みも。でも、苦しかったのは彼女だけではない。五年。彼もまた、自分では戻せない時間の中で彷徨っていた。「わかってるよ」その声は驚くほど優しかった。責めず、主張せず、ただ受け止める声。二人は車に乗り込む。座席に座った瞬間、慕美は気づく。――この車、いつものじゃない。ロールスロイス・ファントム。しかも、チャイルドシートがない方。同じ車が、きっと何台もある。エンジンが静かに始動する。走り出してからしばらく、二人は一言も発しなかった。三十分後、車は
こんな告白、女であれば誰だって心が揺れる。まして相手が立都市で誰もが振り返る男ならなおさらだ。けれど慕美は動じなかった。いや、正しく言うなら、怖かった。かつてあれほど愛し合ったのに、最後は粉々に砕け散った。残ったのは、夢のあとと深いため息だけ。エレベーターが小さく揺れる。三階に到着した。慕美はかすかに肩を動かし、小声で告げた。「三階、着いた」しかし澪安は動かない。中の人々が降りきるまで、少しもその腕を緩めなかった。慕美が手を放そうとした瞬間、彼の手が腰元をそっと支え、低く、けれど切実に囁いた。「庄司允久にだけチャンスを与えて、俺には一切与えない――そんな不公平、あるか?……思慕の父親としても、俺には同じ権利がある」慕美は息を飲んだ。――この人、変わった。どこが、と訊かれれば答えられない。けれど確かに、昔のような傲慢さだけではなくなっている。彼女は視線を落とし、曖昧に答えた。「わかった」「今の、俺を宥めただけじゃないよな?俺、本気に受け取っていいんだよな」……深まる秋という季節は、男にとって最高のロマンスと余韻を孕む。だからだろうか。慕美はあの狭いエレベーターでの、一瞬の密着、呼吸の近さ、熱――それを長く忘れられなかった。宴会場に着くと、二人は何事もなかったように別々の方向へ歩く。立都市の人間なら誰でも知っている。――澪安には子供がいる。思慕、という可愛らしい男の子だ。その母親は、昔の恋人。そして、慕美と西園寺の噂話は、もう誰も口にしない。栄光グループの古株たちは、澪安がすべて処理した。二人の関係は言葉にはせずとも、皆理解している。澪安は隠さない。今日は珍しく公の場に姿を見せ、会場は騒然となった。願乃は黒いイブニングドレスを纏い、豪奢で、どこか小悪魔じみている。その姿を見た結代が「貴族の黒い羽モップ」と笑ったのは内緒だ。「お兄ちゃん、慕美さんのところ行かないの?」願乃がワインを抱えながら言う。澪安は半目で妹を一瞥し、英国式のソファにゆったりと腰掛け、ワイングラスを指で軽く弾いた。未婚、成熟、冷静――ただそれだけで視線を集める。だが澪安が見ているのは―ただ一人。視線の先、慕美は舞と並んでいた。舞は彼女を恒







