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指先から①

Author: 藍沢咲良
last update publish date: 2026-09-14 18:50:22

店舗の奥は静かだった。

日曜特有の、少しだけ間延びした空気。

外の営業は動いているのに、事務スペースだけが一段落している時間帯。

いつも通りの姿勢で画面を見ていた。

手は動いている。

頭も動いている。

──はずだった。

けれど。

立ち上がろうとした瞬間、視界がわずかに白く揺れた。

(あ。)

ほんの一瞬。

誰にも気付かれない程度の揺れ。

机に指先を置いて、呼吸を整える。

大丈夫。

いつものやつ。

朝から少し食べるのが遅れていた。

会議の準備でバタついて、昼も軽くしか口にしていない。

「……大丈夫」

誰にも聞こえない声で、そう呟いて、もう一度椅子に座り直した。

作業に戻る。

画面の文字が少しだけ遠い。

でも読める。

読めるなら問題ない。

ぎゅっと目を瞑った。

そうやって、いつものように“気合で押し切る”つもりだった。

──カチ。

入口のドアが静かに開いた音がした。

足音は一つ。

一定の速度。

迷いのない歩き方。

振り返らなくても分かる。

所長が戻ってきた。

「……お疲れさまです」

顔を上げて、いつも通りの声で言う。

声は、思ったより普通に出た。

所長は短く頷くだけだった。

「会議、終
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  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   指先から①

     店舗の奥は静かだった。日曜特有の、少しだけ間延びした空気。外の営業は動いているのに、事務スペースだけが一段落している時間帯。いつも通りの姿勢で画面を見ていた。手は動いている。頭も動いている。──はずだった。けれど。立ち上がろうとした瞬間、視界がわずかに白く揺れた。(あ。)ほんの一瞬。誰にも気付かれない程度の揺れ。机に指先を置いて、呼吸を整える。大丈夫。いつものやつ。朝から少し食べるのが遅れていた。会議の準備でバタついて、昼も軽くしか口にしていない。「……大丈夫」誰にも聞こえない声で、そう呟いて、もう一度椅子に座り直した。作業に戻る。画面の文字が少しだけ遠い。でも読める。読めるなら問題ない。ぎゅっと目を瞑った。そうやって、いつものように“気合で押し切る”つもりだった。──カチ。入口のドアが静かに開いた音がした。足音は一つ。一定の速度。迷いのない歩き方。振り返らなくても分かる。所長が戻ってきた。「……お疲れさまです」顔を上げて、いつも通りの声で言う。声は、思ったより普通に出た。所長は短く頷くだけだった。「会議、終わりましたか」「ああ」それだけのやり取り。いつも通り。何も変わらない。なのに。所長の視線が、一瞬だけ私の手元で止まった。マウスを持つ指先。わずかに力が入っているのを、自分でも自覚していた。「作業、進んでるか」「はい。式典の進行差分、もう一度見直してます」言いながら、立ち上がる。資料を取りに行こうとした、その瞬間。──ぐらり。床がわずかに遠ざかる感覚。咄嗟に机の端を掴んだ。一秒。二秒。呼吸を整える。(見られてない。大丈夫。)姿勢を戻す。「……大丈夫です。ちょっと、立ちくらみ」先に言った。指摘される前に。それが、いつもの対処だった。所長はすぐには何も言わなかった。ただ、私を見ている。無言のまま、数秒。その沈黙が、妙に長く感じられた。「座れ」短い声だった。命令でも、叱責でもない。業務連絡のような口調。「いえ、本当に大丈夫です。もう平気なので──」「座れ」二度目は、少しだけ低かった。ほんの一瞬だけ迷ってから、椅子に腰を下ろした。「水、飲め」デスクの端に、ペットボトルが静かに置かれる。いつの間にか、所長が近くに来ていた

