Partager

私は待ち続け、あなたは狂った
私は待ち続け、あなたは狂った
Auteur: カフェイン中毒男

第1話

Auteur: カフェイン中毒男
「チクタク……チクタク……」壁掛け時計が22時を指し、時報が鳴った。井上葉月(いのうえ はづき)は窓の外を見た。夜の闇はまだ深く、かすかに黄色い街灯の明かりが見える。

彼は今夜も帰ってこないだろう。

今日は葉月の27歳の誕生日であり、夫と結婚してちょうど3年目の結婚記念日でもある。

3年間連れ添った夫は今、外で他の女性を抱きしめ、いちゃいちゃしている。

30分前、葉月はネットでトレンド入りしたニュースを見た——【新人女優が夜に謎の男性と密会】

パパラッチが撮った写真はぼやけており、男の顔は見えない。

しかし葉月にはわかった。彼が着ているあの服は、昨夜自分が選んであげたものだからだ。

葉月は軽く笑い、手元のお酒を一気に飲み干した。苦く辛い味が喉を刺さり、ようやく胸の痛みを抑えることができた。

「南原さん、これ全部片付けておいて」

南原(なんばら)は、葉月が午後いっぱいかけて準備した飾り付けと食卓いっぱいの料理を見て、もったいないと思った。

南原は葉月が気の毒でたまらなかった。何時間もここで主人の帰りを待っていたのに、主人からは一言の連絡もない。

夜が更け、一階から聞き慣れた車の音がした。葉月は布団に頭をうずめ、耳を塞いで聞こえないようにした。

しばらくするとドアが開き、清原逸平(きよはら いっぺい)が外から入ってきた。

逸平は今日たくさん酒を飲んだのもあり、全身に酒臭さが漂っていた。逸平はそのまま浴室に向かった。

シャワーの音が響きわたり、葉月は完全に眠気が覚めた。

逸平がシャワーから出てくると、葉月はベッドが沈むのを感じた。男は後ろから腕を自然と葉月の腰に絡ませ、首筋に顔をうずめた。「葉月……」

葉月はネットのトレンドニュースで見た写真を思い出し、ふいに寒気に襲われて逸平を押しのけた。葉月の声は冷たい。「あなたの匂い、気持ち悪いから触らないで」

逸平は一瞬きょとんとした後、すぐに体を起こし、葉月の背中をじっと見つめてしばらく黙っている。

逸平は身を乗り出して再び葉月を抱きしめようとしたが、葉月は突然起き上がり、距離を置いた。逸平を見る目にさえ、いくぶんか嫌悪の色が増している。

何のマネだ?

逸平は目を細めて葉月を見た。

またこの目だ。まるで自分が吐き気を催す汚れ物であるかのように。

葉月は逸平の方を見ようともせず、ただ淡々と言った。「今日がどんな日か、まだ覚えてる?」

逸平は眉を軽く上げ、幾分か気だるげに答えた。「覚えてるよ」

逸平の口から出たその言葉は、あたかも取るに足らないことかのように軽々しい。

「今晩は帰って来ないって分かってたけど、まさか外で好き勝手してたとはね!」葉月は怒りたくなかったが、引き裂かれるような心の痛みに耐えきれず、怒りを抑えられない。

逸平は突然葉月の顎を掴み、指先で柔らかな唇を撫でながら、圧倒的な威圧感を込めて言った。「どうした、これにも口を出すつもりか?」

結婚して3年。葉月が自分のプライベートに構ったことなど一度もなかったのに、今さら芝居がかったことを言いやがって。

逸平の露骨な挑発に、葉月の堪忍袋の緒がついに切れた。

いったい自分は何をまだ期待しているのだろう?

