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私はもう、振り返らない

私はもう、振り返らない

By:  徐々Completed
Language: Japanese
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六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。 一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。 檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。

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Chapter 1

第1話

六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。

一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。

檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。

「痛いか?」

幼い声は、その年齢には不釣り合いなほど鋭かった。

「ママの猫を死なせたとき、こんな日が来るなんて思わなかったでしょ。この家に来ただけで、ママの代わりになれると思わないで。

僕が大きくなったら、絶対お前をこの家から追い出すからな!」

喉を締めつけられるような苦しさの中で、澪はかすれた声を絞り出した。「猫は……寿命で死んだだけよ。私がやったんじゃない……」

「嘘つけ!」

勇太が檻を思いきり蹴りつける。金属の格子が大きく震え、その衝撃に怯えた犬たちは、かえって凶暴さを増し、彼女へと襲いかかった。

澪は反射的に身を引く。背中が氷のように冷たい檻の壁にぶつかり、もう後ろへ下がることはできなかった。

見かねた使用人が慌てて割って入る。「坊っちゃん、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。確認いたしましたところ、あの猫は寿命によるものでございます。奥様の責ではございません」

「黙れ!」勇太は振り向きざま怒鳴りつけた。

「たとえ寿命でも、あいつの世話が足りなかっただけだ!」

そして再び、檻の中の澪を睨みつける。

「まだ出すな。徹底的に思い知らせろ」

低いうなり声が迫り、澪はそっと目を閉じた。爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。

――もう、六年。

この家で、彼女はいまだに居場所すらなかった。

どれほどの時間が過ぎたのか。

遠くにあったはずの足音が次第に近づき、やがて扉の向こうから、低く冷え切った声が落ちてきた――

「勇太、何をしている」

入口に立っていたのは恒一だった。隙のないスーツ姿に、冷えた眼差し。

血に染まった澪へ視線を走らせた瞬間、その瞳がわずかに細まる。だが次の瞬間には、感情を押し殺した声で命じた。

「出せ」

ボディガードがすぐ鍵へ手を伸ばす。

澪はすでに力を失っていた。支えられて檻の外へ出された途端、膝が崩れ落ちそうになる。

恒一が手を差し伸べた。

だが、その指先が触れた瞬間、澪は反射的に身を引く。

ほんのわずか、恒一の眉が寄った。

青ざめた彼女の顔を見つめ、低く問う。

「ここまでやられて、なぜ呼ばなかった?」

澪は睫毛を伏せたまま、答えない。

――呼んで、どうなるというの。

この家で、いったい誰が彼女の声に耳を貸すというのか。

沈黙が落ちる。

その沈黙に、恒一の瞳にかすかな苛立ちがよぎった。

「病院へ連れていけ」

執事にそう命じる。

病院は消毒薬の匂いが鼻を刺す。

澪はベッドに横たわり、医師が傷を処置する微かな音を聞きながら、痛みに指先を震わせていた。

やがて病室の扉が静かに開く。

恒一だった。

上着はすでに脱ぎ、シャツ姿のまま。襟元がわずかに乱れ、鎖骨には生々しい赤い痕が残っている。

澪の視線が一瞬、そこに留まる。

すぐに、逸らした。

――キスマーク。

見慣れすぎるほどに。

この数年、恒一の傍らに女の影が絶えることはなかった。だがその誰もが、澪の亡き姉・白石青葉(しらいし あおば)の面影を色濃く宿していた。

青葉を忘れられないから、代わりを探し続ける。

いま最も近い「代わり」は鳥谷愛花(とりたに あいか)。あまりにも似ているせいか、恒一はひと月のうち二十八日を愛花のもとで過ごしている。

けれど。

妻である澪は――その「代わり」にすら数えられていなかった。

澪は、実家から遠ざけられた私生児だった。幼いころから、重い病を抱えた母・沢村美智子(さわむら みちこ)と寄り添うように生きてきた。

青葉は姉だが、その歩んできた道は澪とはまるで違う。

青葉は生まれながらにして何不自由なく育ち、由緒ある名家の御曹司・恒一と恋に落ち、宝物のように大切にされてきた。

だが六年前、青葉は難産の末に命を落とす。生まれて間もない勇太を残して。

生まれたばかりの勇太の世話をする女が必要だった。

澪の実父・白石隆志(しらいし たかし)は、恒一という願ってもない婿を手放したくなかった。美智子の治療費を盾に、六年という契約を澪に突きつけ、鷹宮家へと嫁がせた。

――恒一と勇太の世話をしろ、と。

澪は、逆らえなかった。

その六年、恒一は澪を顧みることもなく、外では青葉に似た女を次々と抱いた。

勇太は澪を憎み、鷹宮家から追い出そうとあらゆる手を尽くした。

二千日を超える歳月を重ねても、彼らが彼女を受け入れることはなかった。

意識がはっきりしたころ、恒一が口を開いた。

淡々とした声で告げる。

「猫が死んだのは、お前の世話が行き届かなかったせいだ。勇太は気が立っているだけだ。少しは我慢しろ」

さらに言葉を重ねる。

「お前の母親は、退院してから体調が思わしくない。認知症の兆しもある。個室の療養施設を手配しておいた。今回の件は、それで終わりにする」

その口調はあまりに平静で、まるで取引条件を並べているかのようだった。

澪は、ふっと笑った。

しばらくしてから、ゆっくりと視線を上げる。声は驚くほど落ち着いていた。「結構です。最初に決めたはずでしょう。私は勇太の世話をするために、六年だけここにいると。残りは半月。半月たてば、私は出ていきます」

