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第6話

Author: カフェイン中毒男
翌日。

逸平が会社から帰宅すると、南原がすぐに迎えに来た。

「井上様」

南原の手にはベルベットの箱があり、逸平は一目見ただけでそれが何かわかった。

この箱には葉月の結婚指輪が入っており、3年もの間、葉月はめったに指輪を外すことはなかった。

3年前の結婚式で、逸平は自らこの箱からダイヤモンドリングを取り出し、葉月の薬指にはめ、二人を結びつけたのだ。

「奥様が今日いらっしゃって、これを井上様に渡すようにと言われました」

逸平はその箱を睨みつけ、目つきは険しかったが、口元には冷たい笑みを浮かべた。「他に何か言ってたか?」

南原は箱の様子から、中身が何かおおよそ察しがついた。

今日の午後葉月が戻ってきた時、南原は葉月が気が変わったのかと思い喜んでいたら、ただ物を渡すように頼まれただけだ。

「井上夫人はただ、『元の持ち主に返す』とおっしゃいました」

逸平はゆっくりと手を伸ばして箱を受け取った。箱はとても新しく、大切に保管されていたことがわかる。

逸平は指輪を握りしめ、力が入っていたのか、指の関節が白くなった。逸平は声は低くして冷酷に言い放った。「これで清算できると思っているのか?」

南原はしばらく言葉を失い、ただ黙ってその場に立っている。

逸平は箱を開け、中に見慣れたダイヤモンドリングを見て、目に怒りが渦巻く。

しばらくして、逸平は突然箱を閉じ、感情を一切込めずに言った。「葉月に伝えてくれ、離婚なんて諦めろと」

こんな子供じみたことをして、これで関係を断ち切れると思うなんて、葉月はあまりにも甘い。

葉月は自分でメイクアップスタジオを経営している。

スタジオは二階建てで、広さは約300平方メートル以上あり、葉月を除いて13人のスタッフが在籍している。

スタジオには、普段ふらっと来てはスタッフたちとおしゃべりする警備員のおじさん以外は、全員女性だ。

スタジオの隅々にまで、女性ならではの繊細さと、暮らしへの愛情がにじみ出ている。

窓辺にはいつも新鮮な花が飾られ、ティールームにはさまざまなお菓子や健康茶のパックが置かれ、魅惑的な香りがスタジオに漂っている。

当初、全員女性でチームを組むのに、葉月はかなり苦労し、その過程で多くの問題にも遭遇した。

しかし4年が経ち、スタッフ同士の関係もますます良くなり、みんなは同僚から友達になり、今では家族のような仲だ。

すべてがひときわ美しく感じられる。

オフィスのドアがノックされ、葉月が「どうぞ」と言うと、アシスタントの橋本七海(はしもと ななみ)が顔を覗かせ、笑顔で葉月を見ている。

「葉月さん」

「どうしたの?」葉月はパソコンの画面から視線を外した。

七海はオフィスに入ってきて、照れくさそうに、言いたげで言わない様子だ。

七海は手に持っていたフォルダを葉月の前に置き、唇を噛みしめて、「葉月さん、明日一日休みを取ってもいいですか?」と尋ねた。

葉月はそっと眉をひそめ、ほんのりと春の気配を感じながら、穏やかに微笑んで七海に尋ねた。「七海、どうしたの?」

七海は「あーもう」と言い、「彼氏が明日来るんですぅ」と照れ臭く答えた。

七海たちは遠距離恋愛をしていて、大学1年生から付き合っているので、もうすぐで7年になる。

二人が大学を卒業した後、彼氏は地元に戻り、七海は一の松市(いちのまつし)に残ったため、普段はなかなか会えないのだ。

葉月はフォルダを受け取り、笑顔で頷きながら、「いいよ」と七海に返事した。

みんなまだ若い女の子で、仕事以外の生活もあるし、もっと他に追い求めるべきことがあるはずだから。