葉月は逸平の手を払いのけ、冷たい声で言い放った。「ただ自分がみっともないと思っただけ」

葉月はもう我慢できない。こんな結婚生活には本当にうんざりしていた。

「逸平、離婚しましょ」

空気が一瞬にして凍りついた。逸平は自分の耳を疑ったように、しばらくしてからようやく俯いて笑った。さっきまでの甘くときめく気持ちは、跡形もなく消え去る。

逸平は後ろに仰け反り、ベッドに両腕をもたれかけ、喉からふと笑い声を漏らした。「今日遅くなったのは仕事の用事だ。何か償って欲しいなら何でもしてやるが、口にすべきでない言葉には気をつけろ」

葉月ただただ滑稽に思えた。逸平の言う「仕事の用事」とは他の女といちゃいちゃすることだったのか。

葉月の表情は冷め切っており、恐ろしいほど冷静だ。「離婚したいの。私、井上葉月は、あなた、清原逸平と離婚する。わかった?」

さっきまでお酒でぼんやりしていた逸平はすっかり酔いから醒め、葉月を射抜くような視線でじっと見つめた。

その細長い目はまるで冷たい池のように澄んでいて、冷たさの中には計り知れない深みが漂っている。

葉月は言った。「早く済ませよう。お互いこれ以上苦しめ合うのはやめましょ」

葉月の言葉を聞き、逸平はまた笑ったが、それは相手を馬鹿にするような笑い方だ。「苦しめ合う?葉月よ、この3年間お前は清原夫人という肩書きで十分すぎるほど恵まれてきただろう。よくもまあ『苦しみ』なんて言葉が口にできたものだ」

逸平の言葉一つ一つが葉月の心をえぐり、葉月に自分の立場をはっきりと認識させた。

葉月の心は完全に冷え切っていった。

葉月が黙り込んでいるのを見て、逸平の目には焦燥の色が浮かんだ。

逸平はベッドから降りて服に着替え、袖口を整えながら葉月に言った。「夢を見るのはやめろ。離婚なんてありえない。清原夫人という立場に、どのみちいてもらわないといけない」

そう言い残すと、逸平は振り返りもせずに去り、葉月にこれ以上視線を向けることすら面倒くさがっている。

ドアは激しく閉められ、大きな音に南原までが目を覚ました。

慌てて駆けつけた南原は、逸平が怒りに満ちた表情で歩き去る姿を見た。周囲に漂う恐ろしい冷気に圧倒され、逸平に言葉をかけることさえできない。

「これは一体……」旦那さんは帰ってきたばかりなのに、どうしてまた怒りながら出て行かれたのだろう。

南原は葉月を心配し、しばらく躊躇してからそっと寝室のドアをノックした。「奥様、大丈夫ですか?」

部屋の中で、葉月はベッドシーツを強く握りしめ、平静な声を装って答えた。「大丈夫よ、南原さん。早く休んでちょうだい」

南原はドアの外から、葉月の声に込められた苦しみを聞き逃すことはなかったが、どうすることもできず、心を痛めながらため息をついて去った。

葉月は泣きたくなかったが、ベッドに座っていると涙が止まらなくなり、自分自身に腹が立った。「自分から離婚したいって言ったのに、何を泣いているのよ」

3年間の結婚生活がこんなにみじめに終わるとは。葉月はようやく悟った。自分を愛してもいない人に、どれだけ強く求めても無駄なのだと。一層のこと相手を解放し、自分も解放しよう。

葉月は一睡もできず、夜明けまでベッドに座り続けた。

翌朝早くに、葉月は弁護士に連絡し、離婚届の作成依頼をした。

二人の間に子供がいなかったのは、かえって好都合だ。

残りの家も車もお金も、葉月はすべていらない。

でもこの結婚に関しては、絶対に解消してやる。しかもなるべく早く。

向かいに座っている弁護士は、葉月の要求を聞きながら何度も葉月を見た。

逸平が保有する膨大な資産を考えると、離婚するなら多少なりとももらっていいはずだ。逸平だってそんな細いことなんか気にしないだろうに。

しかし、葉月は財産分与の話いっさいしない上に、しかも離婚を急ぐように強く弁護士に要求しているので、かえって弁護士の好奇心をかき立てる。

葉月の要求通りに離婚届が作成された後、弁護士は余計な一言を言ってしまった。「井上さん、大変失礼ですが、なぜ清原さんとそんなに急いで離婚なさるのですか?」

逸平の家柄にしろ本人のルックスにしろ、上流階級全体を見渡してもなかなか右に出る者はいない、そんな引く手あまたの男性を葉月が潔くあきらめるとは、誰もが好奇の目を向けずにはいられない。

