Se connecter「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」
瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。
本当に来られるのだろうか。
「はい」
「分かりました。船側への連絡はこちらでします」
「でも、どうやって……」
「それは私が考えます」
いつもの淡々とした声だった。
「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」
瀬里奈はスマートフォンを握り直した。
「……分かりました」
「明日、迎えに行きます」
通話が切れた。
ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。
瀬里奈は準備室であったことを話した。
「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」
「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」
窓の向こうには、暗い海が広がっていた。
昨日までなら、それだけで息苦しくなった。
けれど今夜は違った。
明日、自分で終わらせる。
そのことだけは、もう決めていた。
挙式当日。
瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。
二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。
昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。
朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。
風も穏やかだった。
最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。
青い空。
白い雲。
どこまでも続く海。
誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。
招待客たちも次々と正装で集まり始めている。
父の古い友人。
西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。
両家の親族。
学生時代からの友人。
皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。
「まだ見つからないのか」
怜士の声が低く響いた。
昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。
自室にもいない。
「船内は確認しています」
「この船から出られるわけないだろ」
怜士は苛立ったように時計を見る。
開式時刻まで、もう時間がない。
梨花が近くで眉を下げた。
「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」
「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」
「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」
怜士の顔が強張る。
「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説明するの?」
その言葉に、怜士は答えなかった。
オープンデッキでは、ざわめきが少しずつ広がっていた。
「花嫁は?」
「体調でも悪いのかしら」
海風に白い花びらが揺れる。
生演奏も、いつの間にか止まっていた。
怜士は祭壇前に立ち、何度も時計を見る。
梨花は少し離れた場所にいた。
白に近い淡い色のドレス。
その姿を見た何人かが、何も言わず視線を交わしている。
その時だった。
デッキ後方の扉が開いた。
ざわめきが止まる。
瀬里奈が立っていた。
ひとりだった。
海風が、アイボリーのドレスの裾を揺らしている。
梨花が選んだものとは違う、肩から鎖骨までを美しく見せる一着だった。
左の首筋から肩へ続く火傷の痕も、今日は隠していない。
朝の日差しの下に、そのまま立っていた。
「瀬里奈……」
怜士が呟く。
梨花の笑顔が消えた。
瀬里奈はゆっくりバージンロードを歩いた。
祭壇へ向かうためではない。
自分の言葉を届けるために。
中央まで来ると、足を止めた。
そして、招待客へ深く頭を下げた。
「本日は、私たちのためにここまでお越しいただき、本当にありがとうございます」
誰も声を出さない。
「遠方から来てくださった方も、父の代から西園寺家を支えてくださった方もいらっしゃいます」
瀬里奈は一度、父の友人たちへ視線を向けた。
「皆様のお時間をいただき、こうしてお祝いまでしていただいたのに……このような形になってしまい、本当に申し訳ありません」
もう一度、深く頭を下げる。
怜士が低く呼んだ。
「瀬里奈」
それでも瀬里奈は顔を上げ、続けた。
「私は今日、二階堂怜士さんとは結婚しません」
風が吹いた。
白いベールが大きく揺れる。
一瞬遅れて、会場がざわめいた。
「何を言ってるんだ」
怜士が近づく。
「今さらふざけるな」
「ふざけていないわ」
「昨日のことなら――」
「昨日だけの話じゃない」
瀬里奈は、近づいてきた怜士を見た。
「昨夜、ホテルの契約書に署名するまで、準備室から出してもらえなかった。帰りたいと言っても、あなたの警護の人たちは通してくれなかった」
