LOGIN六年ものあいだ育ててきたはずの子どもが、彼女を自らの手で、犬だらけの檻の中へ突き落とした。 一夜が明けたころには、鷹宮澪(たかみや みお)の身体は十数か所を噛み裂かれ、息も絶え絶えのまま、檻の隅にもたれかかっていた。激痛に肺が締めつけられ、まともに息を吸うことすらできない。 檻の外では、鷹宮勇太(たかみや ゆうた)が段差の上に立ち、彼女を見下ろしていた。鷹宮恒一(たかみや こういち)と瓜二つの黒い瞳には、凍りつくような嫌悪が浮かんでいた。
View More「そういうのはいいから。もう帰って」澪は迷いなく言い切った。男が女に目を向けはじめたとき――それは、感情が動き出す前触れだ。けれど恒一の胸には、亡くなった青葉の存在が今も深く根を張っている。その場所は、決して揺らがない。生きている者が、死者に勝てるはずがない。澪はもう、それを知っている。二度と、同じ場所で傷つく気はない。今のままでいい。二人がいなくても、自分はちゃんと生きていける。恒一はどうしようもない無力感に沈み込み、ゆっくりと言葉を絞り出した。「澪……信じるかどうかはお前に任せる。でも、俺は――お前に惹かれている。今はまだ、青葉の存在が大きい。正直に言えば、比べてしまう自分もいる。それでも、時間がほしい。お前をちゃんと見て、向き合いたい。この気持ちは、青葉の代わりじゃない。俺は……いつまでも彼女に縛られているわけにはいかない」その言葉を聞いた瞬間、澪は反射的に一歩身を引き、勇太を恒一のほうへ押しやった。だが勇太は澪の脚にしがみつき、恒一のもとへ戻ろうとしない。「ママ、僕を六年育ててくれた。僕のママは、澪ママだけだ。あの冷たい家には戻りたくない。ママがいる場所で暮らしたい!」恒一と瓜二つのその瞳に、強い意志が宿っていた。なりふり構わず脚を離さないのは、これが初めてだった。願いが通らなければ騒ぎ出す、とでも言うように。恒一は困ったように眉を寄せ、口を開く。「じゃあ、勇太をしばらくここに預けて、施設の子どもたちと一緒に勉強させるのはどうだ?鷹宮家はいま混乱の渦中だ。連れ帰っても世話をする者がいないし、危険な目に遭うかもしれない。そう決めた。俺が人を付ける。お前たちは余計な心配をしなくていい」最初から最後まで、恒一は澪に断る隙を与えなかった。言いたいことだけを言い残し、そのまま立ち去っていく。勇太もまた、図々しいほどだった。澪の冷え切った視線など意に介さず、影のように付きまとった。澪が客をもてなせば、勇太は背伸びをして茶を運び、皿を下げる。澪が美雨と積み木をしたり、絵を描いたりすれば、勇太も必ず割り込んできた。美雨がどんな絵を描いても、澪は心から褒める。勇太の画用紙には、年齢不相応なほど完成度の高いデッサンがあるというのに、澪は目もくれなかった。胸の奥がつんと酸っぱくなり、悔しさに鼻
「親不孝?あんたなんか父親でも何でもない。私を一日だって育ててないくせに、父親ヅラしないで。この六年で、あんたは十分得したでしょう?まだ私が昔みたいに従うと思ってるの?あり得ない」鷹宮家で、澪はもう十分に耐えてきた。これ以上、飲み込むつもりはない。その言葉に、隆志の顔色は青くなったり赤くなったりと目まぐるしく変わる。周囲の視線が突き刺さり、羞恥と怒りが一気に込み上げた。「澪、お前もずいぶん偉くなったもんだな。俺がいなきゃ、お前の母親はとっくに病院にもかかれずに死んでた。鷹宮家に近づくことすらできなかっただろうが。白石家にも青葉にも、借りがあるはずだろ。少しくらい恩を返して何が悪い。いい加減わきまえろ。恒一と勇太のところに戻って、ちゃんとやり直せ。余計なことは考えるな。それがお前にも母親にも一番いいんだ」澪は鼻で笑い、少し離れた場所に立つ恒一へ視線を向けた。「鷹宮さん、あなたも同じ考え?この人を呼んで、私を連れ戻そうとしたの?そんなやり方で私を追い詰められると思ってるなら、大きな勘違いよ。私も母も、この人に情なんて一切ない。昔は約束があったから黙っていただけ。今はもう、その必要もない。白石家がどうなろうと、私には関係ない。私は白石家にも、青葉にも借りなんてない。むしろ――借りがあるのは、向こうのほうよ」澪は身構え、今すぐ全員まとめて追い払いたいほどだった。美智子と美雨も澪のそばへ寄り、黙ってその背を支える。恒一は目つきを引き締め、慌てて言葉を挟んだ。「澪、白石社長を呼んだのは俺じゃない。嫌なら今すぐ追い返す。それに――これから鷹宮家が白石家にしてきた支援は、すべて打ち切る。あとは勝手に生きるなり、滅びるなりすればいい」その言葉を耳にした瞬間、隆志の顔からみるみる血の気が引いた。狼狽し、視線を泳がせる。「待て!やめろ!そんなことするな!俺はお前の義父だぞ!青葉の父親だ!あれだけ愛し合ってたくせに、青葉がいなくなった途端、俺を切り捨てるのか!あいつがあの世で知ったら、絶対にお前を恨むぞ!」「もういい!」恒一は怒鳴って遮った。「青葉は、生きている頃からお前を心底憎んでた。お前が女にだらしなく遊び歩かなければ、母親だってあんなに早く逝かなかった。青葉だって、あそこまで追い詰められなかったはずだ!青葉からどれだけ搾