一瞬、恒一が言葉を失う。だがすぐに眉をひそめ、不快さを隠そうともせず言い放つ。

「何をそんなに意地を張っている。くだらない駆け引きに付き合っている暇はない。その話は聞かなかったことにする。療養施設はすでに手配した。これで終わりだ」

そう言い捨てると、恒一は大股で部屋を出ていった。その背中は振り返ることもなく、ひどく遠かった。

閉まった扉を見つめながら、澪はゆっくりと目を閉じる。

彼女は意地を張っているわけでも、駆け引きをしているわけでもない。

六年の約束は、六年で終わる。それ以上でも、それ以下でもない。

今度こそ、本当に去る。

――二度と、戻らない。
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第1話
六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。「痛いか?」幼い声は、その年齢には不釣り合いなほど鋭かった。「ママの猫を死なせたとき、こんな日が来るなんて思わなかったでしょ。この家に来ただけで、ママの代わりになれると思わないで。僕が大きくなったら、絶対お前をこの家から追い出すからな!」喉を締めつけられるような苦しさの中で、澪はかすれた声を絞り出した。「猫は……寿命で死んだだけよ。私がやったんじゃない……」「嘘つけ!」勇太が檻を思いきり蹴りつける。金属の格子が大きく震え、その衝撃に怯えた犬たちは、かえって凶暴さを増し、彼女へと襲いかかった。澪は反射的に身を引く。背中が氷のように冷たい檻の壁にぶつかり、もう後ろへ下がることはできなかった。見かねた使用人が慌てて割って入る。「坊っちゃん、どうかお怒りをお鎮めくださいませ。確認いたしましたところ、あの猫は寿命によるものでございます。奥様の責ではございません」「黙れ!」勇太は振り向きざま怒鳴りつけた。「たとえ寿命でも、あいつの世話が足りなかっただけだ!」そして再び、檻の中の澪を睨みつける。「まだ出すな。徹底的に思い知らせろ」低いうなり声が迫り、澪はそっと目を閉じた。爪が食い込むほど、拳を強く握りしめる。――もう、六年。この家で、彼女はいまだに居場所すらなかった。どれほどの時間が過ぎたのか。遠くにあったはずの足音が次第に近づき、やがて扉の向こうから、低く冷え切った声が落ちてきた――「勇太、何をしている」入口に立っていたのは恒一だった。隙のないスーツ姿に、冷えた眼差し。血に染まった澪へ視線を走らせた瞬間、その瞳がわずかに細まる。だが次の瞬間には、感情を押し殺した声で命じた。「出せ」ボディガードがすぐ鍵へ手を伸ばす。澪はすでに力を失っていた。支えら
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第2話
病院で静養していた数日のあいだ、恒一も勇太も、澪の傷に目を向けることはなかった。それでも澪は、愛花のインスタに毎日投稿される三人の写真を目にしてしまう。写真には、レストランで端正にスーツを着こなした恒一が立ち、その脚に甘えるように勇太が寄り添っている。白いロングドレス姿の愛花は、恒一の隣でやわらかな笑みを浮かべていた。三人は揃ってカメラを見つめている。――まるで、本物の家族写真のように。添えられた言葉は、【大切な人と囲む食卓。それだけで、十分に幸せだ】澪は一瞥しただけで、静かに画面を閉じた。もう出ていく。そこにあるすべては、これからは自分の人生には関わらない。退院の日。澪はひとりで手続きを済ませ、まだ癒えきらない脚を引きずりながら、ゆっくりと鷹宮家へ戻った。屋敷の中はひっそりとしている。恒一も勇太もいない。澪は何も言わず自室へ入り、荷物をまとめ始めた。とはいえ、まとめるほどの物もない。着替えが数枚と、わずかな日用品だけだ。引き出しを開け、いちばん奥の底から小さな木箱を取り出す。中には、この数年こっそり貯めてきた金と、必要な書類が収められていた。――あと半月。あと半月で、ここを完全に離れられる。