扉を押し戻された時の重さが、まだ手に残っていた。
「お前がサインすれば済んだ話だろ」
怜士の声が、前列の席まで届いた。
「怜士君」
父の古い友人が、膝に置いていた式次第を閉じた。
「署名するまで、部屋から出さなかったのか?」
怜士がそちらを向く。
「これは、私たちの問題です」
隣に座っていた女性も、怜士を見ていた。
瀬里奈は息を整えた。
「私は、自分の意思でこの結婚をやめます」
梨花が慌てたように口を挟む。
「瀬里奈さん、こんな場所で言わなくても……みんな見てるよ」
「だからよ」
瀬里奈は梨花を見る。
「皆さんは私たちの結婚を祝うために、ここまで来てくださったの」
もう一度、招待客へ向き直った。
「結婚する意思がないまま、皆様の前で誓うことはできません」
声は震えていなかった。
「勝手なお願いで申し訳ありません。でも、今日の結婚式は中止にさせてください」
深く頭を下げる。
今度は、すぐには顔を上げなかった。
ざわめきの中から、小さく、
「瀬里奈ちゃん……」
と呼ぶ声が聞こえた。
先ほど、怜士に問いかけた人だった。
責める声ではなかった。
瀬里奈はゆっくり顔を上げた。
「ふざけるな」
怜士の声が今度ははっきり響いた。
「ここは海の上だぞ」
瀬里奈を見る。
「結婚やめて、どこへ行くつもりだ」
瀬里奈は答えない。
「帰港まで逃げられると思ってるのか?」
その時だった。
遠くから低い音が聞こえた。
最初は船のエンジン音に紛れていた。
けれど、次第に大きくなる。
誰かが空を見上げた。
「……ヘリ?」
青空の向こうから、1機のヘリコプターが近づいてくる。
招待客たちが一斉に立ち上がった。
「こんなところに?」
「誰が来るの?」
機体が船の上空を旋回する。
強い風圧で、白い花とテーブルクロスが大きく揺れた。
瀬里奈のベールも空へ舞い上がる。
ヘリは上層のヘリデッキへ、ゆっくりと高度を下げていった。
数分後。
ヘリデッキへ続く扉が開いた。
先に数人の黒いスーツ姿の男たちが現れる。
その後ろから、ひとりの男が歩いてきた。
鷹司蒼介。
一瞬、会場が静まり返った。
次の瞬間。
「鷹司蒼介……?」
「本人?」
「どうしてここに?」
声が一気に広がる。
経済誌でも、ニュースでも、SNSでも知られている男。
けれど私生活ではほとんど姿を見せない。
スマートフォンを向ける者が次々に現れた。
シャッター音が重なる。
怜士の顔色が変わる。
梨花も目を見開いたまま動かなかった。
蒼介は周囲の視線も、カメラも気にした様子がない。
怜士の前を通り過ぎる。
梨花の前も通り過ぎる。
そして真っすぐ、瀬里奈の前まで歩いてきた。
「西園寺瀬里奈さん」
「はい」
蒼介が手を差し出す。
「迎えに来ました」
瀬里奈は彼を見た。
一瞬だけ、周囲の音が遠くなった気がした。
それから小さく頷く。
「お願いします」
差し出された手を取った。
背後で怜士が何かを叫ぶ。
瀬里奈は振り返らなかった。
蒼介と並び、ヘリデッキへ向かう。
機体の前まで来たところで、瀬里奈は足を止めた。
髪に留められた白いベールへ手を伸ばして、静かにピンを外した。
もう、身につけている理由はなかった。
ローターの音が大きくなり、強い風がデッキを吹き抜けた。
その瞬間。
瀬里奈の腕から、白いベールがふわりとさらわれた。
「あ……」
伸ばしかけた手を、瀬里奈は止めた。
白いベールは風を受け、青い空へ高く舞い上がっていく。
追わなかった。
やがて機体がゆっくりと浮かび上がる。
白いベールが空を漂う向こうで、ヘリは少しずつ船から離れていった。
いつの間にか、その姿も小さくなっていた。
青い空と白い雲の間へ溶けていくように。
デッキに残された人々は、ただそれを見上げていた。
怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。瀬里奈は一度も出なかった。何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。どれも変わっていなかった。「……ただいま」誰もいない部屋に、小さく言った。寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。下の道を、自転車が通り過ぎていく。帰ってきたのだ。ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。瀬里奈は短い文を消した。そのまま蒼介との画面を開く。【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】送信してから、もう一文だけ添えた。【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。返事は、着替えを選んでいる間に届いた。【分かりました。今日はゆっくりしてください】瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。ここでは、誰に見られるわけでもない。髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。……冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。今日はもう、紅茶が冷める前
窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。怜士がどこに立っているのか、もう分からない。瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。「寒くありませんか」顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。「少しだけ」差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。「ありがとうございます」蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。さっき、皆の前で言った。結婚しません、と。もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。そう思った途端、窓の景色が滲んだ。声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。「すみません」「聞こえません」思わず彼を見る。蒼介はヘッドセットに軽く触れた。「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。……着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。カーテンも、テーブルの水も揺れていない。瀬里奈は入口で立ち止まった。海ではない。窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」蒼介の声に振り向いた。「そこまで、すみません」言ってから、機内での言葉を思い出した。彼の眉がわずかに上がる。「……ありがとうございます」今度は頷いてもらえた。ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言
「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。 本当に来られるのだろうか。「はい」「分かりました。船側への連絡はこちらでします」「でも、どうやって……」「それは私が考えます」いつもの淡々とした声だった。「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」瀬里奈はスマートフォンを握り直した。「……分かりました」「明日、迎えに行きます」通話が切れた。ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。瀬里奈は準備室であったことを話した。「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」窓の向こうには、暗い海が広がっていた。昨日までなら、それだけで息苦しくなった。けれど今夜は違った。明日、自分で終わらせる。そのことだけは、もう決めていた。挙式当日。瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。風も穏やかだった。最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。青い空。白い雲。どこまでも続く海。誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。招待客たちも次々と正装で集まり始めている。父の古い友人。西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。両家の親族。学生時代からの友人。皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。「まだ見つからないのか」怜士の声が低く響いた。昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。自室にもいない。「船内は確認しています」「この船から出られるわけないだろ」怜士は苛立ったように時計を見る。開式時刻まで、もう時間がない。梨花が近くで眉を下げた。「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」怜士の顔が強張る。「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説
瀬里奈は答えなかった。「瀬里奈」「仕事の話よ」「何の仕事だ」「西園寺ホテルのこと」怜士の表情が変わった。「お前、鷹司に何を話した?」「あなたに説明する必要はないわ」「あるだろ」怜士が一歩近づいた。「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」「瀬里奈さん……」梨花が追いついてきた。「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」瀬里奈は何も言わない。梨花の目がわずかに揺れた。「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」「何が?」「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」梨花はためらうように視線を落とした。「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」瀬里奈は梨花を見る。「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」梨花が口を開きかける。「それに」瀬里奈は声を荒げなかった。「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」梨花の表情が固まった。「もういい」怜士が低い声で遮った。