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9話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 08:34:25

瀬里奈は答えなかった。

「瀬里奈」

「仕事の話よ」

「何の仕事だ」

「西園寺ホテルのこと」

怜士の表情が変わった。

「お前、鷹司に何を話した?」

「あなたに説明する必要はないわ」

「あるだろ」

怜士が一歩近づいた。

「西園寺の話を勝手に外へ持ち出したのか?」

「西園寺ホテルのことを、私が相談して何が悪いの?」

「瀬里奈さん……」

梨花が追いついてきた。

「鷹司さんって、あの鷹司蒼介?」

瀬里奈は何も言わない。

梨花の目がわずかに揺れた。

「瀬里奈さん……私、少し心配になってきた」

「何が?」

「だって、この前海に落ちたから、怜士とのことであんなに傷ついていたでしょう?」

梨花はためらうように視線を落とした。

「そんな時に、急に鷹司さんみたいな人へ相談したら……周りに変な誤解をされないかなって」

まるで瀬里奈のためを思っているような口調だった。

「私なら嫌だな。瀬里奈さんが、怜士への当てつけで別の男性に近づいたなんて思われたら」

瀬里奈は梨花を見る。

「西園寺ホテルについて、誰に相談するかまであなたに決めてもらう必要はないわ」

梨花が口を開きかける。

「それに」

瀬里奈は声を荒げなかった。

「今さら怜士との関係を心配してくれるの?」

梨花の表情が固まった。

「もういい」

怜士が低い声で遮った。

「明日までに契約書へサインしろ」

「しないわ」

怜士の顔が止まった。

「何?」

「あの議決権委任契約には署名しない」

瀬里奈はまっすぐ彼を見る。

「瀬里奈」

怜士はしばらく何も言わなかった。

やがて口元だけで笑う。

「……そういうことか」

「何が?」

「鷹司みたいな男が出てきたから、急に強気になったんだな」

瀬里奈は答えなかった。

「明日は式だ。もう勝手なことをするな」

その夜。

「明日の衣装について、最終確認がある」

怜士にそう言われ、瀬里奈はブライダルフロアの準備室へ入った。

壁には明日の式で使うドレス。

テーブルにはアクセサリーや進行表。

スタッフと短い確認を済ませる。

「西園寺様、少々こちらでお待ちください」

「まだ何かありますか?」

「二階堂様から、このあと打ち合わせがあると伺っております」

スタッフはそれだけ言って部屋を出た。

10分。

20分。

怜士は来ない。

瀬里奈は扉を開けた。

廊下には、二階堂家の警護担当がいた。

ひとりではない。

左右にふたりずつ。

4人。

「自分の部屋へ戻ります」

瀬里奈が一歩出ようとすると、正面の男が進路を塞いだ。

「申し訳ありません。二階堂様から、こちらでお待ちいただくようにと」

「どいてください」

「できません」

今度は、はっきり返ってきた。

瀬里奈は4人を見回した。

「いつまでここにいろと言われているの?」

男は一瞬ためらった。

「契約書へのご署名が確認できるまで、と伺っています」

瀬里奈の表情が止まった。

「署名したら、出られるの?」

「私どもからは、それ以上申し上げられません」

瀬里奈は何も言わず、扉を閉めた。

すぐにスマートフォンが震える。

 怜士からだった。

【サインすれば、すぐに終わる。明日の式まで余計なことをするな】

 瀬里奈は画面を見つめた。

 胸の奥が冷たくなる。

 さっきまで4人の男が立っていた扉へ戻り、瀬里奈はもう一度ドアノブを握った。

 開ける。

「通してください」

 正面の男は動かなかった。

「申し訳ありません」

 男は静かに扉を押し戻した。

 次の瞬間、堪えきれずに拳で一度ドアを叩いた。

「怜士!」

 返事はない。

 静かな準備室に、自分の声だけが残った。

 怖かった。

 明日になれば結婚式。

 私は物じゃない。

 瀬里奈は大きく息を吸った。

 怒っていても、出口は開かない。

 部屋を見回す。

 正面の扉。

 壁際の収納棚。

 一つずつ開けてみる。