葉月は書類をきちんとしまい、その質問を予期していたかのように、弁護士に向かって淡く微笑んだ。もともと華やかな美貌の持ち主が微笑むと、艶やかさが一層増し人の心を揺さぶるようだ。

葉月はその赤い唇がそっと開き、穏やかで抑揚のある、ゆったりとした口調で言った。「逸平はね、女癖が悪いから、性病がうつるのが怖いの」

弁護士は葉月の言葉を聞いて一瞬呆然としたが、意味を理解すると眼鏡を直しながら苦笑した。「それは離婚された方がよろしいでしょう」

葉月の気分は少しばかり晴れた。こんな時に逸平にちょっとした嫌がらせができれば、それだけで葉月は十分満足だ。

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Commentaires (1)
goodnovel comment avatar
hiro.machakun
まぁまぁ面白い。。。...
VOIR TOUS LES COMMENTAIRES

Dernier chapitre

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第310話

    逸平の記憶の中の葉月は、いつも明るくて活発で、少しわがままながらも思いやりに溢れていた。しかし、今の彼女は、砕かれた後に何とか繋ぎ合わされたグラスのようにひび割れだらけで、軽く触れただけで崩れ落ちそうだった。こんな彼女を見るのは初めてで、彼の心は理由もなく締め付けられるように痛んだが、どうすればいいのかわからなかった。葉月は声を立てずに涙を流しながら、逸平に握られた片手でお椀を支え、もう片方の手でお箸を取り、少しずつ麺を口に運んだ。熱いスープにしょっぱい涙が混じり、彼女はゆっくりと真剣に食べ続けた。それは亡くなった祖母との最後の温もりに触れているようだった。逸平も俯いて、自分の麺を食べ始めた。麺はあっさりしていたが、スープは意外に味わい深く、美味しかった。あの夜の吹雪、仄暗い灯り、質素な温かい麺、そして寒さと悲しみの中で寄り添った少年少女――それは二人の人生から決して消えることのない原風景となった。今、時は流れ。吹雪は止み、悲しみは沈殿した。屋台も灯りも、変わらず昔のままだ。当時の記憶を思い返していた葉月はふと現実に戻り、鼻の奥が少し熱くなっているのに気づいた。彼女は無意識に指を軽く動かした。あの時、彼に強く握られた痛みを伴う温もりと支えを、今でも感じられるかのように。彼女は横を向き、傍らの逸平を見た。彼もまた彼女を見つめていた。夜のように深い瞳には、同じ記憶が鮮明に映り、複雑な感情が渦巻いていた――それは、当時の彼女の悲しみに対する痛みと、支え合った日々への懐かしさも含まれていた。それに......もしかしたら、その後お互いが離れ離れになって、傷つけ合ったことへの深い後悔と無念も含まれているかもしれない。周りの喧騒が、この瞬間だけ遠のいたように感じられた。二人は過去の記憶の入り口に立ち、同じ灯りのもとで同じ麺を食べ、純粋に支え合い、温め合ったあの冬の夜へと引き戻された。長い沈黙の後、逸平は嗄れた声でそっと尋ねた。「足りないと思うから......替え玉する?」葉月は軽く目を伏せ、まつげを微かに震わせた。彼女は喉の奥に何か詰まったような感覚を覚えた。麺のスープの温かみなのか、それとも記憶の中にいる少年が彼女の手を強く握った感触なのか、はっきりとはわからない。数秒経って、ようやく彼女は「