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   沼の気持ち良さといったら、もう②

    「──榊くん?」私が言うと、榊くんは小さく息を吐いて、もう一度端末に視線を落とした。さっきよりスクロールが速い。必死だ。その横顔を見ながら、私は自分の胸の奥を、指先で押さえるような気持ちになる。──私は冷たいのだろうか。違う。冷たいんじゃない。私が守っているのは、距離じゃなくて“秩序”だ。仕事の秩序。自分の秩序。そして、氷室所長の不在で薄くなったはずの心の秩序。不在なのに、存在感だけが残る。既読だけついた、あの一行が。返信がないだけで、こんなに落ち着かないなんて。私はいつから、他人の沈黙をこんなに気にするようになった?「……ありました」榊くんが言った。ようやく見つけたらしい。「どこ?」私が聞くと、榊くんは少しだけ身を乗り出して、画面をこちらに傾けた。“見える距離”まで来ない。“見せる距離”だけを作る。上手い。私はその努力を褒めない。褒めると、次からそれが“通行証”になる。「変更、誰の判断?」「……前田さんが、じゃないですかね。たぶん」曖昧だ。現場の“たぶん”は、事故の入口。私は指を止めて、チャットの投稿者名を確認した。前田主任本人の投稿。なるほど。「前田主任に、意図を確認して。担当の入れ替えは、理由が要る」榊くんは、うなずいた。「はい」その返事が、いつもより少しだけ素直だった。昨日の飲み会の、あの三十分。私は知らないふりをしている。榊くんも、知らないふりをしている。それが一番安全だ。安全、という言葉が頭をかすめたとき。私はふと思い出す。焼肉の席。氷室所長の、ほんの一瞬の口角。牛タンに本気になっていた、あの横顔。冷たくも優しくもない、ただ“普通”の人の顔。──鎧が外れた一瞬。あれが、反則だった。私はずっと、氷室所長を“氷室所長”として見ていた。役職で、態度で、境界線で、できた人。でも、昨日だけ。ほんの少しだけ。氷室さんだった。氷室さんは、笑うんだ。ただし、声を出さない。笑っているのに、誰にも渡さない。渡さないのに、見せてしまう。……ずるい。私は、机の引き出しを開けてペンを取り出すふりをした。胸の中の揺れを、仕事の動作で誤魔化す。誤魔化せると思っている自分が、少し可笑しい。「朝比奈さん」速水くんが小声で呼んだ。「はい」「先ほどの“二十回”って、

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   沼の気持ちよさといったら、もう①

    気を抜くと、あの「皇帝って」が勝手に再生される。開店前、事務所はまだ静かだった。契約書の束を揃えながら、机の端に一枚のチェックリストを置いた。重説の読み上げ。区切り。言い切り。数字。用語。今日、読み上げの一部を担当するのは──速水蒼。本来、入ってきたばかりの新人に任せる箇所じゃない。でも速水蒼は宅建持ちで、氷室所長は“任せる”と決めた。「蒼くん、今日の昼までにこれ、二十回」あくまで淡々と言ってみせた。速水くんが即答する。「はい。二十回ですね。やります」返事が良すぎて、逆に怖い。速水スマイルは今日も健在。そこに榊くんが口を挟む。「朝比奈さん、そこまで求めなくても……蒼くん、十分できると思いますけど」“優しさ”の顔をした逃げ道。褒めてるふりで、基準を下げるやり方。笑顔を作る。声も柔らかくする。でも温度は渡さない。「求めない、って言い方はやめよう?」榊くんではなく、蒼くんを見て言った。「蒼くん、声が通るでしょ。目立つ人ほど、ズレたら一発で分かる。だから“正しい言葉”で練習するの」速水くんは瞬きもせずに頷いた。「承知しました。言い間違いが起きやすい箇所、先に教えてください」一拍だけ息を吐く。この子は、基準を下げない。積み上げを厭わない子は伸びる。──氷室所長と、目が合った。昨夜の笑い声を思い出しかけて、すぐに打ち消した。一瞬だけ、昨夜の「皇帝って」が脳内で再生される。だめだ。ここ職場。私は視線を外さず、そのままチェックリストを持ち上げた。「『解約予告』と『違約金』。あと『更新料』。数字は家賃と共益費をセットで。区切りはここ」チェックリストの赤線を指でなぞった。「はい」速水くんはメモを取る。速い。迷いがない。榊くんが苦笑いで言う。「蒼くん、真面目だね」「真面目じゃないと困る仕事だから」一瞬だけ、榊くんの顔が固まった。すぐに“いい人”に戻る。でも、その速度がもう遅い。スマホを取り出して共有フォルダに音声を入れた。自分が実際に読み上げた見本。それと、研修用の参考動画。「これで練習。二十回。区切りと速度だけ先に決めたら、勝手に回り始めるよ」速水くんはにこっと笑った。「承知しました。昼までに仕上げます」正確さは優しさだ。そして、優しさは“基準を下げること”じゃない。焼肉の翌朝だというのに