ちょうど荷物を半分ほどまとめたところで、不意に部屋の扉が開いた。入口に立っていた勇太が、冷えた目で澪を見つめる。苛立ちを隠さない声で言った。「何してるんだよ」澪は指先の動きを止め、顔を上げることもなく、淡々と答える。「整理しているだけよ」勇太は眉をひそめるが、澪が何をしているかなど興味もない様子で、ただ命じた。「もうすぐ梅雨だ。パパが言ってた。ママの物を全部片づけろ。カビさせるな」澪は指先をわずかに握り込み、低く答える。「……わかった」勇太は背を向けかけたが、ふと思い出したように振り返り、付け加えた。「それと、もうすぐ僕の誕生日だ。前みたいに準備しとけ」澪は目を伏せ、かすかに頷く。「うん」勇太は鼻で笑った。その従順な態度が退屈だと言わんばかりに、そのまま立ち去る。澪は三日をかけて、盛大なパーティーの準備を整えた。開宴まであと三十分。澪はドレスに着替えようとクローゼットを開ける。だが――そこにあるはずのドレスは、どれも無残に切り裂かれ、ぼろぼ
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第3話
それを聞いた瞬間、恒一の表情がすっと冷えた。澪を見下ろし、これまでに見せたことのない冷たい目で告げる。「澪。お前は従順で、聞き分けがよくて、欲を出さない女だと思っていた。……全部、演技だったのか。青葉に取って代われる人間なんて、この世にいない。嫁いできた時点で、わかっていたはずだ」澪は口を開いた。けれど、喉が張りついたまま、声にならない。そのとき――愛花が静かに歩み寄ってきた。淡い水色のロングドレス。ゆるやかに巻いた長い髪。控えめで清楚な化粧立ち。その姿は、青葉にあまりにもよく似ている。周囲の客が、すぐにざわめき出した。「……似てる」「鳥谷さん、その格好……青葉さんそっくりだ」ひそひそとした声が広がる中、恒一の視線が一瞬だけ揺れる。勇太の目が赤くなる。次の瞬間、泣きながら愛花に駆け寄り、強く抱きついた。「愛花お姉さんが僕のママならよかったのに!僕、この人イヤだ!」愛花は勇太をやさしく抱きしめ、そっと頭を撫でた。恒一は、しばらく愛花を見つめたまま動かなかった。やがて我に返ったように歩み寄ると、迷いなく彼女を抱き寄せる。その眼差しには、隠しようのない愛情が宿っていた。澪はプールの縁に力なく身を預け、胸の奥が冷え切っていくのを感じた。鷹宮家に嫁いで六年。彼らに尽くして六年。勇太にあんなふうに抱きつかれたことはない。恒一に、あんな目で見られたこともない。彼らの心に、澪が入り込めたことは一度もなかった。それなのに愛花は――青葉に似た顔をしている、ただそれだけで。澪が夢にまで見たものを、あっさり手にしてしまう。肩に掛けられたスーツの上着を強く握りしめ、澪は乾いた笑みを浮かべた。いい。これも、もうすぐ終わる。宴が終わったあとの雨の夜、彼らはそのまま帰路についた。澪は着替えを済ませ、助手席に座ると、何も言わず窓の外を見つめていた。後部座席では、愛花が勇太にやさしく話しかけている。ときおり返される恒一の低い声は、どこか甘やかすようにやわらかかった。そのやわらかさが、澪に向けられたことは一度もない。――まるで、本当の家族だ。澪は視線を落とし、無意識に左手の薬指へ触れる。結婚指輪を指先でそっとなぞる。六年。けれど、この指輪に意
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第4話
目を覚ましたとき、病室は静まり返っていた。人の気配がなく、その静けさがかえって胸をざわつかせる。澪の右脚は分厚いギプスで固定されている。わずかに動かしただけで鋭い痛みが走り、冷や汗がにじんだ。看護師が薬を替えに来たとき、ぽつりと口にした。「鳥谷という方も、あなたと同じ事故で入院されているんですけど……ご主人とお子さんがずっと付き添っていらして。あなたはこんなにお怪我も重くて、命も危なかったのに……ご家族はどうされたんですか?」澪は少し間を置いてから、静かに答えた。