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12話

Auteur: Amy
last update Date de publication: 2026-10-15 08:38:30

怜士からの着信は、船を降りた日から続いていた。

瀬里奈は一度も出なかった。

何を言われるか、聞かなくても想像できた。どこにいる。誰といる。なぜ勝手なことをした。

その問いに答え始めたら、結婚をやめると決めた理由まで、また彼に認めてもらおうとしてしまいそうだった。

3日後、自宅マンションの鍵を開けた時も、バッグの中でスマートフォンが震えた。

瀬里奈は先に玄関の灯りをつけた。

淡い色のスリッパ。傘立て。出発前に受け取ったまま、棚に置いた郵便物。

どれも変わっていなかった。

「……ただいま」

誰もいない部屋に、小さく言った。

寝室に荷物を置き、窓を開ける。熱を含んだ街の風と、遠くの車の音が入ってきた。

下の道を、自転車が通り過ぎていく。

帰ってきたのだ。

ソファに腰を下ろすと、座り慣れたクッションが背中に当たった。

ホテルの広いベッドで眠れた夜とは違う、懐かしい気安さがあった。

スマートフォンを取り出し、帰宅したと打ちかける。

宛先が怜士のままだったことに気づき、指が止まった。

出かける時も、帰った時も、何年もそうしていた。

返事が来なくても、知らせておくものだと思っていた。

瀬里奈は短い文を消した。

そのまま蒼介との画面を開く。

【自宅に着きました。送迎の手配、ありがとうございました】

送信してから、もう一文だけ添えた。

【自分の部屋で、少し落ち着けそうです】

昨日、帰宅したいと伝えた時、蒼介は引き止めなかった。

ただ、移動で困ることがあれば連絡するようにと言った。

帰宅後の予定を細かく尋ねられることもなかった。

返事は、着替えを選んでいる間に届いた。

【分かりました。今日はゆっくりしてください】

瀬里奈は画面を伏せ、クローゼットを開けた。

襟の詰まった服が並んでいる。その隣から、肌触りのよい部屋着を取り出す。

鏡の前で首元を確かめず、そのまま袖を通した。

ここでは、誰に見られるわけでもない。

髪もほどいた。肩にかかる重さが、心地よかった。

……

冷凍してあったパンを焼き、湯を沸かした。

食器棚から、白地に青い小花の描かれたカップを出す。

持ち手の内側に指をかけると、いつもの形がしっくり馴染んだ。

皿にパンを置き、窓辺へ運ぶ。

船では、食事の時間になるたびに怜士たちがどこにいるか気になった。

同じテーブルにつけば、何を言われるか考えていた。

今日はもう、紅茶が冷める前に飲んでしまっていい。

ひと口かじると、パンの端が思ったより硬かった。焼きすぎたらしい。

瀬里奈はそこだけ小さくちぎり、紅茶を飲んだ。

誰かを呼んで焼き直してもらうほどでもない。

こういう食事がしたかったのだと、食べ終わる頃に気づいた。

カップを置いたところで、スマートフォンにニュースの通知が出た。

画面の小さな写真に、見覚えのある白いドレスが映っている。

開く前から、自分だと分かった。

【鷹司蒼介氏、豪華客船から花嫁とヘリで離船】

記事には、船上で撮られた動画が貼られていた。

蒼介が自分の前へ歩いてくる。差し出された手。彼を見上げて頷く自分。

あの時は、彼の顔しか見えていなかった。

映像の端には、スマートフォンを構えた人たちが何人もいる。

自分がその中心にいたことを、今さら思い知らされた。

下へ送ると、短い言葉が次々に現れる。

【本当に迎えに来たんだ】

【元の婚約者はどうしたの?】

【花嫁が先に結婚をやめると言っていた。鷹司さんが来たのはその後】

さらに、契約書への署名を迫られていたらしいという書き込みもあった。

聞いてくれていた人がいた。

瀬里奈は、画面を持つ手を少し緩めた。

けれど、その下には違う言葉が続く。

【いつから付き合っていたんだろう】

【あの鷹司蒼介が、ただの知り合いのためにヘリまで出す?】

胸が落ち着かなくなった。

恋人ではない。彼は、自分が頼んだから来てくれた。

訂正の言葉を頭に浮かべても、知らない人たちの間へ書き込む気にはなれなかった。

ひとつ答えれば、もっと別のことまで聞かれそうだった。

瀬里奈は記事を閉じた。

今朝までは、遠い画面の中の騒ぎだった。

自宅の窓辺で、自分の名前を読んでいると、知らない誰かが部屋を覗いているような気がした。

立ち上がり、カップを洗った。

水の音を聞きながら、棚へ戻す。明日の朝も、これで紅茶を飲もうと思った。

まずは冷蔵庫に入れるものを買いに行こう。明るいうちに、近所を少し歩きたい。

財布を探している時、室内のインターホンが鳴った。

画面には管理人室からの呼び出しと表示されていた。

「西園寺様。お戻りのところ、申し訳ありません」

穏やかな声だったが、いつもの荷物の連絡とは様子が違った。

「今、取材をしたいという方が、こちらへいらしています」

瀬里奈は財布を持ったまま動けなくなった。

「取材……私にですか?」

「はい。お約束はないとのことでしたので、入館はお断りしました。今後も同様の対応でよろしいでしょうか」

「お願いします。取材は、お受けしません」

やっとそれだけ答えた。

管理人は承知したと言い、少し言い淀んだ。

「ただ、建物の外でお待ちになるそうです。これからお出かけのご予定はございますか」

瀬里奈は、玄関に置いた靴を見た。

帰ってきたばかりの、自分の家だった。

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