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   ミッション発生!⑤

    言った瞬間、私の喉がきゅっとなる。一線を越えた気がした。こういうの、氷室さんはきっと嫌がる。仕事の外の私情を、嫌う。でも。氷室さんは、反論しなかった。炭がぱち、と鳴る。その音だけが、間を埋める。氷室さんはトングで、肉ではなく、網の端を軽く叩いた。癖。考えるときの癖。今日一日だけで、私の知らなかった氷室さんがたくさん出てきた。「……優しくしてない」「してます」「……普通だ」「それが、優しいって言ってるんです」私が言うと、氷室さんは一瞬、視線を逃がした。逃がした先が、私の皿。増えてる牛タン。自分の皿の、少ない肉。そして──「……食え」またそれだ。自分は全然食べてないのに。相手に食わせるのが好きな人なんだろうか。……まさかね。氷室さんが尽くすのが好きな人だなんて、まさか、ね。「氷室さん、語彙が少ない」「必要ない」「必要あります。だって私、今、氷室さんの“食え”だけで生きてます」「大げさ」「大げさじゃないです。致死量です」「……致死量って言うな」そこで、氷室さんが──ふ、と息を漏らした。声。ほんの少し、喉が鳴るみたいな笑い。私の目が見開かれる。「……っ、今、声出ましたよね?」「出てない」「出ました」「出てない」否定の回数が増えてる。それ、もう自白。皇帝、人間でした。ヒトでした。「氷室さん、笑うんですね」「笑う」「信じられない」「……失礼だな」失礼、の言い方がもう柔らかい。怒るふりをして、怒ってない。氷室さんが親しい人と話すときってこんな感じなのかな。私は牛タンを口に運びながら、わざとゆっくり言った。「じゃあ私、今日のこと、月曜に会社で言おうかな」「言うな」「え、なにそれ。隠すんですか?」「……お前が変なこと言うからだ」変なこと。つまり、私は氷室さんを笑わせた。そういうこと?私は嬉しくて、噛むのを忘れそうになる。でも噛む。ちゃんと噛む。黙って食うのが、氷室さんの最高評価。氷室さんは、次のタンを焼きながら、ぼそっと言った。「……お前、こういうの、得意だな」「何がですか」「人を……崩すやつ」言い方が、不器用すぎる。崩す。そんな言葉でしか、表現できないの。私は少しだけ、声を落とした。「崩してないです。……氷室さんが、勝手に崩れただけ」その瞬間、氷室さんの

