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目が覚めた、その日から③

Author: 藍沢咲良
last update Petsa ng paglalathala: 2026-08-30 16:14:22

アオバ賃貸パートナーズ。社内では“アオパ”って呼ばれてる。

うちは賃貸仲介がメインで、管理がサブ。法人社宅は少しだけ。

繁忙期の賃貸仲介は、戦場だ。

来店予約が重なり、内見の鍵が足りず、保証会社の審査は返事が遅い。

「今日中に契約できますか?」の圧と、「家賃下がりませんか?」の交渉と、「親が反対してて…」って泣きそうな声まで同時に飛んでくる。

七年目の私は、宅建も賃管もFPも持ってる。

だから重要事項説明も、初期費用の組み立ても、更新と解約の落とし穴も分かる。

……分かるけど、これだけ忙しいとさすがに息が浅い。

だから、最初は助かった。

内見の段取りが噛み合わなくて、電話が鳴り止まなくて、私の頭も回らなくて。そんなとき、五年目の榊くんは、さらっと鍵の手配を代わってくれた。管理会社に一発で繋がる言い方を知っていて、担当者の機嫌の取り方も上手かった。

「朝比奈さん、ここ、先に僕が押さえときます。内見、詰まると崩れるんで」

崩れる、という言葉が優しかった。

“あなたが崩れる前に”と言われた気がした。私はそこに、勝手に救いを見た。勝手に、心を置いた。後輩という気軽さもあったのかもしれない。

だから──スマホの画面を見た瞬間、息が止まった。

彼の画面に映っていたのは、物件じゃなくて──彼の私生活だった。

休憩中、ふと開いたSNS。

ストーリー。夜景。ワイングラス。指先だけ写ったツーショット。

タグも名前もないのに、“恋人がいる人”の空気だけは、あまりにも明確だった。

(……いたんだ)

冷水を浴びた心臓が、きゅっと締まった。反射的にスクショを撮って画面を閉じた。

スクショは消さなかった。消す理由が、私にはまだ見つからなかった。

気づいた瞬間、頭の中で何かが静かに閉まった。

扉というより引き戸。音も立てずに、すっと。

私は何も言わない。

言えないんじゃない。言う必要がない。だってここは職場で、私は社会人で、彼の私生活は彼のもので。そうやって、今まで何度も自分を守ってきた。

だから私は、その後、いつもどおりに振る舞った。

いつもどおりに微笑んで、いつもどおりに「助かりました」と言って、いつもどおりに仕事を回した。

──“いつもどおり”は、距離を取るための仮面だ。

“いつもどおり”を完遂した私、偉い。全人類、今の私を、ベッタベタに褒めて。

なのに。

次の日から、榊くんが近くなった。

前はこんなこと無かった。多少近くても、本当に身体と身体があと1ミリで触れそうなところになんて、榊くんは来なかった。

榊くんは、私を混乱させる天才だ。

そして混乱した人間から、境界線は剥がれる。

コピー機じゃない。オフィスでもない。

物件資料のファイルを覗き込む角度。PC画面の横に立つ時間。

その全部が、“距離”になっていく。

「この条件、いけます?」と聞く声が、背後から落ちる距離。

一歩、半歩、気づけば私のテリトリーの内側に、当たり前みたいに入ってくる。

「朝比奈さん、ここ、僕が入力しときますよ」

手伝いの言葉の形をした、侵入。

私は笑顔の筋肉だけ動かした。

「うん、大丈夫。自分でやるから」

柔らかく、でも線を引く。

すると榊くんは、ほんの一瞬だけ黙る。傷ついた顔をする。──そういう顔が、上手い。

「あの……嫌だったわけじゃ、ないの。私ね、勢いでやっちゃいたいの」

嫌だったわけじゃない、じゃない。

近いのが嫌だ。境界線を踏まれるのが怖い。

私は言えない代わりに、魔法の言葉を使う。

「でもありがとう。助かります」

言った瞬間、自分の喉が苦くなった。

助かるのは私じゃない。彼が“良い人”のままでいられるだけだ。

榊くんが、小さく息を吸う気配がした。

見ないまま、“気づいた”だけ。

(気づかなくていいのに)

私の胸の奥が、きゅっと縮む。

平常運転の仮面の下で、肺だけが先に逃げようとする。

──そして私は、まだ知らない。

この人が欲しいのは「私の笑顔」じゃない。

私の“境界線を越えた先”にある安心だ。

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