 クローゼット。

 化粧室。

 隣室へ続く扉。

 最後の扉には鍵がかかっていた。

「……だめ」

 瀬里奈は唇を噛んだ。

 その時、衣装ラックの奥に細い隙間が見えた。

 ドレスを少しずらす。

 もう一つ、扉がある。

【関係者専用】

 瀬里奈の手が止まった。

 どこかで見た。

 深夜ショーへ向かう途中。

 機材搬入のため、乗客たちが一時的に案内された通路。

 あの時も、同じような扉だった。

 瀬里奈は取っ手へ手をかける。

 動かない。

「……お願い」

 もう一度押す。

 今度は少しだけ開いた。

 内側から強く押すと、扉が静かに開いた。

 白い壁。

 飾り気のない床。

 リネンカート。

 華やかな船内とはまるで違う景色。

 瀬里奈は一歩だけ中へ出た。

 遠くからスタッフの話し声が聞こえる。

 反射的に扉の陰へ身を寄せた。

 2人のスタッフが通り過ぎる。

 足音が遠ざかるまで、動かなかった。

 心臓が速い。

 見つかったら、また準備室へ戻されるかもしれない。

 壁には船内図。

 瀬里奈は記憶を辿った。

 劇場。

 サービスエレベーター。

 階段。

 客室フロア。

 あの時、何気なく見ていた道が、今は出口になっていた。

 ホテルで育った瀬里奈にとって、バックヤードは知らない世界ではない。

 人目を避けてサービス階段へ向かう。

 途中でカートが角を曲がってきて、瀬里奈は慌てて壁際へ身を寄せた。

 スタッフが通り過ぎるのを待ち、再び階段を上がる。

 一段上がるたび、少しずつ呼吸が速くなった。

 そしてようやく、見覚えのある客室フロアの表示が現れた。

正面廊下を使わず、ハウスキーピング用の扉からスイートの近くへ回る。

誰もいない。

カードキーをかざして自室へ入り、すぐに内鍵をかけた。

ベッド脇には、パスポートを入れた小さなバッグがある。

瀬里奈はそれを見て、息を吐いた。

今夜はここにいる。

明日の朝、自分の足で式場へ行く。

テーブルには、明日の挙式進行表が置かれたままだった。

表紙には、自分と怜士の名前。

瀬里奈は一度だけ進行表に目を落とし、伏せた。

そのままスマートフォンを手に取る。

鷹司蒼介へ電話をかけた。

数回、呼び出し音が続く。

「鷹司です」

「西園寺です。遅い時間にすみません」

「どうしました?」

「ホテルの件で、少し話を早めていただけないでしょうか」

「何かありましたか」

「議決権の契約を断りました」

「それで?」

「明日の式まで動かないように、ブライダルの準備室から出さないようにされました」

短い沈黙。

「今は?」

「自分の部屋です。スタッフ用の通路から戻りました」

「怪我は?」

「ありません」

 蒼介の声が少し低くなった。

「……そうですか」

 短い沈黙。

 瀬里奈は窓の外の暗い海を見た。

「鷹司さん。私、明日の結婚式はしません」

 自分の口から言うと、不思議なくらい迷いはなかった。

「普通なら、こんなことまで鷹司さんに相談する話ではないと思っています」

「はい」

「でも、結婚すれば父の信託株が私に移る。そのタイミングで二階堂は議決権を取ろうとしている」

 瀬里奈は続けた。

「契約は断りました。でも、この船の上にいる限り、明日の式までは逃げ切れないと思います」

 蒼介は何も言わず、最後まで聞いていた。

「それで、私に何をしてほしいんですか」

 瀬里奈は少しだけ黙った。

 ここは自分で言わなければならない。

「明日、この船を出る手段を貸してください」

蒼介は何も言わない。

「式には出ます」

「なぜです?」

「逃げた花嫁にはなりたくないんです」

瀬里奈は静かに続けた。

「両家の人も、父を知っている人たちも乗っています。私が消えたら、最後まで二階堂の都合のいい話にされる」

「だから皆の前で、私から終わらせます」

しばらくして、蒼介が言った。

「分かりました」

いつもの淡々とした声だった。

「では明日、迎えに行きます」

瀬里奈は目を瞬いた。

「……海の上ですよ?」

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