LOGIN「──は、」 酷く喉が渇くような感覚。 目の前がぐらぐらと揺れているような感覚に陥った誠司は、ふらり、とよろめいた。 だが、自分の腕の中には胡桃が居る。 誠司は優しく胡桃をベッドまで連れて行き、ベッドに横たえた。 そして、自らは胡桃が落としてしまった書類を拾うためにそちらに歩いて行く。 「──ぃやっ、見ないで、拾わないで誠司っ」 「──……っ」 背後からは胡桃のか細く、悲痛な声が落ちる。 だが、胡桃の静止を振り切り、誠司は床にしゃがみ込んで書類を1枚1枚拾い上げた。 「……ぁっ」 拾っていく内に、書類は中絶手術の説明や、同意書だけではない事に気がついた。 エコー写真や、現在が何週目なのか、そして妊娠初期に気をつけなければいけない事などが記載されている書類も混ざっている。 「……な、ん……」 誠司の頭の中は真っ白になっていた。 どうして。 胡桃と抱き合う時は避妊具を欠かした事などないのに。 それなのに、どうして胡桃が妊娠を──。 週数を確認してみれば、恐らくE国で抱き合っている内に出来てしまったのだろう、と何となく察せれた。 誠司はE国に渡ってからと言うものの、タガが外れたように胡桃の体に欲情し、毎日のように抱き合っていた事を思い出す。 「──あの期間に……っ」 前髪をぐしゃり、と握り潰しつつ口からは低く呻くような声が漏れる。 いつの間にやってきたのだろう。 背後までやって来ていた胡桃が、誠司の手から書類を奪い取った。 「だ、大丈夫よ誠司……!心配しないで、この子は……っ、この子はちゃんと……堕ろす、から……っ!お姉ちゃんと誠司の幸せを、壊せないっ、から……っ」 ぶわり、と胡桃の目には涙が溢れ、そして堪えきれなかった涙がボタボタと床に降り注ぐ。 「胡桃……っ」 「大丈夫、大丈夫、よ……っ、ちゃんと、するからっ」 嗚咽混じりに泣きじゃくりながら、胡桃は誠司の手を引いてベッドのサイドテーブルに彼を誘導していく。 誠司は頭の中が真っ白のまま、理解が追いついていない。 そんな誠司を椅子に座らせた胡桃は、戸棚から筆記用具を取り出すと泣きじゃくりながらそっと誠司の様子を窺った。 誠司は、心ここに在らず、といった体で呆然としている。 目の焦点も合っていないように見えた。 確実に頭の中はパニック状態に陥っていて、判
◇ 「──〜また電話を切りやがった……!」 誠司は病院の病室で、怒りを顕にしてスマホを床に叩き付ける。 ガシャン!と大きな音がして、その音にはっとした誠司は慌ててしゃがみ込み、スマホを拾い上げた。 「──くそっ!」 画面がひび割れてしまっていて、誠司は壊れてしまっていないか、スマホを操作して確認する。 幸いにもスマホは壊れていなかったが、画面がバリバリに割れてしまい、新調する他ない。 「……何で田島をクビにしてしまったのか」 ちらり、と背後を確認する。 いつも誠司の背後には、優秀な秘書田島が控えていた。 今回のスマホの件も、もみじへの連絡も、そして駅舎の情報だって、田島をクビにさえしなければ田島が全て対応してくれていただろう。 それだけ、田島は優秀な秘書だったのだ。 それを一時の感情に流され、クビにしてしまった事を今でも誠司は後悔していた。 「……田島に連絡を入れてみるか?いや、だが……社員達は田島を軽蔑している。もう、俺の会社で雇う事は無理だ……それなら、新会社を立ち上げるか……?」 病室をうろうろと歩き回りながら、ぶつぶつと呟く。 「検査待ちは一体どれだけ待つんだ……?胡桃が検査に行ってからもう小一時間は経つ……」 まさか、何か病気ではないだろうな──。 そんな不安が誠司の胸に過ぎる。 だが、付き添いはここで待っているように、と言われてしまえばどうする事も出来ない。 誠司は仕事用のタブレットを取り出すと、胡桃の検査が終わるまでの間、会社の仕事を少しでも片付けようと集中した。 「──誠司、お待たせ……」 「胡桃!」 タブレットで仕事を捌いて数十分。 病室の扉を開けて、検査着を着たままの胡桃が姿を現した。 「大丈夫だったか?顔色が真っ青だぞ……!?」 「う、うん……大丈夫、よ……あっ」 誠司が丸椅子から立ち上がり、胡桃に歩み寄りつつ声をかける。 胡桃は力なくにこり、と笑うとふらりと大きくよろめいた。 「大丈夫か、胡桃!」 倒れてしまう寸前の胡桃の体を、誠司は慌てて支える。 すると、その拍子に胡桃が持っていた書類がバサバサ、と派手な音を立てて床に落ちてしまった。 「──っ、いやっ、見ないで……!」 書類を拾おうとした誠司を静止するように、胡桃が悲鳴のような声を上げる。 「ど、どうしたんだ胡桃!そんな