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第309話

    葉月は反応せず、相変わらず逸平を見つめていた。彼はためらうことなく、彼女の冷たく硬い手首を優しく握り、彼女を連れて一歩一歩外に出て、吹き荒れる雪の中へと歩み出た。冷たい雪が瞬時に顔に当たり、鋭い寒気を伴っていた。葉月は寒さで少し震えたのか、ようやく瞳に微かな動きが生じた。彼女は逸平に握られた手首を見て、また舞い散る雪を見て、その手を引き抜こうとはしなかった。逸平は彼女を引き連れ、できるだけ軒下を歩こうとしたが、吹雪が激しく傘もないため、二人の髪と肩はすぐに雪で真っ白になった。この時間の街にはほとんど人影がなく、普段賑やかな商店街も静まり返り、ほんの数軒の店がかすかな灯りをともしているだけで、吹雪の中でぽつんと浮かび上がっていた。「寒いか?」逸平は風に消されそうな声で彼女に尋ねた。葉月は首を振り、何も言わず、ただぼんやりと前方の空虚な通りを見つめていた。「一緒に何か食べに行こうか?」彼は密かに彼女のことを一日中気にかけていたが、葉月は今日何も口にしていなかった。彼女はまた首を振って拒否した。逸平は眉を少しひそめ、黙って唇を噛みながら彼女を見た。葉月に食欲がないことを彼は知っていたが、それでも彼は頑なに、彼女は温かいものを食べるべきだと思っていた。そうすれば気分が少し楽になるかもしれないし、少なくとも体は温まるからだ。それに、何も食べなければ、体が持たない。「ついて来て」逸平は彼女の手首を強く握り、まだ灯りのついている店を一軒一軒見て回った。しかし、それらの店はすでに閉まっているか、温かい食べ物を売っていなかったのどちらかだった。吹雪はますます激しくなり、空は濃い闇に包まれ、辺り一面白と黒の世界だけになった。逸平がほとんど諦めかけていて、彼女を家に送り届けて自分で何か温かいものを作ろうと考えていた時、彼らは風を避けるためにある路地に入った。薄暗い灯りが、荒れ狂う吹雪と深い闇の中で、頑なに輝き続けていた。まるで広い海に浮かぶ孤島のようだった。この屋台だ。カセットコンロの火はまだ消えておらず、大きい鍋には乳白色のスープがぐつぐつと煮え滾り、湯気が立ち上っている。吹雪の寒さとは対照的な光景だ。その時夫婦は片付けをしていて、そろそろ店じまいの準備をしているようだった。逸平の目が輝き、振り返って葉

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第308話

    その後、町は再開発され、屋台街も移転・改装され、規模はさらに大きくなり、この小さな町のナイトライフのランドマークとなった。しかし、彼らはその後二度と来なかった。車は少し離れた臨時の駐車場に止まり、逸平はシートベルトを外した。「ちょっと行ってみるか?」葉月は窓の外の馴染みあるようで少し違う賑やかな光景を見て、突然胸が高鳴った。懐かしくも新しい感覚が、一瞬でたくさんの思い出を呼び起こした。彼女はしばらく黙っていたが、やがてシートベルトを外し、頷いた。「そうしようか」ドアを開けて車から降りると、屋台街独特の空気が顔に押し寄せてきた。食べ物の香りや、かすかな油の匂い、元気な声の呼び込み、人々の笑い声……様々な音と匂いが混ざり合っていた。無数の灯りがまるで川のように連なり、狭いながらも人で溢れている屋台街を照らしていた。両側にはびっしりと屋台が並び、色々なお店があった。人が溢れかえり、お互いの肩が触れ合うほど混雑していた。逸平は自然に葉月の横に立ち、彼女のために混雑する人混みを遮った。彼は彼女を見ず、前方の光と影が交錯する人混みに目を向けていたが、彼は歩調をわざと遅くし、葉月の歩く速度に合わせていた。葉月は彼のそばにいて、最初はまだ少し緊張していた。こういう場所に来るのは、本当に久しぶりだわ。馴染みのある屋台の看板が目に入るたびに、彼女の胸に複雑な感情が込み上げてきた。屋台の店主は以前と違う人になっているし、値段も昔の時と比べると5倍ぐらい高くなっているが、それでも昔から変わらないものもあった。食欲をそそるラーメンやゲソ焼き、焼き鳥のいい香り……どの香りも、まるで葉月の記憶の奥にしまわれた箱を開けようとする鍵のようだった。葉月が黙っているのを見て、逸平も黙っていたが、時々彼は思わず彼女に目を向けてしまう。彼女が辺りをキョロキョロ見ている様子を見て、彼の唇の端が自然と緩んだ。彼らは黙々と歩き、最も混雑したエリアを通り抜け、比較的広々とした脇道に出た。この辺りは飲食店が多く、屋台街に負けない賑やかさがあった。さらに道を進んでいくと、逸平の足が突然、一見かなり古びて見え、作りも簡素なラーメン屋台の前で止まった。屋台の主人は忙しく働いており、麺を茹でる大鍋からは湯気が立ち上り、薄暗い白熱灯が屋台の上に

