Masuk彰人はもう遠慮をしなくなっていた。週に二、三日は外で夜遅くまで過ごしてから帰宅する。そのたびに、体にはかすかな香水の匂いが残り、シャツにもどこかしら痕跡があった。そして、帰宅後、願乃の隣に横たわることはない。ただ静かに、客室で眠る。だが、彼女の定期検診には必ず付き添った。願乃も何も言わない。彼は思う。――彼女は待っているのだろう。自分が手を離すその時を。だが、願乃……俺は手放さない。どれだけ自分の魂が汚れて、どこにも居場所がなくなろうとも。それでも、手放したくはない。自分はそういう人間なのだから。願乃の妊娠が六ヶ月に入る頃、年の瀬が近づいていた。クリスマスの季節。その頃、涼香はクラブを辞め、彰人に連れ出されていた。莫高チップで秘書として働き始め、都心の一等地にあるマンションも与えられた。彰人は時折そこを訪れた。正直なところ、苦しさに耐えきれない時、一度すべてを壊して願乃を自由にしてやろうかと考えたこともあった。だが、いざという瞬間になると、彼は必ず踏みとどまった。その日はクリスマス・イブ。彰人は涼香の部屋を後にし、車の中から窓越しに細かな雪を見つめていた。このままどこかをぶらつこうか――そう思った矢先。結代から電話が入る。「パパ、今どこ?」澄んだ声。彰人は微笑んだ。「外だよ。すぐ帰る」「うん、待ってるね!」結代は嬉しそうに言う。「今日はね、ママがお家を飾りつけしてくれたの!来年になったら、ママのお腹の赤ちゃんも生まれるんだよ!」彰人はスマートフォンを握ったまま、ただ静かに耳を傾ける。結代の描く世界はあまりにもあたたかく、美しかった。その瞬間、彼の心の奥に溜まっていた澱がすっと洗い流されていくようだった。こんな腐った生き方はもう嫌だと。――帰りたい。ただ、そう思った。だが、この雪の夜、彼がもう二度と「帰る」ことができないなど、その時の彼は知る由もなかった。夕暮れ。雪は次第に強くなる。黒いベントレーは静かに街を走っていた。両側には賑やかな店々。行き交う人々の表情には、どこか幸福な色が宿っている。その空気が彼の心を少しずつ癒していく。まるで新しい血が流れ込むように身体が軽くなる。――生きている。そう
灯りの下で、彰人の顔色は見るに堪えないほど悪かった。しばらくして、彼は低い声で使用人に告げる。「素うどんを二杯、頼む」使用人は自然に言葉を継いだ。「奥様もお呼びいたしましょうか?」彰人は一瞬考え、かすかに笑う。「いや、いい」それ以上は尋ねられず、使用人は厨房へ向かった。やがて、二杯の素うどんが運ばれてくる。本当に簡素な一杯――薄口醤油をかけ、青ねぎを散らしただけ。それでも、ほっとするような香りが立ち上る。広いリビングの灯りは落とされ、ダイニングだけが柔らかく照らされている。どこか、誕生日らしい静けさだった。彰人は一人、席に座る。目の前には二つの器。まるで昔のように、もう一方のうどんから半分を自分の器へ移す。願乃は少食で、いつも半分を彼に分けていたからだ。箸を取り、うどんを一口。ふと、隣へ視線を向ける。そこには誰もいない。それでも、彼は空気に向かって呟いた。「願乃……まだ『おめでとう』、言ってないだろ」当然、返事はない。彰人はしばらくそのまま見つめ続け、やがて視線を落とし、静かにうどんを食べ始めた。一杯目を食べ終え、そしてもう一杯も黙って平らげる。食べ終えた頃には胃が重く、鈍く痛んでいた。そのまま三十分ほど座り続け、ようやく立ち上がり、ゆっくりと二階へ向かう。寝室の扉を開けると、中は暗く――願乃はすでに眠っていた。本来なら、昨夜あれほど拒まれた以上、ここに戻るべきではない。それでも、こんな夜――すべてを投げ出したあとの夜は彼女の傍で眠りたかった。声を聞きたかった。――たとえ、寝息だけでもいい。そうすれば、行き場のないこの朽ちかけた魂にも、帰る場所があると感じられるから。柔らかなベッドに身を沈める。彰人は横を向き、月明かりの中で眠る願乃を見つめた。甘い香り。ゆっくりと距離を詰め、そっと彼女の背に寄り添う。かすれるような声で、囁く。「願乃……誕生日、祝ってくれないか」長い沈黙。当然、答えはない。彰人は笑おうとした。だが最後に浮かんだのは歪みきった、どうしようもない笑みだけだった。……朝。願乃が目を覚ますと、彰人の姿はすでになかった。それでも部屋には、彼の気配が残っている。男の体温の匂いに