髙野辺に新住所を送って、数十分。 1時間もしない内に髙野辺が到着したらしく、連絡が来た。 もみじが急いで下に降りると、髙野辺の車の前には髙野辺本人と、田島が一緒に待っていた。 「──あれ、田島さん?」 「新島さん。お久しぶりです」 ぺこり、と頭を下げた田島に、もみじも頭を下げて挨拶を返す。 どうして田島が一緒に──。 そう疑問を感じたもみじだったが、その疑問にはすぐに髙野辺が答えてくれた。 「新島さんは今、旦那さんと離婚について話し合っている最中でしょう?そんな中で新島さんが他の男と2人きりで会っている所を万が一見られたら余計な火種になってしまうので……」 「な、なるほど……!お気遣いいただいてすみません……!ありがとうございます!」 そこまで頭が回っていなかった。 確かに、もみじと髙野辺が2人だけで会っている所を万が一見られたら。 何の疚しい事もない知り合いだけど、誤解されてしまう可能性の方が高い。 だが、これが2人きりではなく田島も同席していれば、何か仕事の関係で会っていたのかもしれないと思ってもらえる。 それに、今回向かう先は服屋だ。 スーツを購入するだけだから、何の疚しい用事でもない。 「さあ、行きましょうか新島さん。俺が普段利用している店なんですが、女性物も種類が豊富なんです」 「本当ですか!?凄い有難いです、ありがとうございます髙野辺さん」 もみじから満面の笑みを向けられた髙野辺は、微かに頬を赤く染める。 小さく咳払いをすると「出発しますね」と一言告げてから車のエンジンをかけた。 ◇ 自分の雇い主──しかも、冷徹で厳しい会社の社長が、1人の女性の言葉で一喜一憂し、頬まで染めている姿を後部座席から見ていた田島は、何だか見てはいけない物を見ているような気がしてそっと視線を逸らした。 (新島さんから連絡が来た時の社長の反応……凄かったな……) もみじから連絡を受けた時、髙野辺は会議中だった。 だが、スマホを確認した途端髙野辺の表情がさっと変わり、会議を恐ろしいスピードで詰め、終わらせた。 どこか浮かれているような気がして、田島は何となしに声をかけたのだ。 「急ぎの用事ですか?」と。 その瞬間、髙野辺の足がぴたりと止まり、田島に振り返った時の表情は普段見慣れている冷静で氷のように冷たい「社長」の顔に戻って
身支度をしている蘭に向かって、もみじは声をかける。 「蘭、おはよう。もう帰るの?」 「あっ、もみじおはよう。うん、急ぎの仕事が入っちゃってね……本当は今日1日休みだったのにぃ……」 悔しそうに言葉を漏らす蘭に、もみじは柔らかく微笑んで近付いた。 「またいつでも遊びに来て?私は在宅で仕事をする事が多いから、いつでも歓迎するわ」 「うん、ありがとうもみじ。またすぐに遊びに来るからね」 もみじと蘭はぎゅうーっと強く抱き合う。 じゃあね、もみじ!と元気良く晴れやかな笑顔を浮かべて帰って行く蘭を、もみじは見送った。 「──さて、昨日購入した家具が届くはずだし、私も家の片付けをしなくちゃね」 腰に手を当てて息を漏らす。 昨晩食べた物や空き缶などを片し、洗い物をしている内にあっという間に時間は経ち、家具が配達される。 冷蔵庫や食器棚、それにベッドや仕事ようデスクなどが次々と運び込まれ、設置されていく。 クローゼットを開けると、そこはガランとしていて、もみじは自分の腰に手を当ててうーんと考えた。 「家から持ってきた服だけだとやっぱり少ないわね……。これからはSeaとしての活動を増やして行くつもりだし……取引先との打ち合わせも増えるから、ちゃんとした仕事着を増やさなきゃ」 それに、ともみじは寝室にかけてあるカレンダーに顔を向ける。 