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第307話

    葉月は静かに逸平を数秒間見つめた後、黙って視線をそらし、それ以上追及しなかった。窓の外は夜の靄がかかり、月明かりが静かに流れ、全てが穏やかで美しく見えた。しかし、あるものはこの徐々に冷めていく料理のように、表面は平穏で無事に見えても、内側の温もりはひっそりと失われていった。逸平も黙り込み、もはや他の話題を探そうとはしなかった。この短く、平穏に見える共に過ごす時間は、今の彼にとってはまるで盗んだかのような一瞬の時であった。あまりにも脆く、息をするのも恐れるほどで、ちょっとした動きひとつで薄氷が割れ、再びあの慣れ親しんだ疲れる寒さに落ちてしまいそうだった。逸平は、まさか自分がこんなにもビクビクしながら日々を過ごすことになるとは想像もしていなかった。逸平は突然、はっきりと思い知った。彼らの間に立ちはだかるものは、有紗の挑発だけでもなければ、たった一度の激しい言い争いだけでもないのだと。それは、3年という結婚生活の中で無視された細やかなことや軽んじられた努力、そしてすり減らされた忍耐が少しずつ積み重なり、ついに越えられない高い壁となったのだ。今、この小さなテーブルをはさんで彼らは向き合っている。距離はわずかで、彼女のまつげの微かな震えまで見えるのに、そこにはあたかも無音の荒涼とした廃墟が横たわっているかのような隔たりがあった。逸平の心臓は突然締め付けられ、まるで見えない手に握りつぶされるかのように、急激な収縮による鈍い痛みで一瞬息が止まった。喉仏がぎこちなく上下し、逸平は反射的に唾を飲み込んだ。そうすれば、心の奥底からせり上がってくる鋭く重い痛みを、少しでも押し戻せる気がしたのだ。後悔している。自分は本当に後悔している。会計を済ませてお店を出て、冬の夜の冷たい空気にさらされるまで、逸平はぼんやりとしていた。次にどこへ行くべきかを考えていた。家に帰るべきか?帰っても二人で話すことはほとんどなく、せいぜいソファで顔を見合わせるか、葉月が早々に部屋に引きこもるだけだろう。逸平はそんな状況を望んでいなかった。二人がお店の前に立っていると、葉月はそろそろ病院でお爺様のお見舞に行くべきかを逸平に聞こうとした。「まだ時間は早い」逸平が先に口を開いた。夜風に乗って届く声は穏やかだった。「ちょっとでいいから……散歩でもし