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   ミッション発生!④

    「俺のも、焼けた」そう言って、氷室さんはようやく牛タンを口に運んだ。噛んだ瞬間、眉間がわずかにほどける。……え、今。機嫌が良い、ってこういう顔のこと?私は自分の皿の牛タンを見下ろして、息を整える。さっき“食え”と言われたのがまだ耳に残っていて、まともに味が分からない。恐る恐る、一枚。噛む。……美味しい。危ない、言うところだった。口に出しそうになって、慌てて飲み込む。うっかり「美味しい」なんて言ったら、氷室さんのドヤ顔が見られるかもしれない。それはそれで、ちょっと見てみたいけど。「……どうですか?」言い方が、ほぼ面接官だ。自分でも笑いそうになる。氷室さんは、また一枚を焼きながら、視線だけこちらに寄越した。「悪くない」「それ、最高評価のやつですよね」「違う」「じゃあ、氷室さんの最高評価って何ですか」「……黙って食うやつ」また網に、タンが乗る。押さえる。待つ。押さえる。──押さえすぎだ。私は思わず、口を出す。「氷室さん、さっきからタンをいじめてません?」「いじめてない。熱を均一に──」「それ、“肉に圧”かけてますよ」「圧じゃない」言い切る声が真面目すぎて、逆に可笑しい。「……氷室さんって、普段もそんなに圧かけて仕事してるんですか」「仕事に圧は必要だ」「やっぱり……」「違う」氷室さんが、微かに口元を引き締めた。“否定”の形なのに、どこか堪えている。まさか。「……今、笑いそうになりました?」「なってない」即答。もう既に顔、笑ってる。ごくわずかな震えが見える。これ、相当笑いを堪えてるやつ。「嘘。今、もう目が笑ってますよ?」「笑ってない」笑いを堪えているの。皇帝が。クールな氷室さんが。いつもより、ほんの少しだけ、空気が柔らかい。私がその“ほころび”を逃さないように見つめていると、氷室さんはトングを置き、グラスに手を伸ばした。一口飲んで、間を置く。そして。「……お前、よく喋るな」その言い方が、呆れているのに、嫌じゃない。むしろ──温度がある。「仕事でも喋ってます?」「仕事では喋らない」「じゃあ今、レアです」「……そうかもな」小さく、吐く息。氷室さんの口角が、ほんの少しだけ上がる。声が出るほどじゃない。でも確かに、“笑い”の形。初めて見る。私の胸が、変に跳ねた。

  • 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜   ミッション発生!③

    玄関の鍵を閉めて、私は小さく息を吐いた。夜の空気は少しだけ冷えている。昼間のざわつきとは違って、街が“落ち着く音”を出していた。……落ち着くのは、私の心臓だけでいい。集合場所は店の近く。「遅くならない店」と言ったのは所長だ。きっと彼は、車で来る。私もタクシーで行けばいい。スマホを握りしめたまま、私は同じ角を、二度見た。迷ったのは道じゃない。頭の中だ。“上司と焼肉”たったそれだけの言葉が、現実の輪郭を曖昧にする。でも、ちゃんと現実に戻さなきゃ。私は胸の前でスヌードを直して――そこで足が止まった。向こうから来たのは、黒い車。ゆっくり止まって、ウインドウが下がる。「……乗れ」いつもの低い声。それだけで、背筋が伸びる。「所長……!」私は反射で敬語になる。それが、今夜の安全装置みたいに感じた。ドアが開く。私は乗り込んで、シートベルトを引いた。その瞬間、ようやく彼の横顔をちゃんと見る。……スーツじゃない。当然だけど、スーツじゃない。朝のTシャツとジャージは“部屋着の氷室さん”だった。目撃しただけ。現象として、見ただけ。でも今のこれは違う。外に出るための私服。他人の目に触れる前提の、休日の氷室さん。黒のニット。首元は詰まりすぎていない。その上から薄手のアウター。パンツは細身だけど窮屈そうじゃない。足元も、きちんとしている。……いや、きちんとしすぎでは?焼肉だよ?煙だよ?匂いだよ?私は一瞬だけ、今日の自分の服を思い返す。普通。普通のつもり。でも、急に不安になる。氷室所長は“皇帝”だったんだ。休日でも、隙がない。「……どうした」前を見たまま、所長が言う。「いえ……休日の所長、初めてちゃんと見たなって」「朝、見ただろ」「それは……部屋着です」「同じだ」同じ、じゃない。全然違う。私が言い返せずにいると、所長はハンドルを握ったまま、淡々と続けた。「今日行く店は、近い。遅くならないようにする」その一言が、妙に優しい。遅くならない。線を引く言葉。でも、今夜はその線が、私を安心させる。車が静かに走り出す。信号待ちの赤で、所長がふとこちらを見た。……視線だけ。一瞬だけ。「寒いか」「いえ、大丈夫です」「……そうか」また前を見る。短い会話。短い間。なのに、車

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