女の子の人生は、アイシャドウパレットよりももっと鮮やかでなくちゃ。

「葉月さん、やっぱり葉月さんが一番優しいです」七海は甘く柔らかい声で甘えると、葉月もそれを聞いてたまらなくなった。

七海は突然、葉月の手に指輪がないことに気づき、一瞬見間違いかと思ったが、両手をよく見ても見当たらない。

「葉月さん、指輪は?どうしてつけていないんですか?」

葉月は結婚して以来、特別な事情がない限り、指輪は常につけていた。なのに今日はつけていなかったから、七海は聞かずにはいられなかった。

うっかり落として気づいていないのではないかと心配した。

あんなに大きなダイヤモンドで、見ただけでもう高いってわかるから、無くしたら悔やんでも悔やみきれないだろう。

葉月は七海の質問を聞いて、自分の手を差し出した。

細くすらっとした指には何もなく、慣れ親しんだ指輪もないが、長年つけていた跡は残っている。

葉月は唇を曲げ、手を上げて七海に言った。「私、離婚するの」

葉月の声は軽やかで、嬉しいことを話しているかのようだ。

七海は突然その場で凍りついた。「葉月さん……」

自分はなんで余計な一言を聞いてしまったんだろう。

葉月は七海の悲しそうな顔を見て、可愛らしくも少し可笑しく感じ、「どうしたの?私が離婚するのに、あなたの方がよっぽど悲しそうじゃない」と言った。

七海は唇を尖らせた。「葉月さんはこんなにも素敵な女性なのに、どうして離婚なんてするんですか?」

葉月は軽く笑った。「離婚したからといって私が悪いわけじゃない。ただ逸平と合わなかっただけ。合わない結婚はサイズの合わない靴みたいなもの。無理に履く必要はないの。ただ自分を苦しめるだけだから」

葉月はまだ元気のない七海を見て、優しく慰めた。「さあ、早く準備しなさい。明日には彼氏に会えるんだから、元気を出して」

七海は残念そうな顔をしてオフィスから出てきた。

雨宮悦子(あめみや えつこ)が七海を見て尋ねた。「どうしたの?そんなに残念そうな顔して。まさか葉月さんに休暇申請を断られた?」

七海は首を振った。「休みは取れることになりました」

「休みを取れるのにそんな顔して。怒られたの?」

七海は悦子を隅に引き寄せて言った。「葉月さんが離婚したんです」

「えっ!」悦子は驚きのあまり、思わず声を上げてしまい、その大きさに周囲の視線が一気に集まった。

暇していた他のスタッフたちも集まってきた。「どうしたどうした?」

七海はスタッフたちの好奇心に満ちた顔を見て、言いたくなくなった。

悦子は七海を引き止めた。「逃げないでよ!話を途中でやめるなんて!」

「ちゃんと説明して。一体どうしたの?突然離婚だなんて。もしあの男が悪いなら、とことん懲らしめるわ」

「離婚?」残りの数人が声を揃え、顔を見合わせた。誰が離婚したんだ?

彼女たちのスタジオで結婚しているのは、今のところ葉月さんだけのはずだ。

「葉月さんが離婚した?」野上萌香(のがみ もえか)も七海の行く手を阻んだ。

数人が七海を誰もいないメイクアップルームに引き込み、椅子に座らせると、まるで尋問をするかのように七海を囲んだ。

この状況では、もう言うしかなかった。

七海はため息をついた。「葉月さんが離婚したんです」

「あの男、浮気したの?」

「愛人を作ってたの?」

「もしかして買春したの?」

次々と投げかけられる質問に七海はもう頭がくらくらしそうだ。

「詳しいことはわかりません、聞くのを忘れてしまいました。葉月さんが離婚するって聞いた時、頭が真っ白になっちゃいまして」

悦子は七海を白い目で見た。「本当にバカね。ちゃんと聞かないと、私たちどうやって葉月さんを助けるのよ。もし葉月さんが我慢してるだけだったら、葉月さんが言わない限り私たちにはわからないじゃない」

