ログイン「あぁ、紗良さん。お元気でしたか」湊さんが柔らかい笑みを浮かべながら名前を呼んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚に襲われた。参加者リストに目を通し、名前と顔をすべて記憶したのだろうか。そう考えると、湊さんの聡明さに感嘆しつつも、同時に胸の奥に小さな棘が刺さるような痛みを覚える。「えぇ。今日は一段と素敵ね」紗良さんの声は艶やかで、周囲の空気を自分のものにするような余裕があった。彼女の目線はまっすぐ湊さんに注がれ、私の存在など初めからなかったかのように振る舞っている。どうしてこの人は、いつも湊さんに近づこうとするのだろう。「紗良さんも、相変わらずお綺麗ですね」湊さんの口から自然に褒め言葉がこぼれる。その瞬間、私の胸は重く沈んだ。社交辞令だと分かってる。それでも、他の女性を褒める姿を見るのは耐え難い。私は何度もこの光景を目にしてきた。パーティーの度に、彼は女性たちに囲まれ、笑みを浮かべて応じる。私は遠くからその様子を眺めるしかなかった。それは、今も同じ。「いやだわもう。お世辞がお上手なんだから」紗良さんは軽やかに笑い、湊さんの腕に触れた。私は瞬間的に視線を逸らした。見てはいけないと思いながらも、目の端に映るその光景が焼き付いて離れない。自分だけが特別ではないのだと突きつけられるようで、指先が無意識にクラッチバッグの縁を強く握りしめていた。「本心ですよ」周囲のざわめきが遠くに聞こえ、視界の中心には湊さんと紗良さんしか映らない。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。私はただ彼の言葉が、場を和ませるためのものであることを願い続けた。「あら?もしかして隣にいる方は…奥様?」紗良さんの視線がようやく私に向けられた。私も、いつも参加しているのに、彼女の目には
シャンデリアの光が天井から降り注ぎ、グラスの触れ合う音、笑い声、ドレスの裾が擦れる音が、波のように耳に届く。一歩踏み出すたびに、ヒールの音が床に響いて、そのたびに、自分の存在がこの空間に刻まれていく気がした。視線が、いくつかこちらに向けられる。誰もが私を見ているわけじゃない。でも、確かに何人かの目が、私の姿を捉えていた。その視線が、怖かった。過去の記憶が、今の空気に重なって、胸の奥がざわついた。でも、隣にいる湊さんの存在が、そのざわつきを、少しだけ和らげてくれる。彼は何も言わず、ただ私の歩幅に合わせて歩いてくれる。その沈黙が、ありがたかった。「彩花」その声が聞こえた瞬間、自然と背筋が伸びた。懐かしい響き。月に一度のパーティーでしか会えないけれど、そのたびに、変わらず私の名前を呼んでくれる声。厳しくも穏やかで、どこか誇りを含んだ響きが、胸の奥にすっと染み込んでくる。振り返ると、そこには変わらないふたりの姿があった。父の背筋は相変わらず真っ直ぐで、母は優しく微笑んでいた。会うたびに、少しだけ年を重ねたように見えるけれど、私にとっては、いつまでも両親という存在のままだ。「お父様、お母様」自然と笑みがこぼれた。ふたりの顔を見た瞬間、胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけていくのを感じた。この場所に来るとき、どこか試されるような気持ちになるけれど、両親の顔を見ると、そんな気持ちがすっと和らいでいく。「元気だったか?」父の声は、以前と変わらず落ち着いていて、どこか安心感を与えてくれる響きだった。パーティーで顔を合わせるたびに、こうして変わらず声をかけてくれる。それが、私にとっては何より嬉しかった。仕事の話や近況を細かく話すような関係ではないけれど、不器用な愛情が込められているから。
パーティー会場のドアの前にいた。 背筋を伸ばして立っているつもりなのに、指先が少しだけ震えているのが分かる。 ドアの向こうからは、かすかに音楽と人のざわめきが漏れてくる。光が、隙間からこぼれている。 あの中に入れば、もう引き返せない。 「っ、」 喉の奥から、思わず漏れた声。 自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。 緊張していないつもりだったのに、体は正直だった。 心のどこかで、まだこの先に進むことをためらっている。 そんな自分に気づいて、情けなくなる。 「緊張してる?」 湊さんの声が、すぐ隣からやわらかく届いた。 その響きに、張り詰めていた神経が少しだけ緩む。 まるで深呼吸を促すように、私の中のざわつきを静かに鎮めてくれる。 視線を向けると、彼は私の顔を見ていた。 「そういう訳じゃないけど…」 言いながら、自分でもはっきりとは分かっていなかった。 緊張、という言葉では足りない。 怖いわけでもない。 でも、胸の奥がざわざわして、足元がふわふわと頼りない。 まるで、地面が少しだけ浮いているような感覚。 豪華なシャンデリアに、少しきつい香水、あと華やかなドレス。 女性たちは、皆堂々としていて、ドレスの裾を揺らしながら、まるで舞台の主役のようにそこにいるのに。 その中に混ざる自分が、どこか異物のように感じられて、こんな所にいてもいいのだろうかって、いつも思ってた。 「じゃあ…こんな所、身の丈には合わないって?」 湊さんの声が、ふいに重なった。 「えっ、」 心の奥にしまっていたはずの気持ちを、まるで見透かされたようだった。 「彩花ちゃんの考えてる事はなんでも分