「今おっしゃったのが、私の夫と子どもです」看護師は気まずそうに視線を落とし、慌てて処置を終えると足早に部屋を出ていった。窓の外はよく晴れている。白いシーツに陽射しが落ちているのに、澪の身体は芯から冷えたままだった。夕方。病室の扉が突然、乱暴に蹴り開けられた。恒一が荒い気配をまとって入ってくる。そのまま澪の顎をつかみ、強引に顔を上げさせた。「今回の事故……お前が仕組んだのか」澪の瞳が大きく揺れる。「愛花の顔に、傷が残りかけたのを知っているか?」指先に力がこもる。目の奥に、抑えきれない怒りが浮かぶ。「あいつの顔が台無しになったら、青葉に似ていなくなるだろう」澪は苦しげに咳き込む。「違う……私じゃない。何もしていない。それに……一番ひどい怪我をしたのは、私でしょう」だが恒一は聞く耳を持たない。彼女の腕をつかみ、無理やりベッドから引きずり下ろす。「来い。愛花に謝れ」その声には温度がなかった。「私、悪くない」澪がなおも首を横に振るのを見て、恒一の怒りが爆発した。「いい。謝らないなら、それでいい。あいつの顔を傷つけたらどうなるか、身をもって教えてやる。お前、昔バレエをやってたよな。……来い。こいつの脚を一本、折ってやれ」言い終わると同時に、ボディガードがバットを手に病室へ入ってきた。澪の全身から血の気が引く。「や……やめて……」逃げようと身をよじるが、二人の男に両肩を押さえつけられ、ベッドへ縫い止められる。次の瞬間――バットが右脚のギプスに、容赦なく振り下ろされた。――バキッ。骨が折れる音が、はっきりと耳に届いた。激痛が一気に突き抜け、意識が白く飛ぶ。その刹那、澪の脳裏に浮かんだの
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第5話
「ええ。本気です」澪の声は小さい。それでも、一語一語がはっきりと届いた。恒一の目がわずかに沈む。何かを言いかけた、その瞬間――隆志が割って入った。顔いっぱいに作り笑いを張りつけ、腰を折るようにして言う。「鷹宮社長、どうか澪の言葉を真に受けないでください。あれは一時の意地でして……社長と勇太くんから離れられるはずがありません」さらに調子を合わせる。「最近、社長が鳥谷さんと親しくされているのを見て、少し嫉妬しただけです。少し宥めてやれば、出ていくなどと言うはずがありません」それを聞いた恒一の目から、張りつめた色がわずかに消えた。視線を澪へ戻し、低く言った。「やっぱりな。今回の騒ぎも、愛花のことが原因か」澪が反論しようと唇を開く。だが恒一は、その隙を与えない。「ここを出たら、お前には何も残らない。約束する。少し大人しくしていれば、愛花が表に出ることはない。お前の立場も今まで通りだ。それで満足だろう」澪は掌に爪を食い込ませる。その瞬間、隆志が机を叩き、怒鳴った。「澪!お前は俺の娘だ。俺の言うことを聞け!」怒声の直後、隆志はすぐに笑みを取り戻す。ブリーフケースから契約書を取り出し、両手で差し出した。「鷹宮社長、こちらの案件も……ご署名をお願いできればと」恒一は契約書に目を通す。そして一瞬だけ澪を見やり、何も言わずにペンを取った。さらりと署名する。「もう騒ぐな」それだけを残し、背を向けて出ていった。病室の扉が閉まって間もなく、勇太が勢いよく入ってくる。小さな身体で入口に立ちながら、目にははっきりと敵意が宿っていた。「全部聞いた!パパはお前を家に置くって言ったけど、僕は認めない!」澪はその顔を見つめる。ふと、三歳になる前の勇太を思い出した。柔らかい声で「ママ」と呼び、抱っこをせがんで両手を伸ばしてきたあの頃を。けれど、いつからか――澪は本当の母ではない。それどころか、母を殺したのだと、誰かが吹き込んだ。それを境に、すべてが変わった。「愛花お姉さんはお前より優しくて、ちゃんとしてる!僕のことも大事にしてくれる!」勇太は歯を食いしばり、震える声で叫ぶ。「僕は、愛花お姉さんがパパと結婚してくれたほうがいい!お前みたいな人殺しはいらない!」澪は目を閉じ、かすれた声で言った。
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第6話