「デザインコンテストの最終選考も、もうすぐだものね……」 デザインコンテストの最終選考の面接には、大企業の役員も参加するらしい。 きっと緊張感が高い面接になるだろう。 「……スーツを新調しようかな」 呟いたもみじは、スマホを取り出して蘭に連絡しようとしたが先程の蘭の言葉を思い出してはっとする。 「……駄目だわ、蘭は仕事が入っちゃったし……どうしよう……後は誰に聞こう……」 大事な面接の場に相応しいスーツを選びたい。 だが、今まで会社員として働いた事のないもみじは、何となくの服装は分かるが自信が持てない。 迷った末に、もみじは髙野辺の名前をスマホに呼び出した。 「……ちょっと、ちょっと聞いてみるだけだったら大丈夫かな。髙野辺さんは会社員だし、そういった場に相応しい服装は詳しいかも……」 少しだけ躊躇いつつ、もみじは簡単に文章を打つと髙野辺にメールを送った。 もしかしたら、仕事で忙しくてすぐに返事は返って
──ブーン、ブーン、と低い重低音が響く。 その音は何十秒、数分間続き、やっと途切れた。 だが、間を開けずに再び重低音がブーン、ブーンとなり、もみじの意識はふっと浮上した。 「んん……、何……?」 頭がガンガンと痛む。 もみじは小さな声で呻くと、不快な音を奏で続ける原因を探ろうと腕を動かした。 すると、振動し続ける何か──スマホに、自分の腕が触れた。 「……電話?」 長い振動だ。 通知や、メール受信のお知らせではない。 もみじはのそり、とその場に起き上がると隣で自分と同じようにすうすうと寝息を立てる蘭を起こさないよう気をつけながら立ち上がる。 硬いリビングの床の上で寝てしまったからだろう。 体がバキバキになってしまっていて、あちらこちらが痛い。 もみじは何とか寝室に向かうと、扉をしっかりと閉めてスマホの画面を見た。 そこには「新島 誠司」の文字が表示されている。 その名前を見た瞬間、もみじの頭痛は更に増した。 眉を寄せ、顔を歪めつつその電話に出る事にしたもみじは、スマホをタップして耳に当てた。 「……何の用?」 寝起きのもみじの声は、酷く低く掠れている。 そんなもみじの耳に、怒りに満ちた誠司の大きな声が響いた。 〈何の用じゃないだろう!?どこをほっつき歩いている!?胡桃の具合が悪いから世話をしてやれ、と連絡をしただろう!〉 誠司の大きな声に、頭痛が増したような気がして、もみじは耳からスマホを思わず離す。 その間も、誠司の文句はまだ続いていた。 〈今日、俺が胡桃を病院に連れて行く!診察が終わったら胡桃を家に連れて帰るから看病をしろ!〉 誠司の言葉が終わるのを待ち、もみじはスピーカーに向かって落ち着いた声音で告げる。 「そんな事より、離婚届と協議書にサインはしてくれた?」 〈そんな事だと!?まだそんな事を言っているのか!?何をそんなに意地になっている!?まさかまだ俺と胡桃の仲を疑っているのか!?そんな馬鹿な事を言っていないで早く家に帰ってこい!これ以上胡桃を煩わせるな!可哀想だろう!?〉 「可哀想……?はっ、可哀想、ね……」 〈おい、何を笑って──〉 「サインをして。サインが終わったら連絡をちょうだい。それ以外での連絡はしないで、煩わしいから」 〈──っ、もみじ──〉 誠司の怒号が響きそうになった事を察し
美味しい沢山のおつまみに、美味しいお酒。 そして目の前には、もみじが大好きな親友。 元いた家より全然狭いが、あの家に比べれば息苦しくもなく、ただただ楽しい時間と空間。 もみじは蘭に進められるがまま、次々とお酒を開けていた。 「──はぁ!?あのクズ旦那、不倫相手を連れ帰ってきてもみじに面倒を見させようとしてたっての!?信じられない!馬鹿じゃないの!」 もみじから今日誠司が帰国した事。 そして、誠司が胡桃を連れて帰ってきた事。 具合の悪い胡桃の世話を自分にさせようとしていた事を、もみじは酒に酔った勢いで話した。 そうしたら、蘭は烈火の如く怒り狂い、叫んだ。 もみじも蘭の言葉に同調するように頷く。 「本当よね……、本当に信じられないのよ。