「僕が、似合わないって言った?」 その言葉は、思いのほか静かで、まっすぐだった。 責めるようでも、問い詰めるようでもない。ただ、確かめるように私を見つめていた。 「それは、」 言葉が喉の奥で絡まった。 あのとき、似合わないと、はっきり言われたわけじゃない。 でも、私のドレス姿を見るなり、なんだその格好はと、着替えてこいと言った。 それが、答えじゃないか。 でも、自分でもそう思ってしまった。 鏡に映った自分が、まるで誰かの…あの人の真似をしているように見えた。 それが滑稽で、場違いで、痛々しくて。 その姿を見た湊の、あの一瞬の表情が、やっぱりそうだよねと、自分の思い込みを確信に変えてしまった。 惨めだった。 綺麗になりたいなんて、思わなければよかったとさえ思った。 でも、それでも、あのときほんの少しだけ期待していた自分がいたことも、否定できなかった。 「あの時の気持ちを忘れろとは言わないよ。けど、彩花ちゃんが着たいと思ったその気持ちを、なかったことにはして欲しくない」 まっすぐで、逃げ場がなかった。 私は、自分の似合うに自信がなかった。あの日から。 「私の、気持ち…」 口に出した瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。 ずっと、誰にも言えなかった。 似合わないって、言葉にされなくても分かってる。 そう思ってた。 でも、今、目の前の人は、私のその気持ちをちゃんと拾い上げてくれている。 否定しないで、なかったことにしないで、ただそこにあったものとして、まっすぐに受け止めてくれている。 「ごめん。傷つけた僕が、こんなことを言うのは違うって、分かってるのに」 その声に、ほんの少しだけ震えが混じっていた。 顔を上げると、まっすぐな目がそこにあった。 あの時のことを、なかったことにしようとしてる
パーティー当日。私たちは普段通りの休日を過ごし、ついに夜が来た。昼間の空気はどこか穏やかで、まるで何事もない日常の延長のようだった。湊さんはいつも通りで、私もそれに合わせるように笑っていたけれど、心のどこかで、ずっとこの夜のことを意識していた。時計の針が進むたび、胸の奥が少しずつざわついていく。どんな顔で、あの場所に立てばいいのか。答えは出ないまま、時間だけが過ぎていった。「はい」湊さんが、静かに差し出した箱。その瞬間、時間が少しだけ止まったような気がした。昨日、クローゼットの奥からそっと取り出した、あの箱。まさか、彼の手から渡されるなんて思っていなかった。言葉が出てこなくて、ただ、箱の重みだけが現実だった。「湊さん、どうして」ようやく絞り出した声は、かすれていた。問いかけというより、呟きに近かったかもしれない。「本当は、こっちが着たいんでしょ?」湊さんの声は、やさしくて、まっすぐだった。その一言に、私は心の奥を見透かされたような気がして、思わず息をのんだ。たしかに、そうだった。でも、それを認めるのが怖かった。誰かに見られるのも、期待されるのも、それに応えられない自分を想像するのも、全部。だから私は、ただ黙って箱を抱えたまま、俯いた。箱の角が、指の腹に食い込んでいる。俯いたままの視界に、彼の足元が見える。動かず、ただそこに立っている。「ごめんね。昨日、見えちゃって」湊さんの声は、少しだけ申し訳なさそうだった。でも、その中には、どこかあたたかいものが混じっていた。「このドレスは…昔、パーティーで着ようと思って買ったもので、」
その日の晩、私はなかなか寝付けなかった。 布団に入ってから何度も寝返りを打ったけれど、まぶたは一向に重くならない。 目を閉じれば、明日のことばかりが頭をよぎる。 お義母様のこと、パーティーのこと、あのドレスのこと。 考えまいとしても、思考は勝手にそこへ戻ってしまう。 胸の奥がざわざわして、呼吸が浅くなる。 こんなふうに不安で眠れない夜は、久しぶりだった。 「眠れない?」 ふいに、低くやわらかな声が闇の中から届いた。 その声が聞こえた瞬間、私ははっとして、身じろぎを止めた。 暗がりの中、隣にいる湊さんがこちらを向いているのが分かる。 「ごめん、起こしちゃった?」 私は小さな声でそう言った。 湊さんは、枕に頬を預けたまま私の方を見つめていた。 その目はまだ眠たげで、まぶたが少し重そうだった。 「明日のこと考えてた?」 私はすぐには答えられず、ただ小さくうなずいた。 言葉にしてしまえば、不安が現実になってしまいそうで、喉の奥で言葉がつかえてしまう。 「パーティーって、美味しい食べ物沢山食べれるんでしょ?」 ふいに、湊さんの声が少しだけ明るくなる。 「え、うん。そうだけど」 私は少し戸惑いながらも、素直に答えた。 不安でいっぱいだった心に、ほんの少しだけ余白ができた気がした。 パーティーの話題が、急に現実味を帯びてくる。 それは怖さでもあるけれど、同時に、誰かと共有できる安心でもあった。 「彩花ちゃんは何が好き?」 私は少しだけ考えてから、ふと浮かんだ料理の名前を口にした。 「鯛のカルパッチョかな。薄くて透けるくらいの切り方で、柚子の香りがふわってして、口に入れるとすっと溶けるの」 言葉にしながら、私はあのときの記憶をたぐり寄せていた。 白い皿の上に、まるで花びら