再び目を覚ますと、澪は病床に横たわっていた。分厚い毛布が掛けられているのに、寒気だけが骨の奥に残っている。いくら包まれても、抜けていかない。「起きたか」すぐそばから、恒一の声が落ちた。澪がゆっくり顔を向けると、恒一はベッド脇に腰を下ろしている。整ったスーツ姿。だが襟元から、うっすらと赤い痕がのぞいていた。――また、キスマーク。澪は視線を逸らす。「何しに来たの」かすれた声で問う。恒一が眉を寄せる。「お前、また勇太の癇に障ることをしたのか?」澪は口元をわずかに歪めた。笑みというより、皮肉だった。「私が、勇太の癇に障ることを?前のことはもういい。ここ数日、犬の餌みたいに檻へ放り込まれて、プールに突き落とされて、服まで剥がされた」澪は顔を上げ、恒一の目を真っ直ぐ見据える。「これでも私が悪いというんですか?」恒一の表情が硬くなる。「お前が何かしたんだろう」澪は小さく息を漏らした。「じゃあ、霊安室の件は?私が何もしていなくても、勇太は理由を作って私を追い出そうとする」しばらく沈黙してから、淡々と言う。「お願いだから伝えて。もうああいうことはやめてほしい。私たちの契約は、もうすぐ終わる。期限が来たら、私は黙って出ていく」その言葉に、恒一の顔色が一段と沈んだ。「澪。またその話か。何度言わせる」苛立ちを隠さない。「わかった。勇太には俺から言っておく。これ以上お前を追い出そうとするなってな。これからは揉めるな。お前も、出ていくなんて二度と言うな。鬱陶しい」澪は黙って彼を見つめ、ふっと笑った。「わかった。もう言わない」どうせ――あと七日で、すべて終わるのだから。澪が反論しないのを見て、恒一の表情がわずかに和らいだ。「傷を治せ。余計なことはするな」それだけ言い残し、恒一は出ていく。背中は、相変わらず遠い。澪は閉まった扉を見つめ、静かに目を閉じた。――あと七日。七日耐えれば、すべて終わる。翌日、恒一に連れられて勇太が病室に現れた。勇太は頬をこわばらせ、渋々といった様子でベッド脇に立つ。目にあるのは隠そうともしない嫌悪だった。恒一が低く命じる。「謝れ。それから、ちゃんと世話しろ」勇太は唇を尖らせながらも、お粥の椀を手に取る。ひと匙すくい、ぎこちなく澪の口元へ差し出した。「……
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第7話
恒一の顔色がさっと変わり、鋭く怒鳴った。「勇太!」叱責の言葉が続く前に、勇太の目がみるみる赤くなる。「こいつが嘘ついてる!パパ、言われた通り、もう追い出そうとしてない!信じないなら、胃を洗って調べればいいじゃん!そしたら本当かどうか分かるよ!」恒一はわずかに黙り込んだ。そして、思案の末に頷いた。澪はそのまま処置室へ連れていかれた。だが誰も知らない。勇太がこっそり、胃洗浄に使う薬液へ刺激性の液体を混ぜていたことを。処置が始まる。喉から胃へ、焼けつくような痛みが一気に広がった。澪は思わず身体を丸める。冷や汗が流れ、病衣がぐっしょりと濡れる。吐いても、吐いても終わらない。胃の中が空になっても、奥からこみ上げる痛みだけが消えなかった。やがて看護師が検査結果を持って現れ、淡々と告げる。「検査では薬物反応は出ていません」その言葉を聞いた瞬間、恒一の表情に、はっきりとした落胆が浮かんだ。恒一は冷ややかに澪を見下ろす。「澪……お前は本当に嘘ばかりだな。青葉は優しくて、いい子だった。どうしてお前は、全然違うんだ」勇太も横で勢いよく頷く。「そうだよ!こいつ、僕の本当のママには全然かなわない!僕のことまで悪者にして!」恒一は怒りを滲ませたまま勇太を連れて出ていき、最後に吐き捨てるように言った。「自分の立場を考えろ」澪はベッドに力なく倒れ、目尻がじわりと熱を帯びる。それから数日。ようやく、身体の震えと痛みが少しずつ落ち着いていった。退院して、澪が最初に向かったのは美智子のいる療養施設だった。「お母さん。あと二日で、鷹宮家を出られる。