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目が覚めた、その日から②

Author: 藍沢咲良
last update publish date: 2026-08-30 16:11:22

月曜の朝。席に着いた私は自分の手を見た。乾燥で、指先が少し白い。

デスクの上のポンプ式のビタミンCハンドクリームを指先に出して、手のひらで温める。そこに、いつもの癖でDIORの「lucky」のボディローションをワンプッシュ──じゃなくて、米粒ふたつ。同じく指先にそっと出してから、さっきのハンドクリームを温めていた手のひらに移す。

混ぜる。擦る。手の甲。手首の内側。香りが、肌の温度で立ち上がる前に、もう一つ。左手首のアップルウォッチを少しずらす。

ミスディオールの練り香水。小さなケースを開けて、スティックのまま直接、スッとひと撫で。つけたのは、手首じゃない。鎖骨に直接つける。きっと私だけが楽しめる、ふわっと飴のように甘く香る場所。

──私の匂いがあるところ。そこが、私の境界線だ。

呼吸を整えるためのルーティン。私を“仕事の私”に戻すスイッチ。誰のためでもない。今日を、無事に終えるための手順。

そのとき、椅子の軋む音がした。

すぐ隣。視界に入れないようにしていたのに、気配だけで分かる。彼の肘が机に乗る音、タブレットの画面を触る指のリズム。距離は、たぶん一メートル。守れてる。守れてるのに──香りは空気で越境する。

彼が、わずかに息を吸うのが分かった。ほんの一瞬、顔の向きが変わる。こちらを見たわけじゃない。見ないまま、“気づいた”だけ。

……気づかなくていいのに。

私はキーボードに指を置いて、画面だけを見る。香りは仕事のふりをして、私を守るふりをして、いちばん無防備なところをさらす。

彼の声が、いつもより低く落ちた。

「……今日、早いですね」

たったそれだけ。なのに、胸の奥がきゅっと縮む。私は笑顔の筋肉だけ動かして、返す。

「うん。月曜だし」

──距離は守って。匂いは、私が守る。だからお願い。呼吸は乱れないで。

コピー機の前はいつも混む。書類を抱えた人が、誰かの背中を避けながら流れるみたいに通る。

私は端末に用紙をセットして、印刷ボタンを押した。機械が唸る。紙が吐き出される音。──そのリズムに合わせて呼吸を整える。

「朝比奈さん」

背後から声が落ちた。丁寧で、低くて、近い。振り返らなくても分かる。すぐ隣。気配で空気が一段狭くなる。来たんだ。

私はコピーの排出口を見るふりをして、身体だけ半歩、横にずらした。ほんの半歩。でも、その半歩が私の肺を守る。本当はもっと横にずれたい。だけどそれは、きっと目立つ。

彼の腕が伸びる気配がして、止まる。紙を取る手が、宙で迷った。私の呼吸は音も無く、吸ったまま止まる。

「……それ、先に取ります?」

“親切”の顔をした侵入。私の作業に入り込む口実。私は笑顔の筋肉だけ動かして、彼の方を向いた。

「大丈夫。自分でやるから」

声を柔らかくした。硬くすると、面倒が増える。だから柔らかく、でも線は引く。

彼は一瞬だけ黙った。たぶん、傷ついた顔をしている。見なくても分かる。そういう空気を出すのが上手い。

「……すみません。急かしたわけじゃ」

“俺は悪くない”の予防線。私は印刷物を揃えながら、淡々と返す。いい人ムーブと境界線の侵攻の両立は、この人の得意技だ。

「ん、大丈夫。ありがとう」

ありがとう、は魔法の言葉。相手の言い訳を封じて、こちらの罪悪感も消す。私はそれを知っている。

紙を抱えて一歩離れる。視線を落として、酸素が戻る。

後ろで、彼が小さく息を吐いた。まるで私がひどいことをしたみたいに。

……違うよ。私は心の中でだけ言った。

近づかないで。

優しくしないで。

“いい人”の顔で、境界線を踏まないで。

コピー機のガラスに映った自分の顔は、笑っていなかった。

呼吸はまだ、落ち着かない。

私の隣の席の、榊《さかき》恒一《こういち》。物腰柔らかい、ぱっと見好青年。営業職。誠実な人と感じさせて、相手の警戒心を解くというのが、彼の武器。私も最初、その技のおかげで、彼への警戒心は無いも同然だった。

違和感が出てきたのは最近。榊くん、SNSで匂わせるの、多いなと思っていた。でも現実世界でも、彼は匂わせることが多くて、近づくことで安心を得ているのではないかという節が出てきた。

目を合わせないのに、距離だけ詰めてくる。

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