深夜。彰人はまだクラブの個室にいた。豪奢なその空間は薄暗く、客は彼一人だけ。ソファに身を預け、目を閉じている。隣には一人の若い女。美月よりも若く、整った顔立ち。艶やかな黒髪に、透けるような白い肌。しなやかな肢体は今の願乃とは比べものにならない。――この女を抱けば、願乃との関係は終わる。そんな考えが何度も何度も頭の中を巡る。それでも、結局、連れ出すことはなかった。ただ、この場所でひたすら酒をあおる。吐くまで飲み、胃がひっくり返るほど苦しくなっても飲み続ける。だが、どれほど体が苦しくとも、心の痛みには到底及ばない。愛しても手に入らない。その苦しさが彼の中であまりにも鮮明に形を成していた。酒が進み、意識は朦朧とし始める。半分夢の中のような状態で、ただ、隣に柔らかな温もりがあることだけを感じていた。女の名は玉井涼香(たまい りょうか)。美大を出たものの仕事に恵まれず、今はここで接客をしている。酔い潰れた男を見つめながら、彼女の心臓は高鳴っていた。――彼は元・メディアグループの社長。その後、莫高チップを立ち上げ、資産は数兆円規模。容姿も整い、体つきも隙がない。まさに、選ばれた男。しかも調べたところ――今は独身。元妻と同居しており、しかも妊娠中ではあるが、籍は入れていない。関係も良好とは言えないらしい。つまり、自分にも可能性はある。涼香はそっと身を寄せる。ほのかな香りをまとわせ、男の感覚を刺激するように。これほどの距離で、何も感じない男などいない。彰人はゆっくりと目を覚ました。大きな手で顔を強くこすり、視線を上げる。若い女は甘えるように微笑んだ。「氷室様、少し外の空気を吸われますか?お手伝いしますよ」彰人は一度、静かに目を閉じる。そして、再び開いたときには、そこにあった濁りはすでに消えていた。上着を手に取る。女が近づこうとしたが、彰人はそれを拒んだ。個室を出ると、外で雅南が待っていた。どこか言いづらそうな表情を浮かべている。会計を済ませ、二人はそのまま車に乗り込んだ。彰人は目を閉じ、かすかに息を吐く。「いつもついてこなくていい。俺は女じゃない」……雅南は複雑な表情を浮かべた。「社長が取り返しのつかないことをし
夜更け。彰人は力なく身を横たえた。闇の中にいるはずなのに、なおも眩しさを感じる。彼女がすぐ傍にいるのに、遥かな隔たりがあるようで――もう戻れないのだろうか。かつての願乃はあれほどまでに従順で、あれほどまでに彼を頼っていた。寒くなれば、足先まで彼が温めてやっていたのに。冷え込む夜、彼女の足は彼の懐に潜り込んできた。氷のように冷たかったそれも、しばらくすれば彼の体温でじんわりと温もりを取り戻した。だが今は――その頑なな心はどれほど温めようとしても、もう温まらない。彰人は腕で目元を覆った。それでも胸の奥がじわりと疼き、喉の奥から押し出すように、低く声を落とす。「願乃……正直、俺は時々、自分が情けなくなる。俺たちが一緒にいることで、お前の人生が壊れたっていうなら……考えたことはあるか?俺の人生だって、お前で変わったんだ。俺が払ってきたものも、もがいてきたことも……お前にとっては何の価値もないんだろうな。お前にとって恋なんて、簡単に手に入るものだからだ。俺じゃなくてもいい。ピーターでも、他の誰でも――いくらでも、お前を愛するやつは現れる。だから、お前は欠けることがない。だから……俺の想いなんて、安っぽく見える。そうだろ?この半年、俺がどれだけ消耗したか……考えたこと、あるか?一度でも、俺を気の毒だと思ったことは?