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第2話

Author: 徐々
病院で静養していた数日のあいだ、恒一も勇太も、澪の傷に目を向けることはなかった。

それでも澪は、愛花のインスタに毎日投稿される三人の写真を目にしてしまう。

写真には、レストランで端正にスーツを着こなした恒一が立ち、その脚に甘えるように勇太が寄り添っている。白いロングドレス姿の愛花は、恒一の隣でやわらかな笑みを浮かべていた。

三人は揃ってカメラを見つめている。

――まるで、本物の家族写真のように。

添えられた言葉は、【大切な人と囲む食卓。それだけで、十分に幸せだ】

澪は一瞥しただけで、静かに画面を閉じた。

もう出ていく。

そこにあるすべては、これからは自分の人生には関わらない。

退院の日。

澪はひとりで手続きを済ませ、まだ癒えきらない脚を引きずりながら、ゆっくりと鷹宮家へ戻った。

屋敷の中はひっそりとしている。恒一も勇太もいない。

澪は何も言わず自室へ入り、荷物をまとめ始めた。

とはいえ、まとめるほどの物もない。着替えが数枚と、わずかな日用品だけだ。

引き出しを開け、いちばん奥の底から小さな木箱を取り出す。中には、この数年こっそり貯めてきた金と、必要な書類が収められていた。

――あと半月。

あと半月で、ここを完全に離れられる。

ちょうど荷物を半分ほどまとめたところで、不意に部屋の扉が開いた。

入口に立っていた勇太が、冷えた目で澪を見つめる。

苛立ちを隠さない声で言った。

「何してるんだよ」

澪は指先の動きを止め、顔を上げることもなく、淡々と答える。

「整理しているだけよ」

勇太は眉をひそめるが、澪が何をしているかなど興味もない様子で、ただ命じた。

「もうすぐ梅雨だ。パパが言ってた。ママの物を全部片づけろ。カビさせるな」

澪は指先をわずかに握り込み、低く答える。

「……わかった」

勇太は背を向けかけたが、ふと思い出したように振り返り、付け加えた。

「それと、もうすぐ僕の誕生日だ。前みたいに準備しとけ」

澪は目を伏せ、かすかに頷く。

「うん」

勇太は鼻で笑った。その従順な態度が退屈だと言わんばかりに、そのまま立ち去る。

澪は三日をかけて、盛大なパーティーの準備を整えた。

開宴まであと三十分。

澪はドレスに着替えようとクローゼットを開ける。

だが――そこにあるはずのドレスは、どれも無残に切り裂かれ、ぼろぼろになっていた。

あまりの光景に、しばし言葉を失う。

使用人に事情を聞こうと振り向いた、その瞬間。

扉口に立っていた勇太が、ハサミを手に、愉快そうに笑った。

「ドレスもないのに、どうやって出るつもり?恥かけばいいんだ」

ぺろりと舌を出すと、そのまま勢いよく階段を駆け下りていった。

床一面に散らばる布切れを見つめ、澪は小さく息を吐いた。

いまから買い直す時間はない。

どうすべきかと立ち尽くしていると、不意に愛花が訪ねてきた。

ドレスがすべて勇太に切り裂かれたと知ると、愛花は気遣うように言った。

「澪さん、もうすぐ始まりますよね。よかったら、私のドレスをお貸しします。終わったら返してくだされば大丈夫ですから」

その笑みは穏やかで、どこか無垢にさえ見えた。

澪は何度も彼女を見つめたが、そこに悪意を見いだすことはできなかった。

代わりのドレスを用意するあてもない。

澪は、頷くしかなかった。

ほどなくして、愛花がドレスを届けに来る。

淡い水色のマーメイドドレスは陽光を受けてきらめき、散りばめられた無数の小さなダイヤが、眩いほどに輝いていた。

会場は、まばゆい照明に包まれていた。

澪がそのドレス姿で現れた瞬間、会場がふっと静まり返った。

驚きと、探るような視線。そしてどこか含みを帯びた眼差しが、一斉に澪へと注がれる。

胸の奥がざわつく。

だが、澪が状況をのみ込むより早く、勇太が駆け寄ってきた。その幼い顔を怒りに歪め、声を張り上げる。

「誰が僕のママの服を着ていいって言った?!」

澪は息を呑む。

視線を落とし、自分のドレスを見る。

そのとき、ようやく気づいた。

愛花が渡したのは、ただのドレスではない。青葉が生前、いちばん大切にしていた――あの一着だった。

澪は勢いよく顔を上げ、少し離れた場所に立つ愛花を見る。

愛花は微笑んでいた。

その瞳の奥に、わずかな勝ち誇りの色がよぎる。

次の瞬間――

勇太が澪を思いきり突き飛ばした。

「ママのドレスを着たからって、代わりになれると思うな!僕のママはひとりだけだ!消えろ!」

不意を突かれた澪の身体が大きく揺れる。

そのまま後方へ倒れ込み、背後のプールへと落ちた。

――ばしゃん!

冷たい水が一気に口と鼻を塞ぐ。

泳げない澪は必死に水面へ浮かび上がろうとする。だが濡れたドレスが水を含み、鉛のように重くなって身体を引きずり、深みへと沈めていく。

息が続かない。

意識が遠のきかけたそのとき、ようやくボディガードが水中から澪を引き上げた。

澪はプールサイドに伏せ、激しく咳き込む。

呼吸も整わぬうちに、勇太の冷たい声が降ってきた。

「服を剥げ!こいつにママの服を着る資格なんてない!」

言い終わるより早く、ボディガードが乱暴にドレスへ手をかける。

「やめて――!」

澪は悲鳴を上げ、反射的に身を縮めた。

だが、遅かった。

真珠のように白いサテンが無残に裂け、布片が散る。濡れた肌に夜風の冷気がまとわりつく。

大勢の視線の前で、澪は下着だけの姿にされ、無防備に晒された。

勇太は傍らで歯を食いしばり、憎悪をむき出しに叫ぶ。「お前にママの服を着る資格なんてない!」

プールサイドにはいつの間にか人だかりができていた。

澪は震えながら、その場にうずくまる。

ひそひそと交わされる声と、突き刺さるような視線。それらが彼女の尊厳を、少しずつ削っていく。

そのとき――

すらりとした影が人垣をかき分けて進み出た。

恒一だった。

彼はスーツの上着を脱ぎ、澪の肩にそっと掛ける。眉をひそめ、低く問う。

「どういうことだ」

勇太はすぐさま声を上げた。

「パパ!こいつが勝手にママのドレス着たんだ!ママの代わりになろうとしてる!」
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