ここも離れて、二人で別の場所で暮らそう」美智子はゆっくり息を吐く。「澪……今まで本当にごめんね。お母さんのせいで、たくさん我慢させた。これからは、お母さんが澪と一緒にいる。どこへ行きたい?澪が決めなさい。二人で、自分たちの人生をやり直そう。白石家も鷹宮家も、もう関係ない」その言葉を聞いた瞬間、澪の目が赤くなる。込み上げるものを必死に飲み込みながら、何度も頷いた。家に戻ると、愛花が来ていた。愛花はリビングのソファに腰を下ろし、あどけない笑みを浮かべた。「勇太くん、ピアノのコンクールで賞を取ったんです。それでお祝いしようって。澪さん、気にしませんよね?」「気に
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第8話
食後、恒一は愛花と勇太を連れて花火を見に行った。夜空に大輪が咲き、恒一は愛花の腰に手を回し、勇太はそのそばへ身体を寄せている。幸せをそのまま切り取ったような光景だった。澪は少し離れた場所からそれを見つめ、何も言わず背を向ける。立ち去ろうとした、そのとき――背後から足音が迫った。振り向く間もなく、勇太が火のついた花火を澪へ向けて投げつける。バン!足元で弾ける音。火の粉がズボンの裾に散り、瞬く間に布が焦げ、穴があいた。「見た?パパと愛花お姉さん、すごく幸せそうだろ」勇太は意地悪な笑みを浮かべる。「僕もパパも、お前が嫌いだ。ママを殺したくせに、世話もろくにできないくせに!それでもまだ居座るなら……僕、絶対に許さないからな!僕は、ママ以外なら愛花お姉さんにしか世話してほしくない!」言い終えると同時に、次々と花火を投げつけてくる。ぱん、ぱん、と乾いた破裂音が重なる。服に焦げ穴が増えていく。顔をかばおうと上げた腕に火の粉が当たり、広い範囲が焼けた。鋭い痛みが走り、皮膚が赤くただれる。澪は歯を食いしばり、それでもはっきりと言った。「追い出されなくてもいい。私はすぐに出ていく」勇太が一瞬、言葉に詰まる。だが次の瞬間、恒一がこちらへ歩み寄ってきた。「どうした」勇太は瞬時に表情を変える。悔しそうな顔を作り、声を震わせる。「パパ、澪と花火で遊ぼうとしただけなのに……こいつが不器用で、自分でケガしたんだ!」愛花はすぐに勇太を抱き寄せ、どこも痛くないかを確かめてから、ようやく安堵の息をついた。「澪さん、大人なんですから、自分がケガするのは仕方ありませんけど……勇太くんに当たったら困りますよ?」恒一は眉をひそめる。「次から気をつけろ。勇太に何かあったら困る」澪は、もう何も言わなかった。その場を離れ、ひとりで病院へ向かい、受付を済ませて傷の手当てを受ける。病院で一晩休んだ翌朝、役所から電話が入った。「ご依頼いただいていた離婚手続きが完了いたしました。書類をお受け取りいただけますでしょうか」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。――ようやく、終わる。澪は役所へ行き、関連書類を受け取った。職員が尋ねる。「もう一通は、どうなさいますか」澪は恒一に電話をかける。だが受話
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第9話
「……は?」恒一の思考が、一瞬止まった。何を言われたのか理解できず、その場に立ち尽くす。「澪が、俺と離婚する?そんなはずがない……」信じられない、という声が漏れた。だが次の瞬間、恒一は鼻で笑う。「わかった。また澪のくだらない小細工だろ。本当に役所の人間か?それとも澪に頼まれたのか?言ったはずだ。愛花がいようが、澪の立場は変わらない。なのに何を騒いでる?澪は今、あんたのそばにいるんだろ。電話を代われ。俺が直接話す」胸の奥で、得体の知れない焦りがうごめく。澪の声が聞こえた瞬間に、言い負かしてやるつもりだった。職員は何度も番号を確認し、間違いがないと確かめてから、慎重に答える。「鷹宮さま、私は役所の職員でございます。白石さまに頼まれた者ではございません。白石さまはすでにお帰りになっております。