石だって、これだけ熱を与えれば、いつかは溶ける……そう思ってた。でも、お前は違った。本当に一度も、俺に情けをかけたことがない。時々思うんだ。プライドを捨てて、お前にすがりつけばいいんじゃないかって。でもな……愛情なんて、乞うものじゃない……だろ?」言い終えると、彼は静かに立ち上がった。「邪魔はしない」そのまま、彰人は部屋を出ていった。客室へ戻り、灯りもつけずにリビングのソファへ腰を下ろす。――そのまま、一晩中。……寝室。願乃はなおもベッドの上で小さく身を丸めていた。差し込む月明かりが、その顔を白く浮かび上がらせる。目尻には、二筋の涙の跡。それはかつて彰人を愛していた証。――あるいは今もなお愛しているのかもしれない。ただ、もう……どう愛していいのか分からないだけで。下腹がきゅっと波打つ。胎内の子が動いたのだ。小さな拳で、内側から強く叩くように。その瞬間、願乃は
夜。彰人は二階へと足を運ぶ。結代の部屋はすでに明かりが消えていた。だが、願乃はまだ起きているらしい。寝室の扉はわずかに開いており、そこから漏れる一筋の光が――男の内側に燻る火を、静かに燃え上がらせた。――まだ、眠っていない。自分を待っているのか。扉に手を当てた瞬間、胸の鼓動が速くなる。何を求めているのか、自分が一番よく分かっている。男としての欲。どうしようもない渇望。ドアを押し開けると、室内は明るく、その光が一瞬、目を刺した。顔をわずかに逸らし、光と影の中で立ち尽くす。やがて目が慣れると、願乃がリビングのソファで眠っているのが見えた。シャワーを浴びた後らしく、薄いガウンを一枚、ゆるく羽織っているだけ。腹部には薄いブランケットがかかっていたが、半分ほどずり落ちていた。わずかに露わになった腹部。ふくらみ始めたそこはかえって女らしさを際立たせていた。彰人はゆっくりとしゃがみ込み、低く名前を呼ぶ。「願乃」だが、彼女は目を覚まさない。むしろ顔をクッションに埋めるようにして、無意識にガウンの襟元がさらに乱れる。彰人は小さく笑った。そこには甘さと抑えきれない色気が滲んでいた。腕を回し、彼女を抱き上げる。四ヶ月の身重の身体は少し重みを増している。それでも腕の中では相変わらず柔らかかった。眠っている願乃はあまりにも無防備で、従順だった。伏せたまつげ。穏やかな呼吸。普段の冷たさなど、どこにもない。その姿に心が揺れる。思わず、唇に触れる。軽く――だが、次第に深く。ベッドに横たえる頃にはそのまま離れられなくなっていた。キスを重ねながら、片手でネクタイを緩める。酒の熱が全身に回る。――欲しい。どうしようもなく、欲しい。寝室の灯りは消えたままだが、リビングから漏れる光がベッドの上を淡く照らしていた。まるで、白い月光をまとったように。淡く、柔らかく――それでいて、抗いがたいほどに艶やかだった。理性が崩れかけたそのとき。願乃が目を覚ました。ゆっくりと瞼を開き、至近距離にある彰人の顔を捉える。次の瞬間、反射的に彼を突き飛ばした。「……っ」彰人は不意を突かれ、体勢を崩す。驚いた表情で彼女を見る。願乃は身体を横に向け、薄い
彰人はこれからの生活は穏やかに続いていくものだと思っていた。――以前のように。だが、現実は違った。まるで、別物だった。願乃は結代を連れて、その別荘へと引っ越した。静かに身を休めながら、出産に備える生活が始まる。周防家も、子どもが彰人のものであることには気づいているはずだった。それでも誰一人として彼と話そうとはしない。おそらく、願乃が家族に何か伝えているのだろう。その別荘はメディア本社から車でわずか五分。歩いても20分ほどの距離だった。そこには彰人専用の部屋が一室用意されていた。それは願乃が決めたことだ。あの日――結代の宿題を見てから、風呂に入り、そのまま休もうとした彰人に対し、願乃は彼を客室へと連れていき、淡々と告げた。「これからはここで寝て」グレーを基調に整えられた室内。彰人はそれを見渡し、そして願乃を見た。信じられない、という顔だった。