萌香が続けた。「そうよ!もしあの男が葉月さんに悪いことしてたら、私たちみんなでぶちのめしてやるわ!」

七海はみんなを見回す。「みなさん、葉月さんの旦那さん……いや、元旦那さんが誰かご存知ですか?」

「誰なの?」

七海は答えた。「あの井上逸平という井上グループの現CEOで、井上家の次期後継者です。会うことすら難しいのに、ぶちのめすなんて夢のまた夢ですよ」

スタッフたちは一度も直接逸平に会ったことはなかったが、ただ一度、路肩に停まった黒いベントレーを目にしたことがある。

装飾が施されたガラスドア越しに、葉月がその車に乗り込むところをたまたま見かけた。ドアを開けてくれた男の後姿は、長身で脚が長く、肩幅が広く腰が細く、一目で高級品だとわかる薄色のスーツを着ていた。

その時悦子は思わず感嘆した。「このスタイル、モデルにならなかったのが惜しいわ」

スタッフたちは葉月の夫の正体はわからなかったが、葉月の指先に輝くダイヤの指輪を見るたび、相手が普通ではないことはわかっていた。

ただ、ここまでとは思わなかった。

「あらまあ、葉月さんって実はお金持ちの奥様だったのね」誰かが小声で驚いた。「でも全くそういう風には見えないわ」

七海は軽く鼻で笑った。「葉月さん自身も十分お金持ちです」

スタッフたちが集まって賑やかに話し合った末、ひとつの結論に達した。「やっぱり、お金持ちの男は頼りにならないわね」

「お金の問題じゃないわ」悦子は首を振り、確信に満ちた口調で言った。「男そのものが信用できないのよ」

メイクアップルームでスタッフたちが熱心に議論していたが、オフィスの中にいる葉月は知る由もなかった。葉月が言ったのは「離婚する準備をしている」だったのに、伝言ゲームをしているうちに、いつの間にか「もう離婚した」に変わっていた。

噂は翼が生えたように飛び回り、葉月が知らないうちにスタジオ全体に広まっていた。

スタジオによくお客さんとして来るご夫人たちもこの2日間、興味津々で葉月に尋ねた。「井上さんは本当に旦那様と離婚したんですか?」

「いつ離婚したんですか?」

「旦那様のような金の卵とも離婚するなんて、私なら離婚せずに我慢するわ。少なくとも旦那様はお金も整った顔立ちも権力もあるんだから、うちのダメ亭主よりずっとましよ」

「そうよそうよ、旦那様は十分いい方よ。うちの主人は愛人だらけで、もう5人目がうちの玄関先まで来てるわ。それでも私は平気で楽しくやってるのもうどうでもいいわ、お金さえ握っていれば、好きにさせておけばいいのよ」

「男って所詮みんな同じよ」「井上さんはまだ若いから、きっと今はまだキュンとするような恋愛を求めているんでしょう。でも私たちの年齢になればわかるわよ」

あっちでひと言、こっちでまたひと言、もう頭が混乱しそうだ。

しかし、葉月は夫人たちの話を右から左へ流すだけで、どうせ葉月と逸平の結婚生活は終わりを迎えるから、夫人たちが話したければ好きに話させておけばいい。

ただ、どうしても耳を塞ぎたくなるような話も混じってくる。

「聞くところによると、旦那様は井上さんのこと全く気にせずに外で遊びまくってるそうよ」

「政略結婚なんだから、本気の愛情なんてあるわけないでしょ。旦那様のような男性が少しくらい遊んだっていいじゃない。だって最初から旦那様がいなかったら、清原家はとっくに終わってたんだから」

「離婚するのもいいわ。井上家は、やはり清原家には高嶺の花だったのよ。釣り合わないもの同士だったわ」

「確かにね。昔はまだしも、今の清原家にはそれほどの実力はないわ」

葉月はこれらにも全く耳を貸さず、聞こえないふりをした。

「葉月さん、ごめんなさい……私の口が軽かったせいで……」七海はこっそり葉月に謝罪に来た。こんなに多くの人に知れ渡るとは思ってもみなかった。

七海は全て自分のせいでこんな大きな誤解を招いたと思っている。

葉月はタブレットのデザイン画を見つめたまま、顔も上げずに言った。「気にしないで」

それらの噂は単に事実を先取りして言っただけで、何を気にする必要があるだろうか?

それが本当か嘘かなんて、いったい何の違いがあるの?

どうせすぐに、本当のことになるんだから。

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