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11話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 08:37:03

窓の下で、グラン・ルミエール号が遠ざかっていく。

あれほど広かったデッキも、今は白い船体の一部にしか見えなかった。

怜士がどこに立っているのか、もう分からない。

瀬里奈は膝の上のバッグを抱き直した。

中にはパスポートとスマートフォン。船の部屋を出る時、自分で選んで持ってきたものだった。

耳を覆うヘッドセットから、蒼介の声がした。

「寒くありませんか」

顔を向けると、彼は薄い毛布を手にしていた。

「少しだけ」

差し出された毛布を、瀬里奈は膝に広げた。ドレスの裾を押さえ続けていた指が、ようやく緩む。

「ありがとうございます」

蒼介は頷き、窓の外へ目を向けた。

なぜあんな男と婚約していたのか。もっと早く離れられなかったのか。

聞かれても仕方がないと思っていた。けれど彼は、何も尋ねない。

瀬里奈も口を閉じたまま、背もたれに体を預けた。

さっき、皆の前で言った。

結婚しません、と。

もう言い直さなくていい。怜士に納得してもらうため、あのデッキへ戻る必要もない。

そう思った途端、窓の景色が滲んだ。

声は出なかった。ただ、毛布の上に雫が落ちた。

隣から白いハンカチが差し出される。瀬里奈が受け取ると、蒼介は前を向いた。

顔を覗き込まれないことが、今はありがたかった。

「すみません」

「聞こえません」

思わず彼を見る。

蒼介はヘッドセットに軽く触れた。

「謝る必要のないことは、聞かなかったことにします」

瀬里奈は濡れた目元を押さえた。少しだけ、笑えた。

蒼介の口元も動いた気がしたが、すぐ窓へ視線が戻った。

雲の切れ間から、陸地が見え始めていた。

……

着陸後、待っていた車でホテルへ向かった。

案内された客室の大きな窓には、街路樹と、その向こうを走る車が見えた。

カーテンも、テーブルの水も揺れていない。

瀬里奈は入口で立ち止まった。

海ではない。

窓の外に道がある。それだけのことが、不思議なほど胸に響いた。

「船に残った荷物は、スタッフから返送先の確認が来ます。二階堂側を通す必要はありません」

蒼介の声に振り向いた。

「そこまで、すみません」

言ってから、機内での言葉を思い出した。

彼の眉がわずかに上がる。

「……ありがとうございます」

今度は頷いてもらえた。

ソファの端に座ると、張っていた背中が重くなった。

昨夜はいつ扉を叩かれるかと思い、何度も目が覚めた。朝からは、招待客の前で言う言葉ばかり考えていた。

バッグを開け、スマートフォンを取り出す。

「ホテルの資料ですが、追加でお見せできるものを……」

言葉の途中で、指から端末が滑りかけた。

蒼介が向かいの椅子を引く。けれど座らず、テーブルの水を瀬里奈の前へ寄せた。

「今日は、そこまでにしましょう」

「でも、お時間を取っていただいたのに」

「西園寺さんは、今、資料の話ができますか」

瀬里奈は画面を見た。開こうとしたファイルの名前さえ、うまく頭に入ってこない。

ここで休んだら、真剣にホテルを残したいのだと伝わらないのではないか。

そう考えかけて、蒼介を見上げた。

彼は返事を待っていた。急かさず、椅子の背に手を置いたまま。

「少し、休みたいです」

初めて口にすると、眠気より先に、肩の力が抜けた。

「分かりました」

蒼介はすぐに椅子を戻した。

「着替えと食事はこちらへ届きます。今夜のうちに何か決めなくても大丈夫です」

「鷹司さんは?」

「仕事に戻ります」

そう答えながら、彼は一度だけ窓辺を見た。

何か言いかけたようにも見えたが、結局、上着の袖を直しただけだった。

瀬里奈は立ち上がろうとした。

「そのままで」

彼の声に、腰を浮かせたまま止まる。

「見送りは結構です。休むと言ったばかりでしょう」

少し硬い言い方だった。けれど、ドアが閉まる音は静かだった。

瀬里奈はしばらく、その扉を見つめた。

頼んだら、本当に帰ってくれた。

テーブルに置いた水を飲む。冷たさが喉を通って、やっと、空腹にも気づいた。

……

同じ頃、怜士は船のスイートでスマートフォンを見ていた。

航平から送られてきた動画だった。

白い花の並ぶデッキを、鷹司蒼介が歩いてくる。画面が揺れ、誰かの驚く声が入った。

瀬里奈が、その男の手を取る。

「もう、こんなに広まっているの?」

隣から梨花が覗き込んだ。

怜士は音を消そうとして、自分の声に指を止めた。

瀬里奈、と呼んでいた。

彼女は振り返らなかった。

「瀬里奈さんも、引っ込みがつかなくなったのよ。皆の前であんなことを言ったんだもの」

梨花がそっと腕に触れる。

「少し待ってあげたら?落ち着けば、きっと自分から連絡してくるわ」

「分かってる」

怜士は動画を閉じた。

瀬里奈とのメッセージ画面を開く。昨夜、自分が送った言葉が残っていた。

【サインすれば、すぐに終わる。明日の式まで余計なことをするな】

その下には、何もない。

どこにいるのか。いつ戻るのか。いつもなら言われなくても知らせてきた。

怜士は通話のボタンを押した。

梨花の指が腕から離れた。

呼び出し音が続く。窓の外では、予定どおり進む船の航跡が白く伸びていた。

やがて通話が切れた。

もう一度かけようとした時、新しい通知が入った。

瀬里奈からではなかった。

別の友人からも、同じ動画が送られてきていた。

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