意識を取り戻したとき、勇太は自分が温かな腕の中に抱かれていることに気づいた。美智子は彼を抱きかかえ、目を覚ました勇太にやさしくお粥を口元へ運ぶ。だが、その声だけは冷たいままだった。「もう二度と、そんな同情を買う真似はしないで。次もわざと飢えて倒れ、澪のところへ来るようなことがあれば、今度は警察に突き出すわ」勇太はお粥をひと口飲み込み、視線を落とした。「ごめんなさい……」その謝罪を、美智子はきっぱりと遮った。「謝る言葉なんて、もう要らない。あなたが澪につけた傷は、許せるものじゃない。子どもだから我慢しているだけ。そうでなければ、命に代えてでも同じ痛みを味わわせてやるところよ」「でも僕、本当に分かったんだ。ここに残って償うから、追い出さないで……お願い」瞳いっぱいに涙を溜め、その姿はみじめなほど哀れだった。だが澪は何も感じなかった。勇太の性格はよく分かっている。いまは澪を信じているからこそ、彼女のためなら何でもするだろう。けれど――いつか愛花やほかの誰かの言葉を信じてしまえば、また迷いなく踵を返す。そして再び、澪を傷つけるに決まっている。恒一が本当に大事にするのは、青葉と勇太だけだ。それ以外の人間など、彼にとっては取るに足らない存在にすぎない。愛花の件で、澪は痛いほど思い知らされた。もう二度と、同じ轍は踏まない。「結構よ。あなたが私の前に現れるのは、これが最後。もうボディガードも雇ったわ。これからは父子で顔を出すたび、追い払わせる。それでも力ずくで来るつもりなら、そのときは私たちがまた出ていくだけ。あなたたちは私にとって、ただの重荷よ。嫌われたいなら――好きにすればいい」澪はもう、勇太のいい子の仮面に騙されることはない。椀のお粥が空になると、澪は何も言わず勇太を玄関へと促し、そのまま外へ出した。ちょうどそのとき、恒一が勇太を迎えに来ていた。固く閉ざされた扉の前で、父子は並んで立ち尽くす。まるで同じ影のように、肩を落として。これまで、澪が一方的に気を遣い、歩み寄ってきた。だからこそ、彼らは澪が何を好み、どうすれば喜ぶのか――何ひとつ分かっていなかった。今さら取り繕ったところで、届くはずもない。さきほどの澪の言葉を反芻するたびに、恒一は全身から力が抜けていくのを感じていた。庭いっぱい
勇太も悔しさを滲ませながら唇を噛み、「パパ……ママは、僕のこと、本当にもう要らないの?」と問いかけた。「違う。俺たちがちゃんと努力して、許してもらえるように頑張れば、いつか必ず気持ちは届く」恒一は息子を泣かせたくなかったし、自分自身も諦めるつもりはなかった。その言葉に、勇太はどうにか気持ちを奮い立たせ、力強くうなずく。「僕、絶対に頑張る!」父子は病院で傷の処置を終えると、澪の宿の近くにマンションを一室購入し、しばらくそこに腰を据えることにした。ある日、勇太は玄関先で美雨が澪の作ったごはんを頬張り、目を細めて嬉しそうに笑っている姿を目にする。胸の奥で、嫉妬がじわじわと膨れ上がった。以前は、澪にああして世話を焼かれる子どもは、自分ひとりだった。「ママ」と呼べるのも、自分だけだった。それなのに今は、かつて自分に向けられていたものがすべて取り上げられ、美雨へと与えられている。あんな小さな子が、自分より何が勝っているというのか。ちょうどそのとき、チェックインに来た客が、何気ない調子で笑い混じりに言った。「白石さんって本当に優しいよなあ。いったい誰と結婚するんだろう。どんな人が幸せ者になるのやら」「そのうち白石さんに自分の子どもができても、美雨ちゃんのこと、今みたいに可愛がるのかな?」澪は一瞬、表情をきゅっと引き締めた。だが、相手に悪意がないと分かっていたから、声を荒らげることはせず、静かに言い添えた。「結婚は一度していますし、これから再婚するつもりはありません。今の暮らしで十分ですし、子どもも美雨ひとりでいいんです。それに、幸せなのは私のほうです。再婚しなくても、何も変わりません」客は気まずそうに笑い、それ以上は踏み込まなかった。だが、隅で様子をうかがっていた勇太は顔を強張らせ、戸口にかけた指先が白くなるほど力を込めていた。ママは、もう僕を要らないんだ。欲しいのは、美雨だけなんだ。怒りが一気に頭のてっぺんまで噴き上がる。今すぐ飛び出して、ボディガードに命じ、美雨を二度と戻れない場所へ連れて行かせたい衝動に駆られた。彼女のそばに子どもが現れるたび、ひとり残らず追い払ってやりたい。けれど長い沈黙ののち、勇太は結局なにもできなかった。ただ美雨を鋭く睨みつけると、肩を落としてその場を去っていく