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10話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 08:35:50

「グラン・ルミエール号で間違いありませんね」

 瀬里奈は一瞬、言葉に詰まった。

 本当に来られるのだろうか。

「はい」

「分かりました。船側への連絡はこちらでします」

「でも、どうやって……」

「それは私が考えます」

いつもの淡々とした声だった。

「西園寺さんは、ご自分で決めたことをしてください」

瀬里奈はスマートフォンを握り直した。

「……分かりました」

「明日、迎えに行きます」

通話が切れた。

ほどなく、客室の内線が鳴った。鷹司から連絡を受けたという、船の警備責任者だった。

瀬里奈は準備室であったことを話した。

「今夜は、二階堂側の人を部屋へ入れないでください」

「承知しました。客室の外はこちらで警備します。明朝も、船のスタッフがお迎えに上がります」

窓の向こうには、暗い海が広がっていた。

昨日までなら、それだけで息苦しくなった。

けれど今夜は違った。

明日、自分で終わらせる。

そのことだけは、もう決めていた。

挙式当日。

瀬里奈は招待客が集まり始める前に、船のスタッフに付き添われて自室を出た。

二階堂側には居場所を知らせず、船側が用意した別の控室で支度を整えた。

昨日までの海が嘘のように、空は青く晴れていた。

朝から柔らかな日差しが海面いっぱいに反射し、グラン・ルミエール号の白い船体を眩しく照らしている。

風も穏やかだった。

最上階のオープンデッキには白い薔薇と百合が飾られ、海へ向かって伸びるバージンロードの先には純白のアーチ。

青い空。

白い雲。

どこまでも続く海。

誰が見ても、結婚式にはこれ以上ないほどの晴天だった。

招待客たちも次々と正装で集まり始めている。

父の古い友人。

西園寺ホテルと長く付き合ってきた人々。

両家の親族。

学生時代からの友人。

皆、瀬里奈と怜士を祝うために、この船へ乗っていた。

「まだ見つからないのか」

怜士の声が低く響いた。

昨夜、瀬里奈を残したはずの準備室は空だった。

自室にもいない。

「船内は確認しています」

「この船から出られるわけないだろ」

怜士は苛立ったように時計を見る。

開式時刻まで、もう時間がない。

梨花が近くで眉を下げた。

「もしかして……本当に逃げたんじゃない?」

「どこへ逃げるんだよ。海の上だぞ」

「でも昨日、鷹司さんと連絡してたでしょう?」

怜士の顔が強張る。

「もし、このまま来なかったら……みんなに何て説明するの?」

その言葉に、怜士は答えなかった。

オープンデッキでは、ざわめきが少しずつ広がっていた。

「花嫁は?」

「体調でも悪いのかしら」

海風に白い花びらが揺れる。

生演奏も、いつの間にか止まっていた。

怜士は祭壇前に立ち、何度も時計を見る。

梨花は少し離れた場所にいた。

白に近い淡い色のドレス。

その姿を見た何人かが、何も言わず視線を交わしている。

その時だった。

デッキ後方の扉が開いた。

ざわめきが止まる。

瀬里奈が立っていた。

ひとりだった。

海風が、アイボリーのドレスの裾を揺らしている。

梨花が選んだものとは違う、肩から鎖骨までを美しく見せる一着だった。

左の首筋から肩へ続く火傷の痕も、今日は隠していない。

朝の日差しの下に、そのまま立っていた。

「瀬里奈……」

怜士が呟く。

梨花の笑顔が消えた。

瀬里奈はゆっくりバージンロードを歩いた。

祭壇へ向かうためではない。

自分の言葉を届けるために。

中央まで来ると、足を止めた。

そして、招待客へ深く頭を下げた。

「本日は、私たちのためにここまでお越しいただき、本当にありがとうございます」

誰も声を出さない。

「遠方から来てくださった方も、父の代から西園寺家を支えてくださった方もいらっしゃいます」

瀬里奈は一度、父の友人たちへ視線を向けた。

「皆様のお時間をいただき、こうしてお祝いまでしていただいたのに……このような形になってしまい、本当に申し訳ありません」

もう一度、深く頭を下げる。

怜士が低く呼んだ。

「瀬里奈」

それでも瀬里奈は顔を上げ、続けた。

「私は今日、二階堂怜士さんとは結婚しません」

風が吹いた。