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第306話

    夜が深まるにつれ、街の明かりが次々と灯り始め、路傍の屋台からは煙と香ばしい匂いが立ち上ってきた。逸平の車は時間通りにビルの下に到着した。葉月が階下に降りると、彼はすでに車の脇に寄りかかって待っており、彼女が出てくるのを見ると、自然な流れで助手席のドアを開けた。「さあ、乗って」彼の声は落ち着いており、彼は一瞬彼女の顔を見つめた。まるで本当に休養が取れたかどうかを確認しているかのようだった。葉月は何も言わず、コートをしっかりと羽織り、黙って車に乗り込んだ。車は煌めく街の光に包まれながらゆっくりと進み、逸平が話していたあのこぢんまりとした料理店へ向かった。車内は静かで、ただ穏やかなBGMが流れているだけだった。葉月は窓の外を流れる街の景色を横目で見つめ、光と影が彼女の横顔に揺らめいていた。逸平も多くを語らず、ただ車内のエアコンの温度を少し上げると、その後は運転に集中し、時折バックミラーで彼女の様子をうかがうだけだった。このこぢんまりとした料理店は古い住宅街の中にひっそりとあり、外から見ると正直ごく普通の住宅だ。長い年月を経たているだけに、その老朽ぶりは一目でわかるほどだった。しかし、店主は店内を上品にリフォームしたため、外観からは想像できない素敵な空間が広がっている。今はちょうど食事時で、店内は一番賑わっている時間帯だった。幸い、逸平は事前に個室を予約していたので、到着するとすぐに二人は席に着くことができた。このお店の看板料理はきのこの土鍋ご飯だ。熱々のまま運ばれてくると、きのこはほとんど溶けるほど柔らかくなっており、きのこ以外にも、ネギやちくわがたっぷり入っている。表面には白ごまが散らされ、香りが食欲をそそる。さらに店員は、見た目も爽やかな数皿のあっさりめの小鉢料理を運んできた。葉月は最初食欲がなかったが、熱々のきのこご飯を口にすると、暖かさが胃から全身に広がり、自然と食欲が戻ってきた。体も心も、少しずつほぐれていくのを感じた。彼女は小さな口でゆっくりと、優雅な動作でご飯を食べ続けた。逸平も多くは食べず、むしろ彼女が食べるのを見ている時間の方が長かった。時折取り彼は、お箸で遠くの料理を取って彼女に勧めた。「味はどう?」彼は葉月を見つめながら、ふと口を開いた。「うん、美味しいよ」葉月は頷いた。きの

  • 私は待ち続け、あなたは狂った   第305話

    葉月が家で一眠りして目を覚ますと、もう六時を回っていた。携帯電話に二件の不在着信と未読メッセージが数件表示されていた。一番上に表示されているのは逸平からのもので、送信時間は三分前だった。【少しは休めたか?夕飯、何が食べたい?】葉月は少し考えて返信した。【わからない。今あまり食欲なくて、お腹も空いてないから、後で何か買ってくるわ】通りに面した住まいの利点は、階下に飲食店や屋台が並んでいて、降りればすぐに食べ物が買えることだ。メッセージを送ってすぐ、携帯が振動し、画面に「井上逸平」の名前が表示された。葉月は画面に表示された名前を数秒見つめ、ためらいながらもスワイプで通話に出た。通話を繋ぐと同時に、穏やかな声が受話器から聞こえてきた。「起きた?」葉月は「うん」と小さく返事をした。声にはまだ眠気が残り、起きたばかりのだるさが滲んでいた。「まだ眠り足りないんじゃないか?」逸平は彼女の声を聞いてそう尋ねた。葉月は携帯を少し離し、軽く咳払いをして言った。「十分休めたわ。今起きたばかりなの」逸平が時計を見て言った。「そうか。階下で適当に済ませるなんてダメだ。近くにうまい家庭料理店があってお粥が評判なんだ。寝起きに食うには胃にやさしくて丁度いいだろう」逸平の言葉は一見自然でさりげないものだったが、その心遣いに断り難い気がした。葉月はすぐには返事せず、ベッドから出て窓際に行き、階下のにぎわい始めた街並みからいろいろな料理の匂いが漂ってくる。元々あまり空腹ではなかったが、その香りが鼻をくすぐると、急に食欲が湧いた。逸平の声が再び聞こえた。「どう?今から出れば、五分後には階下に着くよ」葉月は携帯を握りしめた。指先が無意識に冷たい本体を撫でている。断る言葉が唇まで浮かんだが、結局は胸の奥でかすかに膨らむ期待に押し殺されてしまった。葉月は眠たげな鼻声で応じた。「うん。着いたらメールを送って。下に降りるから」「ああ。じゃあ後で」逸平の声にはかすかな喜びが滲んでいた。電話を切ると、葉月は洗面所へ向かい、目を醒まそうと顔を洗った。逸平が電話を切って振り返ると、いつの間にか傍に立っていた有紗の姿が目に入った。有紗を見て、逸平は表情をこわばらせた。有紗は壁にもたれながら、逸平が優しい口調で話すのを聞いていた。

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status