白見原市役所にて離婚の関連書類をお預かりしておりますので、お受け取りにお越しください。事実かどうかは、直接ご確認いただければおわかりになります」恒一が言い返すより先に、勇太が弾んだ声を上げた。「うん!今すぐ行こう!」興奮した様子で恒一の手を揺らす。「ねえパパ、早く行こう!あいつ、ほんとにいなくなるんだよね?愛花お姉さんに教えなきゃ!」さっきまで車に乗るのを渋っていた勇太が、今は弾むように後部座席へ飛び乗った。勢いよくドアを閉めると、運転手を急かすように声を上げる。恒一の目の奥で、感情がかすかに揺らいだ。しかし、引き止める言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。思考はまとまらず、ただ混乱だけが広がっていく。書類を自分の目で見るまでは、澪が本気で去るなど信じられなかった。――澪は、俺を、そして勇太を、愛していたはずじゃなかったのか。どうして離れられる?今度は、何を求めている?答えが出ないまま、車は役所の前で静かに停まった。職員が何度も本人確認を行ったあと、出来たばかりの離婚の関連書類を恒一に差し出す。紙面に押された公印が、逃げ場のない現実を突きつけてくる。恒一はその場で動けなくなった。手の中の書類が、鉛のように重い。勇太も、ぼんやりとそれを見つめる。胸の奥にぽっかり穴が開いたような、言いようのない違和感が広がった。それでも勇太は無理に口角を上げ、恒一の手から書類を奪うように受け取ると、
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第10話
恒一は運転手に勇太を愛花のもとへ送らせると、自身はそのまま役所へ引き返した。「澪が離婚の関連書類をこちらに預けたとき、何か言伝はありませんでしたか。どこへ行くとか、俺が探しに行けるような手がかりは残していないんですか」職員は複雑な表情を浮かべながら、どこか値踏みするような視線を向ける。「白石さまは何もおっしゃいませんでした。もう離婚されたのですし、よりを戻したいなどと思われるはずもありません。役所を出られるときも、笑っていらっしゃいましたよ。晴れやかな様子で……本気で区切りをつけるおつもりに見えました。お二人の電話のやり取りも、少し耳に入りましたが……外に新しい方がいらっしゃるのに、どうして無理に引き留めようとなさるんです?お金に困っているようにも見えませんし、女性が一人いなくなったところで、お困りにはならないでしょう」恒一は薄い唇をきつく結んだ。胸の内で、いくつもの思考がせめぎ合う。確かに、女に困ることはない。望めば、近づいてくる女はいくらでもいる。だが、恒一が愛したのは青葉ただ一人だ。愛花ですら、青葉に似た顔立ちだからそばに置いているに過ぎない。それなのに――澪のことになると、自分が何を思っているのか、恒一自身うまく掴めなかった。澪は青葉とはほとんど似ていない。どちらかといえば、美智子に似た華やかな顔立ちだ。気の強さの裏に、まだどこかあどけなさを残している。六年前、澪が両家の事情を受け入れて嫁いできたとき、恒一は彼女を「子を育てるための存在」としか見ていなかった。勇太は生まれて間もなく、難産の影響で身体が弱かった。澪は必死に学び、懸命に世話をしてきた。恒一が澪をそばに置いたのは、ただ一つ――勇太に母親が必要だったからだ。だが、どれだけ冷たく振る舞っても、心まで石になれたわけではない。澪は恒一と勇太のために身を削り、この家に溶け込もうとしてきた。恒一もまた、いつの間にか澪の存在に慣れ、彼女の差し出す優しさに慣れ、心の片隅にわずかな居場所を与えていた。もし愛花が現れなければ――二人はどこにでもいる夫婦のように、淡々と、それなりの穏やかさの中で歳を重ねていたのかもしれない。それでも恒一は青葉を忘れられず、だからこそ愛花を手放さなかった。だが澪も、それを理解していたはずではないか。これまで耐えて
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