白いベールが大きく揺れる。

一瞬遅れて、会場がざわめいた。

「何を言ってるんだ」

怜士が近づく。

「今さらふざけるな」

「ふざけていないわ」

「昨日のことなら――」

「昨日だけの話じゃない」

瀬里奈は、近づいてきた怜士を見た。

「昨夜、ホテルの契約書に署名するまで、準備室から出してもらえなかった。帰りたいと言っても、あなたの警護の人たちは通してくれなかった」

扉を押し戻された時の重さが、まだ手に残っていた。

「お前がサインすれば済んだ話だろ」

怜士の声が、前列の席まで届いた。

「怜士君」

父の古い友人が、膝に置いていた式次第を閉じた。

「署名するまで、部屋から出さなかったのか?」

怜士がそちらを向く。

「これは、私たちの問題です」

隣に座っていた女性も、怜士を見ていた。

瀬里奈は息を整えた。

「私は、自分の意思でこの結婚をやめます」

梨花が慌てたように口を挟む。

「瀬里奈さん、こんな場所で言わなくても……みんな見てるよ」

「だからよ」

瀬里奈は梨花を見る。

「皆さんは私たちの結婚を祝うために、ここまで来てくださったの」

もう一度、招待客へ向き直った。

「結婚する意思がないまま、皆様の前で誓うことはできません」

声は震えていなかった。

「勝手なお願いで申し訳ありません。でも、今日の結婚式は中止にさせてください」

深く頭を下げる。

今度は、すぐには顔を上げなかった。

ざわめきの中から、小さく、

「瀬里奈ちゃん……」

と呼ぶ声が聞こえた。

先ほど、怜士に問いかけた人だった。

責める声ではなかった。

瀬里奈はゆっくり顔を上げた。

「ふざけるな」

怜士の声が今度ははっきり響いた。

「ここは海の上だぞ」

瀬里奈を見る。

「結婚やめて、どこへ行くつもりだ」

瀬里奈は答えない。

「帰港まで逃げられると思ってるのか?」

その時だった。

遠くから低い音が聞こえた。

最初は船のエンジン音に紛れていた。

けれど、次第に大きくなる。

誰かが空を見上げた。

「……ヘリ?」

青空の向こうから、1機のヘリコプターが近づいてくる。

招待客たちが一斉に立ち上がった。

「こんなところに?」

「誰が来るの?」

機体が船の上空を旋回する。

強い風圧で、白い花とテーブルクロスが大きく揺れた。

瀬里奈のベールも空へ舞い上がる。

ヘリは上層のヘリデッキへ、ゆっくりと高度を下げていった。

数分後。

ヘリデッキへ続く扉が開いた。

先に数人の黒いスーツ姿の男たちが現れる。

その後ろから、ひとりの男が歩いてきた。

鷹司蒼介。

一瞬、会場が静まり返った。

次の瞬間。

「鷹司蒼介……?」

「本人?」

「どうしてここに?」

声が一気に広がる。

経済誌でも、ニュースでも、SNSでも知られている男。

けれど私生活ではほとんど姿を見せない。

スマートフォンを向ける者が次々に現れた。

シャッター音が重なる。

怜士の顔色が変わる。

梨花も目を見開いたまま動かなかった。

蒼介は周囲の視線も、カメラも気にした様子がない。

怜士の前を通り過ぎる。

梨花の前も通り過ぎる。

そして真っすぐ、瀬里奈の前まで歩いてきた。

「西園寺瀬里奈さん」

「はい」

蒼介が手を差し出す。

「迎えに来ました」

瀬里奈は彼を見た。

一瞬だけ、周囲の音が遠くなった気がした。

それから小さく頷く。

「お願いします」

差し出された手を取った。

背後で怜士が何かを叫ぶ。

瀬里奈は振り返らなかった。

蒼介と並び、ヘリデッキへ向かう。

機体の前まで来たところで、瀬里奈は足を止めた。

髪に留められた白いベールへ手を伸ばして、静かにピンを外した。

もう、身につけている理由はなかった。

ローターの音が大きくなり、強い風がデッキを吹き抜けた。

その瞬間。

瀬里奈の腕から、白いベールがふわりとさらわれた。

「あ……」

伸ばしかけた手を、瀬里奈は止めた。

白いベールは風を受け、青い空へ高く舞い上がっていく。

追わなかった。

やがて機体がゆっくりと浮かび上がる。

白いベールが空を漂う向こうで、ヘリは少しずつ船から離れていった。

いつの間にか、その姿も小さくなっていた。

青い空と白い雲の間へ溶けていくように。

デッキに残された人々は、ただそれを見上げていた。

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