どんな神経をしていたら、胡桃の世話を頼めるのよ……私が何も気が付いていないって思い込んでいるから、そんな事が出来るのよ」 「本当に馬鹿よね。とっくに気が付いているし、飛行機でイチャついていた写真も相当出回っているじゃない?気が付いていないのは旦那とその妹だけじゃないの?」 「うーん、誠司は気が付いていないかもだけど、胡桃は知ってるような気がする。あの子、SNSに敏感だから」 「へえ……。気が付いていながらやっているなら、随分面の皮が分厚い子ね、その妹って」 「ええ、そうなのよ……。昔から義母に甘やかされて育っているから……だから、自分の思い通りにならないと癇癪をよく起こしていたし……」 「とんだ我儘ろくでなし女じゃない!」 ひえーっ、と嫌そうに顔を歪めて話す蘭に、もみじも苦笑いを浮かべる。 「もみじは、どうするの?旦那と離婚したら……また実家との付き合いをするの……?」 「いいえ。私は1回家を出てるから、もう戻らないし、あの家とも関係を断ちたいわ。……もう、あそこは私の家じゃないし」 「そう、よね……」 蘭はしんみりとした様子で頷く。 もみじが、嶋久志の実家でどんな風に過ごしていたか。 それを、高校の時から仲の良かった蘭は見ていたし、知っていた。 学生の時は、まだ良かった。 もみじの傍には誠司がいたし、もみじの味方にもなってくれていた。 だが、当日もみじを守り、支えてくれていた誠司は今はもう胡桃に狂い胡桃を大事にしてしまっているのだ。 「私は義母とは折り合いが悪いし……実父とも……あ
◇ 場所は変わって、もみじが入院している病室。 ベッドに横たわりながら、もみじは病室の真っ白な天井をぼうっと見つめつつ、ころりと寝返りを打った。 じっとしていると、昼間の事が思い出されて、もみじはぐっと強く目をつぶった。 (……誠司は、胡桃を優先した) あの時の光景を思い出して、もみじの唇が震えてくる。 (私が倒れても、誠司は見向きもせずに……胡桃を大事そうに抱えて……) そもそも、そんなに胡桃が大切なら。 どうして誠司は自分と結婚したのだろう、ともみじはどんどん暗くなってしまう。 (結婚しても……、誠司とはまだ本当の夫婦になっていない……。それに、結婚指輪だって──。会
どさり、ともみじの体が倒れ込んだ先は、男性の腕の中だった。 ふわり、と香る男性の香水。 鼻に届いたのは、どこか刺激的だけど爽やかでもあって、もみじは急いで男性から離れようとした。 「すみませ……っ、ありがとうございます」 ぐっ、ともみじが男性の胸を押すと、素直に男性はもみじの体を離した。 だが、離れた事でもみじの顔が良く見えるようになり、そこでもみじの額を流れる血を見て更に慌てたように声を出した。 「額から血も出ていま
◇ 誠司の会社。 「──ぐぅっ」 「しゃ、社長……大丈夫ですか?」 「……胃薬を。今すぐ手配してくれ」 「か、かしこまりました!」 誠司は、社長室でキリキリと痛む胃を押さえ、脂汗を浮かべていた。 誠司の秘書──田島は、真っ青な顔で辛そうに唸る誠司を見て慌てて薬局に走った。 「──くそっ、昨夜の飯が……」 少々、脂っこい感じがしたのだ。 その事に気付いた誠司は、全て食べる事はせずに捨てたのだが、それでも胃がキリキリと痛み辛い。 「こんな風になる事は、ここ最近無かったのに……」 もみじと結婚してから。 この数年、胃が痛むと言う経験は殆ど無かった。 それなのに、昨夜は
◇ その日の、夜──。 もみじを病室まで送り届けた髙野辺は、もみじにまた明日と挨拶をして部屋を出た。 そして、髙野辺はそのまま病院を出る事なくある場所に向かって歩いていた。 髙野辺が向かったのは、病院の「院長室」 院長室のドアをノックすると、院長自ら扉を開けた。 「髙野辺様!」 「院長、急にすまない」 「いいえ、いいえ!髙野辺様でしたらいつでも!いつもご支援いただき、本当に感謝しております!」 室内に案内された髙野辺は、促されるままソファに腰を下ろした。 院長が髙野辺の目の前にコーヒーの入ったカップを置くと、不安そうに視線を向けてくるのを感じる。 髙野辺は淹れてもらっ