「一緒に寝ないのか?」願乃は小さく頷く。「嫌なら、受け入れなくてもいい」それだけだった。彰人は黙って彼女を見つめる。願乃はそれ以上何も言わず、背を向けて部屋を出ようとした。その途中で、細い手首を掴まれる。次の瞬間、身体がドアの裏へと押しつけられた。腰に衝撃がいかないように、彼の手が背後に添えられる。顔が近づく。声もまた、低くかすれていた。「もし受け入れたら、どうなる?一生このままか。名目もなく、別々に寝て……それが望みか、願乃?」さらに、言葉を重ねる。「男としての欲求も全部我慢しろってことか?」願乃は身をよじって逃れようとする。だが、彰人は容易くその細い腰を掴み、身動きを封じた。願乃は唇を噛む。「嫌なの」彰人の声が強くなる。「でも、俺は違う!願乃、俺は……欲しいんだ」本心だった。だが、彼女はまだ妊娠三ヶ月にも満たない。当然、無理はできない。どれだけ欲しても、彰人は最後には自分を抑えた。やがて手を離す。その顔には、どうしようもない疲労と虚しさが滲んでいた。「どうして、こんなことになったんだ」願乃は静かに彼を見上げる。しばらくして、ふっと笑った。「彰人が、一番分かってるでしょ」彰人もまた、苦く笑う。一緒にいるのに。――もう、愛はどこにもなかっ
白川は観念したように答えた。「はい」輝はエレベーターの階数表示を見上げ、三十二の数字をしばし眺めたのち、鼻で笑った。「大したもんだな。岸本だけじゃ飽き足らないらしい」その時、ハイヒールの音が近づき、絵里香が姿を現す。「輝」あっという間に目の前まで来て、後方を一瞥する。「今の子、どこかで見たことがある気がするわ」輝は表情ひとつ変えずに言う。「見間違いだ」絵里香は白川に目を向け、何かを探るような視線を投げた。輝は淡々としたままで言った。「会議じゃなかったのか?一般社員に興味なんて珍しいな」二人は並んで歩き、白川は後ろをついていく。彼女の胸中に
茉莉は、寛の妻の部屋で宿題に向かっていた。柔らかな琥珀色の灯りの下、一筆一筆、丁寧に字を書き込んでいる。白く細長い顔立ちは、まさに周防家の血を引く証のようだった。そばでは、寛の妻が寄り添い、目を細めて孫娘を見つめている。愛情と誇らしさが、その視線から溢れていた。茉莉は愛らしく、しかも学年トップの成績——祖母にとっては、この上ない喜びだ。足音が廊下に響き、顔を上げると瑠璃が立っていた。「見てごらんなさい、この字。輝が子どもの頃よりずっと上手よ。次の保護者会、私が行ってもいいかしら?」茉莉は手を止めず、明るい声で返す。「本当はパパかママが行くものだけど……おばあ
夜が明けた。瑠璃は目を覚ますと、体の上に何か重みを感じた。視線を落とすと、男の腕——鍛えられた筋肉のラインが美しい、明らかに日常的に鍛えている者の腕——が彼女を抱えていた。そして、その先に見えたのは見慣れた顔。周防輝——眠っている男は、いつもの鋭い輪郭が柔らぎ、だが顎は無意識に引き締まり、艶やかな弧を描いている。瑠璃はしばし見とれ、昨夜のことが一気に蘇る。窓辺で、ソファで——熱を帯びた囁きと息遣い。頬にじわりと赤みが差す。そっと抜け出そうと身を動かした瞬間、手首を掴まれ、そのまま彼の胸に引き寄せられる。薄く開いたバスローブ越しに触れる、絹のように滑らかな肌と
輝が英国へ発ってから、もう一ヶ月が経っていた。年の瀬が迫っても、帰国の知らせはない。瑠璃は迷いながらも、何度か電話をかけてみた。だが繋がらず、代わりに会合の席で秘書の白川と顔を合わせた。「帰ってくるのは……年明け半ば頃ですね」あと半月——細かく詮索するのも気が引けて、瑠璃は軽く世間話をしてその場を離れた。会所の廊下は明るく、煌びやかな光に包まれていた。背後で、白川がふっとため息を洩らしたのに、瑠璃は気づかなかった。……個室に戻ると、場の空気はちょうど良く温まっており、岸本が二人の投資家を上手くもてなしてくれていた。酒はすべて岸本が引き受けている。「いやぁ