「明日までに契約書へサインしろ」「しないわ」怜士の顔が止まった。「何?」「あの議決権委任契約には署名しない」瀬里奈はまっすぐ彼を見る。「瀬里奈」怜士はしばらく何も言わなかった。やがて口元だけで笑う。「……そういうことか」「何が?」「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」瀬里奈は答えなかった。「明日は式だ。もう勝手なことをするな」その夜。「明日の衣装について、最終確認がある」怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。壁には明日の式で使うドレス。テーブルにはアクセサリーや進行表。スタッフと短い確認を済ませる。「西園寺様、少々こちらでお待ちください」「まだ何かありますか?」「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」スタッフはそれだけ言って部屋を出た。10分。20分。怜士は来ない。瀬里奈は扉を開けた。廊下には、二階堂家の警護担当がいた。ひとりではない。左右にふたりずつ。4人
けれど次の瞬間には、もう何事もなかったような静かな表情に戻っていた。「結婚式は、いつですか」「明後日です」蒼介は一度だけ頷いた。「分かりました。こちらでも、それまでに確認できることを整理します」「お願いします」それ以上、結婚について聞かれることはなかった。通話が終わる。暗くなった画面を見ながら、瀬里奈は小さく息を吐いた。翌日の夕方。船長主催のキャプテンズ・ディナーが開かれた。スイート客と招待されたVIPだけが入れるメインダイニングには、シャンデリアの光が降り注ぎ、窓の向こうには黒い海が広がっている。入口では船長が1組ずつ客を迎え、記念撮影を終えた人々がシャンパンを手に席へ向かっていた。船がゆっくり揺れるたび、天井のクリスタルが細かな光を散らす。ピアノと弦楽器の生演奏。磨かれた銀のカトラリー。白い花の向こうを、正装したスタッフが音もなく行き交う。窓の外では、船が残す白い航跡だけが、月明かりの下で長く伸びていた。明日は結婚式。そのために乗船した親族や、両家と長く付き合ってきた人々も多かった。瀬里奈がテーブルへ向かうと、梨花が怜士の隣に立っていた。「あ、瀬里奈さん」梨花はにこやかに振り返る。「まだ体調、完全じゃないでしょう?私が怜士の隣に座るから、瀬里奈さんは端でゆっくりしたら?」海へ落ちたことを気遣っているような口調だった。「ありがとう」瀬里奈は微笑んだ。「でも今日は、私にご挨拶くださる方も多いから。自分の席に座るわ」梨花の笑顔がわずかに止まった。「そう……だよね」瀬里奈は、自分の名前札が置かれた席へ座った。以前なら、場を乱したくなくて譲っていたかもしれない。今日は、その必要が分からなかった。船長の乾杯が終わると、何人もの人が瀬里奈へ声をかけた。「瀬里奈ちゃん、いよいよ明日だな」「ありがとうございます」「お父様がいたら、きっと喜んだだろう」胸の奥が少しだけ痛んだ。父なら、今の自分に何と言うだろう。瀬里奈は笑顔を崩さず、頭を下げた。別の女性が懐かしそうに目を細める。「小さい頃はホテルのロビーを走っていたのにね。結婚したら、少しはホテルのことから離れて休めるでしょう?」瀬里奈は一瞬だけ言葉を選んだ。「いいえ。これからも関わっていくつもりです」「あら、そうなの?」「はい。まだ、やりたい
ベッドで目を覚ました時には、もう10時を回っていた。瀬里奈はスマートフォンを手に取る。今夜20時。鷹司蒼介との通話。その予定を確認し、ベッドを出た。遅めのブランチを取るため、プールデッキ横のレストランへ向かった。白いパラソルの向こうには、どこまでも海が広がっている。怜士たちはすでにテーブルにいた。「昨夜、ひとりでショーに行ったんでしょう?」梨花が聞く。「ええ」「寂しくなかった?」「思っていたより、ずっと楽しかったわ」航平が笑った。「へえ。瀬里奈さん、急にひとり旅満喫してるじゃん」「ひとり旅ではないけど」「怜士への当てつけ?」瀬里奈は顔を上げた。「ひとりでショーを見るだけで、誰かへの当てつけになるの?」航平の笑顔が止まった。「いや、そういう意味じゃ……」「ならよかった」瀬里奈は何事もなかったようにメニューへ視線を戻した。「瀬里奈さん、昨日からちょっと雰囲気変わったよね」梨花の目が、瀬里奈の首元へ向く。今日もハイネックではない。火傷の痕が少し見えていた。「そう?」「うん。服も――」「瀬里奈」怜士が遮った。「昨日の書類、今日中にサインしておけ」「まだ確認が終わってないわ」「何を確認することがあるんだよ」「私が署名する書類でしょう?」瀬里奈は彼を見る。「私が確認するわ」怜士の眉が寄った。「昨日説明しただろ」「説明されたことと、私が確認することは別よ」以前なら、まず「分かった」と答えていた。けれど今は、その一言が出てこなかった。「昨日から何なんだよ」航平が笑う。「まだ海に落ちたの怒ってるんじゃない?」瀬里奈は彼を見る。「怒ってはいないわ」「じゃあ何?」「一度海に落ちたら、自分の足元くらい自分で確認したくなるものよ」航平は黙った。怜士と梨花は顔を見合わせる。まだ、少し拗ねているだけだと思っているようだった。午後、瀬里奈は部屋で資料を整理した。父の信託資料。1年前の鷹司グループからの提案書。二階堂から求められている議決権委任契約。議決権を二階堂側へ委任すること。発効日は婚姻成立時であること。挙式前に署名を求められていること。必要な部分だけを整理し、契約の趣旨が分かる資料にまとめた。父のホテルの情報を、相手が鷹司だからといって無造作に渡すつもりはない。開示して